1-4-5 思想論と対話論

ここでは、今までの文章を軽く振り返り、次からの考察のキーワードを抽出する考察を展開しましょう。

ここまで、長い間、読んでくださった皆さんに資するものがあれば、と思います。

対話論の各段階は、思想論の各段階に同期しています。
それは思想の思想性と対話性という思想特有の存在の仕方を問うものでもあります。

僕は「思想の豊かさについて」という文章がこの「思想の強度と段階」だと思っています。
僕は「思想が花開く」ということについて語りたいと思っていました。
僕はそれを表現するために「思想の強度」や「思想の段階」を創造したのです。
その最後を飾る対話である思想論と対話論の対話は「場の対話」です。
対話の段階論はどのようにその段階を上げていくのでしょうか。
それはとても簡単な答えに収斂します。
それは「対話する相手が広がっていく」というものです。
対話論においてその相手は他者であり、思想論においてその相手は思想でした。
「場の対話」は言い換えると「思想の対話」なのです。
存在がまだ純粋な存在である「存在の対話」から飛躍した「場の対話(思想の対話)」というのは、存在が純粋な存在ではなく多様な存在が対話した存在である存在、つまり重層的な対話を終えた生き生きと生命がほとばしるような存在なのです。

パンヴェニストは、三人称は存在せず、一人称か二人称が存在するのみである、という主旨の不思議な言葉を残していますが、思想論と対話論も不思議なねじれを残しているのです。
思想論も対話論も、対話としては「一人称」から「二人称」へと進みながら、思想としては「二人称」から「一人称」へと進んでいます。
対話とは相手を認めることに他なりません、思想もまた相手を認めることに他なりません。
しかし、思想は己を認めることが最後の目的であります。
「思想が花開く」というのは、「己が花開く」ということに他ならないのです。
対話論と思想論の段階は、強度を常に増しながら対話論は「相手が花開く」ことを目的に、思想論は「己が花開く」ということを目的に、対話を進めていくのです。
僕は「思想が花開く」ということを考察してきた、と問いを翻訳しましたが、その「思想」とは「自分」と「相手」が育みながら、それぞれがそれぞれのうちで育むような思想のことを指していたのです。

次からは思想の四つの要素について考察していきましょう。
その四つの要素とは「新しさ」「可能性」「主題」「方法」です。
これらが包括された概念が概念としての「思想」ではないか、と僕は考えています。
それらは絶えず対話を行い、絶えず思想主のうちで相克しています。
「新しさ」「可能性」は思想を自分として考え、「主題」「方法」は思想を相手として考えるという点においては、「新しさ」「可能性」は思想論の広がりであり、「主題」「方法」は対話論の広がりであるような気もします。
ここで長かった「思想の強度と段階」は終わったことになります。
はじめてこんなに長い考察を終えて、僕のうちに生じる感情は、「もっとうまく表現したかった」「もっと思想と対話したくなった」「思想への感謝と尊敬」の三つです。
稚拙で回り道が多く砂漠の中のダイヤモンドを探すような「読み」を強制してしまったことを深くお詫びするとともに、これまで読んでくださった皆様に感謝を申し上げます。

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