大島薫初の小説『不道徳』 #28/32

 日々の業務に追われる中、拓海に思ってもみない人物から久しぶりに連絡がくる。元恋人の美香だ。「会いたい」という美香の言葉に、拓海はどうするか迷ったものの、結局再び会うことにした。
 洒落た北欧風のインテリアで統一された喫茶店の店内で、女性客やカップルが笑い合う。
「久しぶり」
 そう声をかけてきた美香は、すこし痩せたように思えた。春の陽気に多少露出した服装から伸びる手足は、ずいぶんと細くなった印象を受ける。
「ああ……うん、久しぶり」
 にこやかに接すればいいのか、怒っていればいいのかわからなくなって、拓海は曖昧に挨拶を返す。注文を取りに来た店員に拓海は「アイスコーヒー」とだけ告げて、黙ってしまった。
「今日、あったかいねー」
 窓の外を見ながらそう話す美香に、やはり拓海は曖昧にこたえる。高く伸びた鼻から、顎にかけてのラインはバランスが良く、綺麗だ。拓海は昔から美香の横顔が好きだった。
「どうしたんだよ、急に連絡なんかよこしてきて」
 拓海は美香の言葉にはこたえずに、それだけ返事をした。やはり、ついぶっきらぼうな物言いになってしまう。
「……怒ってるよね、やっぱり」
 拓海の言葉に姿勢を正した美香は、拓海の顔色を確かめるようにおそるおそる訊ねる。覗き込む美香の顔が陽光に照らされて、色素の薄いアールグレイ色の瞳がより際立った。
 拓海は黙って美香を見ていた。
「そりゃそうだよね。あんな別れ方したんだもんね。怒るよなぁ、そりゃ」
 なにもこたえない拓海の空気に耐え切れなくなったのか、美香が自分一人で納得したように、話を結論付けた。
「そんなんだからかなあ……バチが当たったのかも」
 そういって独りごつ美香の言葉に、拓海はようやく「そういう話か」と合点がいった。
「なんかあったのか?」
 やっと話した拓海に、美香は気まずそうな顔を見せた。
「私、好きな人ができたっていったじゃない? その……たぶん、私、その人と別れた」
「たぶんってなんだよ?」
 はっきりとしない物言いに、拓海がさらに質問を重ねる。
「うーん……なんかね、だんだんと連絡が来なくなっていって、最近は何回かメッセージ送ってやっと返ってきたりとか、会うのも月に一回あるかどうかで。もう終わりなのかなーって思って……」
 ちょうど、そのあたりで店員が拓海の分のアイスコーヒーを持ってきた。
「ふーん、それで?」
 拓海はストローを挿しながら、話の続きを促した。
「私、それで自分が拓海にしたこと振り返ってみて、『あー、なんて酷いことしたんだろう……』って後悔しちゃってさ。他人にされてみないと、自分が与えた痛みってわかんないもんだね」
 拓海は気まずそうに笑う美香の顔を見て、多少自分の中の怒りが治まるのを感じた。いまさらなにをという気持ちは当然あったが、それ以上にいまの美香を責めると自分がもっと情けなくなるように思えた。
「そう。で、そいつとはどうするの?」
 拓海は頬杖をついて美香に訊ねる。そっぽを向いて窓の外を見ると、ほとんど散りかけの桜並木が見えた。
「わかんない……」
 俯く美香に、拓海も返答する言葉がない。ますます、なんの話なんだという気にもなった。話を聞いてもらいたいだけなら、なにも自分にしなくてもいいのではないか、と。
「そいつのこと、まだ好きなの?」
 拓海はため息をつきながら問いかけた。
「最初は、ね。ちょうどあのころ拓海も仕事で忙しくしてたじゃない? おウチで過ごす時間も多かったし、飲み会には行くのに私には構ってくれなくって……そんなときに熱心に好きだっていわれて、私も舞い上がっちゃったんだろうな」
 拓海はそのとき自分が責められているのかと思い、一瞬ムッとした。だが、たしかに美香のいったようなことも思い当たる節があった。正直なところ、それは恋愛においては甘えだったと、いまの拓海としても思う。
 若い二人にとって、三年というのは長い。拓海はわりと美香とは早い段階から、徐々にセックスレスになっていった自覚があった。最初こそ会うたび、休日は毎日といった具合だったが、やはり一年、二年と経つごとに頻度は落ちた。
一番は就職が原因だったと思う。社会人になったという刺激が強すぎた。学生時代と違い、自分で稼ぎ、自分で使える金を持ったことで、世界が広くなったように感じた。
「でも、飲みに行くのだって仕事のうちだし、俺は浮気をしていたわけじゃないぞ」
 ついそんな言葉が、拓海の口をついて出てしまった。
「そうね。浮気をした私が全部悪いもんね……」
 拓海の責めるような口調に、反論することもなく美香は自嘲気味に笑う。言い返されれば拓海にも伝え足りない文句はまだあったが、美香の控えめな反応に黙るしかなかった。
