[奇妙な味の長めの短編] メビウス切断・第一回 (全三回)

笑いの中にこそ、自分のあり方を変える可能性が隠されている。
 ――カルロス・カスタネダ


青白い街路灯に照らされ、中途半端に暗い夜の住宅街を、しかた四方滅郎 (しかためつろう) はやや覚束ない足取りでゆっくりと歩いていた。家へと向かう道は他に人影もなく、一人歩く滅郎に梅雨時のじめじめした空気がまとわりついてくる。滅郎は月曜だというのに少し酒を飲みすぎていた。

彼はどちらかといえば酒が好きな方だが、仕事のつき合いで飲むことは殆どなかったし、飲むにしてもそういう席では自然とほどほどということなる。まして週の初めから足取りが覚束なくなるほど飲むなどということは、普段の彼なら考えられないことだった。

前の日に恋人の生子 (しょうこ) とつまらぬ喧嘩をしたのも理由の一つだろう。そしてその晩は飲んだ相手もその場の話題
も悪かった。

その日、終業間際になって技術本部長のスズキに声をかけられた。飲みに行こうと誘われたのだ。楽しい話ではないなと思った。もちろん断ることもできた。だが、生子との喧嘩のことも手伝って、滅郎はついその誘いに乗ってしまったのだった。

  *  *  *

「滅郎、今日はちょっと飲もうじゃないか」スズキの屈託のない誘いの言葉が、駅からの道を歩く滅郎の頭の中に木霊した。

予想通り、スズキの話は楽しいものではなかった。お前もこの会社で十五年もやってきたんだし、そろそろもう少し責任のある地位に就いたらどうだ、せめて課長ぐ
らいやってみろよという、今までにも何度か繰り返されてきた話だ。

滅郎には管理職に就く気はない。プロジェクトリーダーをかけもちしている今でさえ管理的な業務の多さにうんざりしている。ここでそんな役職を引き受けたら、自分がやりたいプログラムを書くという仕事はさらに遠く手の届かないところへ行ってしまうだろう。滅郎にとって
コンピュータに向かいプログラムを組むことは他の何にも代えがたいものだった。彼は技術者として生涯一プログラマーでいたかったのだ。

滅郎の勤める亀戸数理科学研究所は、大学時代にスズキが別の大学の仲間と起こしたコンピュータソフトの会社である。スズキと同級だった滅郎も誘われて学生時代からそこでアルバイトをした。大企業に就職する嘘くささを嫌い、居心地の決して悪くないその会社に大学を出るとそのまま勤めて、気がつくともう十五年の歳月が流れていた。

スズキは今は取締役という立場で経営者の視点からものを見ているが、もともと理系の人間である。同じ情報工学科の滅郎をこの会社に誘った彼は、滅郎の生涯一プログラマーでいたいというナイーブな気持ちもある程度は理解している。だが、最近になって増え
てきた大きめのプロジェクトをスムーズに進めていくためには、せめて滅郎に課長のポジションを引き受けてほしい……。滅郎の技術力を買っているからこそのスズキの願いだった。今までにも何度か切り出しては滅郎に軽くあしらわれていた話題だったが、十五年という一つの
区切りを持ち出して、その晩スズキはいつになく熱心に滅郎を口説いたのである。

とはいえ、管理職にはならないという滅郎の気持ちは確固としたもので、スズキがいくら説得しても揺らぐようなものではなかった。そこのところが分らないスズキが、繰り返ししつこく勧めてくるので、滅郎ははっきり言ったのだ。管理職にならないという自分の立場が尊重されないのなら俺は会社をやめるだろう、と。

そこまで言われるとスズキもそれ以上説得を続けるわけにはいかなくなり、トーンを落としてこう言った。

「そうか、分った。お前がそこまで言うんならこの話はなかったことにしてくれ。けど、例のプロジェクトのリーダーの件、あっちの方はよろしく頼むぜ」

話題が変わっても滅郎の気持ちの重さは変わらなかった。

「例のプロジェクト、ね……。はっきり言ってそっちも気が進まないんだが、この会社でやってくつもりなら、そのくらいはやらないと仕方ないってことか」

「滅郎、頼むぜ。あの話をきっちりまとめられるのは、うちの会社じゃお前のほかにほとんどいないんだ。この件がうまく行けばボーナスだってドンとはずむし、そのあとはお前にも好きなようにやらせてやるって」

スズキは前にも聞いた覚えのある言葉で滅郎をなだめようとした。悪いやつではないと分っているだけに、空約束で自分を窮屈なところに追いやることになるスズキの言葉に滅郎はげんなりした。

「スズキ、金の話はともかく、好きなようにやらせるっていうお前の空約束は、ほんとに聞き飽きてるんだ。お前の気持ちはともかく、いつもお前は社長のヤグチの言いなりで、結局俺がこきつかわれることになる、違うか?」

滅郎の言葉でスズキはバツの悪い顔になり、それには答えずジョッキに残ったビールを飲んだ。スズキのその顔を見て滅郎は、参ったなと思いながら言った。

「まあ、いいさ。お前とも長い付き合いだし、とにかくこっちはこの会社に食わせてもらってるわけだからな。その件は前向きに考えておくよ」

「おっ、さすが滅郎、嬉しいことを言ってくれるね。お前が前向きに考えるって言ってくれるってことは、もう引き受けてもらったも同然だ。こっちは大船に乗った気持ちでいられるからな。ホントによろしく頼むぜ。ところでさ……」

何事にも楽観的なスズキは、滅郎がそのプロジェクトを引き受けたものと思い込んですっかりいい気分になり、話は瞬く間に酒の席でのバカ話へと移っていった。滅郎の頭にはスズキの話はもはや殆ど入ってこなかった。スズキの声を上の空に聞きながら、滅郎は今度のプロジェクトについてぼんやり考えていた。

