私というもの
ここからの文章はすべて「2024/2/19『旅なのに一つも歩かない』」という「日記」からの引用である。(ほんの一部加筆・修正している。)気が向いたらコメント付きのものも投稿するかもしれない。今日はとりあえず「日記」に書いたままに投稿することにする。
ここからは一つ、「私というもの」というような題で物を書くための資源を蓄えることにしよう。ここで書かれることは単純に言えば、私からなされる私への考察である。自己分析とでも呼べようが、それよりは賦活力を湛えたいという思いが強い。つまり、皆さんにも一つの、ある種の魅力的な人物を提示することに重きを置くということである。まずは私によく訪れるイメージ、これを根本的イメージと呼んでそれを集めてみよう。
まず思いつくのは「海の底のドーム」というイメージである。このイメージの初出は覚えている限りで言えば、『注文の多い料理店』について大学の心理学の先生に話した時に「海の底のドームに居るみたいな……」みたいに言ったところに求められると思われる。そして、そのことが純文学について書いた「純文学とは何か」というものと結びつき、そこで「(純)文学とは「海の底に居る」ということである」というようなイメージができたと思われる。また、このイメージを強く結晶化させた出来事としてとても風の強い日にバイクで家路についていたことが挙げられる。この出来事において私は身体的に「海の底のドームに居る」ということを知った。それ以来風の強い日、さらには強く雨の降っている日にはこのことを思い出すことが多い。ちょうど今日も風と雨の強い日であった。もしかするとそれゆえにこのように書き始めているのかもしれない。
他には「街灯に照らされた街路樹」というのも根本的イメージとしてある。さらに言えば、私を強く触発するのは街灯を囲むように存在する街路樹である。私はそこに細胞核のような存在感を見る。静かな存在感を見る。私のお気に入りのペア、街灯と街路樹のペアは誰にも見向きもされていない。規則的に並んだ街路樹と街灯。だが私はそれがとても好きなのである。これは「海の底のドーム」とは違って強制的なイメージではない。「根本的」の意味が違うとも言えるかもしれない。私にとってこのペアは静かさの象徴であり、存在することの象徴でもあるのである。
街路樹が風に吹かれていることから思い出した。私は「風に揺れる花畑という星々」というイメージも持っている。これはどちらかと言えば「海の底のドーム」寄りのイメージ性を持っている。つまり、強制的である。その強さゆえにいま、思い出されたのかもしれない。風に揺れるたんぽぽ畑、それに宇宙を見る。星々が揺れることなどないのだが、不思議なことである。細かいことかもしれないが、その花畑の花たちの背丈がある程度揃っているか、それともバラバラかによってこのイメージは分岐する。一つは一つの星に見える。背丈が揃っている場合である。もう一つはたくさんの星々に見える。背丈が揃っていない場合である。しかし、後者の場合はもう一つ、星の雰囲気のようなものが強く出ているようにも思われる。それを一つの星だと言うのは私たちの事情でしかないと言わされるような、そんな強さがある星が見える。これはもちろん比喩として「見える」ということなのだが、「見える」度合いで言えばここまでのイメージの中でも特に強く、そのように見えない時がほとんどない。そのほとんどない時もまた、そのように見えなかったことを驚くくらいである。
なんと呼べばよいかわからないが、「机の上の地形」みたいなイメージも根本的イメージとしてある。机の上は大抵散らかっているが、それゆえにそれらは地形のように見える。この「見える」はとても疲れているときに机自体が極めて純粋なモノに見えたことからの敷衍であるように思われる。反復であるようにも思われる。「静物」という表現がぴったりな、地形。立体性である。もちろん、机の上は世界のミニチュアだと思うが、それは一つの宇宙である。
「夜の電線」というイメージも根本的イメージとしてある。それはひどく影絵的で切り絵的なイメージである。これはおそらくある絵を見たとき以来のイメージであるが、それがどのような絵であるか、私は忘れてしまった。カラスが太陽を咥えているような、そんな絵であったように思われる。極めて平面的な電線とその背景は奥行きがない。それがなんだか、純粋さのようで好ましい。これは夕焼けのときによく見えるものである。その意味で偶然性を喜ぶという意味もあるのかもしれない。
あとは「深夜の十字路の信号」というイメージも根本的イメージであるように思われる。このイメージは規則的であるということがどういうことか、そしてその美しさとはどういうものかを教えてくれるようなイメージである。また、そこには2という数字を感じさせるところが多くあり、例えば向かい合った車用の信号、向かい合った歩行者用の信号のペア、そういうものが2を強く教えてくれる。それが素敵である。そんなふうなイメージである。
この他にも素敵なイメージは数多いが、ここではとりあえずこれで打ち止めとしよう。他には「夜の住宅街の重み」だとか、「川面の鱗」だとか、「狼を見る好きな人」とか、「手を見る」とか、「世界からの身体の没落」とか、「世界を覆う透明な密封ヴェール」とか、「何かを挟んで横並びに進む等速度」とか、「空を飛んで私を見る鳥」とか、「遥か遠くの山奥に居る仙人」とか、「月から落ちてくる雫」とか、「白波としての落ち葉」とか、「光る雲の切れ端」とか、部屋という立方体の四隅」とか、「天井を透過する夜空」とか、思い出そうとすればいくらでも思い出せるが、散歩の時間をそろそろ終えようと思うので終わることにしたい。散歩中に書いたものがほとんどであるという事情からそういうものが多いことはお許しいただきたい。
もしかすると私はこれらのイメージを思い出し、それにコメントを付すことで一生楽しんでいられるかもしれないという、そんな予感すら湧くような賦活力である。みなさんにとってどうなのか、私は知らないし、補足したほうが良いこともかなりあるように思われるが今日は、約束なのでこのまま投稿することにしたい。まあ、このように書くことも躊躇われたが、みなさん、私も含むみなさんのためにもこう書いておいた。
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