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あのスティークを切り開き 第11章「インパラ」

 受験生になり、あまり顔を出さなくなっていたルイが、ゴールデンウィークの終わりに久しぶりに店に来た。旅行のことや高校のことを話していたら、ちょうど、たっちゃんさんがお茶しにやってきた。
「あ、ルイちゃん久しぶり」
「たっちゃんさん、お久しぶりです。市原君からお土産受け取りました、ありがとうございます。旅行どうでした…って、鳥が!柄が付いている…!」
流石、ルイは速攻で気が付いた。
「ああ、そう、向こうでお土産代わりに彫ってもらったんだよ」
 レオが図案描いてくれたんだよー、と嬉しそうに見せるたっちゃんさん。それと裏腹に、ルイは俺とたっちゃんさんの腕を交互に見て、スンとしてはいるが、隠そうとしている狼狽が見え隠れする、そんな顔をしていた。
「へぇ、市原君はたっちゃんさんのタトゥー描けるんですね」
「あ、うん、何度かお客さんの描いてもらったし、上手いのはわかってるからね」
「たっちゃんさん、私も絵、上手いですけど」
「えっ」
「次、私が描きますから」
「え、あ、そう、ありがとう…」
「ルイ、たっちゃんさんの身体は自由帳じゃねえよ」
「黙ってて、そんな軽い気持ちで言ってないわ」
 ルイが気色ばむのも、分かる。
 俺は、たっちゃんさんの左腕を見る度、あの鳥が、そして自分が怖くなる。「とんでもないこと」をしてしまった、という思いが湧き上がり、そして見る度その思いは強くなっていく。あのデザインにはやっぱり、俺の深層心理が、はっきりと表れている。

 ネットストーカー、と言えるんだろうか。帰国直後から、俺は、たくさんのことを調べた。たっちゃんさんの店から半径五キロ以内にある、キリスト教系の児童養護施設。そこにボランティアに訪れていた大学のサークルのホームページ。日本国内の、野鳥についての研究室がある大学。その大学名と「一馬」という名前で論文を検索。
 そういうことを調べた結果、俺の辿り着いた結論。一馬さんは、日本の湿原に生息する野鳥の研究をしていた。いち鳥好きとして、フェア島の野鳥たちを見たら強い興味を示すだろうし、楽しんだだろう。ただ、そこが彼のいるべき場所、とは言いがたい。
 そういう場所に、俺は彼を埋葬した。
 日本の自分の部屋で冷静に振り返ると、俺は、たっちゃんさんが想い続けた人を、俺しか描かないような柄で埋め尽くし、半ば強制的に異国の地に置いてきたんだ。この、セブンティーンの傲慢な甘さに、たっちゃんさんは果たして気づいているのだろうか。ブラザーフッドを築いたと言いながら、彼を欺き、あまりに業深いデザインを腕に刻ませたことに、気付いているのだろうか。

 たっちゃんさんがまた自分の店に戻った後、2~3分黙り込んだままだった俺に、ルイが静かに言った。
「市原君、あのタトゥー見るの、きついんじゃない」
 聡明でたっちゃんさん推しのルイには、すべてお見通しだ。一馬さんの件を知らなくても。俺は何も言わない、それが答えだ。ルイは多分、俺を炙り出したいわけじゃない。
「大丈夫、なの」
「大丈夫ではない。あれが一生残ると思うと」
「そうね。他に何か、彫ってくれたらいいのにね。私のじゃなくても」
 ルイは、あの鳥を、他のタトゥーに紛れ込ませたかったんだと思う。
「後で電話していいか?」
「…22時頃なら」
 誰にも知られたくないと思っていたが、誰かに話してしまわないと、気が狂いそうだとも思っていた。

 夜、予告通りルイに電話した。
「聞くしか出来ないけど、私が聞けることがあれば、話して」
「俺はさ。ルイと同じ感じで、たっちゃんさんを慕っていると思ってた」
「うん」
「でも、何か、急に。いや、気付いてなかったのかもしれないけど。変わったね、感覚が。もう、同じ部屋に平然と泊まったりは、出来ない」
「じゃあ、つい、最近なのね」
「自分が、怖い」
「救いになるか、分からないけれど、私は怖くないよ。市原君のこと。何も悪いことじゃないでしょう」
「…ルイに話してないことがいくつかあるから、上手く伝えられないけど、俺は、あんなものを描いてはいけなかったし、あれを目にし続けるのが辛いし、誰かに対して、そういう感情を持つのも、全部嫌なんだよ」

