「なにかと困る 磯貝プリント株式会社」第9話
5 今日も元気に鳴いています
チューイッ!
五十八分になるとネズミが鳴く。僕らはもう探そうとはしない。というか、ステープラ片手に鳴き真似をしながら呼びかけていたことなんて忘れてしまいたい。緩急つけてキュー、チューイッと鳴らしたら磯貝社長が褒めてくれて、実はちょっと得意になったなんて忘れてしまいたい。けどまあ、駆除業者に連絡する前だったのはよかったと言えるだろう。
ネズミを駆除する業者を探すように指示された大塚さんだが、翌日の昼になっても駆除の日程が知らされることはなかった。僕は行きがかり上その場に居合わせただけだから、わざわざ報告されることもないのだろうとも思った。忙しくてまだ業者を調べられていないのかもしれないとも思った。だけど、大塚さんはただうろちょろしているだけで、仕事が忙しいようには見えない。
その日、印刷機のサービスマンが修理に来るというので、僕は状況を把握するために作業場にいた。印刷機の状態次第で、受けてくる案件の納期を調整しなければならないからだ。すぐに直らないようなら納期は長めに設定しなければならない。それで逃す仕事もあるかもしれないと思うと少し落ち込む。
印刷機の開かれた内部をサービスマンが覗き込んでいて、その肩越しに小田島さんが一緒になって覗き込んでいる。僕は更にその小田島さんの肩越しに覗き込む。
「お疲れ様です。直りそうですか?」
「ああ、お疲れ様です。原因はカートリッジみたいですよ」
「カートリッジ?」
どこの部分だろうと考えていると、サービスマンがかがみこんだまま首だけをこちらに向けた。
「ステープラのカートリッジですね。手持ちのとか卓上のとかもコの字型の針で留めていきますよね。この印刷機のは、足の長い針が入ったカートリッジがセットされているんです。紙の厚さに合わせて裏側で足の部分が折り曲げられるようになっています。冊子の上下を挟み込むように圧迫されることで針の足の部分が折り曲げられるんです。セットするところが歪んでるみたいでどうもきつく締まっているんでしょうね。それでひっぱられるときにギギギって音が鳴るみたいです」
「なるほどねぇ」
僕の肩越しに相槌が打たれた。
いったい誰?と思い、振り向くと、大塚さんが覗き込んでいた。
「うわっ。いつの間に忍び寄ってきたんですか!」
「忍んでなんかいないわよ。普通に歩いてきただけよ。機械の音で聞こえなかったんでしょ」
確かに作業場には印刷機が何台もあって、故障していなくてもずっとなにかしらの音が鳴っている。耳をふさぎたくなるほどではないものの、到底静かとはいいがたい環境だった。
大塚さんは興味半分で立ち寄っただけのようで、既に目の前から消えていた。
「小田島さん、作業状況はどうですかね? 僕、これから一件お客さんから呼び出されているんですけど、通常通りの納期計算じゃ無理がありますかね?」
「そうだなあ。プラス一日みてもらったほうがいいかな。まあ、急ぎだったら通常通りでもいいよ。あそこでやってるやつはまだ納期に余裕あるから、割り込んじゃえばいいし」
「了解です。じゃあとりあえずいってきます」
「はいよー」
僕が作業場を後にするころになっても、大塚さんはまだ残っていて、200枚とじ対応の大きなステープラやら天のり機のレバーやら電動裁断機のハンドルやらを動かしては耳をそばだてていた。
なんのためにそんなことをしているのか少し気にはなったけれど、客先に行ったり、現場との調整をしているうちに、大塚さんの行動などすっかり頭から抜け落ちた。
就業時間は十七時半だけど、納品の後に渋滞にはまって、僕が会社に戻ったのは十八時近かった。基本的に残業のない磯貝プリントの明かりはほとんど消えている。
「珍しいな」
車を降り、思わずつぶやいた。
入口から見える廊下と、三階の社長室だけ明かりがついていた。社長が最後に上がることは珍しくないけれど、その窓から大塚さんが身を乗り出していたのだ。
「来た来た。石井くん、早く早く」
「どうしたんですか? 今日は遅いですね」
「いいから早く上ってきて。あと八分しかないわよ」
まさかそれって、と思いつつ、急かされるままに階段を駆け上った。
社長室のドアは開け放たれていたので、ノックもなしに声をかけた。
「お疲れ様です」
「おお。石井ちゃん。おつかれさん」
やはりというべきか、社長は例の年季が入ったフリップ時計の前で腕組みをしていた。時刻は『17:55』。
「一応聞きますけど、またネズミですか?」
「おう。そうなんだよ」
「業者に任せるんじゃなかったんでしたっけ?」
「それがよー、つかっちゃんのお手柄で」
「えっ! 捕まえたんですか?」
時計がパタリとめくれて『17:56』になった。
大塚さんは、不敵な笑み……のつもりらしい、人を馬鹿にしたような笑みを浮かべ、僕に向かってステープラを差し出した。昨日、みんなで鳴らしたあれだ。
「はい、これ。石井くん、ネズミの鳴き真似の音を出すの上手かったわよね」
「え? ああ、はい」
「やって。もうすぐ時間だから」
「あれ? 捕まえたんじゃなかったんですか?」
「おびき出してくれたら捕まえるわよ」
話しながらキュー、キュー、チューイッと鳴らすと、大塚さんは「上手い上手い」と手を叩いた。社長は困ったように笑った。
「つかっちゃん、虎退治じゃないんだからよー」
「虎ですか? ネズミじゃなくて?」
さっぱり話が見えない。
「石井くん、時間、時間」
大塚さんにバシバシ背中を叩かれて、慌てて鳴き真似を始める。毎時五十八分に現れるというネズミに語り掛けるように。
キュー、チューイッ。出てこい。出てこい。
時計がパタリとめくれて『17:58』になる瞬間。
チューイッ!
