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勉強する=偉い? 英語勉強中


仕事というものについて常々抱いていた疑問があって、それと似たようなことを、英語の勉強をしていても思った。
それは、「なぜ勉強(仕事)をしていると偉い感じがするのか」である。
「偉い感じ」「良いことをしている感じ」「褒められる感じ」「誇らしい感じ」とも言える。

私は引きこもり気質なので、子どもの頃からテレビゲームが大好きであった。
しかし、「家でゲームをする」というのは、「偉い感じ」とは真逆の行為である。
ファミコンやスーパーファミコンに没頭する私の姿を見て、親は「自分の子どもは偉くない感じ」がしただろう。
現に、中学生の時にはゲームは禁止された。そして勉強を強要された。
「ゲームを禁止して勉強を強要する」ということは、親としては「ゲームをする奴は偉くない。勉強をする奴は偉い」という価値観を持っていたということである。そしてそれはうちの親だけでなく人類共通の価値観であるだろう。

余談だが、中学時代にゲームを禁止されたことで、私は「家でゲームができる友達がうらやましくてたまらない………俺もゲームやりたいよおおおおういいいい」という欲求とストレスがマグマとなって蓄積され、禁止が解かれた(The game ban in my house was lifted after graduation)高校や大学それ以降には、遊欲が大噴火して昼夜を問わずゲームやりまくり、テレビゲームのためなら殺人もいとわない重度のゲーム中毒の人になった。
中学時代に禁止をされたことで欲望が激しく増幅し、仮に「ゲームが人間にとって良くないこと」だとするならば、禁止した効果が台無しどころか「禁止されていなかったらやったはずのプレイ時間を何倍にもして取り戻す」という、とても良くない逆効果となって禁止の反動が発現されたのである。
自分の子どもに「○○をやめさせて代わりに勉強させたい」と思っている親御さんがいたら、ただ「○○は禁止! 勉強しなさい!」と叱るだけという、寝っ転がりながらでもできる無脳まる出しのやり方ではまったく逆効果になるということは知っておいて欲しいと思う。親がそんな楽して口出すだけで子どもがしっかり育つなら、日本中イチローや大谷ばっかになってるんだよ。

で、私は高校大学社会人と、時に寝食を忘れてゲームにハマっていたわけだが、そんな私の中でも「ゲームをやっている罪悪感」というのはあった。
とりわけ大学生の時。高校や会社は休むわけにはいかないが、これが「一人暮らしの大学生」となると、授業をサボって家でゲームやるということができる。高校や会社と違い、誰にも怒られないからだ。
ただ、そんな時にもふと「俺は講義にも出ずゲームなんかやってていいのだろうか」と後ろめたさを感じる瞬間はあった。別にいいのに。
つまりこの私自身も、「ゲームをする奴は偉くない。勉強をする奴は偉い」と考えていたということである。それは親の価値観を引き継いでいるからで、親は世間一般の価値観を引き継いでいるのだ。

しかし、今、おっさんの年齢になってなぜか英語の勉強をコツコツするようになって、私は時々考え込むのだ。
勉強が偉い感じがして、ゲームは偉くない感じがするのはなぜだろう?と。

私は今、英語の勉強をかなり楽しくやっている。
自主的に毎日やっている。下手したら、高校の時にゲームをやっていたのと同じくらいの時間毎日やっている気がする。
他の語学もきっとそうなのだろうが、個人の感想としては英語の勉強は途中から徐々に楽しくなる。苦しい最初の一定期間を過ぎると、RPG感覚でプレイできるのだ。
RPGというのはロールプレイングゲームである。
私としては、人生も45年が過ぎた頃にようやく、英語の勉強にはドラゴンクエストをプレイするような魅力があることに気付いた。呪文を覚えてレベルアップして仲間を増やして行ける場所が広がる感じ、そっくりである。そこを細かく書こうとすると長くなるが、そういうのを細かく書くことは私の真骨頂なので、「英語≒ドラゴンクエスト説(≒=ニアリーイコール=nearly equal)」については別記事で書くかPodcastで話すかしようと思う。

