[奇妙な味の長めの短編] メビウス切断・第二回 (全三回)

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そして、一日が経ち、二日が過ぎ、やがて一週間、二週間。気がつくと何事も起こらないまま一ヶ月が過ぎていた。その頃には滅郎はあの奇妙な三人組のことはほとんど忘れかけていた。最初の一週間ほどは部屋に帰ると誰かが潜んでいるのではないかと気にかかり、部屋のあちこちを確かめるようなことが続いた。それとは対照的に、会社では仕事に没頭し、週末は生子とのデートに意を注いだ。そうやって日常的な生活を続けるうちに、滅郎はその出来事を意識の片隅に追いやり、大きな喜びはないにしても平穏無事な日々を送るという、慣れ親しんだ状況の中に自分を滑り込ませることに成功しつつあった。

その日、会社帰りの滅郎は、あまりの暑さに根を上げ、改札を出ると駅前のビルのビアガーデンに向かった。滅郎は冷房が苦手だった。列車はできる限り弱冷車に乗るが、それでもたいてい寒すぎて長袖のシャツをはおる。その寒い列車から降りるとほっとするくらいのことが多いのだが、その日は違った。東京では連日四十度という猛暑が続き、しかもその日は温度に加え、猛烈な湿度が襲いかかってきていた。八時を回っているというのに、暑さと湿気が街を支配している。温暖化という言葉が滅郎の頭に浮かんだ。

駅前の冴えないショッピングビルに入り、屋上まで階段を昇っていく。暑さでバテている身に七階分の階段はこたえたが、冷えたビールをうまく飲むためと思えば天国へ至る階段と考えることもできた。

壁が高く、座ってしまえばほとんど空以外何も見えない殺風景なビアガーデンの席で、空豆をつまみに滅郎はビールを飲んだ。平日のため、滅郎のほかには客もほとんどいない。がらんとした灰色のビアガーデンで、音の悪いスピーカーから流れる気の抜けたハワイアンを聞くともなしに聞きながら、滅郎はビールを飲み干した。

アルコールが入って気持ちが軽くなった滅郎は、夏の夜の生ぬるい空気の中、自宅への道をのんびりと歩いていた。ようやく少し気温も下がり、まだ空気はじっとりと絡みついてくるのだが、今の滅郎には、その重い空気が肌をなでるのも心地よいものに感じられた。仕事で抱えるプロジェクト上の問題も、酔ってリラックスした滅郎には、なんであんなにピリピリして考え込んでいたんだろう、どうせなるようになるんだからと、軽く受け流すことができるのだった。

足取りも軽く、ゆっくり歩いていくと、鉄筋アパートの入り口が近づいてくる。植え込みのサルスベリの白い花がひときわ鮮やかに滅郎の目に飛び込んできた。こぼれんばかりに咲き誇る満開のその花を見ると、滅郎は不思議と優しい気持ちになった。――そうだ、もうじき生子の誕生日だ、今年はどんな花束を贈ろうか……。

そんなことを考えながら階段で四階まで上がり、鍵を回して扉を開け、後ろ手に閉める。そして明かりを点けようと手を伸ばしかけたが、何かの気配を感じて、滅郎はその手を止めた。その場に立ったまま、しばらく様子を窺う。特に何も感じられなかった。改めてスイッチに手を伸ばす。

その瞬間である。

スポットライトの光が炸裂した。

あの三人組が、前回と寸分違わぬ舞台装置の中、奇妙なメキシコ風の衣装を身にまとい、光の中に立っている。そしてまた、イカレた演奏と歌が始まった。

「メラーーーーーー」

「たーーで」

「メラーー」

「たーーで」「ターーデ」

やはり意表を突かれた滅郎だったが、今回はその場で起きている珍妙な状況を眺めながら、考えを進める程度の余裕はあった。

滅郎は警察を呼ぶことを考えた。だが、この男たち相手ではどうも警察は役に立ちそうにない。かといって他に助けを求める知り合いの顔も浮かばなかった。――仕方ない、少しこいつらの出方を見ることにしよう。とりあえず玄関口に立っていれば、いつでも逃げることはできる……。

「ようこそ、四方さん」団長が底抜けの明るさで呼びかけた。「では本日はまず、メラターデ教団、十の教え、第二を。一つ、自分のことは自分で責任を持とう」

「自分のことは自分で責任を持とう」ニゴウとサンゴウが唱和した。

団長は顔に満面の笑みを湛えたまま滅郎をじっと見ていた。またこのナンセンスか……。滅郎はそう思いながら深い呼吸をして気持ちを落ち着けようとした。

「さて四方さん」団長は咳払いを一つすると重々しい口調で話し始めた。「われわれの用件はこの間お伝えしたとおりです。すなわちあなたにわれわれメラターデ教団の一員になっていただきたい。なにしろあなたはまったく
素晴らしい人間ですからな」

