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密やかな恋情

      

「ゆうり! 大丈夫? 怪我、してない?」
 慌てた様子でリンクに飛び込んできたのはヴィクトル・ニキフォロフ。フィギュアスケート界のリビングレジェンドにして、偉大なるロシアの英雄。世界一モテる男で、マイコーチで、ちょっともうよく分からないほど好きで、大好きで……まあ要するに、勇利にとって誰よりも大切な人だ。
「ああーっ、もう! あとちょっとだと思うんだけど。ねえ、ヴィクトルもそう思うでしょ?」
 差し伸べられた手を掴んで勇利は立ち上がった。
「そうだね、今のは確かに惜しかった。それにしても、派手に転んだね~」
 転んだ拍子に勇利の身体中についてしまった氷の欠片。それを払い落としてくれるヴィクトルの手つきはこの上もなく優しい。教え子を思うヴィクトルの気持ちがストレートに伝わってきて、嬉しいやら、くすぐったいやら。思わず居心地が悪くなってしまうほどだ。
 「だいじょぶ、大丈夫だよ、ヴィクトル。どこも痛くないし、怪我もしてない。それよりも、あの、ほら、みんなこっちを見てるから……」
 勇利はちら、とあたりに視線を走らせた。

——嬉しい、嬉しいんだけど、困るっていうか、恥ずかしいっていうか……

 そんな勇利をよそに、目の前のコーチはといえば、人差し指を唇に当てるいつものポーズで、それが何か? と言わんばかりだ。ヴィクトル・ニキフォロフのこの態度に物申せる人がいるとしたら、それはリンクの向こうで苦い顔をしている彼のコーチくらいのものだろう。
 
——ねえ、それってわざと? わざとじゃないよね?

 勇利は無意識に天を仰いだ。

「マジだせー……サルコウも跳べねーとか、さっさと引退した方がいいんじゃねーの。おら、そこの豚。いつまでもぼーっとつっ立ってんじゃねえよ。邪魔、邪魔。邪魔なんだよ。もう帰れ。さっさと帰ってひとりで泣いてろ。バーカ、バーカ!」
 そんな勇利に向かって思いっきり暴言を吐いているのはユリオ、じゃなくって、ユーリ・プリセツキー。でもユリオは悪ぶっているだけで、根は素直でいい子なのを勇利はよく知っているし、これがユリオなりの励ましの言葉だってことも理解しているつもりだ。
「おい豚、見本を見せてやろうか? そこに突っ立ってる役立たずより、俺様の方がサルコウは上手いぜ? そうだな……ふたりそろって頭を下げるってんならなら、見せてやってもいいけど。だいたいお前は豚のくせして名前が生意気なんだよ。ユウリはふたりもいらねえ、俺ひとりで充分だ」
「え~っ……確かにユリオのサルコウはすごいけど、でも、そこまで言わなくたっていいと思う。僕だってちゃんと降りれるときもあるんだよ! 時々だけど……」
「……ったく、情けねえ声出しやがって……だから、まあ、その、なんだ。今日はうまいもんでも食って、さっさと寝ろって言ってんだよ。して、明日もちゃんと来い、いいな」
 うん、と勇利が頷こうとしたその瞬間、ヴィクトルが横から口をはさんだ。
「ジャンプは俺が教えるし、俺がついてるからゆうりはひとりじゃ泣かない。そしてごめんねユリオ、俺とゆうりは明日はお・や・す・み。残念でした。じゃね♡」
「はあ?! 待ちやがれ、このハゲ……!」 
 一瞬にして顔色を変えたユリオにウインクをひとつ残して、ヴィクトルは颯爽と滑り出した。勇利の右手を掴み、神のごとく美しいストロークで。
「うわっ! 待ってヴィクトル。ねえ、ちょっと待ってってば」
 勇利は振り返って、ユリオに向かって左手を振る。 
「ユリオ、ごめん。そしてありがと! サルコウ、今度ゆっくり見せてね。じゃ、バイバイ」 
 
