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連載小説「クラリセージの調べ」5-10

 19時を回ったスターバックスは、自分時間を満喫する仕事帰りらしき男女が目立つ。思い返せば、会社員時代の最後の二年はコロナ禍で外出を控えていて、結婚してからは夫と夕食の食卓を囲んでいたので、この時間のカフェとは久しく縁がなかった。日中の想念をひきずるかのように、気だるい空気が流れる空間に身を置けるのが新鮮だ。早めに着いた私は、頭をしゃんとさせるために、いつもは飲まないコーヒーを購入し、二人掛けのテーブルと椅子を2つ寄せ、4人掛けられる席を確保しておく。

 すずくんが先に来てくれたので、配席を相談し、壁際の席に奥から瑠璃子と私、反対側にすずくんと義父に座ってもらうことに決める。後から来た瑠璃子は、固い表情で私をハグすると、胸に渦巻く様々な感情を押し込めたような仮面を張り付けた。

 それぞれがコートを脱ぎ、温かいコーヒーで身体を温めながら待っていると、黒いダウンジャケット姿の義父がほぼ時間通りに現れた。彼がテーブルに近づいてくると、まだ鮮烈な感触や息づかいが思い出され、心臓が胸郭を押し上げるかのように激しく打ち始める。この感覚に身を任せてはならないと、理性で怯えをねじ伏せるつもりで下腹に力を入れる。先日すずくんが言ってくれたように、堂々としていようと、背筋をぐっと伸ばす。

「鈴木先生と、友人の岩崎瑠璃子さんです。お願いして、立ち会ってもらいました」

「今日は医者ではなく、澪さんの友人としてここにいます」
「岩崎です。澪さんとは小学校からの友人で、結翔さんとも大学時代に仲良くさせていただきました」

 義父は二人に目を走らせて小さく会釈し、手元の紙カップに視線を落とす。節くれだった手に、緊張で力が入っているのがわかる。

 数秒の沈黙の後、私は正面に座る義父に視線を据えて切り出す。
「紳士的なお義父さんが、あんなことをしたのには、相応の理由がおありだと思います。まずは、お義父さんの言い分をお伺いします。二人には、ここで聞いたことは他言しないようお願いしてあります。念のため申し上げますが、録音や録画はしていません。どうぞ、お話ください」

 義父は周囲の席をさっと見回した後、私に視線を移す。
「ご配慮、感謝する。まずは、昨日は道に外れたことをしてしまい、本当に申し訳なかった。深くお詫び申し上げる。ここのところ、年齢のせいか、感情の抑制がきかなくなって、自分でもどうしたらいいかわからなくなってしまうんだ。じいさんの介護で寝不足になっているからだろうか」

 マスクを外した義父は、手にしていたコーヒーを一口飲む。言葉を発さず、人形のように表情を動かさない私を見て、義父は力を増した声で続ける。

「謝って済むことではないとわかっているが、どうか、なかったことにしてくれないか。もう、二度とあんなことはしないと誓う」

 地肌の目立つ頭を深々と下げる義父を前に、怯えを凌駕する怒りが沸々と湧き上がる。

「なかったことにしてほしいと簡単におっしゃいますが、絶対に無理です。ご自分のなさったことの意味をよくお考え下さい」

「……それは、もっともだが。あなた方、若い人には実感できないだろうが、年を取ると感情が抑制できなくなるんだ。あれは、年寄の一時の気の迷いでしかない」

「一時の気の迷いとおっしゃいましたが、今までのお義父さんの言動から、私には別の理由があるように思えてなりません。
 以前、私に平山という親戚がいないかと尋ね、私がその方に似ているとおっしゃいましたよね? それから、私の作るすまし汁が、私に似た人に作ってもらった味に似ているとも伺いました」

 義父は手に持っていた紙カップをテーブルに置き、困ったようにすずくんと瑠璃子をちらりと見た。私は二人に、留まってくれるよう目線で訴える。二人が席を外す意思のないのを見て、義父は観念したように膝に両手を乗せて話しだす。

「あなた方より、もう少し若い頃、28の頃だ。私はある女性と内緒で交際していた。同じ学校で事務をしていた平山翔子ひらやましょうこさんという3つ年下の女性とね。澪さんとうり二つの垂れ目で優しそうな顔立ちだった。私の一目惚れで、口説き落として交際に持ち込んだ。明朗快活な女性だったが、生まれつき腎臓が弱く、無理ができないので、学校の近くに部屋を借りて通勤していた。私は身軽な独身だったので、よく彼女の部屋に寄った。二人で過ごすのは至福の時間で、いずれ一緒になるつもりだった。
 彼女は腎臓に負担をかけないよう塩分を控えていたので、だしのしっかり効いたすまし汁をよく作っていて、何度も一緒にすすった。澪さんのすまし汁を飲んだとき、忘れていた懐かしい味を思い出した……。驚いたね。外見だけではなくて、料理の味つけまで似てるんだから」