そのままじっと聞いていると頭がどうにかなりそうだったので、滅郎は悪いものを振り落とすかのように頭を小刻みに左右に振った。

「いやいや謙遜なさらないでください」団長は言葉を続けた。「四方さん、天才という呼び名はあなたのために作られたようなものじゃないですか。まさに生まれつきの天才、二十歳 (はたち) すぎてもただの人にならない、正真正銘の天才です」

そこで団長が間をおくと、ニゴウとサンゴウが口を揃えて言った。

「正真正銘の天才です」

二人の声は見事なまでに重なっていたが、ニゴウの声には明らかに人をバカにした響きがあり、一方サンゴウの声は柔らかく人の気持ちを包み込む優しさを持っていた。その二人の声の対比が滅郎の頭の中に冷たい沈黙を作り出した。

「さあ四方さん、ではわれわれの一員になっていただけますね?」団長は滅郎の様子など意に介せず、そう言った。

滅郎が口を開かず、どう答えようかと押し黙っていると、団長は、滅郎の姿を足の先から頭のてっぺんまで二、三度眺め回したあげく、更に芝居がかった口調で言った。

「沈黙をもって承認の証しとする」

その言葉が頭の中に響くと、滅郎の中で何かのスイッチが入った。

「ちょっと待ってくれ」

「ほう、何を待ちましょうか、四方さん?」団長は両の目を見開きくるりと時計回りに黒目を回した。

「お前らの一員になるとかならないとか、そんなことをお前に指図される覚えはこれっぽっちもないんだがな」

「四方さん、わたしのことは、団長と呼んでいただくようお願いしたはずですがお忘れのようですね。しかし、それはまあ良しとしましょう。そこでです、むろん四方さんには、仰るとおり覚えのないことに違いありませんが、それも運命と受け止めていただきたいのです」

「運命だと?」

「そうです、運命、すなわち、宇宙の定めです。われわれ人間を含め、この宇宙の全存在は、この世界をつらぬく時の流れの中、どのような道を歩いていくかということについて、定められた運命があるのです。四方さん、いわばあなたは神によって選ばれたのです。その事実を曲げることは誰にもできません」

「分った」滅郎は舌打ちして言った。「お宅のような人間とエセ宗教論議をしても始まらん。単刀直入に聞こう。お宅らの狙いは一体何なんだ?」

「狙いなどと、人聞きの悪いことを」団長は柔らかく微笑みながら言った。そしてまた一つ咳払いをし、体を少し揺すって居住まいを正してから言葉を続けた。「よろしいでしょう。四方さんを一員として受け入れた以上、も
う一歩話を進めましょう」

滅郎は、一員として受け入れた、という団長の言葉にくらくらするものを感じたが、深く息をしてなんとか冷静さを保ち、口ははさまずに団長の言葉の続きを待った。

「さて、まず一つめのお願いですが……」もったいぶった間をとりながら団長は言った。「四方さんが協力してくださる気になってくださった以上、こちらの件に関しては何ら難しいことはございません」

協力するなんてこれっぽっちも言ってないぞ、と滅郎は思ったが、今度も何も言わず黙って聞いた。

「つまりですね、四方さんがお仕事で担当していらっしゃるプロジェクトの情報、これを折に触れてわれわれに報告していただく、ただそれだけのことなんです。どうです、まったく簡単なことでしょう?」

「おい、ちょっと待て。どうして俺がそんなことをするんだ。俺が仕事の情報を横流しするような人間だとでも思ってるのか?」滅郎はイライラしながら言った。

「もちろん通常の仕事なら四方さんはそんなことはなさらないでしょう」団長は落ち着き払って言った。「しかしです、われわれが今問題にしているプロジェクトは他でもない、例の、軍事関連のものです」

そこで長い間を取ると、団長はじっくり滅郎の表情を窺った。
滅郎は考えた。ふん、なるほど、こいつはあのプロジェクトのことを知っている、社内でもあれが軍事関連のものであることは数人しか知らないはずなのにな。うちの会社の情報管理なんてお粗末なものだから、どこから漏れてもおかしくはない。それにしても、とにかく、それなりの調査とやらはしているわけだ……。