  ルイは、黙って聞いたあと、ためらいがちに言った。
「市原君に、漠然と、自分を丸ごと否定してほしくないから言うわね。客観的な説明を知
って、落ち着いて受け止められることもあると思う。ただの、一つの案として聞いて」
すこし呼吸を置いて続けた。
「市原君の、気持ちの変化を、簡単な単語にして、調べてみたら。夜にやることじゃないから、昼間にでも」
ルイは、何らかの答えを見ている。

  よく晴れた週末、ばあちゃんが干したベッドリネンたちがはためくのを眺めながら、
俺は、ルイの提案した通り、検索した。
   俺の持つスマホの画面に表示された文面は、
「基本的に他者に対して性欲を抱くことはないが、強い信頼関係や深い友情を持った相手に対して、稀に性的な欲求や恋愛感情を抱くことのある性的指向」。

  帰国してからずっと、微妙な違和感を覚えていた。そして、それは日に日に無視できないほど大きくなっていった。言葉にし、そしてルイの反応に触れて、検索結果を見、改めて確認した。
 俺は、たっちゃんさんに対して、「ブラザーフッド」を越える感情を、抱いている。あのデザインの業深さの源泉には、たっちゃんさんを手に入れたいという強い欲求があったのかもしれない。
 特定の人に対する性的欲求は、人間が普通に抱くものだとは理解している。けれど、望まない相手から性的な視線を受けるという、なんとも言えない居心地の悪さ。あれを俺は、これから彼に味わわせるのだろうか、と。これが一時的な、気の迷いと信じたくて、ぐずぐずしているうちに今日になった。
 こんなことなら、一生誰も好きにならない方がマシだった。凪のような人生も悪くない、と思っていたのに、こんなさざ波は今更いらない。それに、人生で初めて築いた、ブラザーフッドという関係性も失うだろう。この感情の先に、何も希望はない、そう思った。

 立ち上がり、探した。少しでも、下に居るばあちゃんを心配させないもの。枕を手に取り、思い切りベッドに叩きつけた。胸の中、ふざけんなよ、ふざけんなよ、と唱えながら、何度も、何度も叩きつける。
 俺は、日本に生まれ日本の国籍を持つ、ただのセブンティーン。でも、俺は、群れに馴染めない飢えたライオンのように、白い小鳥を喰い殺した。
 たっちゃんさん、今なら分かる。俺は、この空間ごと爆発してしまいたい。でも、それを願ってばあちゃんが巻き添えを食ってはたまったもんじゃないから、「俺だけをこの世から消し去ってください」と、願い事を訂正した。きっと神様がギリギリ叶えられそうなやつに。
 枕がベッドフレームの角に当たって破れ、中の羽毛が舞い上がる。頬に張り付いた羽が鬱陶しいが、取り去る力はなかった。

 雑に縫った傷跡のある、むき出しの枕に顔を半分埋め、たっちゃんさんにLINEした。
「土曜日、閉店後行ってもいい?」と。
 最後の施術が終わるのが19時ごろだから、19時半くらいに来ていいよ、と返信があった。最後のお願いをしに行こう、と思った。無理だと分かっているけれど、伝えずにはいられない。

