仏教における「疑い」について 瞑想のある種の困難さ
最近、唯識仏教の勉強をしているんだけれど、「根本煩悩」の中に「疑」がある。僕も思い当たる節がある。瞑想についての疑いが深い時期があった。
まずどの方法が正しいのか全く分からなかった。〇〇式というのが6個ぐらいあるし、どれも「自分達が本物」と言って憚らないので、混乱した。瞑想をしていても「これでいいんだろうか」という疑いが消えなかった。
更に「悟り」というのも胡散臭い。古代人の妄想じゃないか?と思った。
紆余曲折あって瞑想に対する疑いがなくなったのだけれど、本当に紆余