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0002_ことば(言語)について

ことば(言語)についての考え方がある時からずっと変わらなくて、そこから抜け出そうとしてもなかなか難しい。受け入れるしかないのかなと思っているけれど、今回はことば(言語)について書いてみたい。

何かを言語化するということは常にジレンマで、言語化しなければその対象を認識することができない一方、言語化すると多くのことが抜け落ちてしまう。
これから書くことは大学時代に丸山圭三郎さんの「ソシュールの思想」という本を読んだことがベースになっている。その本で書かれているのは下記のようなこと(手元に本がないので、記憶を頼りに書いてます)。

世界があって、言語ができたのではなくて、言語によって世界を認識している。世界はすべて繋がっていて、言語でそれを区切り、定義して認識している。これは、その人が扱う言語によって、世界の認識の仕方が違うということでもある。
例えば、虹という現象があって、日本語では虹の色を表現する時に7つの言葉を使う。つまり日本語を使う人は虹を7色だと認識していると思う。
しかし、他の国の言語では虹の色を表現する時に2つの言葉しか持っていないこともある。この場合、その言語を使う人は虹の色を2色として認識していると言える。

というようなこと。その他、いろいろな言語に関することが書かれている。よく考えると当たり前のことだけれど、今の思考の根っこにはこの本で読んだことの影響が大きくある。それと中島敦さんが書いた小説で「文字禍」というものがある。これも言語に関することが書かれていて、とてもおもしろい。小説としてもおもしろい。

話を進めると、そもそも思考するという事自体が言語によって行われている。言語について考えることは「思考すること」が持っている性質について考えることでもあると思う。

この文章で、一度、私自身の言語に対する考えとまでは言えないけれど、ちょっとした認識を整理してみたい。
初めにも書いたけれど、一番強く思うのは言語化しなければその(言語化しようとする)対象を認識出来ないけれど、言語化するとそこから多くのことが抜け落ちてしまうということ。ふざけて「言語化のジレンマ」と言っている。
そしてもう1つは一度言語化して、対象を言語的に認識してしまったらそれを認識していなかった状態には戻れないということ。この現象にはふざけて「言語の不可逆性」って言ったりしている。例えば美術館などで作品を見る時、先に言語化されたキャプションを見ると、もうそのキャプションの内容を認識していない状態で作品を見ることはできない。
例えば、もやもやした言葉にできない感情を持っていた場合、その感情を一度言葉にしてしまったら、もうその感情はその言葉で表現したものとして認識されてしまう。例え、いろいろな感情が複合的に合わさって抱いていたものだったとしても、言語化してしまうと、もうそれは無くなってしまう。

他にもいろいろあるけれど、この2つが大きい。
それを踏まえた上で、どうやって言語化(思考)していけば良いのか(あるいは言語化(思考)しないでいけばいいのか)。ということを整理したい。整理したいというよりもスタンスを書いておきたい。

やはりどうしても言語化しなければ対象を認識できない。だから言語化はせざるを得ない。けれども「言語のジレンマ」や「言語の不可逆性」に自覚的になった上でそれを行わなければならないと考えている。つまり、そういったことに自覚的になり、ある程度の慎重さを備えながら言語化を行っていきたいというのがスタンスである。
具体的に言えば、遅く重い言語化ということになるかもしれない。
現代で言語化するという行為は非常に軽いように思う。簡単に言語化している人が多いと思うし(悪いことではないと思う)、そういうことができる環境があるし、それを行うことが生きていくためにも必要だったりする。それに言語化することはある種の快楽でもあると思う。そして分かりやすく単純化して物事を言語化できることは現代では強い。分かりやすいから多くの人が共感できるし、そういう共感はパワーを生む。相手も上手く説得できるかもしれない。なによりそういった軽い言語化は早い。軽くて早い言語化は効率化を求められる資本主義社会で強い。物事を前に進められる力がある。

小さい頃に母親から「マイペースだ」ということをよく言われていた記憶がある。つい最近まで自覚したことはなかったけれど、最近になってそうかもしれないと思うことが多い。本当にあらゆることに時間がかかるし、遅い。
いつまでも同じことを考えているし、なかなか先に進まない事も多い。少しは速度を上げられるように頑張らないといけないけれど、やっぱり、ゆっくりと、へびーに言語化していきたい。

少し話は変わるけれど、立石遼太郎さんという方がいて、私は彼のファンである。大学時代のかわいい先輩(男性)からその存在を教えてもらい、前々から立石さんの書く文章などを読み漁っていた。立石さんの修士設計である「静かなレトリック」にも、とても興味があり、いつか拝見したいと思っていたある時、レクチャーとディスカッションが行われるということで、参加した。
ほんとうに恐縮だけれど、単純化して言ってしまえば、言語化が難しい建築物をいかに言語化するかということがテーマで、文学において通常用いられる言語では言語化が難しい対象に対して要請されるレトリックという手法を建築に重ね、建築の言語化を試みるというものである。「静かなレトリック」の内容の一部は「建築の修辞学──装飾としてのレトリック」として10+1で読むことができる。
ちなみにこの時のレクチャーに参加して考えたことなどを文章にしていたけれど、長くなり、まとまらなくなってしまった言語化の残骸がメモ帳にあるので、こちらは別の機会にちゃんと書こうと思う。
ちなみに立石さんの別の連載がnoteでも始まっていて、こちらもおもしろいので、興味がある方は読んでみてください。

連載「建築におけるフィクションについての12章」

これ以上書くとまた自分の中で複雑に考えすぎて、まとまらなくなってしまったりするので、この文章はここで一度おわり。また同じ興味に関する文章は書くかもしれない。



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