左に向いた文章はレトリークで、右に向いた文章はリリシズムである
謎の文章というのは興味をそそるものである。
そしてその謎が解けるまでその文章は心の奥に残るものである。
左に向いた文章はレトリークで、右に向いた文章はリリシズムである
さて、今回は自分の文章なので僕はもう答えのようなものを知っている。
しかし、僕のこの文章のことがよくわからない。
なので、自分の文章を僕が読解することで読んでいただいているみなさんをナビゲートしたいと思う。
まず、この文章の謎を整理しよう。
僕の中での謎は三つに収斂する。
左と右は何をあらわすのか。
どうして文章が主語なのか。
レトリークとリリシズムはどのような関係なのか。
この三つである。
僕の中に答えはある。
しかし、それに到達する道筋に何か宝物が落ちている可能性があるので、丁寧にナビゲートしてみたいと思う。
ここから口調をナビゲート風にしてみましょうか。
まずは、右と左の問題ですね。
これはなにを示すものなのでしょうか。
この文章はリードマーカーのようなものがないのでさらに難しいですね。
しかし、これは私が書いたものなので、少しヒントを示しましょう。この左右は点としての右や左ではなく、線としての右や左なのです。
さらにわかりにくくなってしまいましたね。
では、もう少しわかりやすいヒントを。
これは、空間としての右左ではなく、時間としての右左なのです。
ヒントと言いながら、答えを言ってしまいました。
私はナビゲーターには向いていないかも知れません。
とにかく、ここでの左右は時間なのです。
それを踏まえると、
左に向いた文章はレトリークで、右に向いた文章はリリシズムである
という謎の文章は、
過去に向いた文章はレトリークで、未来に向いた文章はリリシズムである。
と、なります。
では、次の謎に向かいましょう。
レトリークとリリシズムの関係はどのような関係なのか。
という謎です。
この謎は本質を語りません。
なぜなら、この文章そのものがその本質を語るものだからです。
つまり、この謎を解決するには、ひとまずこの謎に見切りをつけつつ、次の話題に渡らなければなりません。
しかし、見切りをつける方法について一つだけ注意があります。
右左は時間ですが、レトリークとリリシズムは空間です。
これも謎みたいですね。
なので、文章を展開してみましょう。
左に向いた文章はレトリークで、右に向いた文章はリリシズムである
この文章を先ほどは右左の時間に準拠して展開しましたが、今度は時間と空間どちらもに依拠して展開しましょう。
難しく考えなくても大丈夫です。
分配法則のようなものです。
過去と左側に向いた文章はレトリークで、未来と右側に向いた文章はリリシズムである。
さらにわかりにくくなってしまったかもしれません。
しかし、これは別に比喩が重なってわかりにくいわけではなく、逆に比喩を重ねると思っているからわかりにくくなるのです。
正直にみてみましょう。ここでの比喩は文章が人のような振る舞いをしているという意味だけを表しています。
つまり、文章を人だと見立てるとわかりやすいでしょう。
ある人が過去や右を向けばそれはレトリークであり、ある人が未来や左をむけばそれはリリシズムである。
ということです。
簡単でしょう。
見切りをつけたところで最後の謎に向かいましょう。
どうして、文章が主語なのか。
ここだけ、答えは簡単です。
ヒントを出すのも難しい。
答えは、それが一番豊かだからです。
文章を主語にしようと思ったからそうしたのではなく、そうしたからこの文章の主語は文章になった。
ただそれだけなのです。
文章を主語にした効果は様々言い表せるでしょうが、謎の答えにはなりません。
なぜなら、この謎は、
どうして、他のものではなく文章が、ほかの語ではなく主語になったのか。
という二重構造を含んでいるからです。
そして、その二つの答えは同じものです。
それが一番豊かであるから。ただそれだけなのです。
しかし、それはどうして豊かなのでしょうか。
もっといえば、私たちはどうして主語を自由に決められるのでしょう。
話が脱線していますが、面白いのでこのまま話を進めましょう。
主語になる、とはどういうことなのか。
それは、能動するということです。
すぐ答えを言ってしまいました。
やはり、、、。
動けるようになる。
それが主語になる。ということです。
いままで動けなかったなにかが動けるようになるから主語は主語なのです。
そういうことを考慮すると、はぐらかしてきた謎の答えが現れます。
つまり、文章を主語にしたのは文章に動いてもらうためなのです。
そう考えると、この文章を書いている「僕」というのは真の主語となりますが、ここらへんは話がややこしいのでまたの機会にしましょう。
ここまで進んできた人はもう答えが分かっているでしょう。
左に向いた文章はレトリークで、右に向いた文章はリリシズムである
というのは、文章の時間性と空間性、そしてその生き方を示した文章なのです。
もっと簡単に言えば、今、文章というのは過去と未来を内包し、右から見ればレトリーク、左から見ればリリシズムになる。
ということを言っているのです。
さて、私のナビゲートも終わりですね。
では、また。
おかえりなさい。
少し長めの茶番でしたね。
僕の中の「私」はナビゲートしていましたが、僕の中の「僕」はそれに異を唱えたくてうずうずしていました。
だって、「僕」が考えた文章はそんなこと表していないのですから。
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