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作・on、漫画短編集「あと少しで人魚姫」を読む

・あと少しで人魚姫

人間と人魚のハーフである主人公は、人間として生きてきたが、17歳になったら、人魚になるかも知れなかった。姉も兄も人魚にならなかったので、自分も人魚にはならない、と思っていたが、下半身には人魚化の徴候が現れ出していて、それを主人公はいくつもの絆創膏を貼って隠している。

ある日、主人公の意中の男子である日高は、主人公と一緒に下校して浜辺を歩いていると、下半身が絆創膏だらけであることを心配する言葉を掛けてくる。主人公は、今は格闘技に嵌まっている、と誤魔化す。

これから楽しいことがいっぱいあるはずだったのに、と主人公は自分が人間ではなくなりつつあることを、心の中で残念がる。そこへ日高は、夏休みの予定を訊いてくる。迷う返答をしながら、夏休みまで人間でいられるのだろうか、と主人公は自分の下半身を見る。人魚化が誤魔化し切れない速さで進行していることに気付いて、主人公は衝撃を受ける。

そこへ日高は、よければ二人で遊びに行かないか、と声を掛ける。主人公は戸惑って聞き返すが日高は、好きだ、と言ったのだ、と自身の言葉の真意をはっきりと伝える。赤面しながら主人公は、うみ、と言葉を絞り出す。

日高は、海に泳ぎに行きたいのか、と意を汲んで賛意を示すが、主人公は否定し、わたしが海に住まなくてはいけなくなった、と言ったらどうするのか、と尋ねる。突然の奇妙な質問に、日高は戸惑いを見せる。その姿を見て主人公は諦めの気持ちを抱きかけるが、日高は、その時は海の上に家を建てるから、そこで逢おう、と答える。

それを聞いた主人公は、海の水を浴びて靴や靴下が脱げ、下半身が完全に人魚になり始める。そして主人公は全身を海に投げる。それを追って慌てて日高も海に入る。海の中で息を止めながら日高は、下半身が鱗で輝く、人魚となった主人公を見る。

主人公は涙を流し、日高の顔を手で包み、日高の言葉を確かめると、日高を陸に返して別れる。

それから時が経ち、主人公は海の中の町で、他の人魚や魚達と共に暮らしていた。主人公と他の人魚達は、一つの部屋に集まって過ごしている。ハイテクになった海の中で、一人の人魚がピザを注文するが、主人公はピザを断って、そろそろ家に帰る、と言う。日高は言葉通りに、海の上に家を建てていた。そこで主人公と日高は逢い、にこやかな時間を過ごしている。

主人公の言葉から、男性の人魚もいるようだが、海中の町を見るに、人魚とは大体が女性のように思える。そして、人魚になることは人間にとって、楽しいことをいっぱい諦めなければならないことであり、それは腹から下に顕著に現れ、怪我のように隠したい、恥ずべきもので、時間に追い立てられるものらしい。

人魚になる、とは妊娠し出産することの隠喩であるように思われる。だが、男性の人魚もいるらしいことから、妊娠と出産だけではなく、子を抱えることまでを意味し、また陸と切り離されることでもあることから、一般的な進路を歩めないことを意味し、更に、海に住まなければならない自分を受け入れてくれるかを主人公が恐れていることから、妊娠のもう一人の当事者がいなくなっている、単身の状態も意味している。

合わせると、主人公は学生ながらに妊娠し、しかし相手の男性は何らかの理由でいなくなり、妊娠していることは隠しつつも、一人でも子供を産み育てていくことは決意している、ということを表している。

つまり、主人公が絞り出した「うみ」は「産み」であり、海に住まなければならなくなった、とは、妊娠し出産を控えていて、子を抱えた生活をわたしは考えなければならなくなった、ということを言っている。しかもその子は、日高とは関係がない。

それに対し日高は、海の上に家を建てる、と言っている。自分とは関係ない子の「産み」を承知の上で、そこに主人公との生活を建てる、と言っている。その言葉を聞いた主人公は、安心して「産み」に身を投げ、人魚になることができる。

人魚とは、魚と共に生きる単身者のことであり、魚とは子供のことだ。しかし作品の題名には「人魚姫」とある。人魚が子を抱える単身者であるなら、人魚姫とは、そこに更に何らかの人間関係が加わっていることを表す。それは言うまでもなく、日高との関係だ。

姫とは何だろう。それは女性が憧れるような地位であり、近くに憧れの王子様がいて、彼に愛されるだろう状況と言える。そこで重要なのは、一般の感覚では、母となった女性は姫とは呼ばれないだろう、ということだ。姫とは、未婚女性や非経産婦に限定された称号であり、夫を持ち子を持った女性は、姫ではなくなってしまう。

憧れの王子様が夫となり、その夫との子があるなら、姫の称号を失うのも、それほど悲しくはなかろう。だが主人公は、憧れの王子様が不在のまま、若くして、その資格を失わなければならない。そこへ日高が現れた。

この作品の意味合いでは、人魚であることと、姫であることは両立しない。人魚になることは、姫ではなくなることだ。しかし日高は人魚になった主人公を、姫にすることができる。日高は、自分と関係のない子を持とうとしている主人公を、愛せるからだ。

人魚になることとは、恋愛の困難を意味する。子を持つ以上は、恋愛相手は夫に限られる。人魚とは、その夫を失っている者のことで、新たな夫を迎えるにも、子の存在が問題となる。そして、その問題を乗り越えてきてくれる人がいるのなら、人魚でも姫になれる。

あと少しで人魚姫。人魚でも姫になるには、あと少し、時間が要る。海の上に家を建てなければならないからだ。単に家を建てるだけでも大変だが、それが、海の上に、なのだから尚更だ。それをきっちり日高は果たしてくれて、主人公は人魚でありながら、姫になれる。

何にしても姫とは、王子様の存在なしには成り立たたないものらしい。王子様とは、一心に愛(と銭)を自分に注いで支えてくれる人のことだ。

フェミニズムは、王子様との結婚は本当に女性にとっての幸せか、と問う。愚問だ。幸せに決まっている。問題は、本当の王子様なんて代物が、現実の女性の前には滅多に現れやしない、ということのほうで、けれど女性もそういう現実を知っていても、完全に期待を捨て去ることは難しい。夢がないもん。夢がなきゃ、ね。

でも、漫画なら夢があるよ。本当の王子様がいるし、いつでも逢える。さあみんな、漫画を読もう。漫画を描こう。そうすれば、すぐにでも人魚姫。ピザでも摘まみながら、人魚姫になろう。

おまけ漫画では、主人公の父母の存在が示されている。そうすると、ここでの読解の主張が危うくなってきそうだ。

だが、この作品はそもそも、人間と人魚が結ばれる、とはどういうことか、といったことを曖昧にする(どうやって妊娠するの? どこで出産するの? もしや主人公が卵を産んで、そこに日高くんが自分のs……)ことで成立している。

もし父母の存在をきっちりと物語に組み入れた作品が、作者の手によって描かれても、そこには今回とは別の読解が成立することになるだけで、それは、この作品になされた読解とは関係がない。

・僕の妻は月の子供

ある男の妻は、月の子供だ。月が欠けていくと、その姿が見えなくなり、月が満ちてくると、その姿が見えてくる。妻は、こんな厄介な女を好きになることはなかっただろう、と男に言うが、男はただ、でも好きだ、と答えるだけだ。

更に妻は、考えてみなさい、姿が完全に消えて、また姿が現れた時、わたしは全くの別人になっているのかも知れない、と男に言う。男はしばし驚いていたが、すぐに気を取り直して、それでも好きだ、と答える。

妻は笑って、冗談だ、と男に言う。姿が半分見えない妻の横顔と、半分欠けた月とを見ながら男は、それでも妻のことが本当に好きなのだ、と心の中で主張する。

月と女、といえば月経がすぐに連想される。月経は厄介ではある。女達にとっても、その女達と関わる男達にとっても。

だが、月の子供は、月のように姿を現し、月のように姿が消えていくものだ。女は月経によって、ある程度、心や身体に周期的な変調は起こるだろうが、それはある時にはっきりしていて、ある時には全くなくなるようなものなのだろうか。そしてそれは常に固定段階的に増減していくものなのだろうか。

月経の感覚は人によって異なってくるだろうし、これ以上は月経自体については考えない。ただ、ここで指摘したいのは、月が象徴しているのは、とても機械的なものだ、ということだ。

月とは、自然の正確な時計の一つだ。一方で人間は、その正確な時計に従っていても、完全に正確には生きられない。それが生き物というものだ。しかし月の子供とは、月と連動した、機械的な変化をする存在だ。つまり、月の子供とは、生き物のように見えて生き物ではないもの、女に見えて女ではないものを、表している。

妻は男に、わたしの姿が完全に消えて、また現れた時、わたしは別人になっているかも知れない、と仄めかしている。もし、見た目が同じでも中身はじつは変わっているかも、というだけなら、わざわざ月の変化を持ち出すまでもない。人の内面の変化は、大抵は見た目では判らないからだ。ずっと姿が見えていても、内面が変わらない保証はない。

ここでは、月の見た目の変化と、月の子供の中身の変化可能性の関係が仄めかされている。月は段階的に姿が現れていったり消えていったりするが、それは太陽の光がどれだけ当たって見えているかでしかなく、月自体は、見えても見えなくても、常にそこに存在し続けている。

光が当たって見えている部分は変わらないが、光が当たらず見えない部分は変わるかも知れない。妻はそう言っている。女は男が見えていないところで、男の知らないところで、いつの間にか変わるものだ、と言いたいのだろうか。

それも多少はあるかも知れないが、月とは時計であり機械的なものであり、言わば制度やシステムのことだ。そして月の子供とは、その制度やシステムに連動して、姿が見えたり見えなくなったりする、見えない時は中身が変わっているかも知れない、生き物に見えて生き物ではない、女に見えて女ではないもののことだ。

それは「月」刊漫画誌や、そこに掲載されている漫画作品、その作品を描いている漫画家、作品に出てくる登場人物のことだ。「月」は定期刊行を象徴するものであって、だからそれは、厳密には月刊誌でなくてもいい。週刊でも年刊でもいいし、ウェブサイトでもいい。とにかく、商業的な漫画掲載媒体のことだ。

そこでは光が当たっている内はいいが、光が当たらなくなったら、読者の目に映らなくなったら、掲載作品の顔触れ、執筆陣の顔触れ、各作品の内容や方向性、登場人物の設定や役割など、次に現れる時には全くの別物に変わってしまうかも知れない。

月の子供とはそのような、気忙しい商業的な漫画掲載の事情を象徴するものであり、そんな厄介なものと好きで結婚した男とは、作者自身のことだろう。

月は複数の意味を持つ。月とは正確な時計であり、それに基づいた、時に不安定な女の生理であり、また漫画発表のための安定した商業的システムであり、そこで営まれる、安定が約束されているわけではない、漫画執筆や、それによって生み出される作品や、作品の登場人物だ。

安定した場で営まれる、不安定。時間の流れの中で生き物として生きること、女として生きること、漫画が生まれること、漫画を生むこと、漫画を生んで生きること、そうして生まれた漫画達、その漫画達に関わること。

それらが作者にとって、月を象徴として一つに繋がっており、その象徴を身に纏った女である月の子供に、それを眺める者としての作者は、何か具体的な根拠を挙げられるわけではないが、ただ、本当に好きだ、と主張している。

好きなことに根拠はないし、要るものでもない。それは作者にとって、ずっと月が消えては現れていくのを繰り返し続けることのように、変わりようのない、とても確かで自然なことなのだろう。

・神様の暇つぶし

少女二人が歩いていると、その片方が、昔近所に、顔に模様がある女の子がいた、と話し出す。

素性は知らないが、何かの切っ掛けで仲良くなり、子供の頃だったから、顔の模様について気軽に訊いた。するとその女の子は、これは模様ではなく、わたしの世界だ、と答えた。少女が模様に見入ると、その中には宇宙があり、地球があり、日本があり、都市があった。

少女がその都市に目を奪われていると、女の子は上空を見上げ、もう帰ってこいと言われた、と残念がりながら、別れを告げてきた。

そういうことがあったが、あれは現実に起きたことだったのか、あの女の子は本当にいたのだろうか、と言って少女が考え込んでいると、上空にある空間の裂け目から、いたよ、と何者かの返事がある。

顔に模様がある女の子に、もう帰ってこい、と言ったのは誰か。作中では、そのような音声は表現されておらず、女の子の嘘とも考えられるが、当時の女の子が上空を見上げていることと、作品の終わりに上空から謎の返事があることを合わせれば、もう帰ってこい、という指示はあって、それは上空からあり、そのような指示を子供にするとすればそれは、その子の親ないし保護者と考えられる。

顔に模様がある女の子と、その保護者とは、何者だろう。作品の終わりにある謎の返事は、この二者の内のどちらかからのものと思われるが、どちらにしてもそれは上空の未知の空間に潜んでいる者らしい。題名には「神様」とあるから、それが答えなのだろうが、ではそれはどのような神様なのか。