 スニーカーのつま先が濁っていくような雨の中、店に向かった。ばあちゃんには、高校の友達とご飯食べて来るから遅くなる、と嘘を吐いた。ばあちゃんの嬉しそうな顔を見て、全く逆方向のことをしようとしている自分がますます嫌いになった。
 薄暗い店の中にいつものようにたっちゃんさんが居た。
「お、いらっしゃい。どうした、わざわざアポ取って」
 うん、ちょっと……と言いながら、勝手に椅子に座った。肌寒いからと、たっちゃんさんがお客さん用の茶葉で紅茶を淹れてくれて、二人で飲む。正面に座ったたっちゃんさんが、普段はコーヒーに使っているだろう、肉厚のマグカップを両手で包む。そこから続く両腕……いや左腕に絡みつくあの鳥。これを目にするのは、もう最後にしたかった。
「腹減ったな、レオ、飯食ってきた?帰りどっか」
「お願いがあって、来た」
 え、と言ったあと、たっちゃんさんが俺を凝視する。
「その鳥を、消して欲しい」
 もう一度、え、と言ったたっちゃんさんが、すぐに言葉を返してきた。
「いや、ダメだよ、何言ってんの。消せるわけないでしょ、物理的に……は無理じゃないけど、精神的には絶対嫌だよ」
「分かってる。描いといて無責任だし、たっちゃんさんの仕事考えたら最悪のこと言ってるって、分かってる。でも、お願いだ」
 俺の声が消えた後、店の中には雨音だけが響く。返事を待つまでもないことも、分かっている。でもせめて、この辛さだけでも伝えたかった。

「レオ、ダメだ。これは俺の身体で、彫ることも、俺が選んだ。9年前と、そして2週間前に。もう遡れないし、遡れたって、俺は彫ってた。これから先も、消すことはないよ」
 この声の静かな力強さは、怒りだろうか。俺は少しずつ声を絞り出す。
「そう言うと、思ってた。でも、ほんのちょっとでも望みがあるなら、お願いしたかった。俺はもう、その鳥を見ると、気が狂いそうになる。俺の醜い部分を、見せつけられているみたいで」
 この空間の空気だけ薄くなったみたいに、冷静に考え話すだけの酸素が足りない。でも、冷静に考えられないのは、もっとずっと前からだ。

「たっちゃんさんは、その図案を見てどう思ったの」
 一瞬のためらいのあと、淡々とした声で
「俺と、同じ道を辿ってるな、と思ったよ」
と返ってきた。
 この人は、きっと全て見透かしている。俺が、兄のように慕っている人、弟のように可愛がってくれる人を、好きになってしまったこと。たっちゃんさんを苦しみから解放したような顔をして、一馬さんを追い出し、次は自分が居座ったことも。でも、それなら。
「分かってて、どうして?」
 どうして俺のグロテスクな想いに溢れたこの柄を、拒絶しなかった。全てを悟ったような顔が憎らしく、消してくれないならいっそその腕を食いちぎってやりたいとさえ思う。
「分かったから、彫ったんだ。レオは、この図案は、俺にずっと留まり続けるはずだった墓標を、あっさりなぎ倒した。見た瞬間は、その執念が怖いと思ったよ。でもそれだけの生命力っていうか、エネルギーがなきゃ、俺は前に進めないんだって、これだけの力で引っ張ってくれる人は他にいないんだって思った。だから彫った」
 この想いを生命力と呼ぶのなら、生きることは何て醜いんだろう。
「この先レオとどうなったとしても、俺にはこの力が必要だと思ったよ」
「……どうかしてる」
「そう、なのかな」

 一馬さんはたっちゃんの心と腕に棲み、俺はたっちゃんさんが思い続けた一馬さんを喰い、たっちゃんさんは、そんな俺の執念を自分の生きる糧にした。俺たちと、そして一馬さんの、食物連鎖のような喰い合い。その中に居る者として俺も、ひとつ受け取る権利がある。いや、それは義務なのかもしれないけれど。

「ねぇ、じゃあ、消さない代わりに、俺にも図案をくれよ」
 一馬さんは鳥になり、たっちゃんさんは俺を烙印され、さらに俺達が生んだフェアアイルまでもがハサミの刻印を受けた。俺も、何かを烙印されなければいけない。それが何かは、たっちゃんさんが決めるべきだ。沈黙するたっちゃんさんに、もう一度語りかける。
「俺が成人して、そして高校卒業する2年後に、俺はそれを彫ってもらう。そのつもりで、描いて」
 たっちゃんさんは黙って立ち上がり、紙とペンを持ってきた。
「レオは、どうして彫りたい?彫ってどうなりたい?自分を飾りたいのか。守りたいのか。前に進めたいのか。それとも」
 わずかに間をおいて、続けた。
「自分を、制御したいのか」
 答えが分かっていて聞いたのか、と思った。俺は、たっちゃんさんが必要としてくれた、このエネルギーが怖い。野放しにしたから鳥を喰い殺し、さっきだってたっちゃんさんの腕を喰いちぎりたいと願った。
「制御だね」
「生き物と生き物じゃないのだと、どっちがいい?」
「生き物」

