難しい文章における概念とコンテクストとメタコンテクスト

 難しい文章について考えてみましょう。私は大抵難しい話をするときは「です」「ます」の文体、つまり敬体で書くので、もしかすると今日の文章は難しいかもしれません。なんて言っていますが、私にはわかりません。なんとなく最近難しい文章を読むので、そのことについて少しだけ考えておこうと思っただけです。

 さて、難しい文章の何が難しいのか、について考えると、概念ということとコンテクストということがあると考えられます。私の予感では、この二つは考え合わせると単純に「歴史」という問題に、「解釈」という問題に直結するように思います。まあ、急がず、それぞれの意味について考えてみましょう。
 まず、概念です。難しい文章というのは、概念が難しいと考えられます。たとえば、いきなり「内在的超越主義」とか言われても意味が分かりませんよね。仮に意味のネットワークを広義の二項対立群として考えるとすれば、「内在」の対義語は「外在」もしくは「超越」、「超越」の対義語は「内在」もしくは「臨床」であると考えることができます。しかしながら、これは何か言っていることになるのでしょうか。入れ替わり可能であるとすれば、「超越的内在主義」だと言うことができるかもしれません。しかし、それはどういう意味なのでしょう。もちろん、この概念にはコンテクストがあります。この文章はこの概念を明らかにすることを意図したものではないので、とりあえずこの概念が如何なるコンテクストで出てきたかの紹介はしません。というか、わからないのでできません。
 つぎに、コンテクストです。コンテクストいうのは文脈という意味です。ここで注意しなければならないのは、コンテクストというのが二つの意味を持っているということです。一つはテクスト全体におけるコンテクスト。もう一つはテクスト群におけるコンテクストです。上の「内在的超越主義」、あ、上の入れ替えは無効でしたね。何故か入れ替えられる感じで読んでいました。はい。それは置いておいて、例えば上の概念は『西田幾多郎の哲学 物の真実に行く道』という本で提起された西田幾多郎の「自覚」について書かれた文章です。いま、頭の中で入れ替え可能かどうかが混沌としてうねっているのですが、それは置いておきます。すみません。とにかく、上の本は本それ自体としてコンテクストを持っているし、西田幾多郎の哲学に関する本というコンテクストも持っていると考えられます。このように考えると、テクストはコンテクストによって意味づけられるだけのもののように思えてきます。しかし、概念はそんなことを許しません。正直こんな話をするつもりはなかったのですが、仕方ありません。弁証法的すぎる議論には概念の反逆がつきものです。
 概念はコンテクストに規定されています。どのように規定されているかと言えば、そのコンテクストの課題を解決するためのものとして生み出されたという規定がされています。たとえば、「内在的超越主義」という言葉は西田幾多郎の思想がプラトンの「自然の形而上学」に比べて「心の形而上学」と呼べるようなものであることを示すというコンテクストにおいて意味づけられたものであると考えられます。まだ序章しか読んでいないので勘違いかもしれませんが。そしておそらくこのコンテクストを生み出したのは西田幾多郎研究の全体だと考えられます。もしくは西田幾多郎の哲学をいかにして理解してもらうかということの全体だと考えられます。つまり、西田幾多郎の「自覚」の哲学としての側面を照射するためにこの本は書かれているのです。それはこの本のコンテクスト自体を決めるコンテクスト、いわばメタコンテクストであると考えられます。
 話がややこしくなってきましたが、コンテクストが概念を規定するという元々の議論に戻るとすれば、コンテクストとメタコンテクストのどちらにも概念は規定されていると考えられます。「内在的超越主義」は「自然の形而上学」におけるイデアのような超越を徹底的に廃したところに西田幾多郎の哲学の特異な点があると指摘するための概念であり、そのことに規定されていると考えられます。それはもちろんこの本の全体がそういうことを描くためのものであり、この本が西田幾多郎の哲学に関するあるコンテクストに規定されているということを示しています。
 何が言いたいのかわからなくなってきましたが、とにかく確認しておきたいのは、概念がわからないのはコンテクストがわからないからであり、そのコンテクストに如何なる否定をしているかがわかれば、だいたい難しい本も読めるということです。たとえば、私が西田幾多郎の本を何冊か読んでいなければ、「内在的超越主義」とかいきなり言われても、「はい、で、なんですか。」みたいになって、「よくわからないなあ」となっていたと思います。もちろん今もわからないのですが、だいたい西田幾多郎研究の全体がコンテクストとしてイメージでき、それゆえ本のコンテクストも理解でき、「内在的超越主義」というよくわからない概念がどのようなことを強調したり、または反転させたりするための概念なのかがわかると、わからなくてもなんとなくわかる。そういうことが言いたかったのです。
 このための簡単な方法として、対義語に入れ替えてみて、その二項対立をコンテクストに見て取るというやり方をしようと思ったのですが、その対義語の入れ替えは基本的にコンテクストを理解していないとできないことで、それは全体を読んでやっと分かるかもしれないものなので、私は苦悩していたのです。

 思っていたようなことは書けませんでしたが、メタコンテクストというのは面白い視点かもしれません。仮にこのメタコンテクストが西田幾多郎研究の全体ではなく西田幾多郎とその時代・地域という局限性に焦点化されるとすれば、それは解釈学的な読解の仕方になっていくのかと思いました。また、自己解釈や自己理解においても、メタコンテクストという視点は重要で、その視点の喪失が目的連関的な生き方のみを求める姿勢に繋がっていくのかもしれないなあ、と思いました。哲学はやはり全体的で個人的な営みであり、読み解くのはほとんど不可能かと思える所業なのかもしれません。なんとなく身についてきた自分の読み方とその面倒くささに辟易するときもありますが、なんというか、概念のメタコンテクストへの否定性を一つのコンテクストとして考えることはとても豊かなことであり、メタコンテクストとコンテクストの関係はコンテクストと概念の関係に類比的であるとともに、メタコンテクストと概念の関係もそれに類比的であると考えられたので、それがとても面白いと思いました。
 感想になってしまいました。私も私の書いた文章のコンテクストがわかりません。エッセイの困ったところでもあり、概念への純粋な愛のような感じがして、私は好きです。学問的かどうかはわかりませんが。

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