そもそも、そのプロジェクトというのが、滅郎にとってはどうも気の進まないものだった。自衛隊からの大がかりな仕事の孫請けで、爆発物のシミュレーションに関する研究プロジェクトなのだという。滅郎には自分が軍事関連の仕事をしている姿がうまく想像できなかった。そ
んなことにぼんやりと思いを巡らせていると、スズキの言葉が頭に飛び込んできた。

「ところで滅郎、彼女とは最近どうなの?」

〈彼女〉という言葉が滅郎をその場に呼び戻した。

「ああ、生子ね……」

滅郎が昨日の生子との喧嘩を思い出しながら曖昧に頷いていると、スズキは言葉を続けた。

「お前ももう三七だろ。そろそろ身を固めてもいい時期じゃないのか?」

いかにもスズキの言いそうな通俗的な台詞だと滅郎は思った。こいつには世間一般並み以外の考え方はできないのかと、滅郎にはそれが不思議でならなかった。

「どうしてお前はそんなに月並みな考え方しかしないんだろうな? 男と女が結婚するとかしないとか、そんなのは人それぞれじゃないか。年がどうとか身を固めるとか、俺はそういう考え方は大嫌いなんだ」

「おい、そんなふうに言わないでくれよ。俺だってお前の考え方は分ってるさ。別に世間並みをお前に押しつけようってわけじゃない。ただ、お前のためと思って言ってるだけじゃないか」

「それが余計なお世話だって言うんだ。お前としてはそうかもしれんが、とにかくその言い方はやめてくれ。そういう話は誰だって自分で考えて自分で決める。そうだろう?」

「そうは言ったって、彼女だって色々気持ちがあるんじゃないのか?」

色々な気持ち……。そう、確かに彼女にも色々な気持ちがあるはずだ。そうして滅郎の想いは昨日の生子とのやりとりへと流れていった。

  *  *  *

滅郎は人生は所詮ゲームにすぎないと思っている。面白おかしい遊びとしてのゲームのことを言っているわけではない。それは実のところ、なかなか深刻なゲームだ。なにしろ人の命が
賭かっている。自分の人生を賭けてするゲームなのだ。だが、ゲームである以上、真剣になりすぎるのはうまくない。つまらないところで熱くなりすぎれば、失点をくらう。下手をすればゲームを落とすことにだってなりかねない。ほどほどの熱量で参加し、ほどほどの楽しみを得る。力を抜けるところでは力を抜いてリラックスし、ここぞというところでは全力投球する。それが滅郎が好むゲームのやり方だった。

世間一般で言うような勝ち負けのゲームだと思っているわけでもなかった。自分なりに納得のいくフォームで、自分として満足できるプレイをすればいい。そのために重要なのは対象との距離とバランスだ。対象との距離が遠すぎれば十分なプレイができないし、誤って近くなりす
ぎればバランスを失うことにもなる。自分のバランス感覚がどの程度のものなのか、それは滅郎にも分らなかったが、とりあえずこれまでのところはそれなりのプレイをしてまずまずのスコアをあげてきた。そんなふうに滅郎は自分の人生を捉えていた。

しかし、このゲームという言葉の意味を説明するのはなかなか難しい。誤解されて否定的に取られることもある。特に女はこの話を嫌うようだった。だから滅郎がこの話を人にすることは滅多になかった。

ところが昨日の晩、生子と飯を食っている席で滅郎はそのことをうっかり口にしてしまったのだ。

その晩いつもの店で夕飯を食っていると、生子は友だちの直子がマルチ商法をやっていてしつこく勧めてくるので困っている、あいつもばかなんだから、と愚痴ともつかぬ様子で話してきた。生子はカラッとした性格で、愚痴を言ったり人の悪口を言ったりすることはまずない。自分でなんでも決めていくほうだから、十年ほどのつきあいの中で相談のようなものを受けた記憶は滅郎にはなかった。

そんな生子が、マルチ商法を勧められて困っている、自分としてはそんなものをやる気はないし、けれども長い付き合いのある直子が、何度断っても繰り返し勧めてくるので、どうしたらいいかわからなくて、と言うのだった。

滅郎はそう聞いて答えを求められているのだと思ってしまった。しかし、今考えてみるとそうではなかったのだろう。

生子の中には彼女なりの答えがあって、ただその答えが彼女なりに正しいということを、滅郎に話すことで確認したかっただけだったのに違いない。

ともあれ、そのとき滅郎は自分なりの考えを生子に説明した。マルチ商法なんてものは簡単に儲かるものじゃないし、無理な勧誘で人間関係を壊すような話もよく聞く。法律に触れないとはいっても半分詐欺みたいなもんだ。滅郎の話を、そこまでは生子も納得顔で聞いていた。ところがその先で、そもそもマルチ商法のようなバカげたものがこの世に存在すること自体を不愉快に思っている滅郎は、酔いも手伝って、つい調子に乗って言ってしまったのだ。

「俺は人生なんて結局ゲームにすぎないと思うんだよ。自分は自分、他人は他人のルールでやってるわけでね。だからそれぞれのルールでやってるんだってことを、つまり自分は自分のルールでやらせてくれってことをさ、そこんところをちゃんと伝えれば、そんなに悩むこともないと思うけどなあ」

滅郎がそう言って生子のほうに改めて視線をやると、そこには目を見開き、冷たい視線で滅郎を凝視する彼女の顔があった。しまったな、と滅郎は思った。だがもう遅かった。生子がいきなりの剣幕で言葉を投げつけてきた。