 ——全くもう、どっちが年上なんだか……

 引きずられるようにしてリンクを後にしながら勇利はそう思った。多少口は悪いけど、勇利にとってユリオは大切な友達兼ライバルだ。チムピオーンには縁もゆかりもない、ぽっと出の選手である勇利に、こうやって分け隔てなく、というか遠慮なく声をかけてくれる。そんなユリオのおかげもあって、勇利はリンクメイト達の輪にスムーズに入っていけたのだ。もちろん、ヴィクトルの教え子という立場とファイナルの銀メダリストという結果、このふたつがあればこそで、そこは忘れちゃいけないと勇利はいつも自分に言い聞かせている。だからヴィクトルにも、そしてユリオにも本当に感謝しかない。感謝しかないのだけれど……
 はあ……、と、勇利は小さく息を吐いた。ユリオはこうやってはっきりと言ってくれるからまだいい。勇利が本当に困っているのも恥ずかしいのも、こちらを見つめるユリオ以外のリンクメイト達の視線と表情。上手く言い表せないのだけれども、生ぬるいっていうか、『あ~、いつものあれね……』って感じの顔つき。羨望とも同情ともちょっと違う、苦笑い交じりの彼らの視線がいたたまれなくて、身の置き所がなくなってしまう。
 そしてそんな勇利の思いを知っているのか、あるいは知らないふりをしているのか、ヴィクトルは当たり前のように、みんなの前で勇利の肩を引き寄せ、腰に腕を回し、そして抱きしめてくる。キスだってした、ことになるのか……な? それともあれはノーカウント? まあ、どちらにしてもこれがヴィクトル流の師と弟子が意思の疎通を図る方法だというのなら、勇利にはどうすることもできないし、それに

——嫌じゃないから、困る、っていうか……

 こんな自分の気持ちこそが、実は一番の問題点なんじゃないか、と思ったり思わなかったりしている。勇利にとってこんな感情は初めてで、戸惑いばかりが先に立つ。夜中にふと思い出して意味もなく叫びだしそうになったり、一人になった瞬間、突然涙が溢れそうになったり。深く考えると胃に穴が開いてしまいそうで、敢えて見て見ぬふりをする今日この頃だった。

「変な転び方じゃなかったからよかったけど、でも今日はここまでにしておこうか。さっきから転びまくってるし、これ以上はどう考えても時間の無駄。さあ、ダウンしてから帰ろう。ストレッチ、手伝うよ」
「…………はい」
 いかにもコーチ然としたヴィクトルの言葉に押し切られるようにして、勇利はその日の練習を終えた。練習時間が短いとか、一日に跳ぶジャンプの回数が決まっているとか、そんなロシア流の指導方法に不満がないわけじゃないけれど、こればかりは仕方がない。だってヴィクトルはもともと勇利にとって神とも天使とも崇めまくっていた憧れの選手だし、もちろんコーチとしても全幅の信頼を置いている。だから言うことは聞くし(それなりに)、指導法にも従う(つもり)。ましてやここはチムピオーン、ヴィクトルのホームリンクだ。郷に入っては郷に従えともいうしね。


「う~ん、どうしてもしっくりこない。なんでだろう? タイミング? 力の入れ具合? もうちょっと滑り込めば分かるようになるのかな? ねえ、ヴィクトル、明日だけど……」
「ゆ~り~、だめだよ。絶対にだめ。明日は休み! 誰が何といっても休養日、オーケィ?」 
「でも……」
「でももだってもなし! 何度も言ってると思うけど、休みは大事だよ? そろそろ身体を労わることも覚えなきゃ。がむしゃらに滑ればいいって年じゃないことくらい、ゆうりにだって分かってるはずだ」
「う……、それは確かにそうなんだけど……」
「時間を上手に使う。オンとオフのメリハリをしっかりつける。この二つは俺にも言えることだから、お互いに気を付けることにしよう。いいね?」
「…………はい、」

 リンクから家までの帰り道、肩を並べて歩きながらそんな会話を交わした。勇利の少しだけとんがった唇と、膨らみ気味のほっぺが、子供みたいで可愛いな、とヴィクトルは思う。頭では分かっている、でも納得できない、そんな気持ちがまるわかりだ。スケートにも、人にもどこまでも正直で、真面目。嘘をつけない、いや、つかない。そのときどきの思いのままに表情がくるくる変わって、まるで七色の虹のよう。きらきらと輝いて、眩しくて愛しい。
 ヴィクトルのラブ&ライフ。大切なふたつのエル。