「鳴いた! 鳴きましたよ! ほんと、時間に正確ですね! なんなんですかね、このネズミ! やっぱ、駆除じゃなくて捕獲の方がいいんじゃないですかね?」
僕は興奮して、ステープラをキューキュー鳴らしまくる。時間がわかるくらいなら、そのうち会話もできるんじゃないかと思ったりもする。
大塚さんはまたしても不敵な笑み……ではなく、爆笑した。天井を見上げ、大口を開けて、おなかを抱えて。
社長もくしゃみをこらえるような情けない表情をしていたが、大塚さんの笑い声につられたのか吹き出した。
「つかっちゃん、やりすぎだって」
「え? え? どうしました?」
戸惑う僕を見て、社長がフリップ時計を手に取った。
「これだよ」
社長は、時計の背面のつまみを回し、時間を戻した。
『17:57』
見つめること、一分。パタリと動く瞬間――
チューイッ!
鳴いた。いや、鳴った。
「ああー! そうかあ!」
僕は握りしめていたステープラを投げ捨て、頭を抱えてしゃがみこんだ。
ネズミが時計を読んで鳴いていたんじゃない。時計が鳴いていたんだ。
「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ。二人とも知ってたんですか? 知ってて僕に鳴き真似させたんですか? ひどくないですか?」
「俺はやめとけって言ったんだけどよ」
「ええ~。も~。大塚さ~ん。ひどいですよ~」
「だってさ、自分で気づいた方が気持ちいいかと思って」
「普通に教えてくれた方がよかったですって」
虎退治と言ったのは、きっとあれだ、とんち話の屏風の虎退治のことだったんだ。目の前に出してくれたら捕まえるってやつ。
「ちょっと、いつ気づいたんですか?」
「これな、つかっちゃんのお手柄だよ」
そういえば、さっきもそう言ってたなと思い出す。
業者を探すためにネットで検索をしていたところ、ネズミはエサがないとすぐに餓死すると知ったという。それこそ数日で死ぬらしい。飲食店ならともかく、ここは印刷会社だ。持ってきた昼食を食べられたという被害もない。しかも、たまに差し入れのお菓子が置いてある給湯室ならまだしも、社長室になんて住み着くメリットがない。それで、あの声は本当にネズミなのだろうかと疑念を抱いたそうだ。
そんなとき、印刷機の不具合が発生した。作業場に足を踏み入れなくても廊下を通りかかっただけでも聞こえるような音だった。そこからの発想でネズミの声に似た音の出るものを探してステープラに行き着いたわけだが、その発想の分岐が間違えていたのだ。そのことに思い至った大塚さんは、あらゆるものを動かしては音を確かめていった。なにかネズミの声に似た音が出るものはないかと探して。
そして、ついに気づく。音は時計そのものが出していたのだ、と。
気づいてしまえば当たり前すぎることである。時間通りに鳴くネズミなんているわけがない。どう考えたって時間の方に、つまりは時計に問題があるに決まっている。
思えば、ダイフク脱走事件に思考が引っ張られていたのかもしれない。レタートレーからはみ出た部分の書類がギザギザになっていたのだって、気づいた時期が鳴き声の聞こえ始めた後だっただけで、おそらく、というか絶対に齧った犯人はダイフクだ。
なにはともあれ、一件落着である。
印刷機も無事に直り、通常通りに納品できている。
そして社長室では今日も58分になるとネズミみたいな鳴き声が響く。
チューイッ!
(第二章 またネズミが鳴きました/完)
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