雑司が谷散人

2016年11月から東海道を歩き始めて以来、あちこちの街道歩きを楽しんでいます。 今ま…

雑司が谷散人

2016年11月から東海道を歩き始めて以来、あちこちの街道歩きを楽しんでいます。 今まで歩きながら撮り溜めた写真など、街道歩きの軌跡を記録として整理したく、このページを立ち上げました。 古いものから時系列に紹介していますので、内容が最新ではないこと、ご容赦下さい。

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雑司が谷散人の街道遊歩 街道別→歩いた日別の目次

東海道矢倉沢往還清戸道柳街道神奈川往還(絹の道)柏尾通り大山道田村通り大山道津島街道八王子通り大山道羽田道池上道埼玉道登戸道川越児玉往還滝坂道金沢道佐屋路東浦…

雑司が谷散人
5か月前
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雑司が谷散人の街道遊歩 0668

京街道 3日目-09 2019.1.13守口宿では「五十七次 守口宿」と書かれた紫色の幟を多く見かけるが、そこには「江戸・品川宿より大坂・守口宿」とあり、一般に知られる五十三…

雑司が谷散人
19時間前
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雑司が谷散人の街道遊歩 0667

京街道 3日目-08 2019.1.13京街道旧道左手から下りていく階段坂に、清滝街道の道標。 ここを下りる道筋が清滝街道への近道のような位置付け。 「のざきみち」は、野崎参…

雑司が谷散人の街道遊歩 0666

京街道 3日目-07 2019.1.13京街道旧道左手に盛泉寺。 この先の難宗寺は西御坊、ここ盛泉寺は東御坊。 京街道旧道は難宗寺手前の角を右へ。 難宗寺の塀に沿って道標がい…

雑司が谷散人の街道遊歩 0665

京街道 3日目-06 2019.1.13大庭から八雲地区に入る京街道旧道。 正迎寺前を左へ折れる。 守口市の京街道旧道は、時空の道の愛称で道標などが整備されている。 今は無き…

雑司が谷散人の街道遊歩 0664

京街道 3日目-05 2019.1.13淀川堤防左手に、茨田(まむた・まんだ)堤碑。 茨田堤は仁徳天皇11年に築かれたという、日本最古の河川堤。 淀川堤防左手下に、古い家並みが…

雑司が谷散人の街道遊歩 0663

京街道 3日目-04 2019.1.13出口集落の南を抜ける京街道旧道。 この辺りに古くから「さだ」の地名があり、今も学校名などにその名が残る。 漢字では蹉蛇。語彙は「つまず…

雑司が谷散人の街道遊歩 0662

京街道 3日目-03 2019.1.13枚方宿の西、伊加賀地区。 伊加賀の地名は、孝元天皇妃、開化天皇の皇后である伊香色謎命(いかがしこめのみこと)に因むという。 伊加賀地区…

雑司が谷散人の街道遊歩 0661

京街道 3日目-02 2019.1.13鍵屋主屋の後ろに、昭和3年築の別棟。 すぐ裏手が淀川で、床下に船が直接入れる構造。 鍵屋主屋の裏側から内部を見ると、かまど(へっつい)…

雑司が谷散人の街道遊歩 0660

京街道 3日目-01 2019.1.13東海道五十七次こと京街道の旅、3日目は枚方宿から。 旧道は枚方公園駅手前を右へ折れると、右手に旧木南家。 屋号は田葉粉屋で、明治期の商家…

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雑司が谷散人の街道遊歩 0659

下田街道 2日目-10 2019.1.3急斜面の森を抜ける道が続く。 この辺りの地名は鍋失。 この先の河津川中流域に大鍋、小鍋の集落があるが、その由来となっている鍋をなくした…

雑司が谷散人の街道遊歩 0658

下田街道 2日目-09 2019.1.3旧天城トンネルを抜け、河津側へ。 古来、二本杉峠を越える下田街道は相当の難所であり、南伊豆と中伊豆は分断されていたが、このトンネルの…