上空にあって、顔や模様がある、というと、月を思い出さないだろうか。この短編集の作者にとって月がどういう意味を持つかは、これより一つ前の作品の読解で示した。月とは漫画に関わることであり、なら月にある模様とは漫画の頁のことであり、その中には、見入って目を奪われるほどの、魅力的な世界がある。

「神様」とは漫画の神様だ。では、その「暇つぶし」とは何だろう。神様は、少女と砂場遊びをし、少女を模様に見入らせ、それらが本当にあったことだったのか疑っている少女に、あった、と返事をしている。

どれも暇つぶしと言えそうだが、一番重要なのは、少女を模様に見入らせ、目を奪ったことだろう。その不思議な体験がなければ、少女は友人に、過去の話をすることはなかったはずだ。単に顔に模様がある女の子と遊んだことがあるだけでは、話題性はない。物語が開始した根拠として、少女を見入らせたことは重要だ。

少女が模様の中の世界に見入っている最中に、女の子が保護者に指示されたことで、少女は我に返る。もしこの時に指示がなく、少女が見入ったままだったら、少女はどうなっていただろう。模様の中の世界に吸い込まれたりしていただろうか。

それは何とも言えないが、この時、変にその世界に触れた上で、そこから引き戻されて、それからずっとその世界に触れられていないことが、少女が友人に話をする切っ掛けになっていることは確かだ。

もし少女があれ以来、あの世界に時々触れ続けることができていたなら、少女はあの時のことを言葉にしようとはしなかっただろう。というより、少女も漫画の神様の側になって、いつの間にか顔に模様が出来、友人に模様のことを訊かれ、これはわたしの世界、とかやっていたかも知れない。

それはともかく、ここで少女は自分の記憶や心的体験を他人に伝えることを試み始めている。それは漫画の機能の一つだ。少女は漫画の神様の世界に少しの間触れ、それ以降はその世界に触れられないことで、顔に模様は出来ないが、顔の模様のことを、漫画の神様のことを、言葉で再現したい、と思うようになる。

漫画の神様は上空の、手も届かなければ、見上げても普通は窺い知ることのできない領域にいる。そして少女は地上にいて、上空にいる漫画の神様からかつて与えられた感動を、どうにか再現しようとする、言わば漫画の一般人になろうとしている。

もう帰ってこい、というのは上空にいる漫画の神様の言葉であり、それが表現されていなかったのは、当時の少女には上空にいる漫画の神様の言葉を聞くことはできず、地上に降りてきていた漫画の神様の言葉だけを聞くことしかできなかったからだ。

しかし、年月を重ね、地上に降りてきていた漫画の神様との出来事を言葉にして表現し始めた時、少女は上空にいる漫画の神様の言葉を聞くことができるようになる。表現に関わることで、漫画の神様に少し近付けたからだ。

上空にある漫画の神様の領域は、一般人では見知ることのできない、偉大な想像力の領域だ。神様が地上に降りてくることとは、その想像力を作品という形に収めて、一般人に見せることだ。そして時には、その作品の成立の詳細までをも見せたりする。

模様をただ見るだけでなく、それは何なのかと興味を持って知りたがる、少女のような子供がいる。神様は模様を見せるまでが仕事であり、模様がどのように出来ているのかまで教える必要はない。が、教えてならないものでもない。

気紛れに、暇つぶしに、神様は模様がじつはどのように出来ているのかを教える。教えられた子供達の大抵は、それを忘れ去ってしまうのだろうが、中にはずっと覚え続けている子供もいて、そういう子供はいつか少しだけ神様に近付けるのだ。

さて、もしこの作品を漫画に関わることと見て、更には不思議な要素を抜き去ってみると、こうも読める。

子供の頃に物凄く夢中になって読んだ漫画があったのだが、題名も作者の名前も覚えておらず、年月を重ねた今、周りに聞いてみても、その漫画を知っている人は誰もいない。ネットにも情報は見当たらない。漫画はもう手元からなくなって久しく、あの漫画は本当にあったものだったのだろうか。ということをTwitterで呟いてみたら、巡り巡って漫画の作者本人から、それはわたしの作品だよ、と返信があった。

Twitterといえば、現代の強力な暇つぶしツールだ。「神様の暇つぶし」とは、自分にとっての神漫画家がTwitterをやっていた、ということだったのかも知れない。

・奇妙な箱

ある日、男は自分が住んでいる家の縁側の下に、真っ黒でどこにも蓋のない、掌に乗るくらいの大きさの硬い箱があるのを見付ける。大家に問い合わせても、それが何なのか判らない。

男は、捨てるにしても中身を確めてからにしよう、と宝が出てくること少し期待しながら、工具を使って箱を抉じ開ける。箱の一面が外れると中は個人的な部屋になっていて、小人と小人の背丈に合った、家具や小物や機材が入っていた。

両者は目が合い、思わず声を出して驚き合う。小人は焦りつつも、仕事中なので、と言って配慮を求める。男は、失礼、と言って外れた一面を嵌め戻し、興奮しつつも小人の仕事が終わるまで待つことにする。

その後、仕事が終わったらしい小人が箱を開けて出てきたので、男は小人に労いの言葉を掛ける。すると小人は怯えて箱の陰に隠れたので男は、何もする気はない、と更に声を掛ける。続いて、そこに住んでいるのか、と尋ねると小人は、これは個室型ワークブースで、テレワークになってから部屋だと集中できないので買ってみたが、大き過ぎて入らなくて、とその事情を語る。

部屋とは何か、という態度を男がすると、小人は家の縁側の下に移動し、箱があった場所の近くの柱の一部を扉として開けて見せて、ここだ、と示す。男は驚く。

男は小人に、ワークブースの扉を抉じ開けて壊したことを謝り、直しておく、と申し出る。小人は、そうしてくれると助かる、と言い、男に労いの言葉を掛けると、部屋に入って扉を閉める。

それから男は、小人のワークブースを机の隅に置いて食事をしながら、ワークブースの扉を壊したことを反省するが、直後に、そもそもなぜ人の家に勝手に住んでいるのだ、と小人の存在を訝る。しかし追い出すわけにもいかないので、男は小人としばらく一緒に暮らした。

男にとって、箱の中に小人がいてテレワークしていたことは、思い掛けないことではあっても、あり得ないことではないらしい。男は小人という存在自体には驚いていない。柱の中に小人の部屋があったことには驚いているが、その場所が意外だっただけで、家に小人が住む、ということはある、という認識らしい。それでも、勝手に、という部分には不満なようだが。

一方で小人も、男から見付けられたくない、という意識は薄い。ワークブースは隠すこともなく堂々と設置し、それを抉じ開けられて見付けられると驚き怯えはするが、逃げるでもなく仕事を続け、それが終わると男と話をして、部屋を見せた上でそこに帰っていく。普通の隣人程度の距離感だ。

小人はテレワークしなければならず、部屋では集中できないからワークブースを買い、それが入らないことで、男と小人の関係は始まる。もしテレワークがなければ、もし部屋で集中できていたら、もしワークブースが入っていたら、男は小人の存在に気付かなかった。男が小人を発見することと、小人のテレワークは結び付いている。

テレワークとは仕事のことだが、そこには家の外部と通信し繋がることが含まれる。仕事の必要が出来た時、家の中にワークブースが出現し、男はそれを発見せずにはいられない。そして、その中身は窺い知れず、男はそれを抉じ開けずにはいられない。

家とは一つの身体だ。一つの頭の中、といったほうがいいかも知れない。そこに異なる二つの欲求が同居している。しかし普段は、大きいほうは小さいほうの存在を意識することがない。それが、小さいほうが仕事を始めると、途端に大きいほうは小さいほうを、寧ろ意識せざるを得なくなる。

男は小人に不満を感じつつも、追い出すわけにもいかない、というが、何がどういかないのか。やい、さっさと出ていけ、と凄めば、それで済みそうなものだ。しかし作中ではお互いに低姿勢であり、出ていってもらうことはできませんか、と伝えるも、こちらにも色々と都合というものがあるので、みたいなことを言って、結局は一緒に暮らし続けることになる感じだろうか。

二人は、身体の大きさこそ圧倒的な差があるが、権力に差はないようだ。男は小人の都合を無視できないし、小人も男の都合を無視できない。

二人は身体の大きさに拘わらず人である点で同等であり、かつ身体の大きさに圧倒的な差があるからこそ、お互いによく知らない仲でありながらも、一つの家の中に同居できる。二人は生活に必要とする空間の、量も質も異なる。

小人は柱の中に住んでいる。これは、小人の生活空間の質が男のとは異なることと共に、家の中の柱というものが小人の領域であることを示すものだ。家とは、ある一人の頭の中を表すが、それとは別に、ある一人の生活の実相を表してもいる。その生活は男と小人の奇妙な同居で出来ている。

勿論、人の生活はそう単純ではない。たった二つの要素だけで成り立っているわけはないが、ある一人の生活を表現するに当たって作者は、男と小人、という二つの要素を抜き出した。

男は家全体に関心を持ち、異物である箱の出現を察知し、それが何かを確めようとする。また食事する姿が描かれることから、男は生活の中の、生命の維持や管理、という根源部分を象徴する。

一方で、小人は家の一部である柱の中に間借り(?)し、外部と繋がりを持ち、仕事や仕事のための投資をする。このことから小人は生活の中の、社会性や経済活動を象徴する。それは生活を支える柱となる部分であり、小人とは生活を支える柱に宿る、意思のようなものだ。

生活するに当たって仕事が必要とされるが、仕事は生活を支えることとは別に、生活に影響を与える。生活の時間の一部を切り出して割り当てるのが仕事というものであり、何よりも生活をする身体と仕事をする身体は一緒のものだ。仕事で傷付けば生活が傷付き、生活で傷付けば仕事が傷付く。だから小人が活発になると、男はそれに注目せざるを得ない。

生活から社会性や経済活動を追い出すこともできるが、そうすると生活が崩れていくことは避けられない。だから追い出すわけにもいかない。そして、男は小人としばらく一緒に暮らした、というがそれは、後に別れられた、ということだろうか。つまり生活から社会性や経済活動を放逐できた、と。

そうは思われない。というのも男と小人は、家を通じて関係しているが、それとは別の、より大きな関係性の中にもいるからだ。

小人とは、仕事というものを、家の一部、生活の一部として見出だした、男の空想だ。しかしここで重要なのは、その男もまた、作者の空想だ、ということだ。男と小人は存在の質が違うのだが、作者の許では、漫画の登場人物という同等の存在であり、同じ一つの作品に登場していたことが、二人がしばらく一緒に暮らした、ということの意味だ。そしてそれは、作品の終わりと共に解消された。

この作品は、生活の一部としての仕事への関心を描いている。そしてその仕事への関心を演じるのが作中の男なのだが、その仕事への関心自体は、作品を描く、という作者の漫画家としての仕事と強く重なっていて、だからこの男は作品の終わりと共に小人との関係が解消することを、読者に報告している。

この報告は、作品の物語とは関係が薄いものだ。というか、この作品の物語が作者の事情と異様に重なり過ぎている結果として、この報告がある。

この作品は作者の、自身の仕事への関心を題材にしたものだが、興味深いことに、そうしたことで作者は、この作品で自身が普段どう作品を作ろうとしているかを、恐らくは意図せず、報告してしまってもいる。

作者は自身の生活や日常の一部に、想像的な世界へ通じる扉を見出し、それを開けることで創作を始める。そこまでなら、有り触れた作法だ。そして普通ならその扉の中に入り、そこにあるものを使って一つの世界を作り上げ、そこで起こる様々な出来事を物語にする。

ところが作者は、その扉の中にはあまり入ろうとしない。扉を開けて、そこからちらりと覗く光景や、そこに出入りする誰かのことを物語にする。もしくは扉を開けるまでだったり、扉の周辺でのことを物語にする。

そうする理由は、これまでの作品にもしばしば見られたが、作者の心の中には漫画の神様のような存在が住んでいて、それに尊敬と畏怖の念を抱いていて、近付きたいが近付けないからだ。

扉の先に行くことが許されるのは、宇宙の如く偉大な想像力を秘める神様だけなのだが、自分も多少の想像力を有してはいるが神様には到底及ばない、という意識が作者にはあって、だから扉の先には踏み入らず、扉の周辺をうろついたり、あるいは下半身は扉の手前に残しつつ上半身だけを扉の先に乗り出すようなことをする。あるいは、扉の先に入っても、そこにあるものを使って少し遊んだら、すぐに扉の手前まで帰ってきてしまう。

で、そうしたら、扉の先がどんなに楽しいか、といったことを漫画にする。作者は想像の世界を直接漫画にはしようとはせず、あそこには想像の世界がある、ということを漫画にしようとする。

それはまるで作者による体験記や観察報告記であり、作者の漫画が多少エッセイっぽく見えるのは、作者が、想像の世界の中ではなく、しばしば想像の世界の外に身を置いて漫画を描こうとしているからだ。

