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書くか喋るか

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TENG(テン)の活動で考えたこと/感じたことを、書くか喋るかで記録してきます。
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週1店舗の開業エネルギーのほとんどは、発注リストに吸われていた

飲食と売店、それぞれ週1営業とはいえ、二つを同時期にオープンさせ、2ヶ月が経った。新しいプロジェクトは「始める」ときが大変だなあ、と感じる。 場所は、すでに関わっていたプロジェクトからの延長線上にあったものなので、物件選びといった手間は一つもなかった。じゃあ何が一番手間どったかといえば、仕入れ(発注)である。 二店舗共有の「駄菓子」に始まり、飲食のほうではカフェバーの形態なので「酒」「氷」「その他飲料」「食材」「備品」などをどこから仕入れるかを選ばなくちゃいけない。売店の

人を贄を捧げた、地域プロジェクトに未来なんかあるもんか

ネオ公民館「なわほ」が動き始めて、もう6年目に入った。運営母体の組織の立ち上げから換算すると7年になる。いやあ、マジで早い。 じつは、今年からは(役員も含め)運営からは完全に離れたわけだけど、それは自分が動かそうとしなくても場が動くようになってきたから、ここが引き際だと思った。 細かくは、5年間で自走するまでの場の流れをつくるまでが自分の役割だと意識していたことが、ありがたいことにちゃんと5年で納まったからでもある。 属人性ばかりで事が動いていくような、「この人がいない

与えるつもりが奪ってしまう(ポテンシャルのある)大人たち

「不足が足りない」 ときどき出てくる教育問題の原因として挙げられるのは、この"不足不足"なんじゃないかと、10年以上ずーーーっと変わらず一貫して思い続けている。 大人がこの「不足づくり」が苦手になっているせいで、子どもたちにも影響出ちゃってるなぁと。つまり、大人が子どもにいろいろと与えすぎるのだ。 自分で疑問を持って、気になるから体験してみて、自分なりの答えを持つ。そして、世の中の答えを照らし合わせ、その違いがあれば、さらに疑問を深めていく。 そういう流れが求められい

「考えすぎ?」と自分で疑うことも、「考えすぎ」と他人に言われることも、ちょっと多すぎて、くたびれたてきたよ、って人へ

「考えすぎかな?」と自問自答したり、「考えすぎだよ」と言われがちだったり、一人で頭を抱え込みぐるぐる同じ思考を繰り返し鬱々と沈んでしまう人には超絶オススメ。 『考えてすぎてしまうあなたへ〜心配・落ち込み・モヤモヤ思考を手放すセラピー〜』 グウェンドリン・スミス(著) CCCメディアハウス(2022.08) タイトル通りの「考えすぎ」てしまう人に向け、どうその性質と付き合っていくのか。認知行動療法的なアプローチを読者に提案してくれる一冊。 そもそも「考えすぎ」とは何な

rec.15「本と移住の話」

2024.05.31「二拠点の黄金比率(変動するけどね)」「『なぜ働いてると本が読めなくなるのか』で提案する"半身"と地域(拠点)」「本を読みたいから移住するのってどう?」

rec.14「二拠点(芸人と矢印)の話」

2024.05.29「言葉のリアリティ」「マキタスポーツ(山梨)、サンキュータツオ(山形)」「TOWA TEI(軽井沢)」「都会と地方のどちらから仕掛けるか」*訂正(高橋ひろゆき→高橋ゆきひろ/幸宏)

「転がり力」をもって、地域を「ただよう」こと

鳥取に拠点を移してから、いつの間にか7年目に入っていて、「定着」したという感覚はないが、まわりから見れば「定着」してるのだろう。 といっても、5年目まではほぼ鳥取で、6年目は東京と2拠点をし、7年目はたまに行くくらいの1.5拠点のくらいで、今いる地域に「関わることはやめなるつもりないけど、その距離感はいろいろと実験している」。 ちなみに、来年からはまた2拠点に戻る予定だが、これまでと違って、東京比重を上げるつもりだ。まあこれも実験の一つではるけど、そのためにも今あるプロジ