 了解、と言って、たっちゃんさんはいくつか紙に書き付けた。
今この場で描くことは出来ないからと、1週間期間を置くことになった。俺の審判も、1週間延びたということだ。
そのまま店を後にしようとすると、たっちゃんさんが
「さすがにその様子で1人では帰せない。レオがちゃんと家に帰るか心配だよ」
と言って、家まで送ってくれることになった。
「一馬さんは家まで送り届けてくれるか不安で怯えてた」と断じたたっちゃんさんが、今度は俺を「ちゃんと家まで帰るか不安だから送り届ける」と言う。俺たちは本当に、同じような道を辿っている、と自嘲する。その道は、捻れ、交差し、どこに繋がるかよく分からないけれど。

 雨は細かく、霧のようになっていた。傘を差さずに、水溜まりを避けながら2人で歩く。
「俺がレオに、昔の話をしちゃったから、レオは今動揺してるんじゃないの?
それはもう、俺には分からない。俺の狡猾さと、無いと思っていたものが有るという衝撃と、それに対する嫌悪感と、この先への不安や絶望。すべてが混沌となっていて、何がどう作用したかを紐解くことができない。
「レオは悪くない。もし誰かが悪いとしたら、それは俺だよ。馬鹿正直に事実を話す必要なかったし、そのうえですごく重いことを任せてしまったし」
たっちゃんさんがまた一つ、勝手に罪を背負おうとしている。話す必要なかった、任せてしまった、それは、失敗とか失策であったとしても、罪ではない、と思う。それに、その言葉で俺の罪悪感は覆らないことを、たっちゃんさんは知っているはずだ。

「たっちゃんさん、俺はあの話を聞いた時、『殺したわけじゃないでしょ』って言ったよね。その時、自分が何て返したか覚えてる?」
 たっちゃんさんは、何も答えない。たっちゃんさんに「俺が殺したとしか思えないんだ」と言われた後の、俺のように。
 お互い、相手のことならよくわかっている。自分と重ねているから。でも、分かったうえでもう一度言わなきゃいけないと思った。

「それでも、俺は、たっちゃんさんは何も、ひとつも悪くないと思ってる」

 互いの方を見ず、ただ 1.5m先の地面を見つめて、ばあちゃんの家を目指して歩く。螺旋のようにランダムに交差する俺たちが、いっぺんに救われる道は無いんだろうか。
 ばあちゃんちの前で、
「レオ、帰ったら、ちゃんとご飯食べてよ」
と言われた。
本当は俺に用意されている夕食なんてない。ばあちゃんに嘘をついて来たから。うん、と、もうひとつ嘘を重ねてやり過ごす。

「そのテンションの『うん』はさぁ、絶対食べないやつじゃん。何でもいいから、最悪牛乳だけとかでもいいから食べてよ。あと、明日からしばらく、お昼ご飯の写真送りなさい」
 事故の後のたっちゃんさんは、きっと食事なんてろくにしていなかったんだろう。俺は、今日普通に昼飯を食べていたし、今夜食事を抜いても、明日はたぶん食べている。俺は、心の傷の重さが、たっちゃんさんとは全く違う。起きた出来事を客観的に見ればそう気付きそうな気がするけれど、多分たっちゃんさんは、俺が思う以上に、俺を通して過去の自分を見ている。
 それならば、俺は、救われなければならない。烙印を受け入れ、自分を罪人だと思ってしまえば、たっちゃんさんが勝手に背負い込んだ「罪」は、消えることがないだろう。これから貰う図案を烙印にしない方法とは、つまり。