「いつ誰が悩んでるなんて言ったのよ。勝手に決めつけないでくんない? それにしても、あんたは幸せねえ、そうやって四六時中ゲームの世界を生きてりゃいいんだか
らさ。けどね、あたしや直子はそんなんで生きてるわけじゃあないんだよねー。あんたのその言い草じゃ、なに? あたしと付き合うのも、げーむにすぎないと、そーゆーわけ? まったくご立派な考えじゃない? あーもー、これ以上あんたのバカな話には付き合ってらんない、あたし帰るわ」

彼女の強烈な怒りに驚き、固まってしまった滅郎に、一言も口を挟む機会を与えずにそれだけ言うと、生子は席を立った。ネパール製だという色鮮やかなリュックをつかんで財布を取り出し、五千円札を一枚取り出すとテーブルの上にぱしんと置いた。そして滅郎には見向きも
せず颯爽と店を出て行った。

今までにも似たようなことは何度かあったが、今回の彼女の爆発は超弩級であった。呆然と見送るしかなかった滅郎は、周りの視線を気にしながら、グラスに残ったビールをごくりと飲んで喉を湿らせた。

  *  *  *

滅郎はスズキの話が切れるのを待って前日の生子とのやりとりを簡単に説明した。それを聞くとスズキは言った。

「まったくお前は相変わらずだなあ……。酒が入っていい気分になると、相手が出してるはずのサインも目に入らずに、神経逆撫でするようなことでも平気で言っちまうんだから……」

「いやこれでも前よりはいくらか良くなってるはずなんだけどな。まあ、酒の入り具合もあるし、こっちにとって愉快じゃない話題だと、つい度を過ごすってことかな」

「で、自分はちっとも悪く思ってない?」

「そんなことはないさ。俺だってそれなりに自分の悪さは感じてる。ただ、お互いの考え方とか行動のパターンが噛み合わないときにそういうことが起こるわけだし、こっちがそのパターンをぱっと変えられれば一番いいだろうけど、そんなこと、簡単にできるわけもないじゃないか。そしたら、悪いとは思っても、仕方のないものは仕方ないって、どうしても思っちまうからな」

「で、そういうお前の開き直るような態度が、また彼女は気
に入らないってことなんだろう?」

「まあ、それはそうなんだけどさ……」

スズキの言葉に頷きはしても、どうしても自分のほうだけが一方的に譲ることを要求されているような気がして、滅郎には納得がいかない部分が残る。この手の諍いがあるたびに滅郎は考えてしまう。そもそも彼女という存在は俺にとって絶対必要なものだろうか。こうして時折り、手ひどくやられるたびに、女とは関わらないで一人で生きる気楽さと寂しさのほうが俺には合ってるんじゃないのかと、滅郎は思うのだった。

今日のスズキの課長昇進の話もそうだが、滅郎としては自分一人で自由にやりたいのに、誰にも気兼ねなく伸び伸びと行動できる領域が少しずつ、少しずつ減ってきている。最近の滅郎はそんな感覚に襲われていた。三七という年齢に対しての社会からの要請、そしてそこからくる鈍く重い圧迫――
滅郎は自分の人生に徐々に迫ってくる不自由な息苦しさをそんなふうに意識していた。スズキはまだ何かを話し続けていたが、滅郎は上の空で相づちを打つばかりで、話はもう耳に入ってこなかった。

  *  *  *

自宅への道を歩く滅郎の頭には、そうしたスズキや生子の、顔や言葉が脈絡もなく浮かんでは消えしていた。滅郎はいやいやをするかのように頭を右へ左へと何度か振って頭を空っぽにしようとした。口から長く息を吐き出し、鼻からゆっくり息を吸うと、鼻腔に湿った重苦し
い空気を感じた。梅雨時なのに風が吹くと肌寒いほどの、妙な陽気の晩だった。

自宅のある鉄筋アパートが近づいてくる。玄関前の植え込みにサルスベリの白い花が咲きはじめているのが夜目にもくっきり見えてきた。その木の脇に足を止め細やか
な花の様子を見ながら、滅郎はぼんやり思った。母さんの好きなサルスベリ、母さんは元気にしてるだろうか……。

滅郎は酔っぱらった足でゆっくりと、四階までいつものように階段を昇った。自分の部屋の、冴えない焦げ茶に塗られた鉄扉の前に立ち、鍵を差し込み回す。扉を開いて後ろ手に閉め、暗闇の中、明かりのスイッチに手を伸ばした瞬間――。

大きめの1LDKの、滅郎が一人で住む部屋の奥にスポットライトが当たった。

男が三人、奇妙な衣装でアコースティックギターを構え立っている。そしてスパニッシュというのだろうか、三人はてんでんばらばらにギターをかき鳴らすと、真ん中の小男が調子っ外れの大きなだみ声で歌いだした。

「メラーーーーーー」

両脇の男二人がそこに合わないコーラスを重ねる。

「たーーで」

また小男がだみ声を張り上げる。

「メラーー」

そして、また不揃いなコーラスが部屋に響き渡る。

「たーーで」「ターーデ」

滅郎の頭の中は真っ白になっていた。

そのがらんどうとなった頭の中を、音楽とはとても呼べないギターの騒音と、雄叫びのような歌声が駆け巡り、溢れかえる。その理解を拒絶する光景を眺めているうちに、まず彼らの着ている黒いポンチョが滅郎の意識に入り込んできた。黒地に白の地味な色合いだが、入り組んだ
細かい刺繍が目を引く。そして次に三人のかぶっている山が高くつばが広い帽子が滅郎の意識に焦点を結んだ。あれは確かメキシコの……、なんという帽子だったか……。滅郎は考えるともなく考えていた。