作者の、自分は漫画の神様にはなれない、という意識がそうさせる。正確には、自分は漫画の神様にちゃんとなれているのだろうか、という自信のなさがそうさせる。

漫画の神様になんて、漫画を一作品でも描き上げさえすれば、誰でもなれる(が、神様になりたいくせに一作品も描き上げられない者など、腐るほどいる)はずだが、作者は、自分は漫画の神様に相応しいか、と思い続けており、だから漫画の神様像を、繰り返し漫画にして描こうとしている。

漫画の神様像を表現するために、神様を神様たらしめる根拠となる想像の世界をも、作者は外部から眺めなければならない。つまり、想像の世界の中に留まることができない。

「漫画の神様」には、漫画を描き上げて、その中身はどうあれ、一つの想像の世界を作り上げた者、という意味と、その想像の世界で大勢の読者を魅了し得た者、という意味がある。

作者の中では前者と後者が変に引っ付いていて、後者になれないなら前者であることも認められない、というような観念があるのではないか。

この作品の小人は、作者の仕事を象徴するが、それを眺める、小人から見た巨人である男は、その低姿勢さも含めて、漫画の神様(前者)としての、自信のない作者の自己像でもあり、だから小人に強く出ることができない。

そして作者は、神様である自信がないが、しかし神様でありたいからこそ、そのことを漫画に描こうとする。だが漫画の神様が不成立であることを描こうとすれば、想像の世界は作り込まれず、するとそこに作者は留まれず、想像の世界から出て、その外側から不完全な想像の世界(と漫画の神様になり損ねた自身を象徴する誰か)を眺める作品を、作者は作ることになる。

それが、しばしば作者の作品が、極短かったり、物語がもっと展開しそうなところまで来て急に終わってしまう理由だ。

「漫画の神様コンプレックス」とでも呼ぶべきものを作者は抱えており、それこそが作者の中心的な創作意欲の源泉の一つなのだが、それ故にそこから生まれた作品は、漫画の神様の創作放棄を受けて、きちんと育つ前に捨てられてしまうのだ。

・宇宙卵

男は幼い頃に、外に出ようとする途中の宇宙を固めて殻の中に閉じ込めた「宇宙卵」というものを、近所のお姉さんに貰った。男はその変わった雰囲気のお姉さんのことが大好きだった。

数年後にお姉さんは引っ越して、いなくなってしまい、男は喪失感を覚えつつも、彼女から貰った宇宙卵を持ってさえいれば、同年代の子供達に傷付けられ弾き出されても、学校の受験に落ちても、おれは宇宙を作れる、と思えて強く生きられた。だから男は、宇宙卵とお姉さんに感謝の念を抱いていた。

そんな中、時を経て、お姉さんが男の許を訪ねてくる。お姉さんは昔と変わらなかったが、お姉さんは男の成長振りに驚く。そしてお姉さんは、宇宙卵はまだ持っているか、と男に訊く。男はその場で宇宙卵を取り出して見せる。お姉さんは、宇宙卵を返してほしい、と申し出る。男は快諾する。

お姉さんは宇宙卵を受け取ると、それを力を込めて握ってから上空に向けて鋭く投げ放つ。するとそこに小さい宇宙が広がり、町の人々が見上げる中、それが上空に浮かんだ暗い空間の中へ吸い込まれていく。

あれは次元の裂け目であり、2036次元目の宇宙が急に消滅したために、宇宙卵に圧縮していた宇宙を送らなければならなかった。きみが生きている内に使うことはない、と思っていた。とお姉さんは事情を説明し、宇宙卵を使ってなくしてしまったことを男に謝る。

男はお姉さんを見詰めると、おれと付き合ってくれないか、と申し出る。お姉さんは、わたしは普通の人間ではないけどいいのか、と確認する。男は、寧ろそこが最高だ、と答える。

宇宙卵なるものもまた、月と同じように、漫画に関わることを象徴する。漫画の神様の模様の中に宇宙があったように、宇宙卵の中にも宇宙がある。そしてその宇宙の中には、月があり、世界や人々の生活があり、そこにまた宇宙卵があったりするのだろう。

その入れ子構造は、漫画を読んで育った子供達が大人になって漫画を描き、その漫画を読んで育った子供達が大人になって漫画を描く、という、漫画家と読者の循環と再生産を表す。それは月の満ち欠けのように、揺らぐことなく、ずっと繰り返し続けられるのだろう。

お姉さんは宇宙卵を幼い頃の男に託して去る。漫画の神様の模様の秘密は宇宙であり、それは漫画成立の秘密でもあった。お姉さんがいなくなった後、男は宇宙卵を抱えることで、社会的な困難や挫折を乗り切ることができる。

お姉さんも、お姉さんがくれた宇宙卵も、漫画であると同時に漫画成立の秘密でもあり、漫画を読みながら、いつか自分も漫画を描く側になる、という希望が男の心を支えた。そして再びお姉さんは、男の前に現れる。男が恋したと時と変わらない姿のままで。

憧れの作品は変わらないし、変われない。しかし作品に憧れた少年は成長し変わっていける。そしていつか憧れの作品に追い付ける。あの時の少年は今や、お姉さんに追い付こうとしている。だからお姉さんは、男の前に再び現れた。

お姉さんは宇宙の安寧を守る立場でもあるらしい。突然欠けた宇宙の穴埋めのために、男に託した宇宙卵を回収しに来た。この時、宇宙は漫画掲載の媒体であり、原稿でもある。誰かが原稿を落としやがったのだ。その穴埋め原稿に、主人公の宇宙が選ばれた。

お姉さんが後進の育成を怠らなかった成果だ。「漫画の神様」にはもう一つ、漫画を安定して読者に届ける編集者の意味もあった。

お姉さんの働き振りを見て、改めて男はお姉さんとの関係を望む。けどお姉さんは、こちらの世界は普通ではない、と言う。しかし、漫画(や漫画に関わる人生)に恋した男は、それこそ最高だ、と答える。

社会的な困難や挫折を、お姉さんに恋すること、宇宙卵を抱えること、漫画に関わることで乗り切ってきた男にとって今更、普通でないこと、社会的な困難や挫折が待ち受けていることなど、障害にはならないのだ。

とまあ、それはいいのだけど、ところでお姉さんが宇宙卵を「空」に「そぉら」って投げるのってさ、あれってもしかして駄j……。

・両親のかくしごと

自分の両親が本当の親ではないのではないか、と密かに疑問に思っている主人公は、テレビで流れた海外旅行の映像を見て、わたしも行ってみたい、友達の中で飛行機に乗ったことがないのはわたしだけだ、と両親に言っても聞いてもらえなかった、という出来事を学校の教室で友人に話し、それはパスポートを作られたら困るからだ、と主張する。

友人は笑って本気にしない。主人公は、他にもある、と言って、親戚に会わせようとしないことや、小さい頃の両親の記憶と違う気がすることを話す。友人はそれらを、思春期にありがちな捨て子妄想だ、と評する。

それに納得しないまま主人公が帰宅すると、両親が何やら、もう真実を話そう、と話し合っている声が聞こえ、やっぱりわたしは二人の子供ではないのか、と主人公は両親に詰め寄る。両親は観念して、じつはあなたの小さい頃に、異星人である我々が仲間と共に地球を侵略し人類を殲滅したが、あなただけが奇跡的に生き残って、ママ、ママ、と言って離れなかったので親心が湧き、あなたが寿命を迎えるまで両親を装って地球が滅んでいない振りをすることにした、と本当の事情を告白する。

加えて、今住んでいる町は一定の範囲までを再現した作り物で、町の住人は全員、機械人形で、主人公の視界に入った時だけ動く仕組みだ、ということも明かし、今まで黙っていたことを、話を聞き混乱で目を回している主人公に謝る。

その後、偽の両親は主人公を宇宙船に乗せ、我々の母星で暮らすのか、地球に残るのか、と問う。主人公は、返答を保留しながら、飛行機には乗れなかったが宇宙船には乗れた、と懐述する。

捨て子妄想に加え、じつは自分が見ていないところで世界は止まっているのではないか、といったような考えも、大抵の者は一度くらいするだろうか。そして、それが本当のことだったら、というのがこの作品だが、やはりというか、これから物語が展開しそうな状態でさっさと終わってしまう。

宇宙人達の身体には、線状の模様がある。これまでと同じ解釈をすれば、空から来た、模様を持つ彼らも漫画の神様ということになるだろう。ただ、模様というには控えめで、集団であることから、単体である神様よりは環境といったほうが言いかもしれない。主人公は漫画の環境の中でただ一人、生き残ったのだ。

そして主人公は宇宙船に招かれ、そこで、漫画の環境の本場であろう母星へ行くか、よくある妄想が現実化した地球に残るか、と問われる。地球は滅んでいて、一つ前の作品の言葉を持ってきて言えば、どちらにしても主人公は、もう「普通」の世界には戻れない。

主人公は、飛行機には乗れなかったが宇宙船には乗れた、と言う。友人達がみんな乗った飛行機とは「普通」の成功を象徴する。そちらには乗れなかった主人公は、しかし「普通」ではない成功には乗れた。さてその後どうするのか。

主人公は母星に行くことを躊躇する。そこには主人公の、というか作者の不安がある。作者が宇宙船に乗れた根拠である自身の想像力は、自分の住む町の範囲、つまり作者の生活の範囲しかなく、その質は、誰もが一度はしたことがあるかも知れない妄想を展開してみせるものだ。それで母星、漫画の本場で、上手くやっていけるだろうか。

という作者の不安を漫画にしたのがこの作品であり、それは作者の生活の範囲の出来事だ。であれば主人公は母星には行かず、地球に残ることを選択するものと思われる。だが漫画の本場に行かないことは、それを諦めることを意味しない。作者は漫画の本場を意識しながら、地球に残るのだ。

それは当然、いつかは漫画の本場に降り立つためだ。そしてそのいつかを目指して作者は、創作経験を重ね、母星でも上手くやっていけるだけの想像力と自信を、地球上に打ち立てようとしている。

それは別の言い方をすれば、地球にいながら母星にも届く想像力を持とうとしている、ということかも知れない。漫画の本場に通用するくらいに、自分の生活の範囲を膨らませられる想像力を。自分が憧れの漫画の神様に近付くのではなく、漫画の神様のほうから自分に近付きたくなるような想像力を。この地球こそをもう一つの漫画の本場に。

何にしても、母星と事を構えるには、まだまだ力が足りないのは明らかだろう。今はただ、作者は宇宙を見上げながら、自身が立つ地球を豊かにするしかあるまい。

・亡国の騎士とワガママ王女

戦で国を追われて逃亡の旅をしている王女と騎士がいた。王女は普段着のままで、それを擦り切れさせながら木の棒を杖に歩いているが、もう歩けない、と言い出す。騎士は、目的地である、王妃の実家まで後少しだから、と励ます。王女は、馬はどこだ、と言うが騎士は、馬は逃げ、資金も底を突いた、と絶望的な状況を伝える。

日がある内に次の街へ着くのは難しい、と騎士は洞窟で野宿することを決める。野宿などということを、このわたしがしなければならないのか、と王女は驚く。

洞窟の中で、焚き火で焼いた魚を食べながら、一国の王女が洞窟で焼き魚だなんて信じられない、と王女は不満を口にする。いらないなら、わたしがあなたの分も食べる、と騎士が言うと、いる、と王女は強く言い返す。

どうしてこんなことになったのか、どうして父と母はわたしを残して死んでしまったのか、と涙する王女に騎士は、王も王妃も色々とアレなところもあったが、殺されていい人ではなかったし、あなたも文句を言いながらも荒地を旅する気概があるのだから、必ず生きて逃げ延びよう、あなたが無事であることが我が国の最後の希望だ、と語る。

王女は騎士の言葉に泣き止み、なら頑張らないこともない、といつもの調子を取り戻し、騎士は安堵するものの、今度は王女は、髪を弄りながら、あなたは結構いいところあるし、よく見たら悪くない顔だし、こんなかわいいわたしと二人きりだから気持ちも分からなくはないけど、わたしはそんな気はないんだからね、と調子に乗って、騎士が自分に惚れていると思い込んで、一人で勝手に盛り上がり出す。

そんな王女を冷ややかに見た後、騎士は王女を置いて一人、洞窟の外に出る。そして、死んだ王と王妃のためにも王女を必ず目的地へと無事に送り届ける、と決意を新たにしながら、でもそれが果たせたらこの王女とは別れよう、とも決意する。洞窟の中からは、まだ一人で勝手に盛り上がっている王女の声が聞こえる。

深刻な状況にあるはずが、王女の態度はどうにも、父親に愚図る子供のようだ。騎士も騎士で、王も王妃もアレなところ(アレって何だよ)があった、とか口走る。二人とも現在の状況にあまり真剣でない、というより、実際の状況があまり真剣なものではないのだろう。

戦で国を追われて云々というのは設定であり、二人はその設定で演技をする、言わば作者の脳内役者のようなものだ。しかし深刻な設定ではあるが、所詮は設定でしかない、本当のことではない、というところで、二人は設定を演じるよりは、設定の怠い部分に不満を垂れている。

