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短編「春の遠足」

この小説は5,986文字です。

 街灯がつき始めるころ、陸上部の練習から帰ってくるとアパートの前の砂利敷きの駐車場で弟がひとりでしゃがんでいた。
「明」
 近づきながら声をかける。明はしゃがんだままわずかに飛び上がった。振り向いた顔はなんの感情も映し出していない。
「明。ただいま」
 声の大きさを変えないように気を付けながらもう一度声をかけると、ようやく明の魂が戻ってきて私と目が合う。ぱあっと雲間から日が差すように明から温かい光が発せられる。
「お姉ちゃん!」
 駆け寄ってくる明の頭のてっぺんに桜の花びらが一枚ちょこんと乗っかっている。取ってあげようと手を伸ばしたが、ちょっとかわいらしいのでそのまま置いておくことにして手を引っ込めた。
 けれどもすぐに強い風がびゅうと吹いて、せっかく置いたままにしておいた桜の花びらが奪われていく。
「くしゅん」
 明が甲高い声でくしゃみをする。見ればペラペラのTシャツに寸足らずのズボンという服装だった。春とはいっても日が落ちればまだまだ寒い。私は肩にかけたバッグの中からジャージの上着を取り出して、明に着せてあげる。ちょっと汗臭いけど寒いよりいいだろう。
「お姉ちゃんのにおいがする」
 明はえりの中に鼻を突っ込んでクンクン音をたててにおいをかいでいる。せっかく貸してやったのにもんくを言うなら取り上げてやろうか。
「いいにおい」
 ……着ててよし。
「くしゅん」
 またしてもくしゃみをする明の前にかがみこんで、ジャージのファスナーを上げてあげながら、アパートの二階の角部屋に目をやる。そこには木目柄の合板を貼ったドアが見えるだけだ。見える景色は変わらない。けれども音がしている。
「お父さん、いるの?」
「うん、さっき帰ってきた」
「そう」
 明と手をつなぎ、並んでドアを見上げる。ガシャンともパリンともつかない何かが割れる音がして、お母さんの悲鳴が聞こえた。明がビクンとして握る手に力がこもる。
 明の手は小さい。手だけじゃなくて体全体が小さい。よく覚えていないけれど、私が小学校五年生の頃はもっとみんな背が高かったような気がする。
 私達は砂利敷きの駐車場でドアを見上げることしかできない。
 ドラマに出てくるシーンのように「お父さんもお母さんもやめて!」と二人の間に割って入るなんてことはできっこない。ああいうドラマを作っている人たちはきっと本当の争いを知らないのだと思う。止めに入れるくらいの争いなら、放っておいたってどうせおさまるのに。
 中学では友達が、泣いて両親の喧嘩を止めた話をする。そしてまわりから同情とねぎらいの言葉を受ける。私はそれをとてもうらやましく思う。みんなに慰められたいのではない。うちも子供が止めに入れる喧嘩ならどんなにいいだろうと強く思うのだ。
 私は止められない。止める力がないとかそういうことじゃなくて、もう動けなくなる。体の中心がキンキンに冷えて、喉まで凍りつき、声なんて出ない。足も誰かに足首をつかまれているかのように重く、一歩も動けない。
 止めに入れないのならばせめてこの場から逃げ出したいのに、後ろに下がることもできない。
 ただここに立ちつくすしかない。この時間が過ぎ去るのをただ待つことしかできない。
 ――無力だ。
 中学二年にして私はようやく自覚する。私は無力だ。
 両親の喧嘩を止められるという友達はこの凍りついた体を強い力と心で動かしているのだろうか。いや、そうではないのだろう。思わず「やめて」と取りすがることのできる家族なのだろう。いつもは気軽に声をかけられるからこそ、とっさの時にもそうやって声をかけられるのだ。
 私は――私と明には、そんなことはできない。親に対して気軽に接することなどできない。
 私達にとって安心できる場所は家ではなく、学校や公園なのだ。
 獣の雄叫びのような父の声。ジャングルに住む鳥の鳴き声のような母の声。物と物が激しくぶつかり合う音。もしかするとそれは心と心がぶつかり合う音なのかもしれない。
 私達は街灯の明かりすら届かない駐車場の片隅で手を握り合ったまま立ちつくす。なにも話さない。話すことなどなにもない。一度口を開いてしまったら、こらえていたなにかがあふれ出てしまうような気がした。
 やがて、聞こえるのがお母さんのすすり泣きだけになったころ、乱暴に玄関のドアが開いた。現れたお父さんと目が合う。お父さんは暗い外に立つ私たちに驚きもしなければ、気まずそうな顔もしない。物を見る目だ。
 私は知っている。明が生まれた時、お父さんはこう言った。
「おれの子じゃない」
 その時四歳だった私にその意味はわからなかったけれど、ひどいことを言ったのだということだけは感じた。その言葉の意味が少しはわかるようになった今では、私が生まれた時にも同じことを言ったのだろうと思っている。
 もちろん私も明もお父さんの子だ。残念なことではあるけれども。
 そんなこと、本当はお父さんが一番よく知っているはずなのに。宅配便や郵便物の受け取りでさえ、相手が男の人ならば、それだけでお母さんを責める。「男と口をきくな」という。そんな毎日の中でお父さん以外の子供が生まれるはずもない。
 お父さんが私達の横を通り過ぎて、大通りへ続く道へ消えていくのを見届けると、私達はようやくアパートの階段を上った。