「わぁれらはっ」

「メラーッ」「ターーデー」

一際高いコーラスが入り、ギターが激しく掻き鳴らされて演奏が終わった。すると、真ん中の小男が声も高らかに滅郎に呼びかけた。

「ようこそ、滅郎クン! われわれの演奏はお楽しみいただけたかな?」

「ようこそ……?」滅郎は力なくそう呟くのが精一杯だった。

「きみの部屋に勝手にお邪魔しておいて、ようこそ、もないもんだね、ハハハハハッ」

男はさもおかしい冗談を言ったとでも言うように体全体で笑った。右に立つ黒メガネの男はニコリともせずじっと立っている。そして左側の中肉中背の男は顔に不思議な笑みをたたえて頷いていた。

そこが自分の部屋であることが意識からすっぽり抜け落ちていた滅郎は、小男の言葉で我に返り、部屋の中を見回した。妙な男たちがいること、その後ろに黒いスクリーンが吊されていること、そして彼らを照らすスポットライトがあることを除けば、確かにここは自分の部屋
に見えた。しかし、この異常な状況の中、テレビドラマの撮影舞台にでも紛れ込んだかのような非現実感を滅郎は感じていた。

「滅郎クン」男が再び馴れ馴れしく呼びかけた。「きみが驚くのも無理はない。だが、これがわれわれの流儀でね。すなわち、予告なく夢のように現れ、任務が終了すれば風のように去る。それがわれわれメラターデ教団のやり方なのだ」

「めら、たーで……?」滅郎は再び力なく呟いた。

「そう、メラターデ教団だ」小男は右側の黒メガネの男にあごをしゃくって「ニゴウ」と鋭く言った。

ニゴウと呼ばれた男は、ストラップで吊し、前に構えていたギターをヘッドを下に背中に回すと、音もなく歩いて滅郎の前まできた。滅郎は呆然としたまま動くこともできず、男の黒メガネに写る小さく歪んだ自分の姿を見ていた。ニゴウは少し間を置いてから、すばやく右
の握り拳を滅郎の顔寸前まで差し出した。滅郎は驚いてよろけ、後ずさった。肩が鉄の扉に当たり、がつん、という音が静まりかえった部屋に響き渡った。

ニゴウはもう一歩滅郎に近づくと、再び拳を滅郎の顔の前に差し出した。滅郎は恐怖を感じたが、それを気取られないように、静かに大きく息をして冷静さを保った。男は拳を裏返しながらゆっくりと開き、人差し指と中指に挟まれて一枚のカードが滅郎の目の前に現れた。

滅郎は近すぎて焦点の合わないカードに少しのあいだ目をやってから、男の顔に視線を戻した。黒メガネが闇の色をして男の目を隠している。だが、その無表情な顔
には男の酷薄さがはっきりと表れていた。

「取りな」男が言った。

滅郎がゆっくり右手を挙げてカードを取ると、男は再び音も立てずに歩いて元の位置に戻っ。滅郎は男が戻っていくのを目の端で捉えながら、そのカードに目を落と
した。そこには次のように書かれていた。

メラターデ教団
団長

カードの左下には、赤い色で何か植物の穂のようなものが書かれているが、連絡先も書かれていなければ名前も書かれていない。

「滅郎クン、ニゴウが驚かせてすまんな。私のところへ来てからというもの、この男もこれで随分丸くなってきたものなんだが、まだまだこのようにがさつなところがあってね」団長はそう言って肩をすくめた。

滅郎は相変わらずこの奇妙な状況に圧倒されたままではあったが、少しずつ気持ちが落ち着いてきて、ようやく頭が回転し始めた。このまま相手のペースで行くわけにはいかない。そう思って滅郎は言った。

「おいちょっと、なんなんだ、きみたちは。こんな夜に人の部屋に勝手に入り込んで。一体どういうつもりなんだ。さっさと出てってくれ。でないと警察を呼ぶぞ」口調は自然と強いものになった。

「団長、一発シメときましょうか」一歩足を踏み出して、黒メガネの男が言った。

「ニゴウ、お前は本当に気が短い。しばらくおとなしくしてなさい」

団長がニゴウを見据えて鋭くそう言うと、男は何も言わず静かに一歩後ろに下がった。

「滅郎クン」団長は滅郎に顔を向け直すと言った。「われわれの方ではきみのことを少しばかり調べさせてもらっている。例えばきみが大の警察嫌いだということとかね。こういう場合であっても、きみが警察を呼ぶことはないと、われわれは確信している。違うかね?」

俺のことを調べただと……。団長の言葉に滅郎は頭に血が昇るのを感じた。

「そういうわけで、きみのそういう脅し文句はわれわれには効かんわけだ。ここはひとつ、落ち着いて話し合おうじゃないか」

「落ち着いてだと?」滅郎の怒りは膨らんだ。「どうしてこんな状況で落ち着いて話し合えるのか、さっぱり分らんな。きみらはそうやって遊んでればいいのか知らんが、こっちは明日も会社勤めの身だ。さあ、とっとと帰ってくれ」

滅郎は声を荒げながらも冷静さを保つ努力をし、相手の動きを見守った。だが三人の男は身じろぎもせず、滅郎の様子をじっと窺っているようだった。部屋は少しの間、静寂に包まれた。

すると団長が小さな体を大きく左右に振りながら言った。

「滅郎クン、そうカッカしては体に毒というものだ。ちょっとお茶でも飲んだらどうかね」

団長がそう言うと、今度は左側の中肉中背の男が動いた。男はギターを丁寧に床に置いてから、滅郎の方に歩き始めた。この男の動きには洗練された柔らかさがあり、黒メガネのニゴウのなめらかだが粗暴な行動とは対照的だった。男は滅郎の前に立つと、どこから取り出したの
かペットボトルのウーロン茶を滅郎に向かって両手で恭しく差し出した。

