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天才詩人・ランボーはなぜ詩を捨てたのか

  アルチュール・ランボーをご存じだろうか。
 アルチュール・ランボー(1854~1891)は、早熟な天才詩人であり、二十歳で詩を捨てアフリカ大陸で貿易商人になり、全身を癌におかされて片脚を切断、妹のイザベルに見とられて、三十七歳の若さで死んだフランスの詩人である。
 なんでいまごろランボーなのかと言われれば、気恥ずかしい気もするが、最近YouTubeでランボーの詩が朗読されていたり、ある種の人々にとっていまだに興味つきぬ詩人なのかもしれない。
 わたしは、ランボーがなぜ二十歳で詩を捨ててしまったのか長らく疑問に思ってきたが、その疑問を2つの書物、「ランボーはなぜ詩を棄てたのか」(集英社インターナショナル 奥本大三郎著)と「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」(藤原書店 清眞人著)によって考えてみたいと思う。
 そこでまず、ランボーの足跡を追ってみたい。

 ランボーは1854年、ベルギーにちかいフランスの北東部の田舎町シャルルヴィルに生まれた。父は軍人であったが家に寄り付かず、農場の娘で厳格なカトック教徒である母ヴィタリーに厳しく育てられたという。
 「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」の著者、清眞人氏は、ランボーの母、ヴィタリーが狂信的なカトリック教徒であり、なおかつ強情で口やかましく情味に欠けた女性で、ランボーの詩作はこうした母の抑圧への反逆・嫌悪として出発したのではないかと指摘する。
 厳母の期待にたがわず、ランボーは、エリート校のシャルルヴィルの高等中学(リセ)で、宗教教育からフランス語、ラテン語、古典にいたるまで徹底的に勉強し、1869年8月、15歳の夏に学年末の賞の授与式で9つの一等賞を受賞するという、開校以来の神童と呼ばれるほどの抜群の優等生となり、母だけでなく校長も自慢の生徒だったという。
 翌1870年1月、21歳のイザンバールという若い教師がやってきて、ランボーの非凡な才能に驚き、ランボーにパリ詩壇の新しい潮流を語るだけでなく、蔵書を読ませ、厳格な母の監視から逃れる時間を作ってやったという。
 厳母のもとで息のつまる生活をしていたランボーは、パリへの出奔をくわだて、1870年5月24日、パリ詩壇の領袖バンヴィルに手紙を書く。その手紙に添えて書いたのが、下記の「Sensation(サンサシオン)」という詩であるという。

Sensation(サンサシオン)

 夏の爽やかな夕、ほそ草をふみしだき、
 ちくちくと穂麦の先で手をつつかれ、小路をゆかう。
 夢みがちに踏む足の、一あしごとの新鮮さ。
 帽子はなし。ふく風に髪をなぶらせて。

 話もしない。ものも考えない。だが、
 僕のこのこころの底から、汲めどつきないものが湧きあがる。
 さあ。ゆかう。どこまでも。ボヘミアンのように。
 自然とつれ立つて、ー恋人づれのやうに胸をはずませ……

   (角川文庫 ランボウ詩集 金子光晴譯)

 だがパリ詩壇の領袖バンヴィルから返事は来ずに、しびれを切らしたランボーは1970年8月29日、家を飛び出してパリへ出奔する。だがパリまでの運賃を払えなかったランボーは無賃乗車で逮捕されて監獄に入れられてしまう。「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」(藤原書店 清眞人著)によれば、その翌月、第二帝政は崩壊し、共和政府が樹立されたという。
  若き教師・イザンバールがいろいろ手をつくしてランボーを釈放し、9月27日にランボーは母親のもとに連れもどされる。
 だが10月7日にランボーはふたたび家出を決行する。無賃乗車にこりたランボーは徒歩で、教師イザンバールの叔母たちの家に行き、滞在させてもらったが、またもや、母親のもとに引きもどされてしまう。
 この頃に書かれた詩に「わが放浪」があるという。

    わが放浪

 僕はでかけた。二つの拳は、破れたポケットにつつ込んだまま。
 外套も、この上なしのすりきれかた。
 大空のしたをゆく僕は、ミューズよ、君の忠僕だった。
 おゝ、ら、ら。僕が夢みたのは、眩ゆいばかりの愛だった!

