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「掌編小説」トイレットペーパー


「ねぇ、ママ、私のトイレットペーパーは何処?」

高校生になった娘のマキが、朝のキッチンで忙しい私に声を掛けた。
「あなたのって…きちんと其処にセットしてあるでしょ?」
「皆と一緒じゃ嫌だって、いつも言ってるじゃない!」
どうして、この子はそうなのだろう…
「じゃあ、自分で出して頂だい。洗面所のストック置場にあるから」
「んも〜、忙しいのに」
忙しいのは私の方だ。2人分の弁当箱にミニトマトを詰めながら、不満とやるせない思いでため息をつくと
「ミニトマトのヘタはちゃんと取ってよね!」 
洗面所からマキの声が聞こえた。
「はいはい、分かってるわよ」
「おふくろ、おはよう〜」
今度は中学生になって声変わりしたばかりの長男の祐一が、野太い声で挨拶するとキッチンのテーブル席にドスンと腰掛けた。
おふくろなんて呼び方、いつから始めたのよ。ついこの間まで、お姉ちゃんと一緒に「ママ、ママ」って呼んでたくせに。
「おふくろ、野球部のユニフォームは手洗いで、きちんと泥まで落としてくれよな」
「はいはい、分かってるわよ」
「それからさ…」
祐一の話を遮るように
「ママ、私のヘアブラシ、誰にも使わせないでよ!」
洗面所から、またマキが騒ぐ。
「家族なんだからいいでしょ」
「ダメに決まってるじゃない」
「あなた、ちょっと潔癖症過ぎるんじゃない?」
「嫌なんだから仕方ないでしょっ!」
「まぁ、そうね。ヘアブラシは仕方ないわよね」
高校生になってお洒落をするようになれば、そこは譲るしかないのかもしれない。
祐一はトーストを噛りながら、
「アネキ、色気づいちゃって」
大人になりかけの少しイヤらしい笑みを浮かべた。

この子達は、いつから私と違う人格になったのだろう。ああ、生まれた時から違う「人間」に違いないのだけど、まだ私を必要としているくせに時折、毒牙を覗かせる。
バタバタと二人の子供が出て行った後で、
「おはよう」
夫がキッチンに姿を現した。この人だけは私を下僕のように扱わない。珈琲を淹れながら
「何かあったの?」
温かな眼差しを私に向けた。
「どうして?」
「悲しそうな顔してるから」
注がれていく珈琲から大人の香りと湯気が立ち昇る。
「ねぇ、マキなんだけど、あの子少し潔癖症が過ぎるんじゃないかしら?」
「そうなの?」
二人分のコーヒーカップをテーブルに置きながら、視線だけで『君も座れば?』と私を促した。
「今朝も、トイレットペーパーを自分だけ違う物にしてなんて言うのよ、家族なのに」
「うーん、それは……あの子の思春期は三年間コロナ禍だっただろ?ろくに中学校生活を送れてないんだから、そのせいじゃないのかな?」
「でも家族なのに…」
「そのうちに普通になるさ」
パソコンしか打った事がないような白く細く長い指がコーヒーカップの持ち手を弄ぶ。
「そうね、コロナのせいかもしれないわね」
口から不満の粒を一つ吐き出すとその一粒分だけ、軽くなったような気がした。
夫はコロナ禍から、リモートワークが主になり殆ど出社をしない。ママ友達は夫が家に居るのを煩わしがるが、私はこの人が居てくれると精神の均衡を保てるような気がする。
特別な恋愛をして結婚した訳ではなかった。ただ、この人の周りを漂う空気感みたいなものが好きだった。安心して息をしていられると思った。
珈琲を飲み終わると夫は
「じゃあ、また後でね」
と寝室へ消えていった。寝室の片隅を彼は仕事場として使っていた。
さぁ、片付けてしまおう!
そう思ったけど、朝のあの出来事が尾を引いてなかなか洗い物に手を伸ばせなかった。
「そうだわ」
私はベランダへ出て夫の電子タバコをふかしてみた。このニセモノの香りにはまだ慣れないが、健康を害する事は少ないらしい。
それでも印ばかりの消え入りそうな煙は吐けた。一瞬だけ夫の髪の匂いが横切って行ったような気がした。


午後になると私はいつものように自転車に乗って、近所のスーパーへ買い物に行く。
あ、今日は火曜日でセールの日だった。しかも今日は生活用品が安くなっている。白のダブルのトイレットペーパーと小花柄の香りつきのトイレットペーパーを二種類、自転車の前と後ろに乗せて私は急いで家に走った。
早く夫に会わなくちゃ!
私、こんな大変な不様な格好して頑張ってるのよ。それなのに貴方以外、誰も感謝してくれないの。
早く貴方に伝えて、息をしなくちゃ。
家のマンションの扉を開けるとマキが学校から帰っていた。新しい制服が私には眩しい。

「ママ、朝の食事の片付けもしてないじゃない。珈琲だって飲みっぱなし!」

また、この子は怒ってる。
あーー、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……
誰に似たのよ、この子。
早く寝室に居る夫に会わなくちゃ!

「こんなだらしなくて、不潔にしてたから、パパがコロナで死んだのよ!!」







種類の違うトイレットペーパーを赤い自転車の前と後ろに積んで、疲れたように走り去る女性を見て書いてみました。美しい人が髪を振り乱して家路を急ぐ…ただの私の妄想です。


#疑似人間図鑑

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