「一人」と「みんな」、二足の草鞋を履いてみるすゝめ

大学受験、そしてフリーランスとして執筆や企画の仕事など、ずっと独学でどうにかやってきた経緯もあり、基本は「まず自分一人でやってみる」といいう姿勢をとるようにはしている。 けど、独学だけではどうしようもないこともある。いや、というよりも、そもそも「どうしようもない」と自覚できないことすらある。こいつが怖い。若いときであれば、それなりに指摘してくれる周りの大人がいるけど、まあまあ年を取ってくると"粗"の部分は言われなくなってしまう。 ぼく自身、一人の限界を何度も感じてきた。

ままならぬリソグラフ

今日は、ひさびさに午前中には起きていた。「リソグラフ」の研修があったからだ。 6年ほど運営に関わる拠点「なわほ」は、いろんな「つくる」を学び、体験できる"ネオ公民館"を謳うようにしている。蒸留器や3Dプリンタ、レーザーカッター、木工旋盤などさまざまな「つくる」に対応し、ちょっとしたメーカースペースのようにゆるく稼働している。 そういった「①つくる場所と道具がない!」に合わせるだけでなく、「②つくり方がわからない!」に対応できるようにとはじめたのが「なわのがっこう」だ。「地

ビジネスモデル崇拝で「仕事する」とか「お金を稼ぐ」とか

イヤイヤながらでも仕事をしていると「ビジネスモデル」という言葉に出くわす。 のことを指すらしいが、社会人になって15年が経った今でもあまりピンと来ない。そもそも「モデル」という言葉に重きを置ことする姿勢があまり好きになれない。 物事は、真似から入って、学びに変え、身につけ自分のものにしていく。そのためには手本・見本となる「モデル」は大事なのだろうけど、「そのモデルをなぞらってさえいれば、もうすべて大丈夫です」といった論調をこの頃は感じる。ネット広告で甘いささやきのように流

横ならびで、思考畑を耕してゆく

引き続き、「なぜ勉強するのか」について。 その根っこを考えてみる。その「なぜ」がわかったとて、どうなんだろう。わかったら、「ああなるほど、意味ありそう/なさそうだから、勉強する/しない」と二択から選ぶのだろうか。 小中高大そして社会人、どのタイミングであっても究極の一択を選べるわけがない。そもそも判断基準すら自分がわかってないのだから。その基準をつかめるほどに、学びが足りていない。汚れたぞうきんで床をふいても、汚れはとれない。 わからないから学んでみる。わからないから学

まなんだら、百目になれる

「なんで勉強するの?」のつづき。一つの物事に対する視点が増える。そして解釈も変わり、思いやれるようになる。ここをもうちょい加筆したい。 国語数学英語と”分野”を分けたがるけど細かくみれば有機的なつながりがある。遠くの国の戦争が日本で暮らすわれわれの光熱費を上げるように。 分野は、入口の問題でしかない。たとえば、「まちづくり」という分野について、真正面の「地域」学から入ることもできれば、少しズラして「教育」「経済」「建築」「法律」などの入口からでも辿りつける。 どの観点か

見えると、やさしくなれる

ときどき出くわす中学生と「なんで勉強するの?」という話になった。自分が中学生のときはどうだっただろう。 昔からずーーっと「頭でっかち」だと自覚している。どんなことも「なんでそれやるの?」と腑に落ちなければなかなか手を出そうとしない頑固者でもあった。そして、さきの疑問に同じくぶち当たった。 一人で考えてみても要領を得ず、いろんな教科の先生に聞いてみる。けど、「受験で」とか偏差値主義のトンチンカンな返答しかもらえず、?を抱えて続けた。高校、大学になってもそれは続いた。 今だ

体験まるごと「買う」わけなので

ひさびさにポケモンカードのパックを開封した。5枚の中にどんなカードが入ってるか、未知にドキドキする感覚は、小学生のとき以来じゃないの。 今日、運営拠点の定期イベントがあった。だれでも出店/チャレンジ企画ができる日だ。その一つに、子どもが企画したポケモンカード大会があった。 優勝賞品がカードだったのと、サブカルを扱う新店舗でも置きたい商品だったのもあり、その仕入れを担当させてもらった。 大会が終わると、賞品&商品として在庫が減り、持ち帰った残りをまとめて開封してみることに