 かえ換へのない半ズボンには、大穴が一つあいていた。
 夢をみる、小さなプーセのこの僕は、ゆく道々で韻をひろった。
 僕の旅籠(はたご)は、大熊星座。
 空では星どもが、さらさらとやさしい衣ずれの音をさせた。

 僕はまた、道のほとりにしゃがみこみ、
 この爽やかな九月の宵、僕のおでこに、
 延命の美酒、夜つゆのしづく音をきいた。

 架空な物影のまんなかで韻をあはせながら、
 あげた片足を胸にあてて僕は、
 竪琴気取りに、破れた半靴の二本のゴム紐をぴんと引つぱつた。

    (角川文庫 ランボウ詩集 金子光晴譯)

 この頃のランボーは童顔で身体は小さかったが、手足は農民のように大きかったという。その姿は、肩まで届く長髪に陶製パイプというボヘミアンの格好をしていて、近所の大人からひんしゅくを買っていたという。完璧な優等生から不良少年に様変わりしていたのである。

 二度も失敗したにもかかわらず、ランボーは、翌1871年2月25日、三度目の出奔を断行し、パリに行く。宿無しのランボーは凍てつくパリで貧民たちと残飯をあさるような生活を送ったらしいが、金もなくなり、仕方なく、ランボーは、3月10日に240キロの道のりを歩いてシャルルヴィルに帰ったという。その8日後、1871年3月18日にパリ・コミューンが成立したという。
 パリ・コミューンというのは、産業革命で労働者階級が出現するなかで1789年のフランス革命をもう一度やり直そうという機運がおこり、そうしたなかでアナーキズム化して、ブルジョワ革命の枠を超えて先鋭化、社会主義革命の萌芽となった歴史的出来事だという。
 ランボーは、4月中旬から5月初旬のある日、四度目のパリへの出奔をこころみ、パリ・コミューンをめぐる動乱のパリをうろついて暮すことになったという。
 「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」によると、「5月21日、ヴェルサイユ軍がパリに突入し、いわゆる『血の一週間』と呼ばれる大量虐殺を伴うコミューン鎮圧が行われ、同月28日、パリ・コミューンは崩壊する。ランボーはその一部始終を見つめながらパリので放浪暮らしを行ったと推測され、9月にはしばらくパリのヴェルレーヌ夫妻の仮寓に身を寄せることにもなる。つまり、彼はパリ・コミューン騒乱の一部始終を身をもって現地体験することになったわけなのだ」という。
 ランボーのその体験をもとにした詩として「鍛冶屋」があるという。
「帽子をとれ、ブルジョワども、ああ やつらこそ人間なんだ
 おれたちは労働者だ 陛下 労働者なんだ
 おれたちは偉大な新しい時代を託されている
 人々が知識に燃え 人間が朝から晩まで鍛錬を重ねて
 大いなる成果と大いなる利益とを追い求める時代だ」

 1871年9月、当時27歳のヴェルレーヌの招きでに夫妻の仮寓に身寄せることのできた16歳のランボーは、 ヴェルレーヌとともにモンマルトルやカルチェ・ラタン界隈を歩きまわり、カフェや居酒屋で詩人をはじめ多くの芸術家と詩や文学を語り合い、ある飲み会で「酔つぱらひの舟」を朗読したという。

酔つぱらひの舟

 ひろびろとして、なんの手応へもない大河を僕がくだつていつたとき、
 船曳きたちにひかれていたことも、いつしかおぼえなくなつた。
 罵りわめく亜米利加印度人たちが、その船曳きをつかまへて、裸にし、
 彩色した柱に釘づけて、弓矢の的にした。

 フラマンの小麦や、イギリスの木綿をはこぶ僕にとつては、
 乗組員のことなど、なんのかかはりもないことだった。
 船曳きたちの騒動がやうやく遠ざかつたあとで、
 河は、はじめて僕のおもい通り、くだるがままに僕をつれ去つた。