 鳥の図案ほどではないにしろ、大それたことを考えそうになり、打ち消すために言葉を発した。
「じゃあ、たっちゃんさんもちゃんと食べろよ。昼飯の写真、送り返してよ」
「えー、俺も?!じゃあまともなもん食べなきゃなぁ。まぁお互い、自分を大事にして過ごしましょう」
 そう言って、俺の、湿気でいつも以上に髪がうねった頭をぐしゃぐしゃと撫でた。そういうことをされると、俺の気持ちがかき乱されることを分かってないのかな。「俺と同じ道を辿っている」という言葉は、単に、兄弟的存在に執着して起こしたことを悔いている、くらいの意味で言ったのだろうか。

 ともかくこうして、ご本人様による、一週間限定のたっちゃんさん通信が開始された。
 心配してくれたのに申し訳ないが、たっちゃんさんと違って昼間部に通う俺は、毎日学校でばあちゃんが作ってくれた弁当を食べているので、ひたすら弁当の画像と

「弁当です」

というコメントを送るだけだ。たっちゃんさんからは毎回
「卵焼きおいしそう、俺も作ってもらおうかな……」
「肉じゃがに白滝入れる派なんだね」
「ごはんにのりたまかかってるのかわいい」
等の返信がある。

俺は俺で、たっちゃんさんの昼食に対して
「それ、トムヤムクン味もうまいよ」
「さっそくトムヤムクン買ったんだ」
「今日もかよ」
「トムヤムクンハマりすぎだろ」
と返していた。たっちゃんさんは一途な人だという発見、いや「再発見」があった。

 俺は卵焼きを食べ、肉じゃがを食べ、のりたまのかかったご飯を食べる。たっちゃんさんはカップラーメンを食べ、トムヤムクンラーメンを食べ、トムヤムクンラーメンを食べ、またトムヤムクンラーメンを食べる。
 背負った罪の重さにかかわらず、食べそして生きている。図案が出来上がるまでのあと3日も、引き続きそうやって過ごす。それは、出来上がってから、実際彫れるようになるまでの2年間も同じだ。

 俺は、この感情の先に何の希望もない、と断じた。鳥を消せと迫った時も、その後顔を合わせない覚悟だった。だが、事が起き、そしてそれについての後悔を吐露しても、俺たちはこうして通信を交わし、互いが生きていることを確認し合っている。
 2人とも生きているのなら、「この感情の先」はまだ誰にも分からないんじゃないか。

 教室の隅で、同級生カップルが机を寄せ合って、パンやおにぎりを食べている。彼らとほとんど喋ったことのない俺は、強く幸福を願う、ということはないが、微塵の嫌悪感も抱かない。俺に芽生えた感情も、たぶんその範疇内のことなんだ。ただそれを露わにしたプロセスを、俺が許せない。たとえたっちゃんさんが許容したものだったとしても。
 事実を積み重ねて、「許されるべき」と結論付けるのは簡単だ。でも、それで心が許されるわけじゃないことを、9年間墓標と共に生きてきた仲良しのお兄さんが証明している。俺たちが、俺たち自身を赦すことが出来ればいいのに。
彼に
「毎日辛いものばっか食べるのは身体に良くない」
と送った。

 土曜日、再びたっちゃんさんの店に行った。今回も友達と遊ぶ、と嘘を吐いて。先週のような押しつぶされそうな罪悪感はなく、胸の中に抱えて持って行くのは「お願い」ではなく、「提案」。
「お疲れ。出来てるよ。どうですか、これで」
 デスクに座るたっちゃんさんの後ろから、図案が表示されたPCの画面を覗き込む。鹿のようだけれど、大きな角がドリルのように螺旋の模様があり、尖っている。これ……と呟くと、たっちゃんさんが
「あ、鹿さんだと思ってない?インパラだから!別に『可愛い小鹿さんがお似合いだよ』とか思ってないからね?!」
 とひと息に言った
「今日滑舌いいね。俺何も言ってないし思ってないんだけど。でも、何でインパラ?」
「伝わるか、ていうか俺が汲み取れてるか分かんないけどさ。もし牙を立てたくなったなら、こいつを喰いなさい、ってことで。鹿さんよりは食べ応えあるでしょ」
「……伝わるし、汲み取れてるよ。怖いくらい」
 こいつが居れば、俺は近くに居てもいい、ということなんだろうか。じっと画面の中のインパラと見つめ合っていたら、
「転写してみる?彫れないけど。イメージ掴めるんじゃない?」
 と言われた。