雑司が谷散人の街道遊歩 0657

下田街道 2日目-08 2019.1.3本谷川上流の沢を渡る踊り子歩道。 水生地下駐車場で踊り子歩道は国道414号に出る。 ここからは旧天城トンネルへ通じた国道の旧道に入る。 …

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雑司が谷散人の街道遊歩 0656

下田街道 2日目-07 2019.1.3下田街道旧道は本谷川上流の沢伝いに進む。 天城ゆうゆうの森へ続く踊り子歩道。 道はやがて二手に分かれる。 右方向が二本杉峠への古来の…

雑司が谷散人の街道遊歩 0655

下田街道 2日目-06 2019.1.3下田街道旧道左手に木の鳥居。 その先には、小さな山神社がある。 下田街道旧道右手に塞の神の碑。 塞の神が祀られるのは集落の境界。 林道…

雑司が谷散人の街道遊歩 0654

下田街道 2日目-05 2019.1.3道は木橋で本谷川対岸へ。 その先は水恋鳥広場。 道は本谷川の岩尾砂防ダムの下へ。 よく見ると石仏がひとつ。 岩尾砂防ダムの脇を階段で上…

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雑司が谷散人の街道遊歩 街道別→歩いた日別の目次

東海道矢倉沢往還清戸道柳街道神奈川往還(絹の道)柏尾通り大山道田村通り大山道津島街道八王子通り大山道羽田道池上道埼玉道登戸道川越児玉往還滝坂道金沢道佐屋路東浦賀道西浦賀道所沢道津久井往還下田街道京街道中山道

雑司が谷散人の街道遊歩 0668

京街道 3日目-09 2019.1.13守口宿では「五十七次 守口宿」と書かれた紫色の幟を多く見かけるが、そこには「江戸・品川宿より大坂・守口宿」とあり、一般に知られる五十三次との違いをアピール。 京街道旧道は守口宿西見附へ。 文禄堤を切通したと思われるコンクリートの擁壁に大きく「京街道」と書かれ、「陸路官道第一の驛」と書き添えられている。 淀川舟運との対比、及び大坂側からの最初の宿をアピール。 守口宿西見附から先の京街道旧道は、区画整理により消滅。 古くは今の国道1号守

雑司が谷散人の街道遊歩 0667

京街道 3日目-08 2019.1.13京街道旧道左手から下りていく階段坂に、清滝街道の道標。 ここを下りる道筋が清滝街道への近道のような位置付け。 「のざきみち」は、野崎参りと呼ばれた野崎観音慈眼寺への道を指す。 守口宿は淀川に面していながら、枚方宿のような川舟との連絡機能は無かったようで、宿の発展にも影響があったようだ。 文禄堤の京街道旧道には、うだつの上がる古い商家も残る。 ギャラリーとティールームとなっているこの建物は、大正15年築。 京街道旧道は京阪守口市駅

雑司が谷散人の街道遊歩 0666

京街道 3日目-07 2019.1.13京街道旧道左手に盛泉寺。 この先の難宗寺は西御坊、ここ盛泉寺は東御坊。 京街道旧道は難宗寺手前の角を右へ。 難宗寺の塀に沿って道標がいくつか残る。 ここを左へ向かう道が清滝街道。 清滝峠を越え、斑鳩町滝田で奈良街道に合流。 大坂と奈良を結んだ街道のひとつ。 守口宿の西御坊、難宗寺。 この地には古く来迎寺という寺があり、ここに残されていた御堂を守っていた来迎衆と呼ばれた人々の存在があったという。 今も難宗寺南側に来迎町の地名が残る。

