私の欲望と読書

私の読書の欲望は「強度」によって腑分けされる。基本的には「強度」は高いが「効用」が即効的ではないものと「強度」はそこそこで「効用」もそこそこ即効的であるものと「強度」は低いが「効用」が即効的であるもの、そして生活によって「強度」が上がっていくものと生活によって「効用」が上がっていくものの五冊、いや五種類がある。それぞれに妥当する本をいつも持つ。読書したいというのはどのことを指すかがわからないからである。もちろん跨るものもたくさんある。しかし、とりあえず五種類はあるように本を持っていく。

* ここでの「強度」は「私を変化させる度合い」であり「効用」は「私が変化する仕方」である。とりあえずそういうことにしておく。

それぞれについて考えるとするならば、と書いたがその前に番号をつけよう。

1.「強度」は高いが「効用」が即効的ではないもの
2.「強度」はそこそこで「効用」もそこそこ即効的であるもの
3.「強度」は低いが「効用」が即効的であるもの
4.生活によって「強度」が上がっていくもの
5.生活によって「効用」が上がっていくもの

まず大きな分類をするとすれば、1と2と3は「生活にとって」カテゴリーであると考えられる。それに対して4と5は「生活によって」カテゴリーである。このように整理すると、「生活にとって」カテゴリーは「強度」と「効用」が反比例していて「生活によって」カテゴリーは「強度」と「効用」が「生活」と比例していることがわかる。これは基本的な図式であるがとりあえずこのように考えられる。

具体例が欲しいと思うが少しだけ我慢してほしい。私は気になった。ここには時間的なスケールというテーマもある。それは「効用」にとって重要なことであろう。いや、本来は「強度」にとっても重要なことであるが「効用」がそれを引き受けていると考えることができる。「効用」は「即効/遅効」と「上がる」を引き受けている。これはとても重要なことである。

ただ「重要である」とだけ言うことは不親切だと思うがまだまとまってないので待ってほしい。そろそろ具体例を出そう。

1は、いま読んでいるもので言えば『レヴィナス・コレクション』が挙げられるだろう。この本はレヴィナスの重要な文章がいくつも入った本である。文章によって多少違うが基本的にはとても「強度」が高い。し、「効用」は遅効的である。2は、いま読んでいるもので言えば『意味のない無意味』が挙げられるだろう。この本は千葉雅也の重要な文章がいくつも入った本である。文章によって多少は違うが基本的には「強度」があり「効用」もある。2はあいだにあるので1と3に左右されるがいまの私にとって2は『意味のない無意味』くらいである。3は、いま読んでいるもので言えば『プラグマティズム入門』が挙げられるだろう。この本はその名の通りプラグマティズム、特に「哲学思想としてのプラグマティズム」(『プラグマティズム入門』7頁。)を紹介した本である。この本は「強度」が低く「効用」が即効的である。

と、書いてみて思ったが、3がよくわからない。というのも、私の分類は『プラグマティズム入門』を推薦しているのだが、私はあまり「哲学思想としてのプラグマティズム」について知らないので「私を変化させる度合い」で言えば高いかもしれないからである。それに「効用」についても即効的ではないと思う。というのも、あまり知らない分野について学ぶことはいつも遅効的であり、そうであるべきだと思われるからである。なので、実は「強度」と「効用」は反比例しないのかもしれない。というか、なんというか、時間?経験?成熟?努力?、それらについて考えなくてはいけないのかもしれない。

問題は山積みだが残った4と5について具体例を挙げよう。4は「生活によって『強度』が上がっていくもの」である。いま読んでいるもので言えば、『鑑賞 日本の名句』が挙げられるだろう。この本は名句をたくさん紹介する本である。これが「生活によって『強度』が上がっていくもの」であるのは生活する中で句を思い出して味わうことで私は変わっていくからである。疑問が浮かぼうとしているが、とりあえず5の具体例を挙げよう。5は「生活によって『効用』が上がっていくもの」である。が、「『効用』が上がっていく」とはどういうことなのだろうか。

そうか。ここまで山積みになってきた問題は「効用」を「私が変化する仕方」であるとしたのに「上がる」ということを背負わせていたから生じたものなのか。いや、そんな単純なものではない。しかし、わかりにくくなっているのは事実である。「上がる」を願いであると考えて、祈りであると考えて、それをとりあえず傍に置くとするならば、「強度」は「私が変化する度合い」であり「効用」は「私が変化する仕方」が「すばやい/ゆったり」のどちらに寄っているかであると考えられる。この「寄っている」というレトリックを「強度」で使えるようにするためには「私が変化する」の「私」が「私の一部」か、「私の全体」か、どちらに「寄っている」かということになるだろう。そう考えると、マトリクスを描くことができる。