 隣りを歩く勇利を肩越しに見つめる。そのまなざしが愛に溢れていることを、もうヴィクトルは知っていた。

*****  
 
 朝。キッチンでふたり並んで朝食の準備。パンとコーヒー、そして卵。どこにでもあるシンプルなメニューなのに、なぜかいつもてんやわんやの大騒動。卵が焦げたり、トマトが転がったり。
「マッカチン、それ、食べちゃダメ! ヴィクトル、お湯沸いてるよー! え? このお湯って何に使うんだったっけ? 卵をゆでる? 嘘、僕、もうふたつとも割っちゃった」
「じゃ、コンソメ入れて溶き卵のスープにしよう。一枚だけならベーコン入れてもいいよ」
「やった! ベーコンって美味しいよね。この塩っ気が何とも言えない、マッカチンもそう思うでしょ?」
「いや、マッカチンは食べたことないから分からないと思う」
「いいの、気分だから。嬉しい時は分かち合わなきゃ。ねえ、マッカチン!」
 そう言って軽やかにピルエットを決める勇利。天真爛漫な仕草が可愛い。早朝のキッチンに降り注ぐのは幸せのシャワー。目覚めたての陽の光とあどけない笑顔にヴィクトルの胸がはずむ。湧きあがる愛しさに心が震えた。

 夜。ソファで過ごすお休み前のひととき。ロシア語の勉強を兼ねて本を読んだり映画を見たり。突然始まったラブシーンに驚いて、挙動不審に陥った教え子が可笑しいやら愛おしいやら。
「勇利ってキスの時、目を瞑る派? それとも明けとく派? 俺はキスもセックスもしっかり目を開けてするタイプだけど」
「え? ……は? な、何言ってんの? ヴィクトル……っ! そ、そんなこと、他人に聞くものじゃない、んじゃないかな……? よくわかんないけど」
「そう? これくらい普通じゃない? 何も目の前でして見せろって言ってるわけじゃないし」
「はああ?! して見せろって……何それ、信じられない! これって完全にセクハラだからね! 僕、もう寝るっ! おやすみなさい、ヴィクトル! 今日も一日ありがとうございました! お疲れさまです……っ!」
「嘘、嘘、冗談だって! ごめん勇利。ごめんって……」
 からかいが過ぎて拗ねさせてしまった。さすがにやり過ぎた、と反省しきりだ。それでもきちんとお休みのあいさつをして、お礼と労わりの言葉を忘れずに寝室へと向かう勇利の育ちの良さがヴィクトルの笑みを誘う。この清廉さ、素直さが好ましいとも。
 さて、明日はどうやって仲直りしよう……こんなことを考える自分が不思議で、でも嫌いじゃないとヴィクトルは思った。

 オフの日。サンクトペテルブルグの案内を兼ねたプチ旅行。ピーテルはヴィクトルにとって生まれ育った街で、それこそ隅から隅まで知り尽くしていると言っても過言じゃない。でも勇利と一緒に歩く聖なるペテロの街は輝きに満ち、新しい発見に溢れていた。嬉しくて楽しくて、年甲斐もなくはしゃいでしまう。幾度となく触れ合う指先に、ヴィクトルの胸が高鳴る。えい、とばかりに思い切って手をつないだ。
「ゆうり、こっちこっち! ほら、ここがマリインスキー。そして、これはなーんだ?」
 ひらり、と胸元からチケットを差し出せば、勇利が黒い瞳をパチクリ、とさせた。一回、二回、三回。
「…………すごい、」
 つないだ手はそのままに、勢いよく抱きつかれて、思わずバランスを崩しそうになる。ヴィクトルは慌てて両足を踏ん張った。
「よくとれたね!! なかなか手に入らないって聞いたよ? ねえ、バレエ? それともオペラ? 公演日、いつ?」
「バレエ。今夜だよ。一緒に行こう。いったん帰って、着替えなきゃ」
「うん! ありがとう、ヴィクトル。嬉しい! 本当に、すっごく!!」
 こんなにも表情の豊かな子だったなんて。まん丸な瞳がキュートだ。笑顔が眩しい。くるくる、キラキラ、虹色の表情、虹色の勇利。そんな教え子が可愛くて、大切でたまらない。愛しさのメーターが今にも振り切れそうで、本当に困った。
 その夜が、最高の夜だったのは言うまでもない。

