自分の立場に対する無知 -ボタン化とパターン化-

僕たちはパターンとボタンで動いている。
ボタンが入力されれば、パターン化された動きか、パターン化されていない動きが繰り返される。ただ、それだけの存在である。
けれど、人間の面白いところはどれをパターン化するか、どれをボタン化するか、それをある程度、そう、ある程度は決められるというところである。
けれど、人間はそのある程度を慮りすぎたり、逆に無碍にしすぎたりして、その能力の真の解放を見ずに生きてきた。
齢を重ねるごとに、その行為そのものの意味は失われていくが、それを行う能力は上がっていく。その矛盾の中で、どうしてその能力を用いたいものを見つけられなかったのか、と後悔する。

老人の哲学は死に方の美学である。

それを語っていたのは誰か、若者である作者だった。
僕たちはいつの日からか、自分の意見の立場が自分の意見を応援するものであることを忘れてしまう。
それは、パターン化とボタン化を行える範囲をいつの間にか忘れてしまうのと同じ人間的特性である。

この二つに共通するもの、それは自分の立場に対する無知である。
僕たちはいつも領分を超える。その越境が有益なもの、個人だけでなく、社会にとって有益なものである。というのは、これに関しては本当に倫理観に欠けているような気がするのだが、死が生じさせる正直だけであるように思える。
殺人者はもちろん擁護しない。けれど、殺人こそが領分を超えたただ一つの有益だと思うのだ。
人は殺されることで生きるし、生きることで殺している。
僕たちは殺人だけが許された、それこそ生温い世界のうちを彷徨い歩く。
僕たちは死ににいくのに、いつの間にか、それもまたパターン化して、ボタンのような死を望んでいる。
僕たちはいつの間にか、一番自由であるはずの自分さえもパターンやボタンにしてしまっているのだ。
殺人とはなにも、人を物理的に殺すことだけを指しているのではない。
充分でない心の幅を広げていく行為を全て殺人だとしたとき、それが人間に許されるただ一つの越境、身分超越である。
老人の哲学が死に方の美学なのは、僕たちのウロボロス的な行動の終結がそこにあるからである。

僕たちは生きるように美学を求める。

それは純粋に間違いがない。仮定などいらぬ。ただ間違いがないだけだ。
だからって、行う必要はない。そこにはまた一つ自分の死を経験するのだから。純粋な自分などという幻想の話をしているのではない。自分が自分に殺されているという生臭い嫌悪感のようなものがその話をさせるのだ。


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