「気持ちはありがたい、ということにしておくが、見知ら
ぬ人から貰ったものを飲み食いするんじゃないって、お
袋からきつく言われてるもんでね」

「ほほう、滅郎クン、お母様のお言葉をそのように大切にしているとは素晴らしい。立派な孝行息子じゃないか。親孝行こそは人類の美徳の最たるものだよ。サンゴウ」

その声を聞くと男はウーロン茶を差し出していた手を戻し、優雅な足取りで元の位置へと戻った。

「ではここで」団長が咳払いをして言った。「メラターデ教団、十の教え、第一を。一つ、お父さん、お母さんを大切にしよう」

「お父さん、お母さんを大切にしよう」ニゴウとサンゴウが完璧なまでのタイミングで唱和した。

団長はその顔に溢れんばかりの笑みをたたえながら、滅郎をじっと見ていた。さっきの歌のめちゃくちゃさ加減、今の唱和の正確さ、そして唱和の内容のまったくの無意味さ……、これらのことが団長の笑みと相まって、滅郎に底知れぬ不気味さを感じさせた。

「さて、滅郎クン」団長がそう言うと、滅郎は相手のペースに乗るまいと、すかさず言い返した。

「俺の名前を気安く呼ぶのはよしてくれ」

「なるほど、それももっともだ、日本では下の名前で呼び合うことは普通しないからねえ」団長は大げさに頷きながら言った。「では、こうしましょう、四方クン」

「それもやめろ。あんたに〈くん〉付けで呼ばれる筋合いはない」

「なるほどなるほど、素晴らしい自尊心だ。われわれの調査したとおり気骨がある。それでこそ、こちらとしても話し合いのし甲斐があるというものだ。では改めまして……」

団長は、それまでは背筋を伸ばし、ふんぞり返り気味の姿勢で偉そうに構えていたのが、軽く背を丸めて頭と腰を低くすると、両手をこすり合わせながら言葉を続けた。

「四方さん、われわれとしましては、あなたのその素晴らしい才能を見込んで、是非とものお願いがあるわけでしてね」

団長の、卑屈といってもいいほどの低姿勢への急激な変化に滅郎はたじろぎ、言葉を失った。落ち着け、相手の出方に振り回されるな、こっちのペースを保つんだ……。この調子ではこいつら、どうやら簡単には引き下がりそうにない、とすれば……。このままでは埒が開かないと
考えて滅郎は、思い切って口を開いた。

「いったい何なんだ、そのお願いっていうのは?」

「四方さん、そうトゲトゲなさらないでほしいものですなあ。確かに先程のうちのニゴウの行動は無礼だったと思います。本当に申し訳ない。けれど、そのように喧嘩腰の態度ではまとまる話もまとまらないじゃあないですか」

「おい、あんた、こっちがおとなしく出てれば、ずいぶん立派な口をきくじゃないか。いくら柔らかいもっともらしい口調で言ったからって、あんたらのやってるのはただの不法侵入だ。こっちはそれを分った上で一応は話を聞いてやろうって言ってるんだ。さっさと用件を言ってくれ。そうして、用が済んだらとっとと帰るんだ」

「はっはっはっ、四方さん、あなたもなかなか手厳しい。ですが、四方さん、よく考えてくださいよ。あなただってバカじゃあない。自分の置かれた立場がどのようなものか、そこをよく考えてくだされば……」男はそこで言葉を切ると柔らかい笑みを浮かべて、まず二人の部下を交互に眺め、それから滅郎の顔をじっと見た。「あなたの立場がおっしゃるほどには優位なものではない、そのくらいのことはあなただって先刻お分りのことでしょう」

そして、男は目をぎらりと輝かせると、腹の底まで響いてくる低く力強い声で言った。

「そういうわけですから、わたしのことを、あんた、と呼ぶのはやめていただきたいものですなあ。わたしのことはどうぞ、団長、と」

団長のその声色を聞くと、鳩尾の辺りに重い感覚が拡がり、滅郎は軽い吐き気を覚えた。滅郎はその圧迫感を押し返そうとなんとか口を開いたが、低い呻き声で言うのが精一杯だった。

「団長だと……」

「そうですそうです、それでいいのです」団長は嬉々として言った。「それでこそ、われわれは対等の立場で、パートナーとなるべく、お話ができるというものです。おっと、そう言ってしまったからにはもうお願いを申し上げてしまったも同然ですが、いや何、われわれのお願い自体はごく単純なものでして。ただし、それをいざ実行するとなると、四方さんとしては、いささか大変なことになるかもしれませんがね」

団長は両の目をくるくると回しながら、さも楽しそうにそう言うと滅郎の顔を見た。面白いいたずらを考えてわくわくしている子どもの顔だ。滅郎は底知れぬ不気味さを感じな
がらそう思った。

「さあ、もうこれ以上余計にお話を引き延ばす必要もなくなりました。われわれの紳士的な態度を四方さんにも十分ご理解いただき、四方さんも紳士的な態度でわれわれの提案を聞いていただけるわけですからね。いえいえ、本当に単純なことなんですよ。つまり、四方さんには是
非われわれメラターデ教団の一員になってほしいと、たったそれだけのことなんですから」団長はようやく本題に入れたことが嬉しくて溜まらないというように満面の笑みを浮かべてそう言った。

