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あのスティークを切り開き 第10章「フェアアイル」

 早朝のエディンバラ空港で、機内からタラップに出た瞬間、日本とは全く違う冷気が顔を包んだ。極寒、ではもちろんないけれど、春だ、と緩み切っていた日本人としての身体が喝を入れられるくらいには寒い。
「うわ、息白いの久々だねぇ」
 ニット帽に髪の毛を全部押し込んだたっちゃんさんが言う。
  たっちゃんさんはそんなに色白じゃないから普段は感じないけど、さすがにこの寒さの中だと、頬が多分「紅潮」している。耳の先、鼻の先、頬、多分全てが同じような色になっている。唇の色の明度を上げたよう、だろうその色を見てみたい、という気まぐれは、白い息と共に滑走路に向けて放出した。

 一週間前、一応と思ってルイに「たっちゃんさんとスコットランド行くわ」とLINEしたら、3人のグループに

「たっちゃんさん。イギリスの入国審査は世界的に見てもかなり厳しいです。スコットランドはイギリスの連合国ですので、同様に厳しく審査される可能性があります。タトゥーの入った方は不利になりやすいので、極力隠して行くのが望ましいかと。できる限りの対策を講じましょう。タトゥーに加え、髪型も不安要素です。たっちゃんさんのお人柄はよく存じ上げていますが、もう少し穏便なヘアスタイルをお勧めします。」

 と、スマホひと画面分くらいの長文が送られてきた。
 そして間を置かずに、「こちらのスタイルがお勧めです」と、韓国アイドルのような、黒髪ショートセンター分けの男性の写真が送られてきた。たっちゃんさんは、
「俺、こんなに爽やかなの似合うのかな……」
 と困惑していたが、俺が
「最後のやつはルイの願望でしかないから無視していい」
 と言った。結局、タートルネックで首元辺りまであるタトゥーを隠し、髪も帽子で隠すという方法に落ち着いた。

 現地に着いてみれば、観光目的の旅行客は自動ゲートを通るのみで、厳しいチェックを受けることもなく、スムーズに入国できた。ルイは本当に髪を切らせたかっただけなんじゃないかと大いに疑った。

 到着ロビーで、ガイドをしてくれる町田さんと落ち合った。細かいくせ毛の長い髪をざっくり束ね、肉厚のダウンを着てリュックを背負った、「これから寒い所にハイキングに行きます」といった出で立ちの、さっぱりした女性だった。
「玲央くん、私すっごいちっちゃい頃にあったことあるけど、覚えてる?」
 さすがにすっごいちっちゃい頃の記憶はもうない。
「すみません、ちょっと……」
「そうだよね!いいのいいの、懐かしくなっちゃっただけ。あの頃はすーっごい可愛い男の子だったけど、もう立派なお兄さんって感じだね」

 一瞬で町田さんを好きになった。そして俺はこの一年で、男の子から男性寄りに変わったよな、と改めて思った。自分でもたまに、鏡を見てそう感じていた。
たっちゃんさんは、佐藤です、3日間お世話になります、ときちんと挨拶していた。

 2列シートの、ワゴン車並みの狭さのプロペラ機が、フェア島上空に差し掛かった。
 ばあちゃんの作る四角いスコーンみたいに、ごろっとした岸壁のある島。その上に、毛足の短いじゅうたんのような草原がどこまでも広がる。少し行くと、草原が微妙な濃淡でパッチワークされたようになり、そこにかわいらしい三角屋根の建物が、3、4件ぎゅっと身を寄せ合っているのが見える。まるでおとぎ話の村みたいなこの光景を、ちゃんと知りたい、と思った。

「たっちゃんさん、どんな感じ」
 二人とも同じ窓から同じ景色を見ているけど、こう聞くことの意味を、たっちゃんさんはよく分かっているはずだ。
「えっと、ちょっと褪せた、茶色みたいな緑とか、綺麗な芝生の緑とか、区切られた土地の中に色んな緑があって、そこに、白い壁の、赤とかグレーの屋根の家がぽつぽつある、って感じだな。あ、まってあそこの白いの羊さんたちじゃない?」
「うわ、ほんとだ。めっちゃ羊いる」