    *

「さあ、今日は遠足よ」
 翌朝、やけに明るくさわやかなお母さんの声にたたき起こされる。
 昨夜はお父さんが帰ってこなかったのだとすぐにわかる。あの男がいる空間でお母さんがこんなに明るく振舞えるはずがない。
 寝起きの頭で「え・ん・そ・く」の言葉の意味するところを考えてみるが、どうしても「遠足」しか思いつかない。
 私の隣で明が起き上がりながら「なに、今日、遠足なの?」と聞いた。
「そうよ、遠足よ」
「誰が?」
 私も一応聞いてみる。明も私も学校の遠足はまだ先のはずだが。
「私たちが」
 お母さんは当たり前でしょう、と言わんばかりの口調で答える。
 え? ちょっと待って。私、まだ寝ぼけているのかな。
「私たちって?」
「お姉ちゃんと明とお母さんよ」
 うーんと、えーと。お母さんは昨日頭でも打ったのだろうか。
「家族で出かけるのは遠足とは言わないでしょ。それに今日は平日だよ。学校どうするの?」
「誰と遠足に行ったっていいじゃない。学校は休めばいいわ。こんなにいい天気なんだもの」
 そう言ってお母さんは窓を大きく開いた。冷たい風なのにやわらかな春の香りを運んでくる。
「寒いって」
 私はあわてて窓を閉める。
「それにほら、お弁当も作っちゃったし」
 テーブルの上を埋め尽くすほどの料理が並んでいる。
「うわぁ! すごい!」
 明がテーブルに飛びついて眺めている。
 そりゃすごいけど、どうするのよ、こんな量。おにぎりがあるのにお稲荷さんがあって、さらにはサンドイッチまであるし。おかずも唐揚げや卵焼きのほか、里芋の煮っ転がしやらエビチリやら和洋折衷どころではない。どうにも食べ合わせが悪そうだ。
「あ、エビチリは冷凍食品だけどね」
 問題はそこではないよ、お母さん。
「じゃあ、ぼく急いで用意するね」
 明が洗面所へ向かうのを私もしぶしぶついていく。
 顔を洗い終わった明にタオルを渡してあげると、思いつめたような表情をしていた。
 ああ、そうか。明もわかっていたんだ。わざとお母さんの明るさに合わせてあげていたんだ。
 私たちは家の中ではずっと緊張している。思った事は口に出さず、求められているであろう答えを見つける。それがこの家で生きていくための手段だ。
 私はずっとそうやって過ごしてきたし、今ではもうそれが当たり前になっていたけれど、小学五年生の明まで「子供」を演じていたとは思わなかった。
「家族」を作り上げるための演技。意識して自分の役割を演じていないと、この「家族」は一瞬で壊れる。いや、壊れるまでもない。初めから本物なんて存在していないレプリカ家族なのだから。
 お母さんも私と明の前では明るい「お母さん」を演じている。だから私たちもそれに合わせる。ここは舞台なのだから。