*****
 
 右肩の向こう側、踊るように歩を刻む勇利を、心地よい春の暮れ方の風が包む。その姿にヴィクトルの足取りもはずんだ。怖いくらいの幸せとはきっとこういうことを言うのだろう。たとえ魔法使いがいたって、これ以上の幸せは願えない、とも。

「……トル、ねえ、ヴィクトル、……ヴィクトルってば、聞いてる? さっきから変だよ? 疲れちゃった? 具合悪いとかじゃないよね?」
「ん? 平気だよ~ 晩御飯、どうしようか?」
「晩御飯かぁ。いいや、どうせブロッコリーだし。でも、せめて新鮮なものを食べたい。寄り道してもいい? 市場ってまだ開いてるのかな?」
 あっという間にしゅん……としてしまった教え子の姿に、ヴィクトルは思わずこう言っていた。
「う~ん……明日は休みだし、ま、週にいっぺんくらいならいいか。食べて帰ろう。何がいい? 肉? それとも魚?」
「え? いいの? ほんとにほんと!? やったぁ‼」

 手のひらを返したようにはしゃぎだした勇利に、ヴィクトルは苦笑交じりのウインクを決めた。

 

 この感情はいつから恋に変わっていたのだろう。コーチとして、教え子を案じているだけだとずっと思っていた。気が付いたのは本当に些細なことから。教え子の渡露。ホームリンクを移すのも生活の場を共にするのも提案したのは自分のくせに、勇利がロシアについたその瞬間は教え子の顔を見ることもままならなかった。ハグしようにも手足の動きはぎこちないし、声をかけようにもふさわしい言葉が出てこない。世界一モテる男がきいて呆れる。そんな自分に驚いて、不器用さを嘆いて、そして唐突に分かった。

——ああ、俺って勇利のことをそういう意味で好きなんだな、本気なんだな、って 


「肉! 肉がいい! かつ丼みたいなのって、ある?」
 はずみきった勇利の声が、ヴィクトルの意識をこの場に引き戻した。
「かつ丼って……あのね、あったとしてもさすがにそれはだめ。いくらなんでもカロリー高すぎ。あと、真面目に言わせてもらえるなら、半熟卵はこの国では命懸けだよ? 悪いことは言わないから、諦めなさい。いい子だから、ね?」
「ですよね……じゃ、ヴィクトルのおすすめで。連れていってくれる?」
 ヴィクトルを見上げる勇利の黒い瞳。その瞳に浮かぶ純度の高い信頼と愛情に、ヴィクトルの愛しさのメーターが振り切れた。

「どこにでも、どこまでも。ほら勇利、こっちにおいで……」
 
 肩を抱き寄せる。はずむ黒髪に唇を寄せた。

「——え? なに、……?」 

 ねえ勇利、もしも好きだと言ったなら、君はどんな顔をするのだろう? 驚く? 喜ぶ? 返事はイエス? それとも……?  
 まだ知らない君の表情を見てみたい。見てみたいと思う。心の底からそう思うけど、でも。

——俺はコーチで勇利は教え子。俺はコーチで、この子は教え子で、ふたりとも現役の選手で、勇利も俺も金メダル目指してて、コーチは教え子のメンタルに責任持つのも仕事のうちで、だから、だから、
 そう。残念ながら、今はまだその時じゃない——

 ヴィクトルは心の中でそう繰り返す。
 自分自身を説得するかのように。何度も、何度も。

 

 春の初めの風はどこかあたりも柔らかい。勇利の向こうに広がっているのはオレンジ色に染まる空。確かに熱を孕んだその光景は、抑えきれない恋心のよう。心の奥に確かに息づく密やかな恋情。深く熱く激しい想い。
 でも、もうしばらくはこのままで、仲のよ過ぎる師弟のままで。

「この先に行きつけの店があるんだ。こじんまりとした店だけど、雰囲気もいいし料理もおいしい。きっと勇利も気に入る」

 ヴィクトルは、ふと思った。今、この時、この場所がふたりのスタートラインなのかもしれない、と。この道の先に待っているのは美味しい食事と幸せな時間。そしてこの道のさらにその向こう側、そこでふたりを待っているもの、それはきっと……
 

 薔薇色の未来に思いを馳せ、ヴィクトルは自分の恋心をそっと指先にのせる。そして最高の笑顔で教え子の手を掴んだ。

「行こう、勇利!」
「あ……、えっと……うん!」

 虹のたもと目指して、ふたり、駆けだした。


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