設定とは物語でもある。二人は深刻な設定ないし物語に馴染めず、代わりに日常的な感覚で、その設定や物語を遂行する。とはいえ、両親の死、人の死が関わる部分になると、さすがの王女も多少、真剣になる。それに乗って騎士も、アレとか口走りはするが、物語を真面目な方向へ修正していく。が、長続きはしない。

どうしても王女の軽薄さが目立つが、騎士の軽薄さもなかなかだ。ただ、騎士は一応は物語を貫徹しようとはしている。しかしその物語の品質は気遣えない。品質を気遣うなら、アレとか口走るべきではないし、軽薄な王女を真剣に叱るべきだ。そうできないのは、二人が物語に対して同じくらいに真剣になれない者同士だからだ。

これまでと同じように、この作品も、作者の漫画に対する姿勢として読むなら、二人は漫画家であることに自信が持てない作者の不安定さを表し、二人の目的地は漫画の国であり、二人の行く道は漫画の道、ということになる。

あまりやる気のない王女一人では、目的地に着くことはできないだろう。かといって、騎士一人で目的地に着いても意味がない。この作品の面白さを支えているのは、王女のワガママさと、そこから来るかわいらしさだからだ。騎士の役割は、王女の世話でそれらを更に下支えすることであって、その支えるべき者をなくせば、騎士に価値はない。

王女の面白さは、そのやる気のなさ、深刻な設定や物語に馴染めないところに由来する。それを上手く物語に引き戻しながら目的地に進むのが騎士の役割のはずだが、困ったことに騎士も設定や物語に馴染めない。だが騎士には、王女にはない、やる気や目的意識はある。それが辛うじて、騎士に王女を引っ張っていく力を与え、それで二人は目的地に向かって進める。

二人の物語への馴染めなさは、物語の続かなさ、作品の短さに結び付く。作者は自分の作った物語にあまり真剣になれず、真剣になれないから、長い物語を作れない。そうして出来る短い物語からは短い作品が生まれる。その短い作品を面白く見せる技術はある。

それで漫画の国には近付けるが、果たしてそれでやっていけるのか、この王女とは別の面白さを見付けるべきではないのか、と騎士は思案する。しかし、その王女を冷ややかに見て、よし、こいつとは別れよう、ということを落ちにした物語を演じてしまう辺り、騎士は王女から離れられない。

作者は漫画家としての自分の弱点を、何となく感じている。感じているからこそ、それを漫画として表現できる。自分の弱点を強みにする技術を身に付けている。しかしそれを強みにしてしまったからこそ、弱点がいつまでも付き纏うことにもなる。

それがこれまでに見てきた、漫画に関わる作者のコンプレックスの、一つの実相、と言えよう。

・木を愛した女

女は同僚達に、自分が愛しているもののことを話している。包み隠さずに言えば、最初は見た目で好きになった。でもそれだけではなく、悩みを穏やかに聞いてくれて、いつも励ましてくれる。そう聞いて、同僚達は女とその相手の関係を羨ましがる。

女はその相手と逢うと、同僚達に羨ましがられたことを話す。すると相手は何事か言ったようだが、それは女にしか聞こえない。それを踏まえてか女は、これを同僚達に紹介することは難しい、と溢す。

女が愛した相手は、一本の街路樹だった。女は人目を憚らず、愛した木に寄り添い、その見た目の綺麗さを呟く。その挙動不審振りに、女は警察を呼ばれてしまう。

女は、木を愛した人なんて他に会ったことがない、と自分のおかしさについて自覚している。警察に通報されて以来、女は人目を憚るようになる。このままでは満足に木と逢うことができない。そこで女は、木を所有し自宅の中に移植することを思い付く。

女は自宅に同僚達を招き、移植した木を紹介する。同僚達は口には出さないものの、女の振る舞いを前に、内心は理解に苦しむ。同僚達が帰り、女は木とゆったりした時間を過ごす。そして、あなたと暮らせてとても幸せだ、と木に語り掛ける。しかしすぐに、いずれ自分は木よりも先に死んでしまうだろうことを思い、木の将来を案じる。

後日、女は母から何枚もの見合い写真を、目の前に出される。前々から母には、結婚する気はない、と伝えていたようだが母は、一度だけでも、と言うので、女は見合いを承諾する。

そうして出会った見合い相手の男に、女は趣味を聞くと男性は、工場見学を少々、と答える。女は口には出さないものの、興味が湧かない。それに気付かない男は女に、今度わたしの一番好きな工場を一緒に見に行こう、と誘う。

その時、女は興味なさそうな返事をするが、結局は行くことにしたらしい。二人は夜、海の向こうに工場が見える場所で逢う。男は工場に興奮し、その綺麗さについて女に同意を求める。女は工場に興味が持てず適当な返事をするが、何かに気付き、男を見詰めて目を輝かせる。

その後、女はその男と結婚し、その理由を同僚達に話す。包み隠さずに言うと、愛してはいない。でも同じ気持ちを共有できる、初めての人だった。彼はわたしの真実の理解者だ。それを聞いて同僚達は、女の結婚を羨ましがる。

女と男は、木のある家で共に暮らし、やがて子供が生まれる。

という、ここまでのことを、おれの祖母の話だ、と言う若い男がいる。そして、だから家の中にはあの木がある、とさっきまで一緒に家で過ごしていて、そこから一緒に出てきたばかりであろう、隣にいる若い女に男は語る。

それは本当の話か、と女は男に訊く。男は明確に答えることはなく、でもロマンチックだろう? と質問で返す。女は、ロマンチックというより少し怖い、と答える。

二人は、今いる場所から海を挟んだ向こうに見える、工場を眺める。

全体も表面も複雑な陰影を持ち、切り倒せば、そこには何重もの線が躍って現れる。木とは模様の塊であり、それは即ち漫画のご神木だ。これを愛することは普通ではない。それを女は弁えている。

注目すべきは、今まで上空などの、人の手の届かないところにあった漫画の神様が、ここでは地に立ち、抱き締めることすらできる点だ。だがこれまでにも漫画の神様は、人の姿を借りて地上に降臨してはいた。今回、これと違うのは、神様が木であり、その木は女に所有され移植までされてしまうところだ。

女は漫画の神様と同じ水準に並び、漫画の神様の言葉を聞けて(?)、漫画の神様を動かせる。漫画の神様と同等かそれ以上の力を持っている。ただし寿命という点では、人は木に並ぶことはできない。それを女は案じている。

そこに見合い話が転がり込む。女は母の求める結婚や見合いを避けていたが、ここでなぜか承諾する方向に転じる。それは女にとって、母の話、母になる話が必要になったからだ。寿命の点で人が木に並ぶには、世代を重ねるしかない。

その相手となったのは、女と同じく普通ではない、工場を愛した男だ。工場は部品や機能の塊であり、それは模様の塊にも見え、これも漫画の神様の一種と思える。女が興味を持てないことから、同一のものではない。男と女は、掲載や出版の担当と作品の担当、もしくは原作の担当と作画の担当、といった関係か。

二人の間には子供が生まれるが、そこから物語は一転して、その子供の子供を称する男の話になる。この男の話は信憑性が疑わしい。ここでは、木を愛した女の家のすぐ向こうに、工場を愛した男と見た工場がある。これはどういうことか。

金持ちであるらしい女が、木を移動したように、結婚後に家も移動したのか。それとも女の家が最初から、夫となる男の愛した工場が見える場所にあったのか。それともまさか、工場も移動させたのだろうか。木を愛した女の孫を称する男が語ったところの話には、何も出てきていない。真相は判らない。

そもそも、木を愛した女は実在したのだろうか。ここで実在が確かなのは、男が語った話に出てきた、中に木がある家と、海を挟んで見える工場だけだ。男が語った話は本当なのか。話を聞いた女も、そう感じている。

男は話が本当かどうかを曖昧にしているが、男はそもそも、その話の当事者にはなれない。祖母が木を愛していた時点では、まだ存在していないのだから。どうしたってその話に伝聞の形で関わる他はなく、本当だ、と自分が責任を持って言い切ることはできないだろう。その一方で、中に木がある家と海を挟んで見える工場を素材に、男が(自分の責任で)作り話をしただけ、という可能性もある。

過去に、木を愛した女は実在したのか。木を愛した女とは、漫画を愛した女であり、その女は漫画の神様と並び、漫画の神様を超えようとしていた。そんな女が実在したのか。それは現在を生きる二人には、はっきりしない。そのことだけは、はっきりしている。この作品は、そういう話だ。

そしてこれが、漫画の神様との話を漫画(創作)として表現する、という、これまでに見られた作品と同一の構造でありながら、それがより高度で凝った形に発展したものであることに注意しよう。

漫画の神様との話を表現した物語は、しばしば短かった。この作品では、その短さはそのままだが、それとは別に漫画の神様の過去話を作り、この二つを組み合わせることで、物語の短さを克服している。短い物語でも、その中に下位の物語を含ませたなら、それを描いた作品は充分な長さとなる。

作品の長さを獲得したことも重要だが、それ以上に、漫画の神様の過去話を下位の物語として作り出した、ということのほうが重要だ。これまで作者は漫画の神様を、神秘的で計り知れない存在として描いてきた。

この作品の漫画の神様は、二体いる。木と、木を愛した女だ。木は従来の神秘的で計り知れない神様であり、女はそれを愛し、それに伍しようとする、作者が到達すべき理想の自己としての神様だ。

この二体の神様は、不確かな存在だ。しかしそれは大きな問題ではない。漫画の神様など最初から、作者の心の中にしかいないような、根拠のない、想像的な存在だからだ。そして作者は、その不確かな存在に無闇に怯え、よく分からない(けど親しめる)、曖昧な存在として描いてきた。

しかしここでは作者は、その曖昧なものの根拠、木を愛した女、という神様の根拠を、自らの想像力で描き与えようとしている。言わば作者は、神様の神様になろうとしている。想像の神を明確に想像しようとしている。そして、その神様は自分と繋がりがあるものだ、と明言しようともしている。

それはこれまでためらってきた、本当は漫画の(責任者としての)神様は他の誰でもない、自分しかいない、ということを認めて引き受ける作業であり、それを引き伸ばすために生み出し、一般人として崇めていた神様を、今度は自らの手で、下位の物語の一要素に格下げする、という不敬を働くことだ。

今まで漫画家であることの不安を代わりに受け止めてきてくれていた、手作りの神様を、自分も成長してきたことだし、そろそろ捨ててもよくなってきた。それは作者にとっての一種の成長譚、ビルドゥングスロマンでありながら、一方で、いつも安心を与えてくれていた内なる友人への、薄情な解雇通告でもある。

自分の成長振りをロマンチックと形容することもできる。作者は、その混迷を作品の源泉にもしてきたのだから。だがそれよりは、友人を切り捨ててしまうことや、そうすることで友人にはもう頼れなくなることが、少し怖い。男の話を聞いた女の口を借りて、作者はそう言っている。

木を愛した女の話部分は、独立して完結していない。女の孫の話に飛躍し繋がることで完結している。もし作者が漫画の神様を本当に引き受けるつもりなら、木を愛した女の話だけを描くべきであり、木を愛した女を手の届かない遠くから見詰める男女の話に繋げるべきではなかった。

この作品は、これまでの作品からは高度化し発展してはいるがそれでも、手の届かないところにいる漫画の神様を眺める、という構造は変わっていない。ただ手の届かなさの表現が、上空と地上、という空間的距離から、過去と未来、という時間的距離に変わっている。物語表現ないし漫画表現は、時間の変遷を追っていくものなので、それで表現としては厚みが増した。

それはともかく、結局は作者は、漫画の神様とは縁を切らず、その関係および表現を高度化、発展させる形で、まだ一緒にやっていくことを選択したように思える。少し怖い、は関係を解消した感想ではなく、関係を解消しない理由の提出だ。

問題は、漫画の神様との関係を描こうとすると、作品が短くなりがちだったことだ。作品をただの表現として見るなら、それがどんなに短くても、構わないだろう。だが、それを商品として見るとなると、そうもいかない。作品が短いのは、物語に纏まりが欠けていることでもある。ある物を、それが欠けたまま売ってしまうのは考えものだ。

作者は欠けた物語を作りがちだった。そしてそれを売り物にするためには、きちんと物語の完成を目指す方向があるが、それとは別に、完成よりは、いかに欠けた部分を補う術を開発できるかを目指す方向もある。作者は後者を選んだ。

気付けば、神様も一つではない。完全無欠の一神教の神様もあれば、それぞれが何らかの欠点を持つような多神教の神様もある。そこには芸術の神様もあれば、商売の神様もある。完全無欠の神様や、完璧な芸術の神様にはなれないとしても、欠点がありながらも芸術と商売をそこそこ上手く掛け持つ神様になら、なれるかも知れない。

少し欠けたところがあろうが、どうにかして人々に、神様と呼ばれ続けられたら、漫画家として認知され続けられたら、それでいい。作者が到達したのは、そのような境地ではないだろうか。

・変身

ヒロは二週間前には蛇で、一週間前には狐で、三日前はカメレオンで、一昨日はシマウマで、今は亀だ。ヒロは双子の妹の家に身を寄せている。妹は、兄が家に収まる大きさになってくれたことに安堵している。