 本気で彫るつもりで考え、あまり人目についてはまずいと思って、右脚の内腿に入れようと思った。カーゴパンツを出来る限りたくし上げ、太腿を露わにする。転写用のジェルを塗られ、シートを貼り付けられながら、俺はもう明らかに、この人に恋愛感情も性的欲求も抱いているんだと自覚した。こんな感覚は、生まれてから一度も感じたことがなかった。
 でも、赤ちゃんや幼児期を含めた17年に一度なら、「稀」と言うほどでもないんじゃない?と、動揺が納得に変わっていくのをぼんやりと眺めた。

 そして、俺は、たっちゃんさんより上の目線にいるのは初めてかもしれない、と思って、つい聞いてしまった。
「たっちゃんさんは、この数週間の俺が怖くなかったの。鳥の図案見て、怖かったんじゃないの」
「あー、まぁ、あれはさ、魔除けのお面見てゾクッとするみたいなもんだよ。レオのことは、怖いと思ったことはない」
 それは、俺がたっちゃんさんより小柄だからなんだろうか。さすがに聞けるわけないから、飲み込む。たっちゃんさんは、そんな俺のことを見透かしているかのように言った。
「レオが来るまで俺はずっと、弟の側だった。でも、レオに出会って、お兄ちゃん側になった。こっち側にいるとさ、なんか生意気言われようと許せるし、もちろん、今も怖くない。そんなことより、心配でしょうがなかったね。思い詰めた顔して、自分のこと責めてて、何か早まったことしたらどうしようって思ってた……はい、できたよ」

姿見で、位置を確認する。
「イメージしてたより大きいかも」
「レオからしたらそうか。これからどういう人生になるか分からないしね。まぁ細かい所は本番で」
 イメージしてたより大きかったけれど、イメージしてたよりずっと、俺はこのタトゥーを気に入っていた。ほとんどヤケみたいに図案を頼んだけれど、やっぱり俺は、これを烙印にしてはならない、と思った。そして、それは俺だけで成し遂げることはできない。

「俺、これすごい気に入った。ありがとう」
「おお、良かった。レオ超淡々としてたから、あらっ外したかなと思ってたよ」
「いや、そんなことない。気に入ったから、だから、烙印にしたくないんだ」
 烙印?とたっちゃんさんが怪訝な顔をした。
「前にさ、ルイと話したんだ。タトゥーを彫る側と彫られる側の、相手への思い入れに差がありすぎると、と言うか彫られる側の思い入れが強すぎると、それは烙印みたいになっちゃうよね、って。あの人に彫られたんだーってなっちゃうよねって」
「なるほどね。ルイちゃんはさすが、鋭いね」
「そう、だから俺は、高校卒業するだけじゃなくて、彫るたっちゃんさんと、彫られる俺の思い入れがつり合っていたら、これを本当に彫って欲しい。そして」
 そして、って言うつもりなかった。でも、言ってしまったから、そこに続く言葉も、俺は伝えなければいけない。
「俺は、好きに、なったよ」
「うん」
「だから、そこにつり合うような思い入れになったら、彫って欲しい」
「うん」

 たっちゃんさんは、怯えるでも、引くでもなく、ただ穏やかな顔をしていた。驚きも、微塵もないようだった。思わず確認してしまった。
「ねぇ、好きって意味分かってる?」
「舐めないでよ。俺もう28年生きてんのよ?」
 察し合いでなく明確に言葉にし、よく伝わった上で、あの穏やかさだったのか。安心と、冷え冷えとはしていない羞恥がごちゃごちゃになって胸の中で渦巻く。
「レオ、俺はまともな大人だから、まだ未成年で高校生のレオに、あからさまな恋愛感情向けることは出来ない。それは、成熟してないからだし、社会的に許されないからってことであって、レオだから無理とかじゃない。さっき、『牙を立てたくなったらこいつを喰え』って言ったね。それは、俺に牙を立てたくなったら、ってことだからさ。まぁこれ以上は、言いませんけど」

