私の「哲学のすすめ」
昔、『哲学のすすめ』という本を読んだ。そこではたしか、「哲学」は「科学」と対比されていた。その具体的な内容については忘れてしまった。ここでしているのは対比とは別の仕方での「哲学のすすめ」である。おそらく。少し前に書いたので忘れてしまった。が、おそらく私はそう書く。ここから私も読んでみて、気になったことがあれば☆でコメントをしていきたい。なお、本文は☆以外全てである。私が日々書いている「日記」の一部だが、いつの「日記」か、忘れてしまった。
哲学者が「哲学する」ことを「教える」とすればそれはおそらく「君は君の偏りによって考えなさい」ということになるだろうと思う。「私もそうしているし、そうするしかないのだから。」と言ったりもするかもしれないが、本質的な教えは「君は君の偏りによって考えなさい」ということ以外ではないように思われる。
もちろんここでの「偏り」というのはスケールにかなりの違いがある。「癖」と言えるような「個人」に依存するようなものもあれば、「流行り」と言えるような「時代」に依存するようなものもあれば、「偶然」と言えるような「現実」に依存するものもある。しかし、それを掴んで、それに掴まれて、それによってしか私たちは考えられないのではないか。そう思う。
哲学者のある種の貪欲さというのはこういう経験から生まれるのだろうと思う。ここでの「貪欲さ」というのは例えば、極端な例で言えば、親しい人が死んだときの自分を使って考える=表現する、みたいな「貪欲さ」である。もちろん、誰でもそういうときは考える=表現するしかないのだろうし、そうとしか理解=受容されないのだろうが、それを一つのチャンスだと思っている、思ってしまうのが哲学者なのである。そういう「貪欲さ」がある。これは確信である。そしてそれは上に書いたような掴み掴まれの経験からの学習であるように思われる。
もちろん、それぞれの哲学者の「偏り」やら「癖」やら「偶然」やら、そういうものは仕方のないものというか、そういうものである。言い換えれば、それぞれの哲学者は考えざるを得なかったのである。そう思う。いや、そう思えるような人が哲学者である。広義の哲学者かどうかはわからない。
「流行り」については後から振り返られるというスケール、それが大きくてよくわからない。し、正直あまり興味がない。というか、興味があるとしても考察対象としてというよりも賦活の道具として興味がある。
「貪欲さ」は得られなかったものを記憶することとしても表れるように思われる。というのも、「貪欲さ」は成就しないことがあり、そのことはよく覚えられているだろうからである。それがその哲学者なり文学者なりのテーマとなるのかもしれない。
そう思うと私の書いているもののテーマはなんだろう。私が思っているというか、公言しているのは「アパシー」とか、「賦活」とか、だろうか。この二つは大抵「アパシー」に対する根本的な対処法としての「賦活」みたいな関係にある。だからここまで言われている「癖」やら「偏り」やら「偶然」やらはチャンスなのである。そのチャンスである度合いがより強調されているとも言えるかもしれない。私の書いているものでは。
もう少し文学に塗れてみたいという、そういう感情がある。しかし私はどうしても哲学的チャンスだと思ってしまって、文学を読んでいるときに、だから疲れてしまう。また、単純に他人の書いた文章は疲れる。なんで疲れているのかはわからないが疲れる。単純に集中力がないのか、ただ別に哲学ならある程度長く集中して読めるのだ。よくわからない。何が違うのだろうか。
処理することが違いなのかもしれない。哲学というのはある意味で処理されている。分析にかけられたものが出てくる。しかし、文学はそうではない。むしろ逆処理されたものが出てくるとも言える。というか、私が「文学」と呼ぶのはそういうものであり、そうではないものはそう呼んでいないとも言える。つまり、私はおそらく逆処理に打ちのめされているのである。強すぎる刺激ゆえに反応できず、強すぎる要請ゆえに応答できない。そういうことの連続に疲れるのだと思う。