 10世帯くらいしかないこと、羊がいること、そもそもとても小さな島であること。文字面で知っていたことが、目の前にあるとなぜこうも感動するのか。いや、まだ上空からしか見ていないけれど。
 滑走路じゃなくただの地面、その横に小さな小屋がある、ここが飛行場。降り立った瞬間から、俺が生まれ育った街や文化とは全く違う、ということがわかる。薄曇りの中で、エディンバラの朝ほど冷たくはないが、遮るものの無い土地の風に全身を包まれた。

 車で、町田さんの知り合いのニットデザイナーの家に向かう。日本からの機内で寝てたとはいえ、早朝着でそのままフェア島に来た。その疲れを急に思い出し、昼過ぎの暖かい車内でうとうとしていたが、隣のたっちゃんさんは、じっと窓の外を見ていた。わざわざウォッチングしようと気合い入れなくても飛び交う鳥。今彼は、目から腕にこの光景を伝えているんだろうか、と思うと、俺は寝てた方がいいのかもしれない、と言い訳し、少しだけ目を瞑った。

 機内から見たような、可愛い三角屋根の家にそのデザイナーさんは住んでいた。アガサさんは30代くらいの女性で、彼女のアトリエ兼自宅に入ると、壁いっぱいにスワッチが、模様の見本市みたいに貼り付けてあった。
 彼女は機械編みのフェアアイルニットを、インターネットで販売していた。そう、もう今は手編みのフェアアイルを売る人は居ない。島内で作られるフェアアイルは、ほぼ全てが機械編みのものだと町田さんが教えてくれた。そして、この島で店を構えても当然お客はほぼ来ないから、インターネットでオーダーメイドを受け付けたり、靴下や帽子などの小物を売っている、ということだった。
 俺がイメージしていた、物凄い手さばきで編み上げる、この島で生まれ育ったおばあちゃん、みたいな人は、もう商売としてニットを編んではいない。その事実に軽いショックを受けた。確かに、俺が読んだ本はもうずいぶん前の、母さんすら子供の頃のものだったから。

 アガサさんの作るセーターは、俺が編んだものより少し薄めで、袖にリブの無い、現代的な造りのものだった。それでも、使われている柄は、俺が見たことのあるフェアアイルの伝統的な柄で、馴染みがあるけれどすっきり洗練されている、懐かしくも美しいものだった。アガサさんが、壁のスワッチやセーターを指さし、ひとつひとつ、これはイカリの柄、これは十字架をアレンジしたもの、これは牛の搾乳をするときのイスの脚……、と教えてくれた。
「えっ、椅子の脚?!」
「そんなん何であんの?!」
 編み物が生活の一部だったから、ということらしいけれど、それにしても椅子の脚って。しかも用途は物凄く限定的だ。
「編み物飽きてきてたんじゃ……」
「ノリで作ったんじゃね?」
 俺たちは町田さんにも聞こえないようにボソボソと言い合った。

 アガサさんに説明してもらったように、俺は、たっちゃんさんに壁のスワッチの色を一つ一つ教えてもらった。今日みたいな薄曇りの、フェア島の海のようなグレーや渋めの水色が多くて、俺でも結構分かる配色だった。俺はかなりパキっとした配色で編んだけれど、アガサさんのデザインはグラデーションのように穏やかな色使いのものが多い。実際、日本から持ってきた、俺とたっちゃんさんで作ったベストを見てもらったら

「ああ、この島で作っているものとは雰囲気が違いますね。オリエンタルな感じ、と言うんでしょうか」

 という答えが返ってきた。配色で国柄まで出てしまうのか、と驚いたけど、アケミさんとルイのように、編み方ひとつにも個性が出ることを思えば納得だった。
 そして、俺は一応ルーツの半分はスコットランドのはずだけど、俺の頭の中にある文化は日本のものなんだ、と実感した。身体に流れる血は半々で、その一方は憎んでる人から受け継いだもの。だけど、俺のアイデンティティは日本で育んだものだ。