 いや、もう一個あったわ。そう言ってたっちゃんさんは左腕の袖を捲った。

「レオ、あのフェアアイルベストの写真、ある?」
  当然。作品は必ず平置き・吊るしと何枚か写真を撮る。スマホを開いて、画像を見せた。
「ちょっと借りるねー」
  そう言って、画像をめいっぱい拡大する。
「お、やっぱ完璧。見て、この鳥さんとベスト」

  俺が直視することを避けてきたあの鳥には、しっかりと色がついている。その色は。
「赤とか緑は分かんないだろうけど、バッチリ、同じ配色にしてあるんだよ。しかも、俺の記憶だけで」
  嘘みたいだ。
  数ヶ月かけて編み続ければ、自然と配色を覚えることはある。でもそれは、編み手しか、そしてこのオリジナルの配色を決めた俺しか覚えていないはず、だった。もし俺が普通に色が見えたなら、世界で俺だけが覚えてる配色なはず、だった。
「どうして……?」
「そりゃあんな何回も見たら覚えるって。それに、この鳥さんは、レオだと思ったよ。だったらこの配色以外、有り得ないでしょう」
  思いが釣り合いそうかどうか、レオには見えますか?と聞かれ、もう何も返すことが出来ない。
  言葉を発するために喉をふるわせれば、その振動で涙が零れてしまいそうだから。

  それでも、ただ、ひとつだけ、確認しておきたかった。
「俺は、人を好きになっても、いいってこと?」
 たっちゃんさんがふっと笑った。
「当たり前でしょうよ。誰のことでも、好きになりなさいよ」

 ねえ、たっちゃんさん。
 ドヤ顔で言ってるけどさ。好きだと伝えたがために好きな人を殺してしまったと自分を責め続け、墓標と共に生きてきた人が、「俺と同じ道を辿っている」と思ってる、つまりは自分を重ねてる人に、「誰のことでも好きになりなさい」って、言ってるんだよ。たっちゃんさん、あなたは、俺を肯定することが、自分自身を肯定することと繋がってるって、気付いているのかな。
 色が全ては見えないから、彼と共に編み、父親に拒絶されたから、彼と共に旅に出た。死んだ人を連れていきたいから、俺と共に旅に出た。その旅の果てに、俺たちは、「誰のことでも好きになりなさい」という、同じ赦しに辿り着いた。 
 俺の執念は図らずも、たっちゃんさんを俺の生命の方へ引き戻した。塗りつぶされたあの鳥は、俺が強く掴んだその時の手形だ、そう思いたい。そして、そのまま、掴んだまま。俺は離さずにいよう。これは願いじゃなくて、決意。
 きっとたっちゃんさんの言葉が俺の周りの空気を強く振動させたんだ。そのせいで、表面張力を保っていた涙は零れてしまった。
  そんな、俺たちのちっぽけなバタフライエフェクトを分かってないたっちゃんさんが、訳知り顔で、自分のデスクの箱ティッシュを、はい、と渡してくれた。

 その後、たっちゃんさんの店の予約管理カレンダーに、俺の来店予約を書き込んでもらった。二年後の3月27日、俺の19歳の誕生日。こんな先の予約してる人なんか誰もいない、って思ったら、何か可笑しかった。
 宙ぶらりんな2年間の始まりに、空腹が限界に達した俺は、たっちゃんさんと濃いラーメンを食べに行った。
「レオ、2年経ってさ、うわーこいつ思ったよりおっさんになったわって思ったらどうすんの?」
「え、予約取り消しますって店に電話する」
「へぇ、普通のお客さんの顔するじゃん。いいよ俺も、2年以上待たされたら、予約取り消すから」
 俺だってそんなに待ってたまるか。最短コースで卒業してやるよ。替え玉までしてしまって、絶対帰ったら眠くなるけど、ちゃんと机に向かい教科書を開こう、と思いながら、分厚いチャーシューに齧り付いた。


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