 ある冬のこと、沸き立つ潮のざわめきのまつただなかに、
 あかん坊の頭脳のやうに思慮分別もわかず、僕は、ただ酔うた。
 纜(ともづな)を解いて追つてくるどの半島も、
 これ以上勝ちほこつた混乱をおぼえたことはなかつた。

 嵐が、僕の海のうえのめざめを祝(ことほ)いだ。
 犠牲(いけにへ)をはてしもしらずまろばす波浪にもてあそばれ、
 キルク栓よりもかるがると、僕はをどつた。
 十夜つづけて、船尾の檣燈(ともしび)のうるんだ眼をなつかしむひまも
 なく。

 子供らが丸噛りする青林檎よりも新鮮な海水は、
 舟板の樅(もみ)材にしみとほり、
 僕らの酒じみや、嘔吐を洗ひそそぎ、
 小錨や、舵を、もぎとつていつた。

 その時以来、僕は、空の星々をとかしこんだ乳のやうな、
 海の詩に身も溺れこみ、
 むさぼるやうに、淵の碧瑠璃をながめていると、
 血の気も失せて、騒ぐ吃水線近く、時には、
 ものおもはしげな水死人の沈んでゆくのを見た。
(中略)
 火花と閃めく衛星どもを伴ひ、黒々とした海馬に護られて、
 革命月の七月が、燃ゆる漏斗の紺碧ふかい晴天を
 丸太ん棒でたたきこはした豪雨のなか、
 一枚の板子のやうにおろかにも、翻弄されてゆられる僕。
(中略)
 おゝ、波よ!その倦怠をこの身に浴びてからは、
 木綿をはこぶ荷舟の船脚をさまたげることも興がなく、
 旗や、焔の誇りと張りあふのも、
 門橋の怖ろしい眼をくぐつて泳ぎつき、巨利をむさぼることも、僕にはで
 きなくなつた。
    (角川文庫 ランボウ詩集 金子光晴譯) 

ランボオ詩集(角川文庫)

 とはいえ、ヴェルレーヌはパリコミューンの騒動のあと市役所を首になっていて、妻の実家で暮らしていて、いつまでもランボーを置いておくわけにもいかなかったという。それで宿なしになったランボーは、1871年の秋から冬にかけて友人たちのところを渡り歩くことになったという。
 その頃のランボーは背丈も伸びていたが、ボロをまとい、汚くて粗暴で詩人仲間から浮き上がるようになっていたという。ランボーは追われるように1872年3月10日頃、ふたたびシャルルヴィルにもどり、同年5月にパリにもどり、屋根裏部屋やホテルに移り住むようになったという。そしてアブサンを飲みながら精力的に詩作に励んだようである。

ランボーはなぜ詩を棄てたのか(集英社インターナショナル)


ランボーはなぜ詩を棄てたのか(集英社インターナショナル)

 ランボーとヴェルレーヌは諍いを繰り返しながら、1872年7月7日、放浪の旅で出かけ、ロンドンにむかう。
 1873年4月11日、ランボーは母方の農場の家に帰り、散文詩を書いたらしい。5月25日ヴェルレーヌと再会し、ロンドンへ、この頃、パリコミューンの残党と付き合い、フランス語講師として暮らし、大英博物館に通っていたという。
 1873年7月10日、ブリュッセルでヴェルレーヌがランボーに発砲し、ランボーは手首を負傷するという事件が起こる。7月19日退院。10月、「地獄の一季節」を自費出版。1874年、ランボーは二十歳になっていた。この頃ランボーは詩を棄てたと思われる。

ランボーはなぜ詩を棄てたのか(集英社インターナショナル)

