断片と行間

新月直前。
ほっそい月。先端触ったら痛そう。
つんつんと、静かな夜だからこそ、先端は尖っている。
これがもし、夏だとしてみなよ。あれはただの怠慢であり、憂鬱であるだろうよ。

夜は詩の時間。昔からそう思っている。
夜書くもの、朝書くもの、夜読むもの、朝読むもの。
朝は哲学の時間だ。

そうか、私は昔から朝に書き物をしないから、哲学的な書き物が苦手なのか。いや、すぐに詩に走ってしまうのか。夜は詩を読んでいるし、そういうことか。

でも、朝、書き物はしたくない。朝は眠たいから。寒いから眠たいのかもしれないけれど。

断片がどう繋がるか、私は俗説とは真逆のことを言おう。
行間が広ければ広いほど、想像の幅は狭まる。普通のことを補ってしまう。

文学の力、とか、そういうことは私にはわからない。あんまり読まないから。
哲学の力ならわかるか、と言われれば、なんとなくわかるような気もする。
俯瞰である。哲学は俯瞰することができる。いや、いまここから離れて、考えることができる。それが意味であり、価値である。

文学だけが独立している、と思う。
昔の文章でも、哲学的なものは拙さばかりがあらわになるような気がするが、文学はそうではない。素晴らしいものは素晴らしい。進化の途中という感じはせず、ただ素晴らしい。

でもそれはもしかすると、朝読むことが多いからかもしれない。哲学の時間に文学を読むから、憧れというか、そういうものから、そう評価するだけなのかもしれない。

あ、評価といえば、私は人を評価するのが嫌いである。でも、私はよく人に「好き」と言う。それは、イイネくらいのもので、インスタの投稿にイイネを押すみたいなものである。
けれど、私はインスタであまりイイネを押さない。どういうことだ。

評価というのは、対象化を事前に行うことが前提になっていると思う。たとえば、宇宙は対象化から逃れるものの最高峰であると思うが、やはりそれに対して評価などできない。
と思えば、対象化を探究することは評価を探究することそのものなのではないだろうか。
現代というか、まあ昔もそうだったのだろうけれど、対象化と評価というのは切っても切れない縁であり、なぜそれが「切っても切れないのか」ということを考えるということは、評価というつまらない猜疑心を殺めることなのである。
糸を引くと、すぱっと、そしてぬんめりと、切れてゆく。
月。細長い月。
夜だから、行間はこういうふうに埋まってしまう。
哲学はまた明日の朝。君に託した。

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