「そして、四方さん」団長は滅郎の目を見ながら話を続けた。「あなたは戦争だとか人殺しだとか、そういう類のものを決して快く思っていない。そうですね?」

滅郎は目を細めながら団長の言葉を聞いた。

「そこで、四方さんにはそのプロジェクトの情報をわれわれに流していただく。四方さんが決して疑われることのないよう細心の注意を払った上での受け渡しです。その情報を使って後々われわれが軍の目論見をサボタージュするわけですが、四方さんにご迷惑がかかることは無論ありません。どうです、悪い話じゃないでしょう?」

そう言われて滅郎の頭の中には、不可解とも思える想像が拡がった。

確かにこのプロジェクトは会社の方針に合わせて仕方なく引き受けただけのものだ。技術的には面白みもあるから、とにかくやってはいるものの、根っこのところにはやりたくない気持ちがどうしても残っている。今までの仕事とは違い、どこかで何かが引っかかったまま、うんざりした気分を抱えたままで、俺はずるずると仕事を続けてるんだ。こいつらのことがどの程度信用できるかといえば、これはまったくの未知数だが、うまくやれば、この状況を逆手に取ることができるかもしれん。そして、俺の人生の奥底で結ぼれて、息苦しさを感じるまでに糸口を求めている黒い塊に、ゆさぶりをかけることができるならば、そんなことが、もしも可能ならば……。

「どうです、四方さん、なかなかいい話だと思いませんか」

団長は滅郎の心の動きを計ったかのように畳みかけてきた。だが滅郎はそこで頭を振った。

「いや待て。そんなことをして俺になんのメリットがあるっていうんだ?」

「メリットとおっしゃいますか」団長は余裕の笑みを浮かべて言った。「それはいろいろと御座いますよ。四方さんを一員として迎え入れる以上、われわれといたしましても、十二分の用意をさせていただきます。差し当たって必要な金額があればお聞かせ願えませんか?」

それを聞いて滅郎は考えた。この進み方はうまくない。相手のペースにはまってる。俺はやるなんて決めたわけじゃないんだ。こんな流れは断ち切らなくては……。

「金の話はやめてくれ。俺ははした金でつられるような人間じゃあない」

「ほう、そうですかな」そう言って団長は、右に立つニゴウに顎で合図をした。ニゴウは、すっと後ろ向きにしゃがむと、スーツケースを取り出して前に置き、かちゃりと音を立てて開けた。そして中身が見えやすいように滅
郎のほうに床の上を滑らせた。

スーツケースには一万円札の札束がぎっしりと詰まっていた。

ぎっしりと? 滅郎は思い直した。ぱっと見には万札がぎっしりに見える。しかし、こいつらの胡散臭さを考えてみろ。額面通りに信じられるもんか。

「四方さん」団長がにやにやと笑いながら言った。「この札束が本物かどうか、疑ってますね?」

「もちろんだ。疑って何が悪い」

「いえいえ、もちろん何も悪いことなど御座いません。た
だ、これが本物かどうかは、四方さんがお手元において、実際に使っていただけばすぐに分ることです」

「そんなことはとてもできないね。仮にあんたに協力する気になって、その金を使ったとする。その途端、強盗事件か偽札製造の犯人として捕まりかねないじゃないか」

「はっはっは、さすが四方さん」団長は満足そうに笑った。「札束を見せられても動じなければ、それが曰くつきのものだったときのことも、とっさに考えていらっしゃる。それでこそ、われわれもあなたを見込んだ甲斐があるというものですよ」

心底楽しそうに笑っている団長を見ていると、滅郎の気力は萎え、頭は空っぽになっていった。何も考えられないでいる滅郎の視界の中で、淡々とスーツケースをしまいながらニゴウがぼそりと言った。

「ニセコと札幌と言われちゃしょうがない」

「なんだ、ニゴウ」団長が不愉快そうに言った。

「ニセコと札幌、つまり、ニセ札ってことでさあ」

「ニセコと、札幌で、ニセ札!」団長が大きな声を張り上げた。「ニセコと札幌でニセ札か! ! うわっはっはっ。ニゴウ、お前、北海道出身だったな。いや、うまいじゃないか。うひゃひゃひゃひゃひゃ」

団長はしばらくの間、腹を抱えて笑い続けたが、それを見ている滅郎には何の感情も湧いてこなかった。

「あー、これは、ほんとにおかしい……。」団長は涙を拭いながらバカ笑いの余韻を楽しんでいたが、それが治まると真顔に戻り、滅郎をしばらく眺めてから言葉を発した。「さて、四方さん、この辺りでわれわれメラターデ教
団のことを少しご説明しておきましょう」