妹は動物を育てることと、探し物を見付けるのが得意で、ヒロが何度変身しても、その度にヒロを見付けた。ヒロが最初に変身したのはライオンで、それは妹を襲った暴漢達を噛み千切るためだった。

ヒロは妹を守ることを自分の役目と信じている。だが、動物の姿、人ではない姿では、いつまでも妹の傍にいられない、と感じている。一人の男性と並んで歩く妹の後ろを、いつもヒロは動物の姿で黙って追うしかない。

ある時、いつものようにその男性と並んで歩いていた妹は、ヒロの気配を感じて、後ろを振り返って名前を呼ぶが、そこにヒロの姿はない。妹はヒロを探して夜の町を、名前を読んで駆け回る。息を切らしながら、やがて妹は、ある一歩を踏み降ろそうとした靴の下に、蟻となったヒロを見付ける。

妹は左掌の上に、蟻となったヒロを置いて話す。その薬指には指輪がある。ヒロは、夫となった彼はおれを嫌がる、と言う。妹は、絶対にそんなことはない、と言う。蟻からすれば巨大な妹を見上げながら、ヒロは何かを言おうとするが、妹はそれを遮って、わたし達は世界でたった二人の、双子の兄妹ではないか、と語り掛ける。

それを聞いて、そうだね、とヒロが答えた途端に、妹はヒロの姿が見えなくなり、その声も聞こえなくなる。

それから時が過ぎる。虎、ペンギン、ワニ、白熊、カバ、キリン、フラミンゴ、フクロウ、自分の娘。動物園の中で、色々な存在が妹の目に飛び込む。妹は自分の娘に手を引かれ、自分を呼ぶ夫の許へ向かう。蝶、象。妹の目に、種々の動物の動きが映る。

鳥にも虫にも花にも水にも、木々にも風にも大気の中にも、おれを探して、探し続けて。ヒロはそう妹に伝える。妹はその姿も声も、恐らくはもう感じることはできない。

この短編集の中で、作画や演出の水準が一番高いのは、この作品だろう。だが、それはこの作品が一番面白いことを意味しない。つまらない、というのではない。何だかよく分からない、というのが大抵の読者の感想だろう。

何だかよく分からない、という作品なら、「奇妙な箱」や「球」なども同じくらいに、何だかよく分からない作品のはずだ。しかしこの二つの作品は、何だかよく分からないけど面白い、と大抵の読者は感じるだろう。この差は何か。

どちらも作中に、謎の箱や謎の球体が登場する。作品のよく分からなさは主に、それらの幾何学的な物体に由来する。作品の登場人物達も、それらの物体のことをよく分かっていない。

読者は物体よりは、物体に対する、その登場人物達の振る舞いを見る。物体のことはよく分からないが、その登場人物達の振る舞いは分からないことはない。読者と、その心情はそう変わらないからだ。

翻って、この作品のよく分からなさは、色々な動物に変身するヒロと、彼を見付けるのが得意な、双子の妹に由来する。物体ではなく、人自体のことがよく分からなくなっている。そして物語は、このよく分からない二人を中心に動いていく。

ヒロはなぜ動物に変身するのか。なぜ変身できるのか。変身は意識的なものか、そうでないのか、そのどちらでもあるのか。ヒロが変身する意味とは何なのか。妹がヒロを見付けられる意味とは何なのか。妹がある時を境に急にヒロを見付けられなくなる意味とは何なのか。それらがよく分からないまま、物語は終わってしまう。

物語とは、人の在り様を描くものだ。人のことがよく分からないような物語は、楽しむのは難しい。

これまでの作品で、模様は漫画の神様の象徴だったが、謎めいたものも同じく、その象徴だ。色々な動物の体表には色々な模様があることからも、ヒロもまた漫画の神様の一人であるように思われる。

だがこの神様は、これまでと違って、神様を眺める者と幼少時から長く親密な関係にある。それどころか、この神様は、自分を眺める者(妹)のために神様(動物への変身)をしている、とさえ言っている。これまでの神様とは異質だ。

これまでの神様は、出会い、目の前にあり続ける神様だった。この神様は、別れ、目の前からいなくなってしまう神様だ。更に言えば、前者が現れたために、後者になっていく神様であるように思われる。

新しい神様に居場所を奪われた、旧い神様。あるいは神様になる争いに破れた、神様未満の、神様候補。それは漫画の英雄(ヒーロー)とでも呼ぶべきものだ。

漫画の英雄の始まりは、妹を襲った暴漢達を、ライオンになって噛み千切ることだった。この暴漢達は、「宇宙卵」で男が経験した、社会的な困難や挫折と同じものを表しているだろう。もしかしたら、それらよりも深刻なものを含むかも知れない。そういったものから妹を守るために、漫画の英雄は誕生した。

妹は動物を育てるのが得意だった。それは動物に変身したヒロを家で世話することと繋がる。妹はヒロが家に収まる大きさになっていることに安堵している。それまでヒロは、ライオンのように、家で世話するには凶悪過ぎる動物に変身することが多かったし、それだけ妹にとって凶悪な何かが多かった、ということでもあったのだろう。

妹は探し物を見付けることも得意で、何度ヒロが変身しても、それを見付けた。変身する度に見付ける手間が発生する、ということは、変身する度に見失う、ということであり、見失う、とはヒロが妹の世話と管理から離れること、家の中からいなくなることを意味する。しかしそれはヒロが自らの意思で外へ出ていくことを意味しないだろう。

ヒロが変身することと、妹がヒロを見失うことは結び付いている。恐らくは、ヒロが変身するから妹がヒロを見失うのではなく、妹がヒロを見失うから、ヒロは変身をして新たに見付けてもらわなければならない。

妹はヒロに救われながら、しかしいつまでも同じ姿のヒロに関心を持ち続けてはいられない。ヒロへの関心を失った時、妹はヒロの姿も声も感じられなくなる。だからヒロはその度に変身しなければならない。ならヒロは家の中で変身すれば、よさそうなものだが、それはできない。

妹はヒロが変身し、その姿と声が感じられる時、ヒロを見付けて家の中に置ける。妹の家の中とは、妹の心的な領域であり、妹の関心そのものだ。妹がヒロを見付けることとは、自身の関心に叶うヒロを見付けて家の中に置くことであり、別の言い方をすれば、妹の関心に叶うものだけが見付けてもらえ、そうして家の中に置いてもらえたものだけが、妹にヒロと呼ばれ、漫画の英雄になれる。

ヒロとは漫画だ。一つの作品、もしくはその一人の登場人物だ。それは、消費と創作、両面の意味がある。動物とは体表に模様がある、本物の漫画の神様であり、それを模したのが、漫画の英雄であるヒロだ。

妹は困難や挫折に見舞われると、自分を救ってくれそうな動物を外で見付け、家の中に、動物に変身したものという形で、それを持ち帰って育てた。つまりは、学校生活などでつらいことがあったりすると、好みの漫画を見付けて購入し、読んで楽しみ、更にその漫画を模倣し、描いて楽しみ、そして救われた。

だがそうして楽しみ尽くすと、作品ないし登場人物への関心は薄れ、新たな作品や登場人物に関心が移る。妹はそのようにして、数々の動物を見付け、育ててきた。漫画と長く親密に関係してきた。

それは、妹がやがて夫となる男性と出会うことで変わっていく。男性は妹に娘を儲けさせ、その娘と共に、妹を動物園に招くことになる。そこにいる数々の動物は、何者かが変身したものではない、模倣ではない漫画作品を意味する。その内の一つとして、妹が儲けた娘もある。

男性は編集者としての漫画の神様であり、それと関係することは、仕事として漫画に関わることを意味する。一方で、漫画の英雄と関係することは、趣味として漫画に関わることを意味する。妹は趣味ではなく仕事として、漫画に関わり始める。それは漫画の英雄との関係を縮小させていく。

かつて漫画の英雄は、変身によって、身近な漫画の神様となって、か弱い妹を力強く守った。だが妹は成長すると、漫画の神様と直接、関わっていくようになり、漫画の英雄の変身の意味はなくなっていく。寧ろ、趣味ならともかく、仕事となれば「変身=模倣」が中心であっては困る。だからヒロは、妹の夫は自分を嫌がる、と懸念した。

ライオンのような凶悪な存在にも変身できた英雄は、今や蟻のような、か弱い存在にしか変身できず、昔は守ってあげていた妹に配慮してもらわなければ、危うく踏み潰されるところだった。妹にとって動物に変身する英雄は、必要どころか、邪魔な存在となりかけている。

それでも妹は、わたし達は世界でたった二人の、双子の兄妹だ、と言う。邪魔になってきたとしても、わたしと漫画との関係はヒロの変身から始まっていることは変わらない。だからヒロとの関係は終わらせない。

英雄は、妹を守る立場から、妹に守られる立場になっている。それは、英雄の凋落よりは、妹の成長だ。そのために英雄は何度も変身をし、妹の支えになってきた。漫画の英雄とは、妹の個人的な神様、妹だけが感じられる、妹が作り出した、妹の中だけの英雄だった。

妹は新たな漫画の神様の一人となりつつある。そうなれば、もはや妹は自分自身のためではなく、多くの見知らぬ読者のために、英雄を作り出さなければならない。それは誰かにとっての神様になり、その神様を模倣して誰かが、その人自身を救う英雄を作り出すだろう。

今まで妹に見付けられたがってきたヒロは、自らの意思で妹の前から消え去る。妹が作り出すべき英雄の質が変わったからだ。ヒロは妹に向かって、動物だけでなく自然の中にも、おれを探して、と語り掛ける。おれを見付けて、ではない。自然をいくら探しても、ヒロが見付かることはない。自然は妹の関心がある領域ではないからだ。

それでも妹は、自然の中も探さなければならない。仕事として漫画に関わり始めた妹は、自分のだけでなく読者の関心も考慮して、英雄を作り出さなければならないからだ。そうして作り出された英雄は、ヒロとは違った何者かだ。その何者かと、妹はこれから関係していかなければならない。

ヒロは妹の前から消えたが、いなくなったわけではない。ヒロはこれからも、妹を見守り続ける。そうするのが、ヒロ自身も信じる、ヒロの使命だ。

ヒロとは、妹の漫画への関心の、原初の形であり、妹の漫画への関わり方が変わっても、妹が漫画に何を求めているかは変わらない。不安な時や、つらい時に、心の支えになってくれるのが漫画だ。妹にとって漫画は、いつまでも心の中の英雄なのだ。

・球

この作品については以前、既に単品として読解を書いているので、多くはそちらに譲る。ここでは、単品としてではなく短編集の中の一作として、この作品を読んだ時に、新たに見えてくることを書こう。

模様のある不思議な球体とは何だったのか。作者の他の作品を通読するとそれはどうやら、漫画に関わることであるらしい、と理解できる。この作品では、球体の大きさと見た目が重要なものとして示される。

作中の人々は球体の大きさと見た目で、それを持つ人のあれこれを判断し、それが原因で差別的な風潮が起こったり、対立が起きたりしている。主人公はそれに反発し、球体の大きさも見た目も、その人の価値とは関係ない、と証明するために努力を重ね、試験で一位を獲る。

主人公の持つ球体は小さく、美しくもない。その主人公が試験で一位を獲ると、周囲は驚く。球体は漫画に関わる何かを象徴し、更に世間は、それが試験の結果にも関わる、という偏見を持っている。球体への偏見は、漫画への偏見だ。それはどんな偏見か。

試験とは、要は勉強の出来不出来だ。勉強に関した、漫画への偏見とは、漫画ばかり読んでいる(描いている)と勉強ができない、というものだ。そして主人公は、勉強ができない、と思われる側だ。ということは直感に反して、球体が小さいことや美しくないことは、より漫画への関心が高いことを表している。

その逆に、クリスの大きく美しい球体は、漫画への関心が低いことを表している。しかし作中で、クリスのその球体は偽物であることが明かされる。

クリスの本当の球体がどんなものであるかは、単品読解の方で論じた。偽らなければならないとしたら、それは小さくて美しくもないはずであり、主人公への好意を考えれば、主人公と似た球体だろう、と思われる。

つまり、主人公とクリスは同じくらい、漫画に高い関心があり、クリスはそれを隠しながらも、両者とも勉学を疎かにしなかった、ということだ。そうなると、主人公よりクリスのほうが苦労人である気がしてくる。

それはともかく、二人は勉学の成果をきっちり示し終えたことで、自信を持って漫画への関心に、正直に取り組むことができるようになる印象だ。

作者は作品を発表する時、不健全です、という言葉を添えている。これは「宇宙卵」に出てきた、普通ではない、と同じ意味を示している。漫画に関わって生きることは普通ではない。が、二人は普通の基準を堂々と満たしてみせた上で、敢えて普通ではない道を選ぶ。そうさせる魅力が、漫画にはある。

普通なんかでは物足りない。それを満たしてくれる刺激的な何かを、漫画は与えてくれる。刺激を欲しがっていることを密かに互いに確認し合う二人は、やはり不健全らしい。二人はもう、その刺激なしにはいられない身なのだ。