 スワッチの中に、これはどう見てもモノトーンだよな、と思うものがあった。
「ねぇ、これってモノトーン?」
「ああ、そうだね。黒と白と、何種類かのグレーだけ」
 それは、自然や暮らしに溶け込むような色味の他のスワッチと違って、力強さと現代らしさを感じるものだった。俺は、自分がモノトーンでフェアアイルを編んだらそれは「妥協」だと思っていた。でも、実際にはこんなに素敵なものになる。

「かっこいいな、これ」
「いいじゃん、レオ、色と色の差は見分けづらくても、同じ色味の濃淡の差には敏感でしょ」

 そう。俺は分かる色が限られている分、明度・彩度の違いは普通の人よりよく分かる。だから、微妙に明度の違うグレーを使い分けているこの配色は、たぶん普通の人よりスムーズに編めると思う。憎んでいる人から受け継いだこの目が、美しいものを作り出すときに役に立つなんて。エディンバラを通過し、この場所に来なければ、きっと知ることはなかっただろう。心に浮かんでいた滓が、少しずつ取り除かれていくような気がした。

「日本に帰ったら、こういうの編みたいな」
 そう呟くと、町田さんが
「最終日に買っていく色、決まったね」
 とにっこり笑った。滞在最終日である明後日、昼過ぎまでは町田さんと過ごす。たっちゃんさんは別行動だ。実は、俺は、たっちゃんさんに宿題を貰っている。

 3か月前、航空券と宿の手配をした時、たっちゃんさんが言いづらそうに、でも結局は言ってきた。
「あのさぁ、すごい我儘なんだけど、4日目、ちょっと俺単独行動したい……。2~3時間くらい」
「え、まぁいいけど。町田さんに毛糸屋案内してもらえるか聞いとこうかな。でも、何で」
「スーベニアタトゥーを彫りたい」

 聞けば、旅先でタトゥーを入れて帰ってくる、という人が結構いるらしい。アフターケアに気を使うけれど、プロのたっちゃんさんにはそんな心配は無用だから、普通にちょっと遠くの店で彫りました、くらいの感覚で出来るだろう。
「そんでさ、もう一個我儘。レオ、図案描いて。できれば現地で」
「すげー我儘じゃん。こっちで描いて持って行っちゃダメなの?」
「うん……彫りたい場所って言うのが、ここなんだ」

 そう言って、左袖を捲り、白い鳥を指さした。

「そんなとこに?その鳥の近くに、ってこと?」
「近く、っていうか、この鳥に描き足して欲しい。フェア島に連れて行った、ってことを、刻みたいんだ」
 そんな重大な役目を、俺が担っていいんだろうか。
「それって、たっちゃんさんが描いちゃダメなの」
「うーん」
 言葉を探すようにしばらく間をおいて、たっちゃんさんが言った。
「俺が描くと、俺の都合のいいように描いてしまう、というか。第三者に描いてほしいし、そうなると一緒に行くレオしかいないな、って。あ、もちろんレオの絵が好き、っていうことも含めてね」

 なかなかの我儘ではある。でも、俺はこの一年間、一方的に我儘を何度も聞いてもらってきた。図案を描くという形でお返ししている風だけど、それもバイト代を貰っているので、実質的には俺だけプラス収支になっている。友達関係に収支、なんて言いたくないけれど、そう思ってしまうくらい、俺は我儘だと自覚している。

「分かった。頑張ってみるけど、文句言わないでよ」
「大丈夫、レオが好きなように描いてよ」 

 俺はこの島の景色を、そこから感じたことを、たっちゃんさんの腕に落とし込まなければいけない。だから目を凝らし、耳を澄まし、分からない色は逐一たっちゃんさんに確認している。

 アガサさんに、ありがとうございました、すごく興味深かったです。と拙い英語で伝えた。彼女はにっこり笑った後、何かを言った。My grandmother と聞こえた気がする。町田さんの顔を見ると、
「近くに彼女のお祖母さんが住んでるから、手編みしているところを見せてもらうことになってるの」
と教えてくれた。
 アガサさんのお祖母さんは、もう80歳を超えていて、物静かで小さな人だった。だけどその手さばきは、まさに俺がイメージしていた、フェア島で編み物と共に生きてきた人そのものだった。いや、むしろイメージよりももっと速いかもしれない。手縫いとミシンくらいの差を感じた。
「嘘っ、こんな速く手動くもん?!しかも糸2色使ってさぁ!」
「多分俺の5倍くらい速い気がする」
 俺の編むスピードは、まぁ普通かちょっと速め、くらいだと思っていた。でもそれは、単色で編んでいるときの話で、フェアアイルを編んでいるときは、3目、2目、4目……と、色を変えるタイミングを頭の中で唱えていた。そうするとどうしてもスピードは落ちる。お祖母さんは、絶対にそんなの考えながら編んでないだろ、という速さで、だけど正確に、糸を変える時も全くスピードを落とすことなく編んでいた。

