狭隘な思想観

私は自分の思想観がかなり狭いものであるという自覚がある。
私には社会を変えようとか,環境を変えようとか,そういったことに対する興味がない。
私が興味を持つのは「豊かに生きる」ということだけであり,思想はそのために道具として使われている。
私は世界を変えようと思わない。思えない。なんだか切迫した感じがないのである。これは明らかに無知から生じるものである。
だからといって、私はその無知に無気力になるわけでもなく,世界の中でしっかりと生活しているし,生活と世界とを区別したこともない。
けれど、私の思想観はやはり狭く、思想の壮大さをどこか無碍にしているような気もするのだ。
私はただ私のために思想を使う。それは別に思想を使って誰かを扇動したり,論駁したり、そういうことのために使うのではない。
ただ私的に使うのである。
私はただ私が豊かになるために思想と関わるのである。
私には社会を変えようとか,環境を変えようとか,人格を変えようとか,そういった言葉が浮遊したもののように見える。聞こえる。
正直言うと、私は私のことにしか興味がないのだ。
これは別に私の利益に興味があるというよりも私に興味があるのである。
私は私ということ,同一性とかそういったことで呼ばれる私ということに「無限の反応」という言葉を当てるが,それは私があくまで実験体であり、それ以外ではないことを示している。
私は実験が起こる場所なのであり,その本質は「反応」にあるのである。
私は私自身が私が好ましいと思えるような「反応」を起こす理由を少しだけ知っている。
私はその理由をできるだけ確実で小さく主体的なものにすることに意識を向けている。
その「確実で小さく主体的なもの」というのは私にとっての「幸せ」の定義である。
たしかにその「無限の反応としての私」は環境や生活の影響を受けているだろう。
けれどそれを変えるということは「無限の反応としての私」というものを主体としてしか捉えられなくすることのように思えるのである。
これはニヒリズムなのだろうか。
私は「無限の反応としての私」に対して虚無を感じたことがない。
「私という反応」は適度に予想外で適度に予想内で,なんだか均衡の取れたものなのである。
私が恐れるのは社会でも環境でもなく,この均衡が失われることなのである。
「私」というものには「反応」が起こる身体,つまり「場所としての私」と「考える私」とが存在していて,どちらも大切で,私にとってはかけがえのないものである。
私は「私」の新しい反応,行為を引き出すために思想と関わるのであり,その本質は会話ではなく対話にある。

もう一つ別の文章,文体でこのことを書いてみよう。
ここからの文章は難しいので、そういうものは読みたくないよ,という人は飛ばしてください。

私は私に不連続としての連続を与え,区切られた私はその区切られた領域で私の全体の一つの現れとして存在する。
多数存在する区切りの中で,私は「作品」ということを選び,それを「書く」ということによって生み出そうと決心したのである。
私,「無限の反応としての私」は区切られないことによって存在する無限ではなくて有限で捉えられた「作品としての私」が解釈によって無限になってゆくというものなのだ。
私と思想の関係もその関係と類比されるもので、思想が無限に向かってゆく解釈の圏域の中で私という反応として現れるのである。
それは思想が私の身体を場所として現れたということであり、私の身体は「反応」することによってその思想の展開を少しでも開いているのである。
それは私というところ,私という行為,それらが私の中に「異質/同質」を「異質」として考えてしまうところを作り出すことに似ている。
私は私から分離して「私の思想」という孤独な圏域を作り出すのだ。
それこそが思想の価値なのであり、それ以外ではない。

二つの文章を書いたが,二つの文章が書きたいことは同じである。
私の思想観が狭隘であること。
そして、私というものは「反応」によって基礎付けられているということ。
思想というものは「反応」を豊かに引き出すためのものであること。
これ以外のことをこの文章に解釈した人は無限への道を私と歩くことになる。
ずっと歩くわけではないが,この文章の中では歩いたのである。歩くのである。
私は思想とは個人的に付き合うべきであると思うのだ。

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