雑司が谷散人の街道遊歩 0665

京街道 3日目-06 2019.1.13大庭から八雲地区に入る京街道旧道。 正迎寺前を左へ折れる。 守口市の京街道旧道は、時空の道の愛称で道標などが整備されている。 今は無き旧村名が確認できる。 京街道旧道右手に、守口一里塚跡。 これより守口宿。 守口宿へ入る京街道旧道。 東海道五十七次の最後の宿。 大阪へはあと二里。 京街道旧道左手に瓶橋の親柱。 守口城の虎口にあたり、「口を守ること瓶のごとし」ということ。

雑司が谷散人の街道遊歩 0664

京街道 3日目-05 2019.1.13淀川堤防左手に、茨田(まむた・まんだ)堤碑。 茨田堤は仁徳天皇11年に築かれたという、日本最古の河川堤。 淀川堤防左手下に、古い家並みが残る。 よく見れば、ここも段蔵。 延々と続く淀川左岸の堤防の道。 前方に見えてくる鳥飼仁和寺大橋。 寝屋川市と対岸の摂津市を結ぶ。 鳥飼は垂仁天皇が鳥養部を置いたとする日本書紀に因む地名。 仁和寺は京都仁和寺領だったことに因むという。 淀川左岸の堤防の道は、寝屋川市から守口市へ。 左手はかつての

雑司が谷散人の街道遊歩 0663

京街道 3日目-04 2019.1.13出口集落の南を抜ける京街道旧道。 この辺りに古くから「さだ」の地名があり、今も学校名などにその名が残る。 漢字では蹉蛇。語彙は「つまずくこと」。 太宰府へ向かう菅原道真がここで休息した際、娘の苅屋姫が後から追いかけてきたが、既に道真は出発後で、思わずつまずいて悲しんだという。 京街道旧道は淀川堤防へ。 下流の大阪市内を遠く望む。 淀川から木屋揚水機場、さだポンプ場への導水路。 淀川左岸のこのあたりは、木屋(こや)の地名がある。 淀

雑司が谷散人の街道遊歩 0662

京街道 3日目-03 2019.1.13枚方宿の西、伊加賀地区。 伊加賀の地名は、孝元天皇妃、開化天皇の皇后である伊香色謎命(いかがしこめのみこと)に因むという。 伊加賀地区を南へ進む京街道旧道。 時たま目にするのは、蔵の下に石垣を積み上げた段蔵。 淀川の氾濫に悩まされたこの地域ならではの風景。 出口の集落に入る京街道旧道。 住宅街の狭い路地となる旧道を抜けていくと、光善寺の山門前に。 旧道はここを左へ。 光善寺前から出口の集落を南へ進む京街道旧道。 旧出口村は東側の中

雑司が谷散人の街道遊歩 0661

京街道 3日目-02 2019.1.13鍵屋主屋の後ろに、昭和3年築の別棟。 すぐ裏手が淀川で、床下に船が直接入れる構造。 鍵屋主屋の裏側から内部を見ると、かまど(へっつい)が街道に面した表側にある。 暖かい食べ物などを往来で売っていたとしたら、この方が機能的か。 鍵屋の鍵紋。 鍵は富豪を象徴する紋という。 鍵屋を過ぎると、京街道旧道は枚方宿西見附へ。 東見附からここまで、およそ1.5キロ。 枚方宿を後にした京街道旧道。 まだしばらくは古い家並みも残る。

雑司が谷散人の街道遊歩 0660

京街道 3日目-01 2019.1.13東海道五十七次こと京街道の旅、3日目は枚方宿から。 旧道は枚方公園駅手前を右へ折れると、右手に旧木南家。 屋号は田葉粉屋で、明治期の商家と蔵が並ぶ。 木南氏は楠木正成一族の後裔といわれ、江戸初期からの庄屋と問屋役人。 幕末の頃には金融業も営み、表からは見えないが、広い敷地内には5棟の蔵がある。 京街道旧道は堤町へ。 右手の家並みのすぐ裏手が淀川の堤。 京街道旧道沿い、今の堤町は、かつての泥町。 枚方宿を構成した岡、岡新町、三矢、泥町