 それでも、もちろん機械のスピードには叶わない。お祖母さんのような名手がどんどん減っていく中で、また商売として考えると、機械編みにシフトしていったのは当然だ、と思った。元々、この島の産業であり生活の糧だったわけで、趣味や芸術じゃない。ここに暮らす人たちが生活していくためには、進化しなきゃいけないんだろう。
 編み方は変わり、売り方も変わり、ニットのデザインも変わる。それでも、伝統柄はそのまま受け継がれていく。さらにその柄が、遠い異国の俺のもとにも伝わり、今カバンの中にあるベストになった。時間も場所も超えて。俺自身のルーツをここに感じることはない。でも、俺が憧れ、ルーツの半分と決別して未来を拓く鍵だ、と思った物のルーツはここにある。

 今はお祖母さんは、家族のためだけに編んでいるらしい。リビングに飾ってある何枚の家族写真は、どれもフェアアイルニットを着ている人が必ず写っている。それは、アガサさんが作るような、上空からみたこの島の草原のような、穏やかで少し渋い色のものが多かった。これは、この家の人たちのカラーなんだろう。
 20年位前に編んだというセーターも見せてもらった。軽くて、でも目がしっかり詰まっていて、決して地厚じゃないのに、何だか頼もしい。これならきっと、あの全身を包む風の中でも寒さから身を守ってくれるだろう。ただ愛情だけで編んだというのではない、日々のご飯みたいな、家族を守る日用品のセーターだと思った。

 お祖母さんの家を出ると、もう夕方になっていて、分厚い雲に覆われた空を見ると、少し心細いような気持になった。全くなじみのない光景の中の心細さは、ホームシックみたいで何だか悔しい。悔しいけれど、一人で来なくて良かった、と思った。そう思っていたら、たっちゃんさんがでかい声で言った。
「うわ、何か急にめちゃくちゃ遠くに来ちゃったーって感じになった。レオ、ちょっと視界から外れないで、寂しくなるから」
 この人は、何でこんなに素直に気持ちを口に出せるんだ、と思いながら、無言で斜め前方に全力でダッシュした。後ろの方で何か叫んでて、その声が途中から近くなってきて、結果的に俺たちは草原を二人で走るという、青春映画みたいなことをしてしまった。走りながら笑ってたから、風を受けた唇が歯に貼り付いてピリピリした。

 野鳥観測所で、非常にシンプルな夕食が出た。全力ダッシュした俺たちにはシンプルすぎて、
「たっちゃんさん、ちょっと後でそこら辺の羊捕まえてきて」
「じゃあレオはどっかから七輪と炭探してきなよ」
と言い合った。部屋で、スーツケースに入れて持ってきたポテトチップスをコソコソと食べた。
「これさぁ、修学旅行みたいだよな」
と俺が言うと、
「ほんとだねぇ。好きな人の話でもする?」
 とたっちゃんさんがリアルすぎるボケ方をしてきたので、俺は何も言えなくなった。

「えっ、俺今全然意識せずに、すごく重いこと言ってたかな?」
「マジで気をつけて。修学旅行あるあるなら、枕投げする?とかもあるだろ」
「いや、レオの世代枕投げしないかなって思って」
 テレビの無い部屋で沈黙すると、ごうごうと外で風が吹く音が聞こえる。それがしばらく続いた後、たっちゃんさんが
「レオは、今俺のこと怖くない?」
 と、ぽつりと言った。言わんとすることは、分かりすぎる。ここには、俺とたっちゃんさんの二人しかいない、ということだろう。
「ねぇ、さっきの流れの後その発言、ほんと重いって。処理しきれないって」
「あー、ほんとそうだね。合わせ技でめちゃくちゃ威力上がってるなぁ」
「でも、別に、怖いとかないから。そんなこと、一年一緒にいるだけの俺でも分かる」