私は自画自賛をする。しかし、それは「自画自賛」の二つの「自」が分裂しているという感覚がかなり強いからである。いや、もしかするとナルシシズムの言い訳なのかもしれないし、ただの振る舞いなのかもしれないが。
だからなんというか、「自画自賛」というよりも「誰画偶賛」みたいなことが私のしていることだと私はかなり本気で思っている。誰かの作品を偶々賛美している。その賛美に「自」が現れている。そういう感覚である。
☆ 急に二つ、「自画自賛」に関する議論が出てきたがこれはおそらく「癖」や「偏り」、「流行」や「偶然」ということのイメージとして「自」の現れはどのように考えられるかについて考えておく必要があると考えられているがゆえの議論であると思われる。おそらく。
自己表現というのは自己があってそれが表現されるのではなく表現があってそれを受容することなのである。自己はどこにもいないが外からやってくる。
どこにも可能性は広げうる。だから「偶然」は入り込む。しかし、それはある種の勇気の前提条件である。
☆ ここで急に「勇気」という主題が出てきて、そしてその「勇気の前提条件」なる話がなされていて困惑する人がいるかもしれない。しかしおそらくこれは「君は君の偏りによって考えなさい」と言われた側の人が考え始めるにはやはり「偏り」をそれとして引き受けることが必要であり、その引き受けには「勇気」が必要であること、偏っていてもなお踏み込んで表現したり受容したりすることには「可能性」が入り込んできて「現実」が「偶然性」に侵食されて、それでもなお踵を立てて考えようとする、そんな「勇気」が必要であるということが前提されているがゆえの議論である。
ここまで書いてきたようなこと(どこまでを指しているかはよくわからない)が「肯定」として受け止められるのはなんだか、少し不満ではあるが、別にそれでもいい。なんというか、それならそれで受容や表現に繋げてほしい。そうしないために「肯定」がテーマだとか言われたら嫌だ。
極めて私っぽい答えは「そもそも「自己を肯定するか否か」という「問い」がなければそれに対する「答え」もない」みたいな答えであるように思われる。「肯定」に関しては。そもそも「自己肯定」の「自己」がなんなのか、私は全然わからないのだが。だからなんというか、「私っぽい答え」みたいに演技的になればこう言えるというだけである。
私は別に演技ではない真実があるとかは言っていない。あるとしてもそれは演技の奥に見透かすしかない。演技を退けたら見えるようなものではない。演技を通じて見ないといけない。これが「言語」によるものなのかを考えたのはウィトゲンシュタインだと思うのだが、それだからこそ逆に「言語」による可能性を開いていたというか、それだからこそある意味の実存哲学性というか、そういうものがあったように思われる。もちろん、これが本来なのだと言うこともできるのだろうが。
かなり前に「幸せってなんですか?」みたいな質問というか、お題に「幸せなふりをすることではないでしょうか。」みたいな回答をしたときにある先輩が「いや、そうやなあ。言い切るのはすごいなあ。」みたいなことを言ってくれた。そのことをいま、なぜか思い出した。私にはその人がそれに賛同したことというか、それが意外で覚えていたのだけれど、なぜか思い出された。「ふりをする」というのはなんだろうか。
☆ 一つだけ私の、欺瞞的な振る舞いを指摘しておこう。それは「言い切る」という主題を先輩が提示していた記憶はないからここでの「言い切る」という主題には私の思惑が含まれているということである。ただ、私は「言い切る」必要があると思ってわざわざそうしているのだろうと思う。
「ふりをする」というのは「ふりをしていた」と判明するものなのか、それとも「する」時点で既に「ふりをしている」になっているのか。私にはよくわからない。そんなに考えてない。
私はなんというか、大抵のことを「そんなに考えない」と言いがちである。思いがちである。なんというか、だからこそ「後付けでしょ」みたいに思いがちである。言いがちである。「ふりをしていた」というのも「後付け」である。「ふりをする」というのも「後付け」であるように思われる。