二つの軸がある。一つは「強度」、もう一つは「効用」。「強度」は「私が変化する」の「私」が「私の一部」寄りか「私の全体」寄りかを示す。「効用」は「私が変化する」の「変化する」が「すばやい」か「ゆったり」かを示す。「強度」を縦軸であると考え、「効用」を横軸であると考えよう。そして、「強度」の正の方向を「私の全体」であると考え、「効用」の正の方向を「ゆったり」であると考えるとしよう。すると、第一象限は正と正なので「私の全体」が「ゆったり」変わるような読書(ここまで本で考えていたという間違いもあった。いま気がついたが。だから具体例は本当は挙げられなかったのである。おそらく。)、第二象限は正と負なので「私の全体」が「すばやく」変わるような読書、第三象限は負と負なので「私の一部」が「すばやく」変わるような読書、第四象限は負と正なので「私の一部」が「ゆったり」変わるような読書であることになる。

ここで一つ前の文章の()で考えたことを考えよう。私は当初「私の読書の欲望」を明らかにしようとしていた。いや、「明らかにしようとしていた」わけではなく結果的に明らかにしようとすることになった。しかし、私はいつの間にか、それぞれの分類の本を挙げようとしていた。しかし、普通に考えて一冊で生活が変わることはない。もちろん、「この一冊が私を変えた」と言いたくなる書物はあるだろう。しかし、私はその一冊は象徴的なものであるだけだと思っている。このことは読書と生活の関係について考えることを促すだろう。

私は「生活にとって」カテゴリーと「生活によって」カテゴリーという二つのカテゴリーを考えていた。しかし、前者は存在するのだろうか。それが存在するのは「生活」が「にとって」と言えるように対象化できる必要があると思うが、そんなことは可能だろうか。もちろん、可能であるとは言えるがその「対象化」は私がするものであり、それは生きるためにしているわけであるから「生活」であると言えるだろう。だから前者は「生活によって」の一つの形態であると考えられる。「生活によって」読書は輝く。そしてそれが「生活にとって」本が輝くことである。そういう繰り返し、それによってしか読書と生活は関係しない。だから、私は間違ったのだ。私はこのことを忘れていた。だから私は間違ったのだ。

残る課題は一つ。とりあえず一つ。それは第二象限は存在するのか、ということである。つまり、「私の全体」が「すばやく」変わるような読書はありえるのか、ということである。これは「この一冊が私を変えた」と言うことはできるのか、ということにも似ている。私はそんなことはできないしありえないと思う。上でも言ったようにある本を象徴として用いることはできよう。しかし、私たちは本を読むだけではなく生活している。それを見失ってはならないだろう。そして、生活するだけではなく本を読んでいる。それも見失ってはならないだろう。

というかそもそも、「すばやく」私が変わる読書などあるのだろうか。この問いに応えるためには「時間」や「経験」、「成熟」や「努力」について一定の見解を示す必要があるだろう。しかし、私にはそれをする準備がないし元気もない。今日はとりあえずある程度整理できたことに満足しよう。

ここからは余談程度に書くが、読書に限らず私は遅効派である。実際に遅効なのか、それとも遅効であると考えているだけなのか、それはよくわからないが遅効派であると思う。なんというか、即断が苦手なのである。

例えば、相談を受けるのも苦手である。なんというか、相談されてから三日くらい経てば自分なりにではあるのだが相談には乗れるのだがその場で相談に乗るのは難しい。別に茶化したり軽んじたりしているわけではないのだが、乗れないのである。そして、その「乗れない」を隠そうとしてかあわあわしちゃって、またそれを隠そうとしてかずばずばしちゃって、それが茶化しているように見えたり軽んじているように見えたりするのである。

読書が好きという人にはもしかするとこのようなことにならなくて済むから読書が好きという人がいるかもしれない。読書は即断を求めてこないからである。もちろん相談もそんなものは求めていないのかもしれない。受け止めることが求められているのかもしれない。しかし、受け止めるのにも無数の判断が必要なのである。(「無数の判断」はありえるか、という問いもあるが。)