 だから、一馬さんならなおさら分かってたと思う。口には出さないが、伝わっていて欲しい。

「ありがとね。うん、ありがと。一応言うけど、俺は怖い人じゃないよ」
「知ってるよ」
 これは伝わってるか微妙だな、伝わってないかもなぁ、と思いながら、歯磨きしに行くわ、と言って部屋を出た。

 翌朝、朝食のテーブルで
「たっちゃんさん、外の鳥何羽か捕まえてきて」
「ねぇ、俺何しに来たか覚えてる?酷すぎるでしょ」
 と言いながら食べた。
 今日はたっちゃんさんの目的を果たして、15時にはここを発つ。これまた町田さんの口利きで、朝の野鳥捕獲に同行させてもらうことになった。
 島にはいくつも、野鳥捕獲の装置が設置されていて、歩いてそれを見て回る。たっちゃんさんが言うには、こうやって野鳥の調査をしている人たちを「レンジャー」と呼ぶらしい。一応、ちゃんとバードウォッチングしてたし、一馬さんの話聞いてたんだなぁと思った。

 昨日とは打って変わって澄んだ青空の下、朝の散歩をする。風は相変わらず吹くけれど、日の光が暖かく、遠くに断崖と、光が反射して水平線と溶け合う海が見える。
 捕獲装置に、腹が薄黄色の、丸っこいフォルムが可愛い、小さな鳥が一羽かかっていた。レンジャーの一人が、町田さんに説明してくれたが、
「ごめん、鳥の名前聞いたけど、鳥詳しくないから日本名がわからない!」
 と言われた。確かにそうだろう。帰国してから調べよっか、と言って、レンジャーの手の中の鳥の写真を撮らせてもらった。
 海の方に、「飛べるタイプのペンギン」みたいな、腹が白く、首と背と顔の周囲が黒い、ちょっとひょうきんな顔の大きめの鳥がいた。町田さんは、
「これはさすがに分かるよ。フェア島と言えば、っていう鳥だから。『パフィン』だよ」
 と教えてくれた。
「レオ、この子ね、くちばしと脚が同じ、鮮やかなオレンジ。めっちゃかわいいよ」
 大きなくちばしが正三角形みたいな形で、脚も、それこそペンギンのようにしっかりした水かきがある。こいつは、たっちゃんさんの腕の鳥とは全然別のコミュニティに居そうだな、と思った。

 装置にかかっていた3羽の鳥を、袋に入れて持ち帰る。俺はてっきり、鳥かごとかに入れて帰るのかと思っていた。よくよく考えれば、みんな鳥かごの入るようなカバンなんて持っていないし、もちろん鳥かごも持って来ていない。
「ねえ、日本でも鳥捕まえたら袋に入れるもんなの?」
「いや、俺鳥見てただけだし分かんないわ」
 観測所に戻って、鳥の脚に目印を付けるところを見せてもらった。
「あー、何かこれは話聞いた。こうやって鳥の移動距離とか調べるみたいな」
 小さい鳥の細い脚に、これまた小さな輪を付ける。脚が折れたりしないかと、見ているだけでドキドキする。
「足環付けるの、やってみるか、だって」
 町田さんがそう言ったが、俺もたっちゃんさんも「ムリムリムリムリ」と即答して断った。

「足環は怖いなら、放鳥だけでもやらせてもらったら?」
 この鳥たちを、手の中に入れて外で放つという。これくらいならギリギリ出来るかな、と思って、俺たちもやらせてもらうことにした。
 鳥の体温は思っていたより高くて、手の中で鳥が震える。手のひらを羽で擦られるくすぐったい感触がある。空に向けて手を開くと、鳥が「もう二度と来ないよ!」と言うかのようにさっさと飛び立っていく。

 隣にいるたっちゃんさんは、俺よりもずっと優しく鳥を持ち、
「いってらっしゃい」
 と言いながら、そっと手を開いた。その鳥は、二度と来ないとまでは言ってなさそうに見えた。はるか遠くまで飛んでいく鳥を、じっと見つめるたっちゃんさんは、やっぱり優しい目をしていた。たっちゃんさんの鳥こそ、俺の鳥みたいにさっさと飛んでいけばよかった、と思った。