    *

 遠足の行先は、市民の森。バスだけで行ける小さな山だ。
 知らなければそうとはわからないようなハイキングコースの細い入口を一列に並んで入っていく。
 黒っぽい土は踏み固められ、艶やかでさえある。姿を見せない鳥たちが様々な声でさえずる。そよ風すら通れないほどにうっそうと繁った森。日の当たらない木々の根元にはシダが生い茂り、ひんやりしっとりとした土の匂いを漂わせている。墨のようにかすかにツンと鼻をつく匂いは、どこか静謐な心持ちにさせてくれる。
 早くも出口に向かってこちらに歩いてくる人たちがいる。
 私のおじいちゃん、おばあちゃんたちくらいの歳の夫婦だ。おじいちゃんを前にして縦一列に並んで歩いている。お互いの顔も見えないのに笑顔を絶やさずに声を掛け合っている。
 彼らが近づいてくると、お母さんは「はしっこによけてね」と私と明に身振りで示し、自分も道の脇に避けた。
「あ、いや、すみませんね」
 おじいさんが帽子のつばに手をかけ、軽く頭を下げる。
「こんにちは」
 おばあさんも笑顔で挨拶をする。
「こんにちは」
 私たちも声を揃えて挨拶を返す。
 山では見知らぬ人とも「こんにちは」と挨拶をするのだと教えてくれたのはお母さんだった。
 お母さんは結婚する前は男女混合の大勢の友達とよくハイキングをしていたそうだ。その人たちは結婚してもハイキングに参加していたらしいが、お母さんは結婚後一度もそのハイキングに行っていない。
 すれ違った老夫婦の笑い声が遠く響いている。
 今私たちが歩いてきた道にそんな楽しいものなどあっただろうか。それともあの夫婦には見えて、私たちには見えない何かがあるのだろうか。

 やがて開けた場所に出た。山の一部を切り崩して作られた桜峰休憩所だ。
 その名の通り、広場のまわりは満開の桜で囲われている。この空間だけ光が薄っすら赤みを帯びているように見える。けれどもそれはきっと気のせいだ。山桜はソメイヨシノとは違い、ほとんど白に近い色をしている。
 空を遮る木々がないため、ようやく風を頬に感じることができる。そよと吹く風にも桜ははらはらと花びらを散らす。よく見れば既に小さな葉がいくつもついている。まだ風はひんやりとしているけれど、それでももうすぐ桜の季節も終わるのだろう。
「お弁当食べようか」
 お母さんが木のテーブルにこれでもかという量の食べ物を並べる。
 明は早くも木のベンチに腰かけて足をブラブラさせながらお母さんの手元を眺めている。
 散り始めたとはいえ、まだまだ満開といえる桜の時期にこの休憩所を独占できるのは運がいいのだろう。さっきまではあの老夫婦がくつろいでいただろうし、もう少し経ったら別の人たちも来るに違いない。けれども今だけはお母さんと明と三人だけの空間だ。
 あんなにたくさんあったお弁当も意外と食べれてしまうことに驚いていると、お母さんは「外で食べるとなんでもおいしいのよねぇ」と娘の私でも見とれてしまうほど綺麗な笑顔を見せた。
 穏やかだった休憩所に突然強い風がびゅうと吹いた。空になった容器が風に飛ばされ、私はお母さんと一緒になって笑いながら拾い集める。
「ちょっと、明は?」
 お母さんの低い声が暖かくなった空気を切り裂いた。
 桜峰休憩所は遮るものはなにもない。にもかかわらず、そこに明の姿はなかった。
「お姉ちゃん、明を探してきて。お母さんはここをかたずけるから」
「うん。お母さんはここで待ってて。明が戻ってくるかもしれないし」
「わかったわ。お願いね。気を付けて」
 身体の中心がきゅうきゅうと冷えて痛い。
 桜吹雪がまさに雪のように思えた。手足が冷え、思うように走れない。