だからおそらくその先輩はこの「後付け」への感性を嗅ぎつけて、おそらく人間の底にあるような虚構性が強調されているように、表現されているように思われて「そこまで言うかね。」みたいに思って、その先輩の心底にある何かが浄化されたような、そんな顔をしていた気がする。これはかなりの「後付け」だが。
☆ これは「後付け」だがむしろ、一つ前の☆で書いたことよりは真実であるし、実際そういうことを言われた気がする。だから、私の欺瞞性はおそらく一種の「切る」振る舞いにあるように思われる。これはもしかすると「勇気」の主題とも関係が深いかもしれない。今日はとりあえず示唆にとどめておこう。
私には、私の表現にはある意味「救い」がテーマとしてあり、それゆえに「浄化」みたいなことがテーマとしてあるように思われる。ただ、これは宗教的すぎて書いていない。あまり。私は他人を教化しようと思わないのだ。これもまた一つの教化に見えるかもしれないが、それはあなたがそう見ているのである。
哲学者が「哲学する」ことを「教える」とすればそれはおそらく「君は君の偏りによって考えなさい」ということになるだろうと思う。「私もそうしているし、そうするしかないのだから。」と言ったりもするかもしれないが、本質的な教えは「君は君の偏りによって考えなさい」ということ以外ではないように思われる。
私はこのように上で書いたが、私は教えないということに偏っているのかもしれない。とりあえずここではたまたま「教化」ということがテーマだったからそう言える気がする。「偶然」そういうテーマがあったから。
この運動は必然化と偶然化の運動に見える。必然化していくと教化に近づき、そうなると私は嫌になって偶然化していく。そしてそれ自体も教化に近づき、そうなると私は嫌になって偶然化していく。そういう運動があるように見える。そしておそらく「偶然化」のうちよく扱うもの、つまり私の「癖」に引っかかるものはある程度理論化されていくのであって教化とはある意味で疎遠になり、いや、そうなるように願うことが理論化であり、そういうことがなされるからこそ私の哲学としてはそれらが残るのだろう。理論が教説になろうと知ったこっちゃない。
この運動の全体を覆っているのは現実と可能性の対比である。それが様々に反復されている。上での運動の描き出しは方向に依存している。かなり構造的な描き出しである。しかし、この構造と力動の対比はおそらく理論化とも教化とも別の話である。私はそう思う。もっと普遍的なものであると言えばそうだし、もっと個体的なものだと言えばそうだろう。
☆ 正直に言うとここの二つの文章はかなり揺れている。私は「偶然化」への偏りが「方向に依存している」ことだと思ったが、それは「構造」よりもむしろ「力動」であるように思われるから、そしておそらくこのときの私はそう思っていないだろうから、私と過去の私はズレている。これはおそらくただのすれ違いというか、私としては過去の私が適当に書いただけなのではないかと思ってしまうが、「この構造と力動の対比はおそらく理論化とも教化とも別の話である」というのはかなり鋭い洞察であるように思われる。ここまで書かれていなかったが、「偏り」や「癖」、「偶然」を使いこなすためにはそれらが発散しすぎないようにすること、言わば「節制」することが必要である。そして、「節制」の取り組みにとっては「構造と力動の対比」が重要であり、「理論化」と「教化」の対比はそこでは重要ではないと思われる。さらにこのように書いてみて、このことに関わって「必然化」への方向には「節制」という取り組みとしての面と「仕方なさ」の面があるのではないかというふうに思った。
そろそろ眠いので終わる。私はみんなに哲学をしてほしいわけではない。が、このように書いている時点で既に表現されてしまうことがあるのである。そしてそれはプラスでもマイナスでもない。ただ単にそうである。私はアパシーを演じているのか、そのように言うことで逆にアパシーを癒しているのか。賦活しているのか、私の人生やら実存やらを。私は知らない。あなたは知っているかもしれないが私はそれをどうでもいいと思っている。知りたいとは思っているが君には教えてもらいたくないのだ。
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