「なぜ、その方と一緒にならなかったか、伺って宜しいでしょうか?」

「恥ずかしい話だが、親に逆らって彼女と一緒になる勇気がなかったんだ。
 当時の小池校長は、私の父、つまり清司じいさんの親友だった。家族ぐるみの付き合いだったから、校長は前から私を知っていて、職場が同じになると何かと目をかけてくれた。翔子さんとの交際は隠してきたから、校長は私に決まった相手がいないと思い、自分の娘を紹介してきた。それが家内の糸子だ。角が立たないよう、一度だけ糸子とデートした。だが、そのことが職員室で噂になってしまった。噂に尾ひれがつき、私と糸子が結婚する話に膨らんでいき、そうしないことなどあり得ない状況に追い込まれてしまった。親同士は乗り気で、糸子は私に好意を持っていて、私の気持ちを無視して事態が進んでいた。当然、翔子さんの耳にも入った。彼女は、いたたまれなくなり、来春の異動願いを出した。
 私は意を決し、翔子さんを説得して、一緒に彼女の実家を訪ねた。両親に結婚の許可を願い出ると、娘は腎臓が弱く妊娠は命取りになるかもしれない、子供を作らないと約束するなら許可すると言われた。衝撃を受けたが、彼女を失うくらいなら、子供は諦めていいと思った。だが、私の両親はなぜ今になってとかんかんになり、子供が産めない彼女を頑として認めなかった。彼女は私の懇願にも関わらず、黙って身を引いた。翌年、彼女は僻地の学校に異動になった。私の父が教育委員会に働きかけたのだろう。
 私は流されるように糸子と結婚した。小池家には、翔子さんのことは徹底して隠されたので、糸子は何も知らない。翔子さんのことは一日として忘れたことはないが、胸に秘めて家族を守ってきた」

「翔子さんは、いまどうしているのですか?」

「彼女はこの世にいない。異動した年に体調を崩して辞職し、その翌年亡くなったそうだ。結翔が生まれる少し前に、人づてに聞いたときは、風呂で号泣した。ショックで5キロも体重が落ちた。私とのことがストレスになって身体を悪くしたと思うと、申し訳なくて、悔しくて堪らなかった。私は産まれた息子に……、彼女の名前から一字もらって結翔と名付けた。
 その結翔の見合い相手に、彼女に生き写しのあなたが現れたときの衝撃は言葉にできない。見合い写真を見た時も驚いたが、顔合わせのとき、初めて生であなたを見て胸が震え、目が離せなくなった。あなたを見ると、思い出がよみがえって全身が火照り、寝ても覚めてもあなたのことが頭から離れない。同じ敷地に、空間に、あなたがいると思うと胸が苦しくなる。ずっと堪えてきたが、その気持ちが抑えられなくなって、あんなことをしてしまった。誠に申し訳なかった」

 義父は私の反応を窺うように上目遣いで見た後、居心地が悪そうに切り出す。
「あなただって、そんな目に遭ったと知れたら、居心地が悪いでしょう? だから、どうか、内緒にしておいてくれないか」

「わかりました。お義母さんやお義姉さん方、私の両親には絶対に言いません。ですが、結翔さんには、彼女の名前から一字もらっていることを除いて、すべてを話します」

「結翔に……」

 義父の顔が苦悶に歪み、膝の上のこぶしが血管が浮き出るほど固く結ばれる。
「どうか、息子にも黙っていてくれないか。あなたが望むことは何でも聞く。この通りだ」

 頭を下げる義父を前に、すずくんが静かな怒りを湛えた声で切り出す。
「市川さん、お父さんのことで心身に負担がかかっているようでしたら、私の配慮不足でもあるので後ほど相談に乗ります。
 ですが、あなたは一度でも澪さんのご両親の気持ちを考えたことがありますか? 理由はどうあれ、愛娘が、嫁ぎ先で舅に卑猥な眼差しを注がれ、暴行未遂に遭ったと聞いたらどんなに怒り、悲しむでしょうか。あなたが大切に育てた二人のお嬢さんが、婚家でそんな目に遭っていると想像してみてください」

 強く握っていたこぶしから力が失われ、首が折れそうなほど項垂うなだれる義父に、瑠璃子が凛とした声で追い打ちをかける。
「私も女の子の母親です。娘が嫁ぎ先で、舅の勝手な理由でそんな目に遭わされたら、私は証拠を集めて舅を警察につきだします。社会的に葬るだけでは物足りず、自分の手で殺してやりたくなるでしょう。そんな家に嫁がせてしまった自分を責めます。
 優れた教育者で、三人のお子さんの親であるあなたなら、親がどれだけ子供に時間や手間暇、お金、愛情を注いで育てるかわからないはずはありませんよね? あなたが三人のお子さんを宝物のように育てたように、鈴木家のご両親も一人っ子である澪さんをそうして育てたんですよ」

 二人への感謝と両親に申し訳ない思いで目頭が熱くなる。張りつめたものが切れてしまう前に、気持ちを立て直して切り出す。

「明日、結翔さんにすべて話します。その上で、今後のことを考えます。今日はこれでお引き取りください」

 とぼとぼと店を出ていく義父の背は、急に老け込んだかのように小さく見え、見知らぬ老人のように映る。

 すずくんが、義父が置いたままにした紙カップを捨ててきた後、吐き捨てるように言う。 
「あれが元校長か? 塩まいてやりたいよな!」
 
 瑠璃子が怒気をはらんだ口調で尋ねる。
「これから、結翔とどうするの? そんな危険な場所に、これ以上、留まるわけじゃないでしょう?」

 私は顎の先で頷く。
「彼があの家を出て、私がお義父さんに二度と会わないで済むようにしてくれるなら、先のことを考えられるかもしれない。でも、私は彼を父親にしてあげられるかわからない……。それに、お義父さんに亡き恋人を思い出させる私が市川家にいるのは、お義母さんにも申し訳ない……」

 なぜ、こんなことになってしまったのか……。あのとき、義父に浴びせられた暴言が胸の奥で暴れ出す。私に子供ができていたら、いろいろなボタンがかけ違われずに済んだように思えてならない。

 私がようやくちゃんとしてくれたと喜んだ両親の顔が浮かぶ。学歴でも就職でも家族の期待に答えられなかった私は、家庭を築くのにも失敗し、彼らを失望させてしまう……。指先から、するすると力が抜け、紙カップを持っているのも心許ない。