「明、明!」
 桜峰休憩所を出て、来た道を戻って行く。分かれ道はなかったはずだ。
 道を外れたうっそうとシダが生い茂る辺りでガサガサとなにかが動いた。まさか坂を転げ落ちたのだろうか。
「明!?」
 森は再び静けさを取り戻す。
 きっと動物かなにかだ。そう言い聞かせ、再び道を辿り始める。
「あきらー!」
「お姉ちゃん!」
 すぐそばの太い杉の木の影から華奢な少年が飛び出してきた。
「勝手にどっか行っちゃだめでしょ」
「リスがいたの!」
「こんな所まで追いかけてきたの?」
「ううん。リスはすぐにいなくなっちゃったんだけど、どっちから来たかわからなくて……」
 確かに尾根に近い辺りは坂になっていないから、どちらが上りかわかりにくいのだろう。
「……お姉ちゃん」
 明は涙と鼻水でぐちょぐちょになった顔で私に抱きついた。
「げっ。ちょっと、あんた、涙はまだしも鼻水はつけないでよね!」
 私が慌てて離れると、明は手の甲で鼻の下をこすりながらズズズッと鼻をすすった。そして、手をつなごうというのだろう、その手をこちらに伸ばしてくる。
「ぎゃあ! やめてぇ!」
 私が逃げると、明は「待ってよぉ」と情けない声をあげながら追ってくる。その声がおかしくて、私は笑いながら走った。明もつられて高い声で笑う。

 一気に桜峰休憩所まで走ってくると、お母さんが木のテーブルに顔を伏せて眠っているのが見えた。
 お弁当の容器はすべて片付けられていて、代わりにリンゴと果物ナイフがテーブルに置いてある。
 私たちが戻ってきたら切ってくれるつもりだったのかもしれない。でもきっと待ちきれなかったのだろう。
 お母さんは目を閉じていながらもかすかに微笑みを浮かべている。
「おかあ……」
「明」
 走り寄ろうとする明をそっと抱きしめる。
「なに?」
「お母さん、きっと疲れちゃったんだよ。眠らせてあげよ?」
「リンゴは?」
「お姉ちゃんがあとで切ってあげる」
「うん」
「しばらく遊んでいて。もう遠くへは行っちゃだめだからね」
「うん」
 明が舞い散る桜の花びらを受け止める遊びに熱中し始めるのを確認すると、私はゆっくりとテーブルへと向かった。
 お母さんのいるベンチに一緒に腰かける。
 お母さんはリンゴのすぐそばに左手を伸ばし、果物ナイフは鞘が外してある。すぐに切り始められるように準備してくれていたのだろう。
 私はゆっくりと果物ナイフに手を伸ばす。しっかり鞘に納めると、カチリと小さな音がした。
 お母さんの手元のリンゴを見つめる。つやつやとした赤がとても美しい。
「取ったー!」
 明が小さな握りこぶしを空に突き上げている。
 びゅうと風が吹き、山桜の白い花びらが渦を巻く。
 無邪気にはしゃぐ明の姿が白く霞む。
 桜も山もぼやけて見える。
 すべてがこの世のものではないような気分になる。
 風が吹き去り、はらりと一片ひとひらの花びらがお母さんの左手の側に舞い降りた。
 艶やかな赤に白い花びらがよく映えている。