・月を飼った男の話

男は月を飼うことにした。本物の月を飼うことはできないので、器に入れた水に月を映して、それを手元に置き、男は毎晩、水に映した月に話し掛けた。すると、月は次第に大きく映るようになっていき、水面から出るように膨らんでいき、やがて水音と共に水面を離れ、本物の月のようになって浮かび上がった。

男は、月が生まれてしまった、と驚き、それから本物の月を見上げて確かめる。本物の月は変わらず、そこにあり、新しく生まれた月はそれとは別物であることを男は理解する。

男は、本当に生まれてしまった月を飼わなければならなくなったので、急いで月の飼い方を書物で調べ出すが、そんな情報は見付からない。精々、科学的な説明があるくらいだ。

生まれたばかりの月は、ふらふらと不安定そうだ。男は、その月に地球の代わりになるものが必要と考え、即席で帽子掛けを地球に見立てることを思い付き、そのようにする。月は帽子掛けの周囲に接近すると安定しだす。男は月の性質と現状を科学的に理解していく。

男は家に月がある生活を始める。帽子掛けではなく手作りの地球の模型を、月のために設置すると、男は安心して仕事に出掛け、恋人を家に招いて月を紹介したりする。やがて生活を続ける内に、月はどんどんと育っていき、家の中で飼うことが難しくなってくる。

男は月を外で飼うことを決め、恋人と共に、新たに地球の代わりや太陽の代わりになる構造物を作っていく。それが完成すると、二人はそっと月を外に運び出す。男は、外に出した途端に月がどこかへ飛んでいきはしないか、と不安がるが、月は無事に安定した浮遊と周回を始める。

外に出たことで、月はより大きく成長していき、二人が上に乗って遊べるくらいにまでなる。二人はまるで映画の登場人物のような格好と気分になると、月に梯子を掛けて上り、月の上で踊り美しく楽しい時間を過ごす。

しかしそれから程なくして、月は次第に萎み始める。ある程度の小ささにまでなると、男は再び月を家の中で飼うようになる。月は更に小さくなり、ふらふらとし、床に落ちそうなくらいの高さまでしか浮けなくなる。

男は月を支える器具の中に、月を収める。あれから恋人は男の妻となり、二人は一人の娘を儲けていた。男は自力で浮かぶことも回ることもできなくなった月を、手動で今までと同じ周期で動かしている。その姿を娘は見守る。

月はもう最初と同じくらいの小ささにまでなっている。娘は、月は消えてしまうのか、と男に尋ねる。男は月を飼い始めた時の器を持ってきて、その中に水を入れると、そこに月を沈める。月は少し揺らぐと、水面に映っただけの月に戻った。

男は、わたしの月は死んでしまったのか、それとも、月と過ごした日々は夢か幻だったのか、と自問する。いずれにしても、それが男と月との永遠の別れになった。

という、これまでの話は絵本に描かれた物語であり、それを母親が息子に読み聞かせていたのだった。絵本の読み聞かせが終わると、息子は母親に、ぼくも月を飼いたい、とねだる。母親は、いい子にしていたら飼える、と答える。息子は母親に何度も、本当か、と尋ねる。母親はそれを適当にあしらう。

絵本の傍には、絵本の内容を真似て、水を入れて月を映した器がある。その水面が揺らぐと、水音が鳴った。

これは「木を愛した女」の発展版だ。あちらは木を愛した女の話の話であり、こちらは月を飼った男の話の話だ。どちらも、元の話が本当かどうかは曖昧になっている。

木を愛した女の話は、木をどう愛したかではなく、木を愛する暮らしが成立するまでの話だが、月を飼った男の話は、月を飼う暮らしが成立するまでと、月をどう飼ったかまでの話で、内容がより掘り下げられている。

男は月を飼うに当たって、その方法を調べるが見当たらない。だから手探りで飼い方を試行錯誤する。そして、その過程が絵本になっている。

絵本の作者が男なのかは不明だが、月の飼い方が分からない問題は、絵本の存在を以て一定の解決が見られる。それを読んだ子供は、月の飼い方をある程度分かっている。そしてそこに、新たに月が生まれてくる。この子供が演じる話は「月を飼った男の話」よりも、掘り下げられたものになるだろう。

作者は漫画の神様との関係の解消ではなく、関係の構造を発展させることでの継続を選んだ。この作品は、その試みの一つだ。これを続けると、どうなるのか。一般的な洗練された作品に合流していくのか、それとも、今までにない、未知の独特な作品に行き着くのか。

その結末は分からないが、だからこそ、それが楽しいのかも知れず、作者の作品に感じられる妙な魅力の正体は、この楽しさなのではなかろうか。

・あいまの あと少しで人魚姫

完全に人魚となり、海の中の町で暮らす主人公の許に、日高から手紙と贈り物が届く。手紙には、きみの好きそうなものを送った、今度の夏休みにそちらの海に行くので逢いたい、ということが書かれていて、それを読んだ主人公は舞い上がりながら、日高に海の土産と共に手紙の返事を送ろう、と思う。

そこへ主人公の母が現れ、彼氏からか、と訊く。主人公は照れて、まだ違うから、と言ってその場から去る。

後日、主人公は海の土産と手紙の返事を日高に送る。主人公と日高の関係を知った母は、わたしの時代は人と暮らすなんて考えもしなかった、と羨ましがり、わたしも(主人公の)お父さんと暮らそうか、と話す。主人公は、その考えを支持する。

本編の読解は、学生の身で妊娠しながら、子の父親には頼れず、一人で産み育てようとする女性が、自分と関係ない妊娠も含めて愛してくれる男性に出会い結ばれる話、ということだった。

その時点では「漫画の神様」という考えに、まだ辿り着いていなかった。しかしこの作品も、この考えで読むことができるはずだ。

海は宇宙と同じ、広大で自由な領域ではあるが、普通の人間は生きていくことができない。生きていけるのは、身体に鱗という「模様」を持つ人魚だけだ。そして、この海は「宇宙卵」に描かれるような、仕事としての漫画の領域ではなく、「変身」の冒頭辺りに描かれるような、仕事以前の趣味の漫画の領域だ。

陸の上は学校生活の領域であり、その延長線上にある、社会生活の領域でもある。海と陸の境は、漫画生活を優先して社会から遠ざかるか、社会生活を優先して漫画から遠ざかるか、という境だった。これは「球」でも見られた、漫画に没入すると勉強ができない、という偏見と相似だ。

これを変えたのが日高だ。日高は海と陸とを繋ぎ、漫画生活と社会生活とを繋げてくれた。漫画を仕事にすれば万事解決。だから、日高は編集者で、彼との手紙のやり取りは、原稿のやり取り、ということになる。

このおまけ漫画では、日高との関係を訊かれて、まだ違う、と主人公が照れて逃げるが、これは自分の投稿した作品が、採用は決まったが、いくつか修正を求められている状況、といった感じか。

主人公は、これに応じて日高との関係を確かなものにする。それを見た主人公の母は、自分も同じようにしてみようか、と話す。これは、漫画を仕事にしようと決める以前の、過去の作品ないし構想を引っ張り出してこよう、ということを表す。

人魚が主役になり、人魚と人間の関係、漫画家(志望)と編集者の関係が物語になり、作品になる。漫画を描く人が、漫画の主役になる。姫とは漫画の主役のことであり、「人魚姫」とは漫画家になるまでが、漫画家自身を主役として漫画になることを言っている。

そうして人魚姫になれれば、その余波で、主役になれなかった者達を主役に押し上げることができる。主人公の母が、主人公が物語を切り開いたことで、主人公と同じ立場になれるように、漫画家が生み出した、漫画家を表した作品が、その母たる漫画家の仕事を予言成就的に成功拡大させる。

人魚姫とは、それを生んだ母の魔術的戦略であり、人魚も母も漫画家も魔女的存在であることを表している。

・その後の 宇宙卵

お姉さんは、何かの薬品と薬品を混ぜて実験しつつ、新しい銀河を構成する天体を手で捏ね、いくつも拵えている。お姉さんの許に身を置くようになった男が、お茶が入った、と告げたのでお姉さんは休憩することにし、二人は一緒に茶を飲む。

お姉さんはあらゆる時間と場所を行き来できる、超次元的存在で、宇宙を作ったり管理したりする仕事をしているらしい。今は男のために、男のいる時空に留まっているようだ。

男の意味あり気な視線に気付いたお姉さんは、席を立って鏡の前に行き、自分の顔を確かめて、ふむ、こんなものか、人間はすぐ老けてしまうから、と呟いて席に戻る。

男は、お姉さんが不老不死だと気付いている。そのことをお姉さんは知っているだろうか、と男は思っている。

お姉さんが銀河を拵える様子は、まるで食事を作っているようにも思える。お姉さんは編集者としての漫画の神様だったが、ここではそこに新たなイメージが顕れている。魔女と母だ。

お姉さんがしていることは、新しい漫画雑誌の創刊準備に見える。その後の休憩も、漫画家との打ち合わせに見える。だが、お姉さんが男の視線に気付いて鏡を覗いて老けを気にすることや、男がお姉さんの不老不死について思っていることは、少し事情が違うように思われる。

漫画家が漫画を生み、漫画が読者に届き、読者の中から新しい漫画家が生まれる、という繰り返しがあり、そこには確実に時間の流れが関係する。人間は老いても、漫画という営みは老いない。それは不老不死とも言える。

だからといって、それは打ち合わせで編集者とする話題ではない。ましてや、老いを気にしているのは編集者のほうだ。ここでは神様のほうが、自信がない。ここにいるお姉さんは、編集者のような、漫画家を支える神様ではない。従って、これは打ち合わせではない。

実験をし、天体を捏ねるのは、雑誌の創刊準備ではなく、自分の作品の連載準備だ。このお姉さんは漫画家としての神様であり、その後の休憩とは、漫画家としての自分を振り返ることだ。それに付き合うのが男であり、男はお姉さんを見詰め、まさしく鏡の役割を果たしている。

ここにはお姉さんと、鏡としての男だけがいる。そして、お姉さんと男では、漫画家としての在り様に、微妙に意識の擦れがある。

漫画家としてのお姉さんは、魔女のようでもあり、母のようでもある。そんな、お姉さんは男の視線に、自身の老いが気になっている。お姉さんは本来は不老不死で、時空を飛び回っているはずが、今は男のために一つの場所に留まっていて、男に合わせて年齢を重ねる振りをしているようだ。ならなぜ、お姉さんは老いに敏感になっているのか。

お姉さんは、男にとって人間は老いることが自然であり、そうでありながら老いることを、厭わしい、とも感じるものであることを理解している。お姉さんは、老いても老いなくても、男にとって不気味な存在にならざるを得ない。その中でお姉さんは、老いること選んでいる。同じ不気味なら、男と同じ人間らしくあろうとしている。

男はお姉さんにとって、人間であり鏡でもある。お姉さんが男の視線に感じる欲望は、お姉さん自身の欲望が反射したものだ。お姉さんは、漫画の神様か人間か、という問題に、どちらでもありたい、と望んでいる。

魔女は伝統的には老婆として描かれるが、今時は若くて活発な魔女も描かれる。それは年齢を超越した、神秘的な、働く女の肖像だ。一方で母もまた同じく、神秘的な、働く女の肖像だが、子を生んだからには、そこには世代と年齢の差異が紐付いている。

時間の流れと関係なくいられる存在と、時間の流れがなければあり得ない存在。それは漫画の中で生きる人物と、現実の中で生きる人物だ。ここには漫画の人物となった漫画家と、それを現実の側から見詰める、漫画家自身との対話が描かれている。

だが、そこで何かの答えが明確に出されるわけではない。漫画の人物は不老不死だよな、と思いながら、不老不死なのに年齢を重ねる振りをする。漫画にそう描けば、どれもそのようになる。鏡の前に立てば、どれもそのように映る。

漫画とは、映す手間の掛かる鏡だ。取り敢えず、漫画を前にそう感じている作者の心情が、ここには映し出されているように思われる。

・神様のランプ

宇宙の中で月が明るく照らされている。その月からは紐が吊り下がっている。その紐を掴んで下に引く手があり、すると月は光が照らされなくなり、消された電灯のように暗くなる。月を暗くした女は、銀河を枕や布団にして眠りに就く。

この作者のではない、他のある作品に対する文章の中で、漫画とは顔の世界だ、というようなことを書いたことがある。漫画では顔こそが人物の認識を司る。更に言えば、その目の描き方に漫画家の個性が現れる。

目とは眼球であり、これも模様のある球体であり、そして顔や目の奥には、果てなき想像力と、それが作り出す果てなき世界が収まる、脳がある。脳の皺も模様と言えよう。

漫画の神様を表す月とは、究極を言えば、人の頭のことだ。そこに漫画の全てがある。月に光を当てることが漫画を描くことであり、光を反射する月を眺めることが漫画を読むことだ。漫画に関わることは、人の頭に関わることなのだった。

人の頭の中には宇宙があり、世界があり、街があり、生活と仕事があり、そこには人々がいる。その人々の頭の中には……。それは、人が人を生み、漫画が漫画を生むように、果てしない。目が回りそうだ。

