1-1-5 アナロジーの快楽

今回はバルトを引こうと思ったのですが、僕は思ったよりもバルトのことを知らないことに気が付きまして、そっと、自分のアナロジーに対する考え方を快楽的に開放する力によって、バルトがしたようにテクストを快楽に添わしてみましょう。

バルトは「〜である」という規定を嫌います。バルトはその規定の内側において「否定」という営みを繰り返すことで、規定を遊戯的に解放していくスタイルを絶えず取っています。
そのスタイルの帰結として、主体が透明になり、なにがもたらしているかわからない、けれども快楽であるものを看取するという主体の解体が行われています。
彼の有名な文章に

「テクスト」はテクスチァ(織物)から派生した言葉である。織物には縦糸、横糸があり、そこには様々な(作者さえ知らない)ものが織り込まれている。私たちは「テクスト」から一つの意味を読み取るのではなくその「織物」を味わうのである。

という言葉があります。ここでのテキストはあらゆる「読む」の対象であるものです。
そのことから、彼は「読み」の達人であり、「読み」のうちに「読み」の継続を絶えず計画的に取り込むことによって、流動的かつ整合的な哲学を創始しようとしたと考えることもできます。
しかし、このような規定さえもバルトにとっては「テクスト」であり「読む」対象であります。つまり、規定は構築のみが与えられ、その構築主は解体されているのです。
しかしこれをフッサールが批判するような、隠蔽と区別しなければなりません。
解体というのは、隠蔽性の解体であり、その主体そのものという純粋規定は構築の運動そのものでありその運動が生み出したものであるという解体しえない規定を引き出すものとして機能するのです。
そしてそれは開かれた規定であり、解体済みでありながら解体を促すある種の隙を備えているのです。
バルトが「作者の死」という言葉で捉えようとした、また捉えさせようとした作者の作者性はそのような解体可能であり、開放的であるような仕方での作者性を備えた透明な作者なのです。

ここまで、バルトの営みについてのみ目を向けてきました。バフチンに先導を頼んだときは、彼の哲学を術語と共に受け入れましたが、ここではその開放への遊戯という思想、方法をアナロジーと対話させてみましょう。

バフチンはこちらから

https://note.com/0010312310/n/n2e3e56aa1cc7

開放への遊戯はアナロジーと逆方向に思えるようなものです。
アナロジーは違うものを同じものとして見ることであり、開放への遊戯は同じものを違うものとして見ようとすることであることからもそれは明らかです。
しかし、あるものが存在するには絶えず他のものを規定として存在させなければならない、という存在のパラドックスがそこには関係しています。
純粋な概念としてアナロジーと開放の遊戯を捉えることは不可能であり、それは不純な概念同士の関係として敬意を示しながら自らのうちにテクストとして相手を迎える相互読解的な対話を形成していきます。
アナロジーは開放の遊戯をテクストとして読み、開放の遊戯はアナロジーをテキストとして読むのです。
しかし、ここに対話の不均衡が起きていることも指摘できます。
アナロジーは行為でありながら、行為の全体的な名称でもあります。
しかしながら、開放の遊戯は思想として僕の中に存在しているが故に、行為の全体的な名称でしかありません。
この不均衡は具体的な対話において不均衡を起こし、抽象的、全体的な対話においてもその不均衡を引きずってしまいます。
対話を継続するためには、(実はこの行為そのものが開放の遊戯とアナロジカルなのですが)開放の遊戯を具体的な方法としても適するような形に変身させることが必要となります。
さて、どうすれば良いのでしょうか。
僕がバルトの思想を説明しないと言いながらも、少しだけ説明したのはこの行為にそれが不可欠だと僕は考えていたからです。
つまり、僕の中のバルトの説明のうちに、その行為を表すものがあります。
彼のうちで思想的全体性を免れているのはどのようなものでしょうか。
僕の中での答えは「解体」です。「読み」では大きすぎます。「読み」を答えとしてしまうと今度はアナロジーが不均衡の餌食となります。
そういうことで、次は解体とアナロジーの対話を進めましょう。

僕は忘れ物をしてしまいました。
それは、アナロジーの全体的ではない行為としての存在規定です。
それをしてしまうと、この文章は長くなってしまうので、この対話の前に、アナロジーの存在規定を行いましょう。
話の腰を折ってしまい申し訳ありません。ではまた明日。

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