「でも、寂しかったな」
 ポツリとつぶやいた美香が、そんなことを漏らした。
「私さぁ……『仕事か私、どっちが大事なの?』なんてこと、自分が誰かに感じるとは思ってなかった。仕事と恋愛は別物だし、仕事をしなくちゃ生きていけないし――そんなことをいうのはバカなメンヘラ女だけだって」
 拓海は美香の言葉を黙って聞いていた。
「でも、悲しいけど、それぞれにかけた『時間』は比べられちゃうんだよね。仕事にかける時間、趣味にかける時間、友だちにかける時間……そういうかけた時間が明らかに違っていると、やっぱり順位が付けられちゃう気がしてさ」
 美香の言葉に拓海はなにもいえずにいた。
「そんなの無理だってわかっていても、誰よりもなによりも優先される瞬間が欲しくなっちゃう。求められたい、愛されたいって。でも、結局、私、いまも求められてないみたい」
 美香の瞳には、いつの間にか涙が滲んでいた。拓海からしてみれば、いますぐ「そんなことはなかった。ちゃんと愛していた」と反論したい気持ちがあった。しかし、美香の言葉を鑑みると、とてもじゃないがそうは言い切れないと思ってしまう。恋愛に対して怠けていたといわれれば、そうだったという他ないような気がしてきていた。
「……あー、私こんなこというつもりじゃなかったのに。ごめん、お手洗い行ってくる」
 美香は軽く目元を拭ったかと思うと、すぐに立ち上がり、バッグを持ってトイレのほうへと足早にいってしまった。
 取り残された拓海は頭を抱えた。拓海はこの日ここに来るまでは、自分にこそ正義があるものと思っていた。責めることはあれど、責められることなどないだろうという考えだった。もしかすると、一年前の別れた直後だったのなら、ああいわれても自分に非はないと突っぱねられていたかもしれない。
 しかし、風俗で働いてきた経験から拓海は、求められないものの悲しみを十分に感じてきてしまっていた。誰からも指名がつかない日、常連客がいつの間にか来なくなったことに気づいたとき、自分の無価値を自覚する。そこにノンケだとかゲイだとかというのは関係ないように思う。きっと美香のいったことだって、行動を言葉にしてしまえば、デートをするだとか、セックスをするだとか、単純なものになることだろう。だが、たぶんそうではないのだ。
 出会ったころの一日と、三年経ったころの一日が同じ気持ちでないことが問題なのだ。だが、果たして自分に、そんな変わらない愛の注ぎ方なんてものができるのだろうか。生まれて初めて食べた、一口目のハンバーグの味を何度も得ようとするようなものじゃないか。美香の欲していたものは、それと同じことではないのか。――いや、だからこそ求めてしまうのかもしれないなと、拓海は変に納得をした。
「ごめんね、落ち着いた」
 しばらくして、美香がトイレから帰ってきた。
「ああ……」
 拓海はすこし居心地が悪そうだ。
「最近、仕事のほうはどう?」
 空気を変えるためか、美香はそんなことを拓海に訊ねた。
「そうだな……まあ、うん。来月、俺、一つの課を任せられることになったんだ」
「え、すごいじゃん!」
 拓海の言葉に、美香は素直に驚いた。
「仮だけどな。別に給料も上がるわけじゃないし。ただ、ここで認められたら、たぶん本当に課長になるかも」
「拓海、がんばってたもんね」
 美香が微笑む。美香の顔は、純粋に拓海の出世を喜んでいるようだった。
「他に同期で出世したりした人はいないの?」
「え? いや、俺だけだけど……各課から一人ずつっていわれてたから、枠も限られてるしなあ」
「そっか。じゃ、若手のホープだね。おめでとう」
 美香がそういって祝うので、素直に喜んでみせた。
「じゃ、そろそろ私、行かなきゃ」
 美香が自分の腕時計を見ていう。
「え、そうなのか?」
「うん、このあと予定あって。でも、今日は話せてよかった。会ってくれてありがとう」
 立ち上がる美香。
「あ、美香」
 拓海は思わず、美香を呼び止めてしまった。
「ん? なに?」
「あの……また、普通に、会ったりとか……できるのかな?」
 拓海はつい、そう言葉にしてしまった。先ほどの話は中途半端に終わったが、ここから先、なにかを変えられるかもしれないと思った。
「うん……また、連絡して」
 美香のこたえに拓海は安堵する。
「ああ……うん! また」
 去っていく美香を見ながら、拓海は小さく「ヨシ」とつぶやく。もしかすると、自分の運命は一年経つ間に、すこしずつ良くなっているのかもしれない。そんな予感がした。

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