が、その果てしなさも、光が当たっている間のものでしかない。確かにそこにあるはずのものだけど、見えなければ、意識しなければ、どうということもない。ちょっと漫画の本を閉じてみよう。目を閉じるのでも同じことだ。楽になるだろう。人の頭の果てしなさ、なんて、そんなものだ。

漫画に没入することは、勉強の出来や人の出来とは関係ないけど、没入のし過ぎは、やはり心や身体に良くはない。漫画は魔法でも奇跡でも何でもない。適度に休憩しよう。漫画は一日二時間、くらいだろうか? どこかに漫画の名人はいないものか。

で、また目を回したくなったら、漫画の本を開いたり、目を開けたりすればいい。漫画は変わらずに、そこにあるはずだ。それが漫画のいいところだ。漫画は逃げたりしないし、追い掛けてくることもない。時間を内包しながら、それを進めるのは読み手や描き手に委ねられている。現実と違って、時間を勝手に進まされることはない。

漫画とは、現実を映して、何者にも急かされずに自分の歩調で、再びそれを生き直すための技術だ。そこには、あの時こうすればよかった、とか、あの時あれがあればこうなっていた、といった願望や想像が混じる。

薄情な現実の代わりに、漫画はそういう願望や想像を、果てしなく受け止めてくれる。人の願望や想像の果てしなさが、漫画の果てしなさを生む。二つの果てしなさが合わせ鏡になると、果てしなく果てしない。もう訳が分からない。

恐らく、本当に漫画の中の存在になることは、その果てしなさに閉じ込められ、時間に対する主体性を失うことを言うのだ。時間を進まされることもない代わりに、自ら時間を進むことも、進ませることも許されなくなる。自分ではない誰かが未来を読んだり描いたりしてくれるまで、永久に静止したままだ。

普段、人は時間の流れを厭うことが多い。大人になるのは恐い。老いるのは恐い。休日が終わるのが恐い。仕事が始まるのが恐い。今の自分が変わってしまうのが恐い。自分を変えなければならないのが恐い。

では、永久に静止したままがいいのか。

そう漫画は人に突き付ける。そして、人は静止したままではいられない、と思わせてくれる。一つのコマだけを見詰めていても何にもならないし、一つのコマを描き込み続けることにも限界がある。我々は次のコマに移ることを、自然と欲するようになる。我々は次のコマがあることを、時間の流れがあることを、そうして肯定していける。

現実の時間の流れは、強引で早い。漫画の時間は、描き手や読み手が自分で作ったり動かしたりするが、作らなくても動かさなくてもいい。漫画は時間の流れを、人に託してくる。そこで人は時間が流れる意味と、人はただ時間に流されるだけでもない、ということを、感じて考えることができる。

漫画に関わることは、さっさと流れていく現実を切り取って自分の手の中に収めて、繰り返し詳細に味わい得ることだ。だからそれは、現実と違う設定や時間の流れに転向する意味で、現実逃避とも言えるし、設定や時間の流れを変えて現実を何通りも味わい直す意味で、現実没入とも言える。

現実は疲れる。だからそこから逃避するのだが、しかしその方法は現実の味変でしかなく、地の現実を摂取しながら、調味した現実も追加で摂取することになる。ただでさえ疲れるものを摂取し易くしたら、もっと疲れることにもなる。だがその疲れは、とても充実し満ち足りた、心地のいい疲れかも知れない。

漫画を読むにも描くにも、目を使う。頭を使う。それらは使い過ぎると、ぼんやりしてくる。しっかりと漫画に関わるなら、しっかりと目も頭も休めなければならない。

ここまで数々の作品を、作者も読者も、それぞれの立場で味わってきた。これからも数多くの作品と関わっていくためにも、本を閉じ、目を閉じ、頭の電気を消して、今はおやすみ。眠りから覚めても、漫画はいつだって優しく、我々を迎えてくれるだろう。

・作品初出一覧 (昇順)

変身           2018年11月24日 pixiv
あと少しで人魚姫     2020年  2月24日 pixiv
亡国の騎士とワガママ王女 2020年  3月29日 pixiv
宇宙卵          2020年  5月  1日 pixiv
僕の妻は月の子供     2021年  2月13日 twitter
木を愛した女       2021年  2月21日 twitter
神様の暇つぶし      2021年  3月14日 twitter
両親のかくしごと     2021年  3月24日 comic gift
月を飼った男の話     2021年  4月  4日 twitter
奇妙な箱         2021年  5月19日 comic gift
球            2022年  1月30日 twitter 

確認しておくと、pixivは漫画やイラストレーションの投稿に特化したSNSで、twitterは文章の投稿に特化しているが画像の投稿にも対応したSNSで、comic giftは個人の編集者がtwitterで主催している、漫画発表の場だ。

comic giftは主に4ページという指定で、作品を募集している。それを知ったのは、この記事を書き始めて、しばらくした後で、だから本当は、いくつかの作品の妙な短さに言及している部分は修正をしなければならないはずだが、まあそんな変わらんでしょ、ということで、そのままにしている。

さて、作品初出順を並べてみて、どう解釈したものか。一番完成度が高いと思われる「変身」が一番古い発表であり、それから一年くらいの間を置いて、2月頃から5月頃に掛けて作品が発表される年が続く。

いつ作品が構想され、いつその制作が始まり、終わったのか。二つ以上の作品を同時平行で制作することはあったのか。そういった事情は分からないので単純に、作者が初出順に作品を一つずつ手掛けていった、ということにする。

「変身」の完成度の高さは、ストーリー漫画としての完成度だが、これ以降の作品はストーリー性(ドラマ性とも言える)が後退し、エッセイっぽさが出てくる。エッセイっぽい、といっても、それは作者の実体験を描いたものではない、空想の話なのだが、なぜだかエッセイのような緩さがあるように感じられる。

それらの作品の設定は、エッセイ的な日常寄りのものではなく、ストーリー的な緊張感のあるものなのだが、その緊張感はストーリーに向かわず、エッセイ的な日常に向かっていく。

一番新しい「球」では、ストーリー性が戻ってくるものの、その終わり方は、エッセイ的な緩さに通じるものがある。「変身」も「球」も、よく分からないものが、よく分からないままで終わる点で似ているが、「変身」は主人公とヒロとの関係の、終わりの予感を描いて閉じられるのに対し、「球」は主人公とクリスの関係がどうなるかを読者に気にさせておきながら、それを放って、主人公の恍惚を描いて閉じられる。

話の雰囲気から、主人公とクリスが決別することはないだろうが、問題は主人公とクリスの関係の行方を、作品から切り捨てていることだ。ストーリー即ち物語とは、人物達の何らかの変化を、何らかの形で描くものだ。「球」は「変身」と同じように物語を始めながら、変化について予感はさせているものの、それ自体を描くことは放棄し、物語の終わりをエッセイ的なもので塗り潰してしまう。

エッセイ的なものとは、要は人物の感情や感想だ。ある時こういう出来事があって、その時わたしはこんな気持ちになった、という、その「気持ち」を主として描くのがエッセイだ。「気持ち」が主なので、日常の細ごまとしたことからも作品を成立させられる。

対してストーリー的なものは、「出来事」とそれに関わった人々の反応が主だ。というより、その人々の反応も「出来事」の内に回収されるのがストーリーだ。「出来事」を主要な人物の視点で眺めるもの、とも言え、「出来事」の濃さがなければ成立しにくい。

作品は、ストーリーからエッセイへ、という流れを示す。しかしそれは、ストーリーからエッセイに丸ごと乗り換えるようなものではなく、ストーリーを残しつつ、そこにエッセイ的なものを持ち込み、ストーリーを部分的に塗り潰すものだ。

これは、ストーリーとエッセイを融合すれば面白くなる、というような挑戦的試みではないだろう。作者はストーリーの面白さに関心はあるが、エッセイの面白さに関心は薄い。更に言えば、ストーリーの面白さについて、作者として過剰な責任感を抱いていて、それを薄めるためにエッセイ的なものを持ち込み、これは純粋なストーリー作品ではない、だから(純粋な)ストーリーの面白さは期待するな、と自身にも読者にも言い聞かせているのではないか。

ストーリーという恐るべき相手と上手くやっていくために、ストーリーに代わって作品を成立させ得る、エッセイ的ものの力を呼び込む。それでストーリーを殺したいわけではなく、ただ弱めたい。だからストーリーを、エッセイ的なもので包み込む。

なぜ作者はそこまでストーリーを恐れていて、しかしなぜエッセイ的なものを呼び込んでまで、ストーリーと付き合おうとするのか。自分がストーリー漫画に憧れて育ち、自分も同じくストーリー漫画を、力不足ながら手掛けていたい、という思いからだろうか。そうではない気がする。

この短編集に収録された作品を初出順で見れば、ストーリー漫画としての完成度が高い「変身」から始まり、それにエッセイ的なものを混ぜ込んでいく、実験だったように思える。なら、その大元の「変身」の中に、作者が恐れ、エッセイ的な力で弱めたい、何かがあるように思われる。

「変身」の中には、この作品にだけ描かれ、他の作品には描かれていないものがある。流血だ。妹は暴漢達に襲われ、暴漢達を噛み千切って妹を救うために、ヒロは初めてライオンに変身する。それが妹と漫画の関係の始まりであり、エッセイ的なものを必要とする始まりでもある。

流血は暴漢達の血だが、妹は返り血を浴びている。妹は無傷だっただろうか。少なくとも妹は、その血に汚れてしまっている。心的に無傷ではいられないだろう。

エッセイ漫画にも流血表現は出てくることはある。だがそれは、笑うべき出来事だったり、全体で見れば笑いになる出来事の一部としてだったりする。過酷な体験を告白する類いの作品でも、流血が綿密に描かれることはないだろう。流血は現実の深刻さの象徴だ。エッセイは、それをぼかす。

ぼかすことで、日常の、話としての弱さや、過酷な記憶や経験の、話としての強烈さを、平準に均して読者に届きやすくする。描くほうも描き易くなるだろう。エッセイは虚構ではなく現実を描くものだが、虚構並みに加工の手間が掛けられる。虚構のほうが却って素直な表現になる場合すらあるかも知れない。

虚構とは完全な作り話ではない。人は完全な作り話を作れない。どうしたって、そこには現実の自分の経験や知識や価値観や感情や欲望が混ざる。というより、自分を含めた現実の諸々を機能的に近似したものに置き換えてしまうのが虚構だ。

日本語をラテン語に翻訳して、しかし言っていることは「弱った時に離れず助けてくれるのが本当の友達」とか「金髪ツインテツンデレ幼馴染み最高」とかだったりするようなものだ。言っている意味は同じでも、印象や雰囲気は随分と違ったものになるだろう。そこに価値がある。

虚構と、それで作り上げられたストーリーとは、現実の何かを複数の方法で表現し、それによって現実の何かを複数の方向から見詰め、その意味や本質について考えるためにある。ストーリーが流血を描く時、それに触れる我々は、なぜ流血が起こったのか、その流血は何を変えてしまうのか、ということを考える。エッセイは、流血の意味を我々に問うようなことはしない。

作者は最初期にストーリーとしての流血を描いた。以降、作者はストーリーを残しつつも、流血を描かなくなる。作者が流血について描くべくことを描いて満足したからだろうか。いや、作家というのはしばしば、描けば描くほど、描き切れなかった部分や、新たに描きたい部分が出てきて、似た主題を繰り返し描いてしまうものだ。

作者の描きたいものが流血でなかった可能性が考えられる。だがそれなら、作者は改めて、自分が描くべきものを求めて別の種類のストーリー漫画を描き始めればいいはずだ。何も、エッセイ的なものを呼び込む必要はない。

そもそも、この短編集に収められた作品には「漫画の神様」と呼べるような主題が通底していた。そしてその最初期の作品に於いて「漫画の神様」と流血の、関係の深さが示されていた。そこから流血が消えて、代わりにエッセイ的なものが現れる。

作者がエッセイ的なもので包み、弱めたかったのは流血だ。もっと言えば、流血と深く結び付いた「漫画の神様」から、流血だけを拭い去りたかったのだ。それが、作者の作品がストーリー性を宿しつつ、ストーリー性から距離を取ろうとして、妙な短さになったり、その工夫が高度化したりして、独特の印象を与えている理由だ。

作者は「漫画の神様」のストーリーを描きたい。しかし「漫画の神様」と流血は結び付いている。作者は流血を描きたくはなかった。それは作者の過酷な現実ないし過去を呼び起こすからだ。しかし漫画とは現実や自分を映す鏡であり、作者は、鏡にそれらを映して自らもそれらを覗き続ける道を選んだ。

そこには作者にとってまだ直視できないものも映る。だからといって、それを理由に鏡の前に立つことを諦めるわけにはいかない。あるいは寧ろ、今はまだ直視できないものを、いつか直視できるようになるために、鏡の前に立ち続けることを選んだのかも知れない。

漫画は時間の進みを、漫画に関わる者に託してくれる。つらければ、いつでもその手を止めていいし、充分な休息を取って準備と覚悟が整えば、いつでもその手を、自分の速度で動かしていける。

