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傲慢なことを言いましょう。 私はどんな哲学書を読んでも「ああ、俺が表現できなかったや…
理由、というものについて考えておきたいことがある。『それは私がしたことなのか 行為の哲…
バスは短いエッセイを書くのに適切な乗り物である。その神秘的な理由についてはのちのち書く…
あなたはどんな人間ですか。 いや、あなたはあなたのことをどのような人間であると思って…
よくわからない試みをしよう。 私はいま十分間の電車の旅に出ている。十分間なので旅でも…
「書く」と「読む」の関係について考えてみましょう。 何度かこの文章の後に続く文章を…
「才能がある」という言明は「これから力を引き出させていただきます」という宣言である。私はかつてこのようなことを言った。ここで含意されているのは、「才能がある」というのがあくまで「これから力を引き出させていただきます」であり、何か実体のあるものが誰かにあるわけではないということである。つまり、簡単に言えば、「才能がない」というのは「これまで力を引き出すことができませんでした」という言明に過ぎないということがここでは言われている。 さて、「才能」に似た言葉に「天才」という言葉
私は子どもに何を教えるだろう。 私は一応教育者の卵であり、教育学者の卵である。一応。 …
今日も正直に話そう。 良き哲学に出会った時の話である。今日するのは良き哲学に出会った…
めちゃくちゃ眠い。だが、私は文章を書く! と意気込んだふりをしています。なんというか…
私は大学一年生から「踊る」ということを始めた。それまではずっとサッカーをしていた。なぜ…
「行為する」と「振る舞う」はどういう関係にあるのだろうか。 私はどうしても「倫理的に…
ダサいと思うこと。 何かをダサいと思うこと。 いろいろ考えましたが、これが私の答え…
永井均の『倫理とは何か』を読んだ。私がなぜか(この「なぜか」は演技だが)思い出したのは、疲れた時には他人に倫理的に振る舞いたくなるということである。 みなさんが経験をお持ちかは分からないが、私は何度か経験したことがある、と言えるくらいには経験したという記憶があることがある。それは極めて疲れているときこそ他人に「倫理的に振る舞う」ことがまるでハビトゥス(習慣、もしくは「狭い領域での立ち居振る舞い」)であるかのように行えるということである。 私は別に倫理的な人間ではない。い