相手の言葉の真意をつかみかね、しかし、さっきの団長の低い声色を思い出しながら、滅郎は言葉を選んで言った。

「きみらの一員になれ、だと?」

「そのとおりです」団長はにこやかに、いっそう満足気にそう言うだけで、それ以上のことを説明をするつもりはないようだった。

滅郎が男の言葉の意味に思いを巡らし、どう言葉をつなぐべきかと考えていると、団長が先に口を開いた。

「さて、四方さん」静かな部屋の中、団長の声が響いた。「今日のところはこれで用件は済みました。わたしどものお願い、どうかよく考えておいてください。よいお返事
をお待ちしておりますよ。では、今日のところはこれで」

団長のその言葉を合図に、呆然としている滅郎の前で、ニゴウとサンゴウは手際よく荷物を片付け始めた。団長が滅郎に近づいてくる。

「さあ」そういって団長は、玄関に立ちっぱなしの滅郎に靴を脱ぐようにうながした。

滅郎が催眠術にかかったかのような夢見心地のなか靴を脱ぐと、団長は滅郎を部屋の右手にあるキッチンに誘導した。

「では四方さん、しばしの別れを!」団長はそれだけ言うと、二人の男を従えてまさしく風のように去っていった。

キッチンに一人取り残された滅郎は、しばらくすると流しの下から泡盛の四合瓶を取り出してきて、湯呑みに注いだ。一口飲んでからベランダに出て、夜の住宅街を見下ろす。彼らの姿を探すかのように視線を彷徨わせたが、その痕跡はどこにも見当たらない。生ぬるい空気の
中、いつもの平穏無事な街が拡がっているだけだった。何も考えることができないままベランダの右端で立ちつくしていた滅郎の耳に、エアコンの室外機の音が聞こえてきた。ベランダの左隅に置いてある、自分の部屋のエアコンの室外機の音だった。部屋に入ったときは確かにエアコンはついていなかった。いつの間にか彼らが勝手につけていたのだ。

その些細なことが滅郎の怒りに火を点けかけたが、滅郎は右の拳で腰の辺りをどんと叩くと深呼吸して心を静めた。湯呑みの泡盛をぐいと飲み干すと、滅郎はキッチンに戻った。しばらくキッチンをゆっくりと行き来したが、緊張は治まらなかった。もう一杯泡盛を注いでキッチンの椅子に腰を落ち着け、少しずつ時間をかけて飲むと、ようやく眠れそうな気がしてきた。

服を脱いでベッドに潜り込み、しばらく頭を空白にしていると、酒の効きも手伝って、じきに深い闇のような眠りがやってきた。

翌朝目が覚めると、滅郎は強い喉の渇きを覚えた。キッチンに行き、冷蔵庫から野菜ジュースの一リットルパックを取り出す。流しに置きっぱなしにしていた湯呑みをすすぎ、ジュースを注いだ。それを一気に飲み干し、もう一杯注ぐ。キッチンの小さなテーブルに座ると、昨晩のことが頭に蘇った。

スポットライトに浮かぶ、奇妙な三人組。そして、イカレた歌と演奏。常識的な理解を拒む、彼らの行動と言葉。その全てが非現実的に感じられ、それが昨晩この部屋で現実に起こったのだということを、滅郎の頭は受け入れることができなかった。夢、だったのではないだろう
か。あんなことが実際に起こるわけがない。昨日、一昨日と強いストレスを感じる出来事が重なったことと、酒を飲み過ぎたことから奇妙な悪い夢を見た、そういうことではないのか……。

だが、一方で滅郎の体はそれが現実に起こったことであると主張していた。ニゴウと呼ばれていた男の酷薄さ、サンゴウと呼ばれた男の不思議な物柔らかさ、そして、団長の不遜だが礼儀正しく、その上奇妙な恐ろしさを感じさせる芝居じみた態度……、こうした全てがあまりにも
リアルに思い出される。そしてそのとき、団長の「わたしのことはどうぞ、団長、と」と言う低い声が頭の中に響き渡って、滅郎は吐き気を感じた。滅郎は流しに立つと、喉に人差し指を突っ込んだ。

「うっ」低い呻きを上げて滅郎は吐いた。

吐き終わって、口をゆすぎ、昨日の未消化の内容物を水で流してしまうと、少し気分がすっきりした。

テーブルに戻ってもう一杯ジュースを飲んだ。昨日のことが夢だったのか現実だったのか、それは今は置いておこう。とにかく今日は会社を休むわけにはいかない。重要な打ち合わせがある。二日酔いと昨日の記憶のため言うことを聞こうとしない体をなんとかなだめながら、滅郎
は会社に行く支度をした。

会社にいる間、滅郎は前の夜のことはほとんど思い出すことなく過ごした。朝一から取引先との打ち合わせがあり、午前中はそれで潰れた。午後は、相手の要求をこなすための工程を見積もり、チームの人間への仕事の割り振りを計画した。昼まで二日酔いが残り体力的にはき
つかったが、仕事に打ち込んでしまえば、ほかのことを考えている余裕はなかった。

勤務時間も終わりに近づいて、ようやく仕事に区切りがついた。頭と体の疲れをとろうと深い呼吸を意識的にしながら頭を空白にしていると、昨晩のことがもやもやと頭に浮かんできた。俺の才能を見込んで……、何かそんなことを言ってたな……。滅郎はそう考えかけたが、い
や、今はそのことを考えるのはやめよう、と思い直した。そして、長く息を吸っては吐きして気持ちを静めているところへ、電話が取り次がれてきた。