そうして、「漫画の神様」を流血なしにどう描けるか、あるいは、本当は流血と結び付いている「漫画の神様」をどう描けるようになれるか。流血を、忘れて乗り越えるべきか、直視して乗り越えるべきか。それを知ろう、というのが、作者が漫画に関わり続ける動機であるように思われる。

流血が作者にとって何を象徴するものなのか。それは分からない。もしかしたら作者自身にも、よく分からないものかも知れない。ただ、それはこの短編集の中では異質であり、最初期の作品にのみ現れ、しかし表題作として選ばれることはなかった。

完全に消し去るのでもなく、かといって全面に出すのでもなく、散発的に出すのでもない。作者は流血を、短編集の中に、忘れないようにしながらも、ひっそりと隠してしまいたかったかのようだ。

作者の作風なら吸血鬼物も充分にいけそうだが、それは描けないのではないか。流血の意味を、作者は追究できないし、それを別物に変えてしまうこともできないからだ。作者にとって流血は、忘れてしまうことも直視することも改変してしまうこともできない、特別な何かだ。

作者の漫画の奥には、特別な何かが隠されている。それを隠すために漫画の神様は求められ、今も奇妙な変身を繰り返している。それは聖域を聖域たらしめる祭儀であり、読者は祭儀を娯楽として楽しみながらも、その奥に不気味なものの気配を感じることになる。

しかしその不気味なものの気配すら、祭儀の魅力の一部となる。祭りとはいかがわしさを含むもので、いかがわしいからこそ楽しくもある。その時、聖域に隠されているのが実際には何なのか、深刻なものなのか、あまり大したものではないのか、それは関係がない。

奇妙な楽しさと、それを引き立てる不気味さとを読者が感じられれば、祭りとしては大成功だ。そして、作品の読解の目的は、その祭りの成り立ちや、祭りの楽しさの正体を考えてみることであって、祭儀を引っくり返して見せたり、聖域に踏み入って聖なるものの正体を暴くようなことではない。

ここまでで、読解の目的は充分に達成されたように思われる。

というわけで、この短編集に収められた作品とその初出時期から、以上のようなことを読んでみた。これが全ての物事を正確に言い当てている、とは到底思われない。しかし、何もかも丸っきり外している、とも思われない。作者が渾身の力を込めて映した鏡の像の数々から、こちらは読者として、今そこから読める限りを読んだ。

読み間違いや読み落としは多分にあるだろう。だが、それだけしかなかったなら、ここまでの記事を書くことはできなかったはずだ。この記事に何らかの一貫性が成立しているなら、それは作者の作品の在り様を、不完全ではあるにしても、多少歪んでいるにしても、映し返すことができているからだ。読者の読みもまた、作者を映す鏡の一つだ、と言える。

さて、この記事が作者の目に届くことはあるだろうか。SNSの時代だから、自分から売り込もうと思えばできないこともないのだが、それはさすがに気が引けるので、やりはしないけども、もし作者の目に届いたなら、作者の作品に何か影響を与えることになるかも知れない。

作品の読解が記事となって、それが作品に影響を与え、その作品をまた読解する。この記事を一つの作品と呼んでいいなら、作品という鏡が合わさって、果てしないものがそこに、また一つ発生することになる。

漫画は漫画を生むが、漫画以外も生む。漫画を生む漫画家も、漫画だけしか読まないわけではない。漫画も漫画でないものも色々と取り込んで、漫画というものは、ようやく生まれる。そこに漫画の果てしなさの秘密がある。

漫画とは人の頭の中を映し出したもので、人の頭の中には、その人が生きて感じている世界の情報が、流れ込んでいる。漫画自体が果てしないのではなく、人の頭の中自体が果てしないのでもなく、漫画や人の頭の中に流れ込み、またそこから流れ出ていくものが果てしない。漫画や人の頭の中は、その果てしないものが通り過ぎる瞬間を、そこに留め置いたものでしかない。

漫画は鏡だった。そこに果てしないものが見えるなら、その前を果てしないものが通り掛かっているからだ。言い換えれば、その時、その鏡の前を通り掛かっているものは皆、果てしない。

というより、果てしなさは普段は漠然としていて、あまり果てしなく感じることができないのだが、鏡という限られた領域の中に切り取られた時だけ、却ってその果てしなさを感じることができるようになるのだろう。

だから、果てしなさを切り取って見せる漫画というものは果てしない。しかし、その果てしなさにも面白いものと面白くないものがある。人は面白い果てしなさを好んで留め置こうとする。作者の作品は面白かった。それは、作者が色々な面白い果てしなさを感じて、それをまとめて映し出せたからだ。

なので筆者も、その面白さに応えて、この記事を書いている。面白いものになっていることを信じて。この記事が面白いものになっていて、それが作者に届いたなら、作者が再び面白い作品を作ることに、少しだけ関われたことになるだろう。作者に直接届くことがなかったとしても、別の誰かには届くことがあって、その誰かが別の形で、作者に面白さを届けてくれるかも知れない。

漫画を直接、生むのは作者一人だが、漫画が生まれることに関わるのは作者一人だけではない。果てしない数の要素が、その漫画の生まれに関わっている。あるいは、その漫画の面白さに関わっている。

漫画を描く能力を持ち合わせていない者でも、面白い漫画の誕生のためにできることがある。漫画を読み、漫画について何か表現すればいい。漫画の輝きを浴びて受け、自らも輝き、それを返す。そうすれば漫画は輝きを増す。

漫画の神様の象徴は、太陽ではなく、月だった。月は自分の力では輝けない。何かの放った光を受けて、初めて輝き、人に見てもらえる。すると、その月は、何かの放った光とは違った輝きを自ら放てる。それは個性とか固有性とか呼ばれるもので、月を見る者が、好き勝手に思い巡らし、そこに感じ取るものだ。

物理的な光は、反射を繰り返せば減衰していくだけだが、漫画が放つ光は、人に届き反射した分だけ豊かになれる。それが漫画の特殊なところであり、素晴らしいところであり、人々に愛され続ける理由でもあるだろう。

漫画の輝きは、人同士を照らして輝かせ合う。人は漫画によって輝く。その輝きが更に漫画を輝かせ、豊かにする。漫画の光の本質は人を表す情報であって、それは反射を重ねていくと、減衰する代わりに変化を起こしていき、その量と価値を増していく。

漫画という情報が人を変えるのと同時に、その、人が変わる過程を情報として取り込むことで、漫画は自己増幅を繰り返す。漫画が、人を知るための道具でありながら、人を変える性質をも併せ持つから、そんなことが起きる。人が存在して、生き、変化し続ける、その様を人自身が知りたがり、表現したがる限り、漫画の輝きもまた続く。果てしなく。

人の手あるいは頭の中に収まる、果てしなさ。この矛盾したような不思議な構造は、人が人を見詰めるような、自分で自分を見詰めるような、再帰性がある。

何かに収まりようもない、果てしないものを、人はコマやページや本といった、果てを設定したものの中に表現する。それは果てを設定しなければ、人は何かについて考え終わることはできず、すると、その何かについて考え始めることもできなくなるからだ。

表現とは、果てが設定されたものであり、果てとは、何かの始まりと終わりであり、人が認識し知覚できる単位だ。果てしないものは、そのままでは認識も知覚もできない。認識も知覚も果てしなさが要求されてしまうからだ。

例えば、ある人の人生について考えてみる、とする。ある人の人生は、果てしない宇宙の時間と現象の連続の、極めて限られた小さな小さな一部分のことだ。かといって、ある人の人生について、宇宙の始まりと終わりから考えようとするわけにはいかない。そんなことは先ず無理だ。

そもそも何かを考えようとする人自身も、果てしない宇宙の時間と現象の連続の、極めて限られた小さな小さな一部分の一つだ。人自体が果てしないものの中に設定された、果ての一つであり、一つの表現だ。

果てしなさの一部分でしかない表現の力で、果てしなさの全部を表現することができるはずはない。だが、果てしなさの全部から一部分を切り取って表現することはできる。果てしなさを人の大きさで切り取ったのが漫画だ。そこには人が表現されている。

なぜ人は人を表現するのだろう。それは、人が人を知りたいからだ。では、なぜ人は人を知りたがるのか。それは、人が人だから、と言いたいが、それはあまり答えになっていない。だがここで、果てしない宇宙の時間と現象の連続の、極めて限られた小さな小さな一部であるのが人だ、ということを思い起こせば、答えのようなものが見えてくる気がする。

人は人を知りたがるだけでなく、宇宙をも知りたがる。人は宇宙の一部だ。ならそれは、宇宙が宇宙を知りたがっている、ということになる。宇宙は色々なものを内に含み、色々なものを生む。その一つが人だ。

なぜ人は生まれたか。宇宙の始めに人はいなかったはずだ。しかし、いずれ色々なものの一つとして、人のような、宇宙を知りたがる部分を生じるのが宇宙だった。宇宙にはいずれ自身を知ろうとするような性質があり、宇宙の一部である人は、その通りに宇宙を知ろうとしながら、自身を知りたがる、という宇宙の性質を引き継いで、人自身を知ろうとするのではないか。

では、なぜ宇宙は自身を知ろうとする性質を持つのか。それは分からない。自身を知ろうとする性質を持たない宇宙はあるのか。それは宇宙と呼べるものか。などと宇宙について考えていると果てしないし、答えも出せそうにないので、ここでやめておくが、一つだけ言っておくと、宇宙には何かを複製したり、何かを自身に似せたりする性質もあるのではないだろうか。

宇宙に今、人はいるが、唯一ではなく、たくさんいる。それらは全員、同じようでいて同じでない。みんな違う外見で、違う記憶や経験や考え方を持ち、しかしみんな同じように生まれて生き、食べて飲んで、笑って泣いて怒って喜んで、病んだり老いたりして死んでいく。

人は互いに似ているだけで同じではない。なのに、炭水化物を食う、呼吸をする、といった同じことをして、みんな生きている。それは、人がみんな、親の形質を引き継いで生まれてくるからだ。もし親の形質を引き継がずに生まれた者は生き残れないし、仮に生き残れたとしても、それはもう人とは呼ばれない、別の何かとなるだろう。

過去に似ることができたものだけが、現在に残る。過去に似ることができなくても、現在に残ることはあり、それは何かの新たな始まりとなるが、それが現在に残っている間に、何かを自身に似せることができなければ、やはり消えていく。

宇宙には、何かに似ることができたものと、何かを自身に似せることができたものだけが残ることになる。人という存在も、宇宙の始まりから、何かの似たり似せたりの繰り返しが続いた果てに現れたもののはずだ。

そして人は、その繰り返しの歴史に自身を似せ、何かを人に似せる。人の生殖によって生まれた人は、自身も生殖を行い、人を生む。それだけではなく、人は色々な手段を発明して、何かを人に似せてきた。その多くは「何かを自身に似せる」部分で失敗して消えていった。

ある時、人は漫画を生んだ。漫画は「何かを自身に似せる」部分に、人並みに秀でていた。漫画自体は何も為すことはできないが、人を動かし、自身に似せたものを作らせ続けることができた。人を表現したい、という人の欲求に相乗りして、漫画は今も人と共に残っている。

もし人が消えれば、漫画も消えるだろう。もし宇宙が消えれば、人も消えるのと同じように。人と漫画との関係は、宇宙と人との関係と相似だ。漫画と人と宇宙は、繋がっている。そういう、とても根源的で、だからこそ却って顧みられないような重要な事実に、作者は何の気なしに辿り着き、それをあっさり表現してしまったのかも知れない。

宇宙から生まれた人は、宇宙とは何か、人とは何かを考える。なら、人から生まれた漫画も、人とは何か、漫画とは何かを考えているだろう。実際に、漫画は人を表現するものだったし、漫画についての漫画というのも、今時は珍しいものではない。この短編集に通底するのも、それだった。

宇宙は人を生んだ。人は漫画を生んだ。漫画は何を生むだろう。勿論、宇宙は人以外の多くも生んでいるし、人も漫画以外の多くを生んでいる。漫画も例外ではない。ここで問いたいのは、人にとっての漫画に相当するものは、漫画にとって何か、ということだ。

それは未だ生まれていないのか。それとも既に生まれてはいるが、それに人が気付けていないだけなのか。そもそも、それは人が気付ける性質のものだろうか。宇宙に意思があり、宇宙が人を意識しているとして、宇宙は漫画をどう見ているだろう。もしかしたら、漫画は人と分かちがたい、人と繋がった一つの現象に見えているのかも知れない。

本当のところは解らない。宇宙のことは解らない。解らないから知りたくて、人は色々と考え、色々と生み出し、色々と漫画を描いたり読んだり、漫画についてや、人や宇宙について、色々と書いたり読んだりする。

んん、人がこんなであれば、もしかしたら宇宙くんも、自身のことが解らなくて、だから知りたくて、人を生んで、色々と考えようとしているのかも知れない。

宇宙くんにとって、人は漫画だ。その連載(?)が無事に完結した時、全ての謎が解けているといいね。打ち切りや、作者(読者)急病急逝により結末不明、なんてことにだけはならないように。漫画の神様、どうかよろしく。