ぼんやりと聞いていた滅郎の視線は、なぜか彼らがかぶっているつば広の帽子に引き寄せられていた。この帽子もポンチョと同じく黒地で、全体的には地味な印象ながら、刺繍や飾りは手が込んでおり、華やかさが感じられた。遠くから眺めているのに、その銀色の細やかな飾りが滅郎の目にくっきりと入ってきた。

団長は滅郎の様子を確かめながら先を続けた。

「われわれの教団の名、このメラターデという言葉の由来ですが、四方さんはマタハリはご存知ですか?」

滅郎が黙ったまま団長を見ていると、団長はえへんと咳払いをして、また口を開いた。

「マタハリというのはですね、マレー、インドネシアの、いわば英雄とも言えるような女性でしてね。本名をマルガレータ・ヘールロイダ・ツェレと申しますが、ジャワの血を引きながらオランダで生まれた彼女は、パリで踊り
子として活躍しておったのです。そこへ第一次大戦が勃発しました。高級娼婦でもあった彼女はフランスとドイツの間で二重スパイとして活動することになったのです」

そこで言葉を切ると、団長はまた滅郎の様子をじっと窺った。滅郎はじっと立ったまま動かなかい。団長は言葉を続けた。

「悲劇的なことに彼女は、ドイツのスパイをしていた容疑でフランス軍に処刑されることになります。彼女は三流の諜報要員にすぎなかったとする見方もありますが、われわれはそのようには考えません。当時オランダに植民地として支配されていたジャワの血を引く彼女は、国際的な謀略に飲み込まれ、命を落とすという悲運に見まわれました。けれども彼女は、まだ見ぬ父祖の地ジャワに対する熱い郷愁の念を抱き、その地を見るという願いが叶わぬ中、なんとか自分の生きる場所を見いだそうとして、危険を顧みず、死
を恐れることもなく、スパイとしての活動に身を投じたに違いないのです。彼女のその情熱と勇気がわれわれの心を打つのです」

そこで団長が間をおくと、再びニゴウとサンゴウが口を揃えて言った。

「われわれの心を打つのです」

滅郎は自分の意識がふわふわと漂い出すような奇妙な感覚を覚えた。

「さて、そのマレー、インドネシアの言葉で、赤を表すのがメラという言葉です。われわれの改革への情熱を表す象徴の色、赤、メラメラと燃え立つ炎の赤です。そして、わたしが子どもの頃から大好きだった赤い蓼(たで)の花、この花は可憐な小さな花ですが、われわれの小粒でもピリリと辛い行動の姿勢を表します。賢明な四方さんにはこれで十分お分りいただけたことでしょう」

そこで言葉を切ると、団長は両腕を頭上に高く上げ、叫んだ。

「赤き情熱、我らがメラターデ教団、バンザーイ」

「ばんざーい」ニゴウとサンゴウも両手を上に上げて叫ぶ。

「バンザーイ」「ばんざーい」

「バンザーイ」「ばんざーい」

三人の万歳三唱を聞いて滅郎は、できの悪いサスペンス仕立ての芝居を見ているような錯覚に陥っていった。

部屋の雰囲気が落ち着くのを見計らうかのように、しばらく間をおいてから団長は言った。

「サンゴウ、四方さんにお土産をお渡ししなさい」

団長の左に立っていたサンゴウは、前回と同じく優雅な動作で大きなボストンバッグから立派な花束を取り出すと、滅郎に歩み寄り恭しく差し出した。

「さあ、お取りください」と言ってサンゴウは、呆然としている滅郎に更に高く花束を差し出す。滅郎は夢を見ているような朧な意識の中それを受け取った。

サンゴウが元の位置に戻ると団長が言った。

「四方さん、本日もわれわれの行動にお付き合いいただき誠にありがとうございます。では、今日のところはこれまで!」

威勢の良い団長の言葉が部屋に響くと、ニゴウとサンゴウはまた手早く荷物を片付けていった。

気がつくとまた滅郎は一人自分の部屋に取り残されていた。

手渡された花束に見るとはなしに目をやると、それはいわゆる豪華な花束ではなかった。雑草を少し立派にしたくらいの小さな赤い花が、たくさん集まって穂になっている、その一種類の花だけを使って大きな花束が作られていた。

滅郎の頭に、子どもの頃、近所の女の子に付き合わされておままごと遊びをしたときに使ったアカマンマの花のイメージが浮かび漂った。

(続く)

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