 出立までまだ時間があったから、二人で断崖の方まで歩いて行ってみた。草原は、たっちゃんさんが言うには柔らかい緑色で、俺も色が分からないなりに、穏やかで優しい草だ、と思った。その草の合間に、黄色い小さな花がいくつも咲いている。草の上に座って海の方を見れば、断崖と断崖の間に、たくさんの白い鳥たちが飛んでいた。それは、ちょっと密度低めの桜吹雪みたいで、でも、桜の花びらとは違いそれぞれが意志を持ち、羽ばたく音と鳴き声を響かせる。
   ばあちゃんのカフェと、たっちゃんさんの店と、俺が通う高校のあるあの街のカラスや雀やヒヨドリも、遠く離れたフェア島の野鳥たちも、同じ時間に生きている。俺は、世界の端の端に来たような達成感を覚えた。
「何かさ、俺ら、すごいとこまで来たね」
 そう言うと、たっちゃんさんも
「うん、すごすぎて、正直結構当初の目的忘れかけてた」
 と言った。俺も、父親がどうのとかを完全に忘れていた。今言われて、あっそういえばそうだったわ、と思ったくらいだ。

「これ、もう俺達自身のための旅ってことでいい気がしてきた」
 たっちゃんさんにも、そう思って欲しい、と思ってわざわざ口に出した。9年間仕事を頑張ってきたたっちゃんさんと、全然レベルが違うけど、曲がりなりにもバイトして人と関わることを覚えた俺の、ご褒美旅行くらいの軽さにならないかな、と。

「そう、なのかなぁ……。俺、今、左袖捲ったほうがいいのかなぁって思ってたの」
 やっぱり、たっちゃんさんは俺ほど忘れっぽくはなかったし、今回は押し切れなかった。
「捲ったほうがいい気はするんだけどさ、寒くて捲りたくないんだよね」
「分かる。まぁ、じゃあ、自分の健康優先すればいいんじゃね?」
 もう一度押し切ろうとしたけれど、
「でもね。何しに来たんだって話ですしね」
と言って、風の中たっちゃんさんは袖を捲って、海の方に向けた。俺は横を向くことは出来ず、海の照り返しに目を細めて耐えていた。

 エディンバラの宿に着いた時には、もう夕飯時になっていた。町田さんと三人で、町田さんおすすめのシーフードレストランで夕食をとった。鍋いっぱいのムール貝の白ワイン蒸しや、サーモンのグリルなんかを食べながら、町田さんと話をした。

「玲央くんは、やっぱさやかちゃんの血引いてるんだね。あんまりいないよ、こんな編み物好きな男の子って」
「俺も、同世代では会ったことないかもですね。女子含めても。あ、お客さんでひとり男性は居たけど」

「町田さんは、いつからこっちに住んでるんですか?」
「3年前に、夫の転勤でこっちに来たの。昼間は語学学校行ってるけど、子どもいないし、身軽だから今回みたいなこともできるってこと」
「3年で、フェア島まで案内できるくらい詳しくなるもんですか?」
「学生の頃からちょいちょい来てたのよ。さやかちゃんとも来たよ?」
 母さんは、そういう旅を通じて父親と出会ったんだろうか。まぁ俺は一生知らなくても困らないけど。

「佐藤さん、アウター着てる時気づかなかったけど、すっごい柄入ってるんですね」
「あー、彫り師やってるもので」
「そうなんだ!何か二人、すごい組み合わせだよね。お店隣り合ってなかったら全然接点なさそうな」

 町田さんも、母さんの友達なだけあってストレートだ。でも本当に、俺達が二人で旅行している姿は「何でこの組み合わせ?」って思われるだろうし、たっちゃんさんが物件探しであの場所を選ばなければ、きっと出会わなかっただろう。