「四方さん、踊野 (おどりの) 様よりお電話です」

生子からの電話と聞いて滅郎はとにかく彼女の声が聞きたいと思った。だが、一昨日の諍いのことを考えると、彼女が一体何を言うのか、不安な気持ちも湧いてくる。一瞬電話に出たくないと思ったが、この状況で出ないわけにもいかない。期待と不安が交錯するなか受話器を取った。

「仕事中ごめんねえ。てゆうか、今どき滅郎がケータイも持ってないのが悪いんだと思うけどさあ」生子の屈託ない声を聞いて、滅郎は体中に安堵の気持ちが拡がるのを感じた。

「ああ、まあそれは俺の趣味だから勘弁してもらうとして、何か用?」自分の心の揺れを気取られないようにと思って言葉を発すると、自然とつっけんどんな言い方になった。

「何か用とは、言ってくれるじゃない。一昨日のことで、ちょっとは謝ろうかと思って電話してるっていうのにさあ」

「悪い、悪い。ちょっと仕事が立て込んでるもんでね。いや、おとといのことはこっちこそ悪かったよ、ひどい言い方しちまって」

「ああ、それはね、もういいのよ。とりあえず今日は飲み直しってことでどう? 時間ある?」

「そうか、仕事は切りがついたし、こっちは大丈夫。いつもの場所で八時半、それでいいかな?」

「おっけー」

「じゃあ」

電話を切った滅郎は、肩すかしを食らった気分だった。一昨日の彼女の剣幕から一体どんな電話なのかと身構えていたのに、ふたを開けてみれば、あまりにも上機嫌な今の彼女の様子に、ほっとはしたものの複雑な想いが湧いた。今までにも似たようなことは何度かあった。彼女は
過ぎ去ったことについては本当にさばさばしている。それと比べたときの、自分のこだわりがちな気持ちや、過剰な心配。滅郎は自分の弱点を感じると同時に、そうした自分とは対照的な生子と一緒にいられることの小さな幸せを思った。

生子と駅で落ち合うと、滅郎は挨拶以上の言葉は交わさず、黙ったままいつもの飲み屋へ向かった。席に案内され、滅郎が瓶ビールと腹に溜まるつまみを頼むと、二人は何も言わずしばらくお互いを見つめた。生子はおだやかな顔をしていたが、滅郎は自分の緊張を感じ、煙草
に火をつけ注文の品が来るまでの時間をやり過ごした。ビールが来ると滅郎はまず生子のグラスに注ぎ、それから自分のグラスに注いで言った。

「じゃあ、とりあえず、お疲れ様」

生子はグラスを取ってカチンと滅郎のグラスに合わせたが何も言わず、ビールを半分ほど飲むとグラスを置いた。滅郎はとにかく口を開いた。

「いや、おとといは本当にすまなかった」

それを聞くと生子は笑いながら言った。

「ホントーにすまないと思ってるの? 滅郎のホントーはちっとも当てにならないからなあ……。でも、そのことはもういいの。それがね……」

そう言って生子が話すには、昨日直子と会って、マルチ商法について滅郎がこう言っていたと話したところ、直子は、そうか、やっぱりちょっと無理なことやっちゃってたんだな、と答え、迷惑かけてごめん、と生子に謝ったのだという。

滅郎はそう聞いて一安心し、ろくに口をつけていなかったビールを一息で飲み干すと、再び瓶から注いだ。生子は直子の話を続けていたが、滅郎はやや上の空で、ぼんやりと昨晩のことを思い出していた。こうやって生子と一緒に飲んでいると、なおさら昨日のことが夢の一場面
だったような気がしてくる。あれはやはり夢だったのではないのか。会社での立場上の問題に、生子との諍い、そして週初めから酒を飲み過ぎたことも手伝って、普段ではありえない妙ちきりんな夢を見た――そういうことなのかもしれない……。

「滅郎、もう一本飲む?」生子が自分の空のグラスを手にして言っていた。気がつくと滅郎のグラスも空だった。

「そうだな、もう一本いこう」

ビールがきて、また滅郎が二人分のグラスに注ぐと、生子は言った。

「どうかしたの? なんか考え込んでるみたいで?」

滅郎は生子の顔をぼんやり眺めながら、どう話したものかと考えた。生子は不思議そうな顔をして滅郎の顔をじっと見ている。

「どう言ったらいいのか、ちょっと悩むとこなんだけどね……」滅郎はとりあえずそう言った。

「おとといのことが引っかかってるの?」生子はやや心配そうな顔になって言った。

「いや、そのことじゃない。生子とのことじゃあないんだ。その、ぼく自身の問題というか……」

「滅郎自身の……?」滅郎のはっきりしない物言いに、生子はますます不思議そうな顔をして言った。

「ええと、いや、ちょっと待って、ぼく自身というか、つまりそう言えばそうかもしれないんだけど、ひょっとしたらそうじゃなくて、ぼくに関心を持っている誰かの問題という気もするし、その、今はちょっと、説明が難しいっていうかね……」

「それってどういうこと?」眉間にしわを寄せながら生子は言った。「何言ってんだかよく分んないんだけど。女でも絡んでるわけ?」

「いや、それは違う、全然そういう話じゃないんだ。それは絶対保証する。その手の面倒な話だったら、ちゃんときみに相談するさ。そんなふうな話とは全く違うんだけど、ちょっと今は話しにくい感じなんだよ。その、もう少し話が落ち着いたら、きちんと話すからさ。今はちょっと勘弁してくれないかな」

「ふーん」生子はそう相づちを打つと、十分納得したふうではなかったが、それ以上そのことについて訊くことはしなかった。

滅郎の中には生子に全てを話してしまいたいという気持ちが確かにあった。しかし、あのような奇妙な体験をどう説明したらいいのか。生子がそれを現実のことと受け止めるにせよ、滅郎の精神的な問題と受け止めるにせよ、どちらにしても生子にはどうすることもできないだ
ろう。そんなことで余計な心配をかけては、と滅郎は思った。これはまだ自分の心の中にしまっておいて、時間が何かを変えてくれるのを待ったほうがいいのだ、そう滅郎は考えた。

