1-7-4 ひとつの花だけ知ってるような人

一つの花。
たとえば、思想の花。
その美しさ、一つの美しさを知るものはとても豊かだろう。
矮小された「一つ」ではなく、無限である「一つ」、そんなものを知っている人間は幸せだろう。
しかし、そんなものを知っている人間は狂っている人間だけである。
概念を一つしか知らないというのは幸せであるが、概念がそもそもそんなことを許さない喚起性を持っている。
その誘惑に乗ってしまえば、概念は一つのものではなくなる(アダムが食べたリンゴもその概念の誘惑そのものであろう)。
そうなると、人間は多くの概念を一つに纏めようとするようになる。
悪しき教養主義というのは、それを教養という一つの運用方法に還元するような物語を共有するように強制することである。
「主体であり場である」というのは概念を一つに纏めながらそれを実体としてではなく場として概念化するということである。
概念というのはそのうちに含まれる全てを数え上げてもなお空洞を抱えているものである。
その空洞にこそ意味の美しい音階は響く。
その美しい音階を聞くものを人は詩人と呼ぶのである。
私は一つのテーゼをここで掲げてみたい。

深く読めば全ては詩人である。

読むというのは何かを生み出すということであり、書くということは何かを失うということである。
概念は概念相互で美しい音階を聞き合っている。
なぜ、その音階を聞き逃すことがないのか。
それは概念が「主体であり場である」からである。
言い換えれば、「僕」や「思想」といった空洞を抱えた概念のうちに響く音とその響く音的空間こそが概念の絶えざる本質だからである。
一人の詩人はすべての詩人である。
誘惑を超えた惹起を絶えざる響きから聞き取る。
その詩人の無限の変様が「概念」という概念である。
二項対立を生成し破壊する。そのような「概念」こそ「力」に他ならないのである。
詩人とは詩を紡ぐものであり詩に紡がれるものである。
それこそが「主体であり場である」ということの根拠であり意味なのである。

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