1-6-6 ヘーゲル-方法-

ヘーゲルには「思想の使用」における「方法」について教えてもらいました。
「思想」と「方法」はある種同じものです。
しかしその境界線には強い拒絶感が感じられます。
その境界線の上を生きたのが僕にはヘーゲルであるように思えるのです。
彼はよく頑固者として考えられますが、その頑固さは頑固になるための頑固さではなく頑固にならないための頑固さであったと僕は思います。

ヘーゲルの思想について、僕はまだ全然理解していないので、どのあたりから触発されたか示すことは難しいのですが、三つの点から触発を考察してみたいとおもいます。
その三つとは「経験と蓄積」「主体と実体」「真理と平衡」です。
三つの「〜と〜」によって感謝を述べていきたいとおもいます。

1「経験と自己」

精神の経験では、過去の富はすべて現在に保存されている。

ある段階での経験の結果が、次の段階ではアー・プリオリのカテゴリーとなって、もっと高次の経験を成立させる。

自己意識は自分一人ではその絶対性を支えきれない不幸な意識である

このようなヘーゲルの言葉遣いから僕は経験の積み重なった自己と未来へ経験を方向付ける自己といった二つの「自己」像を感じています。
また、「経験」というヘーゲルの言葉からは「現在までの経験」よりも「未来への経験」という志向が感じます。
僕はヘーゲルの「経験と自己」の考え方が「第一段階に回帰する第三段階」という思想段階論や「分析と創造が相克する」という対話運動論に影響を及ぼしているようにも思えます。

2「主体と実体」


「私の見解の正しさは体系そのものの叙述によって示すよりほかない。こうした私の見方からすると、すべては次の点にかかっている。すなわち、真なるものを実体としてではなく、同様に主体として把捉し、表現することである。」

「実体=主体」論は、個別者の存在の基である真実在、すなわち<実体>は、本来は、自らを展開していく動的なものであるということを告げている。

「主体」とは、①たえまのない自己運動を通して自己同一を保持し、②世界に内在しており、③所与のものと思われがちなものをたえず形成しなおす働きである。

主体とは「他となる」ものである。すると、主体はもうそれだけで実体の資格を失いかねない。実体とは、「他とならない」で、自分でありつづけるもののことをいうのである。しかし「他とならない」としたら、実体は世界の彼岸に静かに横たわるのみである。

自分を現すということは、自分の本来の姿を失うことなのだ。

「実体は主体である」とは、「絶対者は本性的に自己を啓示するものである」といってもよい。

現れという真理と現れを否定するという真理が一つになるところに、絶対知の成立基盤が生まれ出ている。


ヘーゲルは表象哲学の完成者として名高いですが、彼は表象哲学の完成者であり表象哲学の革命者でもあったと僕はおもいます。
二つの矛盾する実体=主体が存在し続けるようなダイナミックな空間を彼は想像していていたのではないでしょうか。
若き詩人ヘーゲルの情熱は冷たくなっていく世界を絆す気概と見立てを僕たちに与えてくれます。
彼は僕の他者論の根底に流れる水脈ですが、それに波及して思想論にも「他者」であり続ける主体=実体といった考え方を教え、思想論のダイナミックな展開の記述に弛みない貢献を果たしてくれています。

3「真理と平衡」


真理は動的な均衡である。

真理は、個別的偶然的な運動の集合が全体としては必然性を形成するところに成り立つ

真理は、共同の主観性である


こういった言葉からはヘーゲルの「真理」に対する考え方が伺えます。
この「真理論」的にはヘーゲルからニーチェへの接続が認められます。
ニーチェが批判したのは、ヘーゲルの自己意識、モチーフの部分でしたが、ニーチェはその「方法」には共感を示していたように思えます。

真理とはそれなしでは生けていけないような一種の誤謬である

というニーチェの言葉はヘーゲルを言い換えたものでしょう。
僕はニーチェのように「真理」を言い換えることを始めようとしていたのかもしれません。
また、真理があらかじめ決まっていない、ということを証明しようとする箇所はとても面白いところです。

このように僕はヘーゲルに多大な影響を受けながらもその影響を理解できていないのです。
しかし不思議なことにそのようなヘーゲルが僕は一番好きなのです。

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