「いき」の構造 | 九鬼周造

書評_028
松川研究室B3 福島真実

書籍情報
著書:「いき」の構造 他二篇 
著者:九鬼周造
出版社:岩波文庫

 「いきの構造」は、「いき」は日本民族に独自に芽生えている美意識であるとし、その日本の文化の、まぎれもない独自の価値の構造を明らかにしたものである。

 著者の九鬼周造は日本の哲学者である。
1888(明治21)年、男爵九鬼隆一の四男として東京都に生まれ、
第一高等学校を経て、1909年東京帝国大学文科大学哲学科に入学。ケーベル博士に師事する。東京帝国大学大学院を退学後、8年間のヨーロッパに留学して実存哲学を学ぶ。1929年に帰国後、京都大学で教鞭をとり、西洋哲学の普及に努めた。
 九鬼は八年に及ぶヨーロッパ留学の間、フッサールらから直接哲学を学び、西洋哲学を深いコンテクストから理解した。同時に、彼の長い留学は日本文化への鋭い洞察をもたらした。このような九鬼の哲学は「二元性」という特徴を持つ。この問題は、本書『「いき」の構造』へと繋がっていく。

 本書は数々の歌や文学作品の引用を使いながら「いき」の構造について論じられていて、以下の6つの章によって構成されている。

一 序説
二 「いき」の内包的構造
三 「いき」の外包的構造
四 「いき」の自然的表現
五 「いき」の芸術的表現
六 結論

 第一章では「いき」という言葉は民族的色彩の濃い言葉だと強調し、そのような特殊な民族性をもった意味をいかなる方法論的態度を持って取り扱うべきなのかを議論する。
 ヨーロッパ言語や西洋の文化に注目してみても、「いき」と全く同じ価値の言葉を見出すことはできず、九鬼は「いき」のありのままの姿を理解することが大切だと述べる。そうした上で、解釈的に「いき」の構造を明らかにしていくために、人々の意識の上で成立している現象としての「いき」を理解し、人の姿や芸術作品の客観的表現で成立している「いき」を理解するという方法をとる。

 第二章「いき」の内包的構造では、「いき」を形成しているのは「媚態」「意気」「諦め」の三つの性質で、「媚態」が基本となり「意気地」と「諦め」がその性格づけをして、「いき」を形成していると述べる。
以下に、それら3つの性質について簡単にまとめた。

・「媚態」 一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である (p23)

・「意気」すなわち「意気地」である。
「いき」は媚態ではありながらもなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である。(p25)

・「諦め」 運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。(p26)

それを踏まえて、著者は意識現象としての「いき」を「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」と定義する。

 第三章「いき」の外包的構造で、著者は「いき」に関係する言葉「上品」、「派手」、「渋味」を挙げ、それらの「いき」との関係を明示させることで、「いき」の意味現象をよりはっきりさせることを試みる。
「いき」の意味を他の主要なる類似意味と区別すると、それらの関係と関係性を図にまとめる。(p48.49)

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 第四章「いき」の自然的表現では、「いき」の客観的表現に注目し、「いき」が表現されているものについて考察する。著者は自然形式として、「身体的発表」を取り扱い、主に視覚的なものについて解説する。
 西洋絵画と江戸時代の浮世絵を対比しながら、「姿勢を軽く崩すこと」、「湯上がりの姿」、「ほっそりとしていて柳腰」について「いき」であると述べる。さらに、江戸の遊女や芸者の例を挙げながら薄化粧についてや、「いき」の非現実性、理想性について肉の落ちた細さについても言及する。
 意識現象としての「いき」は、「意気地」(理想性によるもの)「諦め」(非現実性によるもの)で完成される「媚態」であると提唱し、自然的表現は、一元的なものである平衡を理想性や非現実性を意識させる方法で崩し、二元性を暗示する媚態が表現されていると示す。