「じゃあ、滅郎、無理しないでほどほどにね」駅まで送ると生子は手を振りながら言った。

生子は仕事のことを言ったのだろうが、滅郎にはその言葉が別の意味を持っているように思えた。ほどほどか。何をどうほどほどにしたらいいんだろう、そう思いながら滅郎は手を振り返した。

「ああ、じゃあ、また金曜に」

そうして生子と別れて家へと帰る道すがら、滅郎の頭には昨日の三人組の映像が渦巻き始めていた。

不可思議な衣装を身につけた彼らがスポットライトに浮かび上がり、めちゃくちゃな演奏をしながらおかしな歌を歌う。そして彼らとの奇妙なやりとり、団長の重く響く声色……。滅郎は体に変調を感じた。腹から力が抜け、腰に緊張が生まれる、そして鼓動が速くなる。体の
緊張を和らげようと深呼吸をしながら滅郎は考えた。

昨日のことが現実のことだとすれば、彼らは一体何もので、何の目的で自分に近づいてきたのか。俺の才能のことを言い、俺のことを調べていると匂わせていたが、果たしてどれだけの調査をしているというのか……。あるいは、あれが疲れすぎて見た幻、強い緊張のために見た
異様にはっきりした夢だったとすれば、そのとき俺はどうしたらいいのか。滅郎は医者の世話になりたいなどとはさらさら思わなかったが、場合によっては医者にでも行ったほうがいいのか……。

自宅のある鉄筋アパートが見えてきたところで滅郎は立ち止まり、四階の自分の部屋を見上げた。両隣の部屋は明かりが点いていたが、自室の窓は暗く、特に変わった様子はない。滅郎は再び歩き出し、エントランスを抜けて階段を四階まで昇る。いつもと違い、妙に階段が長
く感じられる。部屋の前に立って、鍵を差し込む。鍵が回らない。

滅郎の手は緊張で震えた。

一度抜いてもう一度しっかり差して回そうとするがやはり回らない。

はっと思って表札を見ると、五○三、山本、と見知らぬ名が記されていた。緊張の余り間違って五階まで上がってしまっていたのだ。自分の間抜けさにあきれて苦笑いしながら滅郎は四階に降りた。今度こそ自分の部屋の鍵を開ける。扉を開けて、今日は後ろ手に扉を開け放しに
したまま部屋の電気を点けた。部屋には人の気配は感じられなかった。

滅郎はそれだけでは安心することができず、部屋中の電気を点けて回り、トイレ、浴室、クローゼットに至るまで中を確かめた。そうやって部屋の中を全部確認し終わると、ようやく少し気持ちが落ち着いた。

流しの下から泡盛を取り出し湯呑みに注ぐと、キッチンのテーブルに座ってそれをちびちびと嘗めた。飲みながら昨日の晩のことを思い出し考えようとしたが、堂々巡りをするばかりの思考は滅郎をどこにも導いてくれなかった。頭の中に三人組の姿がくっきりと浮かび上がり、珍妙なギターの音と歌が溢れかえるばかりだった。ふと気がつくと体の感覚がおかしかった。自分の体が木偶人形になってしまったかのようだ。

自分がキッチンのテーブルに座っており、左手でテーブルの上のコップを軽く握っていることは問題なく認識できるし、思考自体は正常に働いている。ところが、目に写る光景は映画の書き割りでも見ているかのように非現実的な感じがするし、自分の体が自分のものと思えない。体から全ての力が抜けてしまったかのようで動くことができない。しかし、動きようがないというよりは、動こうという気持ちが起こらないのだ。まるで意志というものがどこかへ消え失せてしまったかのようだった。

もはや自分のものではない自分の体が、虚無で満たされていくのを滅郎は感じた。まったくの空虚なのに、得体の知れぬ何ものかに満たされているため、手と腕が不愉快なまでに厚ぼったい。体の中の空虚さが凝縮して次第に熱を増していき、このままでは爆発してしまうので
はないかと滅郎は思った。

しかし滅郎は無理に動こうとはせず、ただそのままそれが過ぎ去るのを待った。

怖くなかったわけではない。今までにも似たような状態を何度か体験したことがあったが、そのいずれのときも滅郎は恐怖を感じたし、まして今回のものは今までの中でももっとも深い体験だった。もうこの状態から出られないのではないかと思うと、滅郎の恐怖は今にも膨れ
あがり破裂しそうだった。だが滅郎には、このまま流れにまかせれば、やがてこれは終わり、また普通の自分が戻ってくるはずだという、根拠のない確信があった。やがてこれは終わるんだ。そう何度も繰り返し心の中で唱えて、滅郎は恐怖心をなんとかなだめた。

滅郎は待った。

やがてそれは去った。

それが三十分だったのか一時間だったのか、それともほんの二、三分のことだったのか、滅郎には分らなかったし、知りたいとも思わなかった。

滅郎は残っていた泡盛を飲み干すと立ち上がり、着替えもせずにそのままベッドに潜り込んだ。

[続き → https://note.mu/tosibuu/n/n3ec323b6ded0 ]

いつもサポートありがとうございます。みなさんの100円のサポートによって、こちらインドでは約2kgのバナナを買うことができます。これは絶滅危惧種としべえザウルス1匹を2-3日養うことができる量になります。缶コーヒーひと缶を飲んだつもりになって、ぜひともサポートをご検討ください♬