反動可能性記号

僕の興味を最もそそる記号、それは反動可能性記号である。反動可能性記号。難しい文字列のように見えるが、簡単に言えば自分の心を動かすかもしれない記号である。
記号についてのノートも後々書き上げたいと思っているのだが、今は簡単にその説明をしよう。
記号というのは、平易な代替機能である。例えば、個々人思い描くりんごは違うが、リンゴと言われるとみな意識を共有できる。そして、そのリンゴという音そのものとリンゴと名付けられたものに必然性はない。記号がそれらのキューピッドを果たすことでそれらは意味を持つ。
けれど、記号は意味を持つものではない。記号は働きであり、ものではない。関係性の主因が記号なのであり、そこにはどんな実在もない。二つの実在の間に記号があるのだ。
では、その関係性の主因たる記号が自分の心を動かすとはどのようなことを言うのだろう。
景色が自分のものになった瞬間というのがある。それは、今までも見てきたし、これからもみるし、なくなってしまうようなものでもない。けれど、そこに儚さを感じ、それに気づいている自分に小さな優越感を感じる。そんな景色を人は誰でも持っている。僕も持っているし、隣の人も持っている。
けれど、その景色がどうしてそうなったのか、他のどのような景色も押しのけてそうなったのか、それはわからない。
それは視野の狭さとか経験の少なさとか、そんなものを全く無視して、その人の中に価値ある記号を作り上げる。だが、それは個人的なものだ。それが反動可能性記号の存在を知らしめている。僕たちは個人的に感動し、個人的に記号を作り上げる。
その個人的に記号を作り上げるときのプロセスとして反動がどうしても必要と僕は考えるのである。
個人的な感動が集団的な感動を喚起することもあるし、またその逆もある。けれど、そのなかに反動的プロセスを含むのは、集団的な感動が個人的な感動を喚起したときだけである。
反動というのは、集団に対する反抗と言ってもいい。例えば、あの人は悪い人だ!という記号があるとする。その人が良い行いをするだけでその人が普通に良いことをしている人よりも良いことをしているように見えるというのは反動的プロセスを経ている。
このように、集団に喚起された個人の感動こそいわゆる普通の感動よりもより感動的なのだ。
これの典型として恋がある。恋は他の人の感動では決してない。自分の感動だ。そして、それが社会的な装置として認められている。だから人は恋に落ちる。
反動可能性のない記号というのは、パラドクスのようだが、個人的記号である。だから僕は個人的記号をできるだけ集団に迎合させ、そこからまた個人的記号を作り上げ、またそれを集団に迎合させ、を繰り返し、自分の記号をより新しくしていく。それは、まるで記号生成中毒だ。だけど、人間の感動はそのように構造化されている。だから、僕は反動可能性記号が好きだし、その働きに興味がそそられる。
この興味もまた反動させるために迎合させたく思う。そういった時に役立つのが読書なのだ。迎合のための読書というと聞き心地が悪いが、それは捉え方によっては視野の広い読書なのである。
反動可能性記号。この記号化された記号もまた反動可能性記号なのである。

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