1-5-6 「思想の強度と段階について」について

僕は「思想の強度と段階」についての解説として、「思想の強度と段階について」というテーマで書いてきましたが、ここでもっと単純に「思想の強度と段階」を分割して説明することで一応「思想の強度と段階」という一連の考察を終えたいと思います。
そののち、「思想家への尊敬とお礼」「主体であり場であるということ」という二つのエッセイ集を書いてから、次の考察へ移行していきたいとおもいます。
次のテーマはまだ決まっていませんが、いくつかの自分なりの思想史を書いていきたい、と思っています。

「思想の強度と段階」は、「思想の強度」と「思想の段階」について書かれたものです。
僕にとって「思想」へ向かうときに主題となるのは「思想が花開く」ということでした。僕はこの考察の全体を「思想が花開く」について捧げてきたつもりです。
たくさん回り道をして混乱する時もありましたが、僕にとっての道標は「思想が花開く」という生き生きとした力でした。
僕にとって「思想」とは「思想が花開く」力の起こる場所でありその主体が思想という名で呼ばれるものであります。
僕はそのことをこの文章の全体でありありと表現しようと苦労したのです。
その意味で考えると「思想の強度」は思想の内的な豊かさを表現したものであり、「思想の段階」は思想の外的な豊かさを表現したものでした。
一時期、「思想の空間と時間」という主題に移行しようかと思ったこともありましたが、それをやめたのは、「空間」や「時間」にないような豊かさが「強度」や「段階」という言葉のイメージにあり、それを僕は信じたからです。

「思想の強度と段階」は、1-1-で強度について、1-2-で対話について、1-3-で段階について、1-4-で強度と段階について書いてきました。
この順序は大きく分けて、「内から外へ」から「外から内へ」という方向性を持った順序でした。
それはそのような方向性の順序に「自分」という外と内の境界を見出す可能性を感じたからです。

「思想の強度と段階」を単純化すると、「思想の段階が上がるにつれ、思想の強度は上がる」という主張を繰り返している、と言うことができます。
「思想の強度」について考察しているときも、それは「思想の段階」についての考察になっていて、「思想の段階」について考察しているときも、それは「思想の強度」についての考察になっていました。
僕自身、それを意識しながら行なっている部分もあれば、それを意識せずに行っている部分もあることは、「思想の強度と段階について」という一連の振り返りを見ていただければわかると思います。
何度も「思想の強度」を言い換え、「思想の段階」を言い換えたそのすべてのうちに「思想が花開く」ということへの驚きと感動が根付いています。
強度論や段階論に限界を感じたときも、それぞれはそれぞれを助けるような手を差し伸べてくれていたように感じます。
「思想の強度」と「思想の段階」は「思想」として堂々たる存在を示してくれていたと思います。

最後に、思想への感謝を述べてこの一連の考察の全体をとりあえずは終えようと思います。

「豊かである」ということを教えてくれてありがとうございました。

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