快楽の本質

快楽の本質は自分への統制感にある。
自分を統制しているという感覚、それこそが快楽の本質である。
それはいくらか先哲の言葉とともに紐解けばわかりやすい。

快楽が少なすぎれば不満が昂じるのに、いったん飽和状態に達すると、快楽そのものが苦痛に変わってしまう。歓喜に酔いしれたあとに訪れる白んだ気分を、悲嘆に暮れたはてに陥入る麻痺状態から区別するのは、案外むずかしい。 

これは鷲田清一がその著書で遊びという行為について述べている文章の一文である。
快楽というのは、喜怒哀楽のどれでもないし、どれにもなり得る。それも快楽の性質である。
快楽が行き過ぎると文章にあるように、悲嘆に暮れたはてに陥入る麻痺状態に酷似する。
歓喜こそ快楽だと考える人もいるだろうが、それが永久に与えられた後のしらけた気分を僕たちは不思議と受け取る。
快楽というのは、一つの状態ではあるのだが、それは統制されていない。状態には不意に入ってしまいそこから出ることはできない。そこは迷路のようで喜怒哀楽を感じ切った後にどこか別の次元の快楽に向かうように指示されるようなものなのだ。
別の先哲の言葉を引こう。

泣くことも一種の快楽である

これはモンテーニュの言葉である。この言葉も僕の意見を支援するものであると考えられる。
泣くことは一般に快楽とは捉えられていない。だからモンテーニュはその捉え方を揺さぶることでより有意義な快楽を求めるように促したのである。
そして、泣くことは快楽ではあるが、それは自分で泣いている理由が分かっていたり、泣いた後に新しく向かう方向を決められた時に感じるものであると思う。
僕が快楽を自分に対する統制感だと考えるのは、それが理由である。
僕たちは自分を自分として統制できているときに限りなく快楽を感じられる。
もちろん、快楽を一時的に感じたいのなら、方法はたくさんある。けれど、自分への統制感というのは永久に快楽を感じさせ得るものである。
別にこれはマゾスティックな思想ではなくて、快楽を間違えて捉えないための弁でもある。
そして、あくまで統制している状態ではなく、統制したように感じている状態としたのは、統制しようとしている時、もうすでに快楽はその人のそばにいるからである。自分という不思議な存在を統制しようとして、統制できるように感じている、明確に言えばそこに限りない快楽を感じるのである。
だから、自分の数字に拘ってしまうという側面もあるが、これは人間的な豊かさを保つために必要な本能なのである。

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