 第五章の「いき」の芸術的表現では、模様、建築、音楽の自由美術に着目する。
 著者は「模様は「いき」の表現と重大な関係をもっている」とし、特に永遠に交わらない平行線は二元性を純粋に視覚として表すもので、縦縞こそが「いき」であると解説する。さらに縦縞は、小雨や柳の枝を想起させる軽やかさがあり、対象をほっそりと見せる効果もあるとする。こうした二元性に加えて、「軽巧精粋の味」が縦縞をより「いき」にさせていると述べる。
 また、色彩については灰色、褐色、青色の三系統を挙げ、「いき」のうちの非現実的理想性を表現していると述べる。すなわち、二元性をあらわす形状と、非現実的理想性をあらわす色が合わさり、「いき」は模様に表現されるとまとめる。

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 さらに著者は、建築においては茶屋建築に求められると追求し、材料で二元性をあらわすことについて述べ、庇や袖垣や行燈の例を挙げながら照明についても述べる。
 芸術形式においても、客観的表現としての「いき」には、非現実性と理想性をともなった二元性があるとして、客観的表現は意識現象に還元できると提唱する。

 最終章では、客観的表現からではなく意味的体験に基づいた意識現象として把握しなくてはいけないことを強調しながら、
西洋文化には「いき」が存在せず、日本の民族固有の意識現象であることを訴える。

「運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である」(p107)


 本書において「いき」とは、「媚態」を頂点とした「意気」と「諦め」の三要素の関係性で形成されていることを主眼として議論がなされ、それはさまざまな歌や文学作品、日本語、昔からの言い伝えなどを基に根拠づけられ説得力はある。一方で、三つの要素の絶妙な関係性によって成立するとされる「いき」は、一つ一つの要素についての加減が要になってくるのではないかと思う。例えば、「いき」を形成する三つの要素のうちの「媚態」が晒し出してしまうとそれは見るに堪えないし、「媚態」の美しさも「意気」の力加減によっては打ち消されてしまう。
 しかしながら、「いき」という感覚的なものを、論理的に分解して言葉にすることで自覚的に捉えることを可能にし、「いき」についてのある種のパラメータを発見した本書が画期的であることは間違いない。


現代人への警鐘として

 「しかし、ごく最近になると、「いき」ということばも死語同然にみなす若者が増えてきたことに驚かずにはいられない。....「いき」「野暮」という一対にまった美意識はもう死んでしまったのか。」(p218)

 本書の解説を述べている多田道太郎はこう述べている。

 本書評の著者は現在20歳であるが、日常的に「いき」という言葉が使われ、会話で聞いたりしたことはほとんどない。現代では「いき」であることが何のことなのかわからなくなってしまったのか、本書を読了した後危機感を感じた。
 「粋(いき)」という言葉がどれだけ使われているのかを試すために、新建築データを使って検索してみることにした。すると、ヒット数はたったの44件で、さらにそのうちの10件は名称の一部であることから、実質34件だけであった。

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 一方で、ある種の日本的な美しさを示す単語としての「和風」を見てみると124件で、「粋」の4倍近くのヒット数であった。これはあくまでも一部にすぎないが、「粋」という言葉がどれだけ使われていないかを見ることができる。

 「いき」という言葉はまったく死んでしまったわけではない。ただ、たしかに力は弱まってしまっている。
 わたし達は、「和風」という概念や、ただ日本的に模倣したものに「いき」を見出すことになってしまってもいいのだろうか。「いき」を作り出すことを諦めてしまっていいのだろうか。伊達ものの美に最大公約数を求めてしまえば、「いき」はきっと死滅してしまう。

 本書「「いき」の構造」は、「いき」というものが日本人特有の「私たち」のものであることを示すと同時に、昨今の失われかけていく「いき」の精神を叫び続ける本として、多くの人に読まれ続けなければいけないだろう。

参考
”「いき」の構造 他二篇”, 九鬼周造,岩波文庫,1979
写真引用元:https://kamomelog.exblog.jp/25961021/

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