そして、私は「自分が英語を勉強している」ということを、「わりと偉い感じのことをしている」と思っている。
一応断っておくが、誰かに褒められたいから英語を勉強しているわけではない。今となっては。
正直、最初の「なにもかもわからなくてつらい」という時期は「でも勉強することは偉いことだから! 俺は偉いことをしているんだああ!!」という、自分を励ます材料としてそういう感覚を使っていたりもしたが、そのフェーズはもう通り過ぎた。
もし「偉い感じのことをして褒められたい」がメインの目的だったら、私はとっくに勉強をやめているはずである。なぜなら、おっさんが英語の勉強をしてるくらいで褒めてくれる人はこの世に誰もいないから。
勉強をして褒められるのは子どもだけだ。おっさんは勉強という「経過」ではなく、結果が全てなのだ。
と言いたいところだが、to make matters worse(さらに悪いことには)、悲しいことに、おっさんというのは結果を出してもほとんど褒めてもらえない生物である。
TOEICで990点を取ったとしても、おっさんだったら別に褒められないと思う。「満点取ったよ!」と言っても、「ケッ、いい歳して自慢かよおっさん」と悪感情を持たれそうだ。世間はおっさんに厳しいのである。
10カ国語ペラペラになるくらいになって初めて「えーおじさんすごーい☆☆」と言ってもらえるのではないか。
それが英語ペラペラですらなく、「英語を話せるようになるため勉強をしています」の段階で誰がおっさんを褒めると言うのだ。90歳のおじいちゃんくらいまで突き抜ければ、「卒寿を記念して英語はじめました」で褒められそうだが、おっさんはそうじゃないのだ。

まあそういうことで、私は今は実際に「英語の勉強自体が楽しい」と思う時期に突入している。いつまで続くかは不明だが。
例えば、「少しでも時間を作って早くDeath Noteの続きが読みたい!」とか思う。

ちなみに「Death Note デスノート」の英語版、  1.テキスト量(台詞)が多い 2.面白い!! 3.他の英語版マンガより少し安い と3拍子揃っていてすごくお勧めである。

https://www.amazon.co.jp/gp/product/B00FDZERXI

ご覧のようにテキストが多すぎてマンガなのにペーパーバックのごとしである。読んでも読んでも読み終わらず、コスパがめちゃくちゃ良い。
ただしあんまり初心者のうちに読み始めると挫折するでしょう。


英語版のデスノートを読むのは、紛れもなく勉強である。
英語の本を読むことが英語の勉強でなくてなんであろう。読書というのはその言語の習得に必須の作業である。

しかし、そこで私は思うのである。
「デスノートめちゃ面白い!! 早く続きが読みたい~~!!」と思ってマンガを読むのは「勉強」で偉くて、「ドラクエの続き早くやりたい!! 今日は夜中までやるぞ!!」と思ってゲームをやるのは「遊び」で偉くない、この違いはなんなのであろう?と。
「勉強は偉い」「ゲームは偉くない」は私の主観の問題ではなく、世間の価値観がそうなっている。私がゲームを禁止されていた中学生時代に、ゲームをやったら親から怒られただろうが英語版のデスノートを読んでいるなら教育パパ&ママに褒められたと思う。

同じ「自分の欲求のままにやりたいことをやっている」という状態なのに、なぜ一方はなんとなく偉いことで、一方は「ダメなやつのやること」みたいな認定になってしまうのか?
いったい「偉いね」とか「真面目」とか「立派」とかの基準はなんなんだろう?と、私は煩悶する。
40代にして英語を勉強しているおじさんは褒められはしないものの、けなされるということもない。しかし40代にしてテレビゲームの楽しさに目覚め、ドラクエに没頭し出した大人は、「あの家の旦那さん……最近ゲームばっかりやってるみたいで……毎日夜中までピコピコ音が……だらしないわねえ……ヒソヒソ……」と団地で後ろ指さされるであろう。
もちろんいいんですよ没頭しても。僕、没頭してますから。ドラクエシリーズ全部クリアしてますから(オンラインは覗く)。ダンガンロンパも1と2を(PS4版の「ダンガンロンパ1・2 Reload」)クリアして、3も(同じくPS4版の「ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期」)もう買ってありますから。
しかしたまたまハマったのが英語かドラクエかの違いだけで、世間からの見る目が(自分が自分を見る目ですら)すっかり変わってしまうのは、なかなか世の中は残酷だし不公平だと思ったりするのだ。

赤ちゃんが生まれたばかりの家庭があるとして、パパが赤ん坊をほったらかしにしてゲームに熱中していたら、ママはパパを殺さんばかりの勢いで激怒し、いかに自分の夫が最低のカス人間であるかという文句をSNSに書きまくるのではないか。
でも、パパが赤ん坊をほったらかしにして「英語の勉強」をしていたとしたら、同じくママは激怒するだろうが、ゲームにハマってほったらかしにしているのと比べたら、まだ半殺しにしたいくらいの怒りで収まるのではないか。ゲームの時は殺さんばかりの勢い(全殺し)だったので、半分和らいでいることになる。
勉強の場合は、SNSへの投稿も思いとどまるのではないか? 「うちの旦那が子どもの世話せずにゲームしてて最低!」という書き込みと比較して、「うちの旦那が子どもの世話せずに英語の勉強してて最低!」だと、投稿文としてのインパクトが薄れる感じがするじゃないか。旦那の悪徳ぶりが弱まって、RTを稼げなそうである。下手をしたら、「えっ、文句を言っているように見せかけて、『うちの旦那は勉強家なのよ』マウント?」と不本意な受け取られ方をする危険すらあると思う。