 そろそろお腹もいっぱいになったね、という頃合いで、町田さんがお会計を呼んだら、たっちゃんさんが既に支払っていた。外国で、結構おしゃれな店で、そんなこなれたことをされると、なんか鼻についてムカついた。俺はたっちゃんさんが大人の行動をすると、なぜかちょっと悔しくなってしまう。二人でホテルに帰る道すがら、
「よくテーブル以外での会計の仕方とか知ってたね」
 と言った。
「だって日本で調べてきたもん。ちゃんとお礼にご馳走とかできるんだよ俺は、もういいお年頃だから」
「……ムカつく」
「は?何で?反抗期?最近レオ穏やかになってきたと思ったのに」
「俺も何でかは知らん」
「理不尽だわー」
「たっちゃんさんは、何で俺の我儘とか理不尽に付き合ってくれるの」

 日本に居て、明日も仕事だとか、明日も学校だとか、そういう日常の中では、きっとこんなストレートな質問は出来ないだろう。

「何でだろうねぇ。何かレオには、そういう我儘とかされても、『ハイハイ』って感じだね。弟みたいなもんだと思ってんのかな。ブラザーフッドってやつ?」
 内心ハイハイ、とあしらわれてたっていうのはやっぱムカつくけど、ブラザーフッドというのは悪くないと思った。俺も、これだけ年齢が離れていて、社会人と高校生という立場の差があると、心から友達だと断言はできない。でもブラザーフッドであれば、年齢差を受け止めつつも、大人・子供の境界を感じないから。

「兄弟みたいなもんなの?俺たちって。俺一人っ子だからよく分かんないけど」
そう聞くと、たっちゃんさんは
「それは俺もそうだよ。でも、多分俺は、兄弟的な絆を求めるタイプなんだろうね」
と言った。

 そうだよな、神様にお願いするくらいだもんな。でも、たっちゃんさんが願ったのはお兄ちゃんであって、弟ではない。そんなことを考えていたら、たっちゃんさんが言った。
「かっちゃんはさ、俺がお祈りポイント貯めてお願いしたらやって来たけど、レオは何にもお願いしなくても、やって来たね」
「……それは、ポジティブなやつ?」
「ネガティブだったら言わないでしょ」
 そう言って笑った。あしらわれるとムカつくけれど、歓迎されるとそれはそれでむず痒い。でも、この気持ちを4文字で今すぐに要約せよ、と出題されたら、渋々「うれしい」と書くだろうと思った。

「ありがとう」
 次は5文字で解答した。

 ホテルに戻って、俺は宿題に取り掛かった。日本で写し取っていた鳥の輪郭を描いた紙を前に、考える。でも、フェア島からの帰りのプロペラ機の中で、既にほぼ考えていた。あとは、紙に落とすだけだ。描いてるとこ絶対見ないでよ、と念押ししたから、たっちゃんさんはその間にシャワーを浴び、そしてベッドに寝転んでスマホをいじっていた。ルイと3人のグループLINEに、写真を送っていたようだ。ルイは推しの近影が手に入って喜んでいるだろうな、と思いながら描き込んでいった。

「ねぇ、描けた」
「え、早っ」
「まぁ大体考えてたから」

 はい、と言って、何でもない顔をして紙を渡したけれど、内心すごくドキドキしていた。
「これ……」
 俺の絵を見たたっちゃんさんは、そう言って、黙り込んだ。
 俺は、モノトーンの陰影を使い分け、白い鳥に、俺たちが編んだフェアアイルの柄を重ねた。

 たっちゃんさんが半分だけ叶えてしまった願い。それを、俺たちが半分ずつ力を出し合って叶えた願いで、覆いたかった。19歳から28歳まで9年間。それだけの期間背負い続けたら、もう充分だろう。たっちゃんさんは墓標を立てたけれど、そこに一馬さん自身は居ない。いるのは、たっちゃんさんが作り上げた、怯えて死んでいった一馬さんの虚像だけだ。その虚像を、俺はあの地に置いて行って欲しいと思った。

 だから、フェアアイル柄を纏った鳥に、あの草原で咲いていた花を何輪か生やした。パッと見たら、鳥の背景に花がある、という風に見えるかもしれない。でも、近くで凝視すれば、それが鳥から生えているものだと分かる。羽を広げていない鳥は、放つことは出来ない。だから、フェア島の土に還り、きれいな花になってほしい。そう思った。