 「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」の著者清眞人氏は次のように書いている。「地獄の一季節」の序言は「『かつては、私の記憶に狂いがなければ、私の生活は宴だった。ありとあらゆる人の心が開かれ、酒という酒が溢れる流れる宴だった』と。ところが、その『宴』的世界が一変するのだ。『地獄』へと。右の書き出しに続く一節はこうだ。『ある宵のこと、私は美(la Beaute)を膝のうえに坐らせた。ーを苦い味がすると思った。ーそこでそいつを罵倒してやった。/私は正義に対して武装した』と。
 なぜ「宴」が「地獄」になってしまったのか。
 清眞人氏によれば、それはパリ・コミューンという革命の挫折および絶望だという。
 清眞人氏は金子光晴の言葉を引用して「ランボーをしてパリ・コミューンの少年戦士たらしめもした三度目の家出からの彼の帰還に関しては、『革命家の夢を打ち砕かれて故郷に帰ってきた』」と記している。
 さらに清眞人氏は「『血の一週間』と呼ばれるヴェルサイユ軍によるパリ・コミューンに対する大弾圧がコミューン派の人々の心性をひたすらに『復讐心』だけに塗り固められたものへと変質させ、そのことによってコミューン派の運動は当初の精神・心性を失って、『共和国』・『正義』・『歴史』・『民衆』を大義名分に据えた、その実人間の中に渦巻く怨恨・復讐の心性が産む暴力の欲望に満ち満ちた(中略)ものに変質し」たとして、「社会革命の将来に対する絶望感が、最終的にはランボーを(中略)『大自然』たる宇宙と自己との有機的一体化に突入」させたと述べている。
 私にはくわしいことは分からないので、ランボーの詩を見ていこう。

一番高い塔の歌

 時よ、来い、
 あゝ、陶酔の時よ、来い。

 よくも忍んだ、
 覚えもしない。
 積る恐れも苦しみも
 空を目指して旅立った。
 厭な気持に咽喉は涸れ
 血の管に暗い蔭さす。
(後略)

  「地獄の季節」小林秀雄訳 岩波書店

別れ

 (前略)
 俺はありとある祭を、勝利を、劇を創った。新しい花を、新しい星を、新しい肉を、新しい言葉を発明しようとも努めた。
 この世を絶した力を得たと信じた。扨て、今、俺の数々の想像と追憶とを葬らねばならない。芸術家の、話し手の、美しい栄光が消えて無くなるのだ。
 この俺、嘗ては自ら全道徳を免除された道士とも天使とも思った俺が、今、務めを捜さうと、この粗々しい現実を抱きしめようと、土に還る。百姓だ。

 「地獄の季節」小林秀雄訳 岩波書店

 この「別れ」の詩のなかに、「詩」と決別して、ランボーがザラザラした現実に生きていこうとする決意が見られるように思われる。

 この点に関して清眞人氏は「『生きがたい人生』を生き得るものにせんと『詩』が産み出す『想像世界』に自己を幽閉せんとし、しかし、結局それでは実人生を全うすることはできないと悟り、実人生の中に深い慈悲愛で互いを結び合う『友愛の手』の絆を得て、その絆が発揮するまさに〖愛〗の力によってこそ生き直そうとして、しかし、どこにもそのような『友愛の手』を見いだすことができず、心身共に病む重い病に倒れる他なかったという悲劇性、これがランボーの人生そのものではなかったか」と述べている。

 ランボーは「地獄の季節」のなかの「光」という詩のなかで

 處でだ、ーやれ、やれ、可愛い、哀れな魂よ、俺達には永遠はまだ失はれてはいないのだろうか。

 と書いている。

 そう、ランボーのあまりにも有名な詩

 また見付かった、
 何が、永遠が、
 海と溶け合う太陽が。
 
 「地獄の季節」小林秀雄訳 岩波書店

 と呼応する。

 そして人から聞いた話だが、ランボーは貿易商人として儲けた金は黄金に換え、それを身体に巻きつけていたという。また、イエメンのアデンにはいまだランボーのブルーの家が残っているという。
 それにしても、人生というものは難しいものだ。
 ランボーの実人生がいかに惨めなものであったか分からないが、もし悲惨な人生だったとしてもランボーの詩はいまだ多くの人々から愛されていることは間違いないのだから。

「地獄の季節」小林秀雄訳 岩波書店




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