質問が来ていることにしよう。「出先に持っていく本に役割はあるのでしょうか。」以下、アンサーである。「どうだろう。見直してみよう。そうだなあ、基本的には二つの哲学の潮流で一次文献に近いものと二次文献に近いもの、それらとは異なる哲学の潮流で解説書のようなもの、スタイリッシュなもの(ここでの「スタイリッシュ」というのは「スタイルがよく出ている」みたいな意味である。)、比較的短い論稿が載っているもの、があるという感じかな。まあ、基本的にはそういう感じかな。哲学の潮流の数が三つなのは珍しいかもしれないけれど。あと、今持っていく本は補助資料のようなものもあってややこしいけれど、いつでも持ち歩いているものとしては哲学書が一次文献に近いものと二次文献に近いもの、解説書もしくは一般書、の最低三つ、スタイリッシュなものが最低一つ、比較的短い論稿が載っているものが最低一つ、そんな感じかな。だから上で書いたものでそれに合わせるなら『レヴィナス・コレクション』と『大森荘蔵セレクション』、ああ、二次文献がなかった。まあ、例えば最近読んだもので言えば『ラカンと哲学者たち』とか『傷の哲学、レヴィナス』とか、『人はみな妄想する』とか『フッサール 志向性の哲学』とか、まあそういう研究書に近いものが二次文献のところに入ってくるだろう。で、解説書もしくは一般書のところは『プラグマティズム入門』が最も適合的だと思うが別に『ゼロからはじめるジャック・ラカン』でもいい。スタイリッシュなところには『意味がない無意味』がどちらかと言えば研究書寄りで『傷を愛せるか』はエッセイ寄りである。ここはなんというか、本質的には『大森荘蔵セレクション』や『レヴィナス・コレクション』が入ってもまったく問題はないが、それだと息つく暇もないという感じなので、『傷を愛せるか』を推したい。別に推すとか推さないとかいう話ではないのだが。で、最後に比較的短い論稿が載っているもので言うと『現代思想』や『○○読本』が適任であると思う。まあ、「比較的短い論稿が載っているもの」なら『レヴィナス・コレクション』や『大森荘蔵セレクション』、『意味がない無意味』、『傷を愛せるか』でもいいのだが。なんというか、最低でも五つの離れが欲しいという感じはあるかもしれない。今回で言えば、レヴィナス、大森荘蔵、プラグマティズム、千葉雅也(もしくは宮地尚子)、それらとは異なる潮流、という感じで離れていたほうがいい。だから、そのことを重視するなら『現代思想』が、一冊しか持っていけないとすれば適任であるだろう。しかし、『現代思想』も硬いと言えば硬いので柔らかさで例えば『なしのたわむれ』くらいを持っていきたいだろう。基本的にはバランスの話なのである。そしてそのバランスは私の「読書の欲望」に沿っている。一冊なら、二冊なら、五冊なら、七冊なら、八冊なら、という感じでそれにアジャストする。持っていく本を選ぶというのはそういう実践なのである。」

長いアンサーになってしまった。が、このアンサーの根底にあるのは「欲望」を尊重しているということである。これも私の傾向によるものであると考えることができる。私は「欲望」を持続させるのが苦手である。あとは「欲望」を成形するのが苦手である。なので、「欲望」を形にし、その形を掴むためには上のようなバランスが必要になるのである。

しかし、根本的に読書をしたくないときがある。その時用に私はラジオをダウンロードし、アルバムをダウンロードし、メモを開き、待っている。「欲望」が生じるのを。何かを作り出すのを。しかし、そもそも何もしたくないときがある。そのときは諦めて寝るか、寝れないなら味わう。何を味わうかは知らないが。しかし、この「味わう」は「味わわなくてはならない」を生み出しているのかもしれない。しかし、そうしていないと私は私を飼い慣らせないのである。私は私を持て余してしまうのである。

つまり、私のこの準備は私を愛するための準備なのである。みんなにもそういうものがあるのだろう。おそらく。私とは違う方法であるにしても。知らんけど。

推敲後記

少し前に書いたものなので私にしては珍しく修正を多くした。が、一つだけ、何となく含意がありそうで修正しなかった箇所がある。それは冒頭である。私は冒頭で次のように書いている。

私の読書の欲望は「強度」によって腑分けされる。基本的には「強度」は高いが「効用」が即効的ではないものと「強度」はそこそこで「効用」もそこそこ即効的であるものと「強度」は低いが「効用」が即効的であるもの、そして生活によって「強度」が上がっていくものと生活によって「効用」が上がっていくものの五冊、いや五種類がある。それぞれに妥当する本をいつも持つ。読書したいというのはどのことを指すかがわからないからである。もちろん跨るものもたくさんある。しかし、とりあえず五種類はあるように本を持っていく。

この文章はおかしい。どこがおかしいかと言えば、冒頭「私の読書の欲望は『強度』によって腑分けされる。」である。なぜなら、一読して明確であるようにここでは「強度」と「効用」が腑分けの根拠になっているからである。では、なぜ私はそのように書かなかったのか。この問いがこの文章の全体を貫いている。途中から「効用」ってなんだ?となっているように。しかし、「強度」だけではそれは定義できないのである。だから「効用」を持ってきたのだ。その効果がどのようなことだったか、それはみなさんに委ねるしかない。

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