 発注は「白い鳥を連れて行ったことを記して欲しい」だった。でも、俺は、「白い鳥を連れていき、そして納めた」ことを記す絵を描いた。果たしてたっちゃんさんは、これを受け入れるだろうかと、半ば賭けのような気持ちで渡していた。

 しばらく沈黙が続いた後、たっちゃんさんは俺に背を向けて、小さく
「レオ、ありがと」
 と言った。

 翌日は朝から町田さんと毛糸専門店に行った。ベストを編む時に使ったJAMIESON'Sは、日本で買うより格段に安い。島で編みたいと思ったモノトーンのフェアアイル用に、黒2色とグレー5色、そして白も2色選んだ。どの色をどのくらい使うか分からないけど、アドリブで柄を積み上げていくのも楽しそうだと思い、感覚でパッと選んでみた。
  その他にも、うどんみたいに太い、糸全体が大きなグラデーションになっているシリーズがあった。町田さんに色を聞いて、グレー地に濃いピンクのものと、白地に蛍光イエローのものを選んだ。小さいトートバッグや、クッションカバーにして、母さんに渡したいと思った。

   昼前にたっちゃんさんと合流した。町田さんに別れを告げ、イギリスでは有名らしいカフェのチェーン店に2人で入った。少しパサついたサンドイッチを紅茶で流し込みながら、本当にあの図案を彫ったのか確認したくなった。
「ねぇ、腕見たい」
   そう言うとたっちゃんさんは、ちょっと生々しいけどー、と言いながら袖を捲り
「なかなかかわいらしい感じになったよ」
 と見せてくれた、ラップが巻かれているからしっかりとは見えないけれど、腕には、確かにあのフェアアイル柄の鳥が居た。モノトーンではなく、色付きの。たっちゃんさんがその場で指定したんだろう。

   あの絵が却下にならなかったことに安心したが、同時に、それを遥かに超える懸念を抱いた。脳内に描いていた、そしてフェア島というファンタジーに近い非日常の余韻の中で紙に描いていたときには気づかなかったこと。
   俺とたっちゃんさんのことを知る人達、例えば母さんやルイがこのタトゥーを見たら、確実に俺がデザインに関わったと思うだろう。あるいはたっちゃんさんが、俺を象徴するものをモチーフに選んで彫ったか。
   いずれにしろ、俺たちが、周囲の想像以上に強い関係性を結んでいる、と見るんじゃないだろうか。全面的に俺が描いたデザインであり、たっちゃんさんの意思はほぼ無関係なのに、だ。

   俺は、かつてルイが言った「烙印」の話を思い出した。彫る・彫られるの関係性のパワーバランスで烙印になるのなら、描く・描かれるの場合はどうなんだろうか。描いたのは俺だけど、彫ったのは俺じゃない。だから、これは烙印ではない。そうに違いない、絶対に。心の中で言い聞かせ、話を変えた。

「ルイに何かお土産買って行こう。絶対たっちゃんさんチョイスで」
「え、何で?一緒に決めようよ」
「ダメ。たっちゃんさんが決めたものなら、あいつはエディンバラの空気の缶詰でも喜ぶ」
「……あのさ、ルイちゃんて俺のこと」
「あ、そういうのじゃないらしいから」
「えっ、じゃあどういうのなの」
「それは本人の許可なしで言っていいか分からん」

 ちょっとー、気になるじゃんと言っている声が、遠くに感じる。言いたいことを言い終えると、もう頭は元に戻ってしまう。それでも、発注したのはたっちゃんさんで、受け入れたのはたっちゃんさんだ、と新しい理由付けをひねり出して、考えを断ち切った。

 帰国便の機内で、俺はほとんど眠ることが出来なかった。あれを描いて、そして彫らせて良かったのかという答え合わせを延々と繰り返した。
   そして、隣で眠っているたっちゃんさん。俺はその寝顔を見てはいけないし、寝息を聞いてはいけないような気がした。いや、見ていられないし聞いていられない、と言う方が正しいだろう。眠ろうとしても、隣に気配を感じ、落ち着かない気分になる。俺は何故、フェア島でもエディンバラのあの部屋でも熟睡できていたのか、そして何故その翌日は眠ろうにも眠れないのか、全く分からなかった。


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