その違いが、私は不思議なのだ。
当たり前と言えば当たり前だが、「なんで当たり前なんだろう?」とふと立ち止まって考えてみると、納得できる答えが出て来ないのだ。

これは私が自分の仕事について10年以上思っていることにも通じる。
私は15年ほど作家として「家でパソコンに向かって原稿を書く」という作業をしているが、私がやっているのはなんなのだろうか。これは仕事なのだろうか?とふとした瞬間にわからなくなるのだ。
なにしろ、私は作家になる前から、後に作家になってから書く原稿とたいして変わりがない文章をブログや個人のWEBサイトに書いていた。だいたい、いくつかの本はWEBサイトの旅行記を書籍化したものである。
「家でパソコンに向かって原稿を書く」という作業は、私はデビュー前には娯楽としてやっていたのである。派遣社員として会社に通いながら、「帰宅後」や「休日」という、仕事以外の時間にやっていたことだ。趣味である。
ところが、「家でパソコンに向かって原稿を書く」という同じ作業が、ある時からいきなり仕事として認定されることになったのだ。
例えばデートの約束があるとして、会社員時代に「ごめん、今日中にブログの旅行記更新したいから、デートキャンセルしてもいいかな……?」と言ったら、彼女は「私とのデートよりブログの更新が大事ってこと? あっそう、このクソ野郎!!!」と激怒して去って行くだろう。
しかし作家デビューした後に「ごめん! どうしても締め切りまでに原稿が終わらなくて、今日のデートキャンセルさせて欲しいんだけど……」と言ったなら、「えーーっ! はぁ。でもしょうがないよね、作家さんなんだから。わかった。お仕事がんばってね♡」と、まあまあ納得感を持って了承してもらえるのではないか。
私はドーテーズ会員なのでこれは妄想でしかないが、いい線行ってる気もする。

でもそのどちらのパターンも、私がやっているのは「家でパソコンに向かって原稿を書く」という同じ行動なのである。ずっと家にいるのである。会社にも行っていないのである。会社員時代に趣味でやっていたことを毎日会社にも行かずにずっと家に閉じこもってやっているのである。
それで趣味と仕事の境目も仕事の定義もわからなくなるし、自分の毎日に対して「これはなんなんだろう? 自分はどういう大人なのだろうか?」と疑問を持たずにいられないのだ。

「お金が発生するのが仕事である」と言ってみたところで、じゃあブログにアフィリエイトをつけて小銭が入って来るとかあるいはYoutubeで生配信をして500円の投げ銭があるなんてことを仕事と呼べるのかとか、「生活できるくらいの収入が発生すれば仕事である」と言ってみたところでじゃあバイトしている売れない芸人は芸人を仕事と言ったらいけないのかとか毎月赤字の食堂の店主は赤字だから仕事をしていることにならないのかとか、どういう定義を作っても必ず否定できてしまうので、考えても考えても解決しない。
とりわけ私の半分以上の旅行記は「趣味でホームページに書いていた旅行記が後から出版された」のであり、後から出版されることになる旅行記を趣味で書いていた時のその執筆は、趣味なのか仕事なのか? 謎である。
ちなみにその旅行記はこれらの本ですよ~~(涙)

この件と「英語とゲームの話」は、同じではないがすごく似ている部分はあると思う。
英語もゲームも、両方とも「楽しいと思ってやっている趣味」だとしたら、なぜ片方は偉い感じがして片方は怠慢な感じがするのか。どちらも一生懸命やっているのに。そこに「誰かの勝手で主観的に決められた価値観」以上のなにがあると言うのか? 
というのが、常々私が油断するとふと考え始めて深みにはまってしまう疑問なのである。
今のところは、答えはわからないが、たまたま世間がそういう価値観になっているので、たまたま自分が世間的に認められる方の趣味に興味を持てたらラッキーと思うしかないのだと、この世界はただの運で転がっている部分がほとんどなのだから、あまり深く考えるものではないというのが今のところの私の着地点となっている。なんのこっちゃ!!


That's it.



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