雑司が谷散人の街道遊歩 0659

下田街道 2日目-10 2019.1.3急斜面の森を抜ける道が続く。 この辺りの地名は鍋失。 この先の河津川中流域に大鍋、小鍋の集落があるが、その由来となっている鍋をなくした場所として関連があるようだ。 やがて道は二本杉歩道合流点へ。 古来の下田街道の道筋である二本杉峠からの道。 あいにく今は道の崩落箇所があり、通行止め。 下田街道旧道は宗太郎園地の宗太郎杉林道へ。 宗太郎の地名はこの地の開拓者に因むという。 杉は明治10年に植えられたもの。 宗太郎園地の下田街道旧道沿

雑司が谷散人の街道遊歩 0658

下田街道 2日目-09 2019.1.3旧天城トンネルを抜け、河津側へ。 古来、二本杉峠を越える下田街道は相当の難所であり、南伊豆と中伊豆は分断されていたが、このトンネルの開通で人の往来はもちろんのこと、物流に与えた影響も大きかったものと思われる。 南伊豆の悲願のトンネルでもあった。 旧天城トンネルから旧国道の下り坂を進むと、やがて寒天橋。 ここから八丁池へ通じる道が分かれるが、それが寒天車道。 八丁池周辺の自然保護のため、この道路は路線バス専用で、一般車輌の乗り入れは許可

雑司が谷散人の街道遊歩 0657

下田街道 2日目-08 2019.1.3本谷川上流の沢を渡る踊り子歩道。 水生地下駐車場で踊り子歩道は国道414号に出る。 ここからは旧天城トンネルへ通じた国道の旧道に入る。 昭和45年の新天城トンネル開通までは、ここを車やバスが往来したことになるが、今はひっそりとした砂利道。 旧国道左手に、川端康成文学碑。 『伊豆の踊子』の冒頭部分が刻まれているが、そこはまさにこのあたりの描写。 旧国道は何度かのカーブを経て、旧天城トンネルへ。 正式には天城山隧道。 明治38年完成。

雑司が谷散人の街道遊歩 0656

下田街道 2日目-07 2019.1.3下田街道旧道は本谷川上流の沢伝いに進む。 天城ゆうゆうの森へ続く踊り子歩道。 道はやがて二手に分かれる。 右方向が二本杉峠への古来の下田街道。 ハリスが越えた道。 あいにく近年の台風災害で路盤流失、峠から先が通行止め。 左方向は旧天城トンネル経由で、明治38年開通。 川端康成の歩いた道。 今回はトンネル経由へ。 すぐ先に森林鉄道の車両。 なぜか木曽森林鉄道のもの。 森を背に、炭焼き市兵衛の墓。 市兵衛は紀州尾鷲から伊豆へ炭焼きの技

雑司が谷散人の街道遊歩 0655

下田街道 2日目-06 2019.1.3下田街道旧道左手に木の鳥居。 その先には、小さな山神社がある。 下田街道旧道右手に塞の神の碑。 塞の神が祀られるのは集落の境界。 林道の一部となる下田街道旧道。 この辺りの地名は野畔。 下田街道旧道は道の駅・天城越えの敷地内を通り抜けて進む。 林の先には、再び山神社。 踊り子歩道こと、下田街道旧道の見やすい道標。

雑司が谷散人の街道遊歩 0654

下田街道 2日目-05 2019.1.3道は木橋で本谷川対岸へ。 その先は水恋鳥広場。 道は本谷川の岩尾砂防ダムの下へ。 よく見ると石仏がひとつ。 岩尾砂防ダムの脇を階段で上がり、先へ進む。 このあたりは与市坂の地名がある。 浄蓮の滝に近い茅野の集落に入ると、下田街道旧道は踊り子歩道となる。 茅野の集落を進む下田街道旧道。 天城越えへ向けて、まとまった集落はここが最後か。