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なんとか400

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なんとか400字ちょうどで書く、記録か記憶。
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特定少数に向けて言葉を編む(noteの場づくり)

noteをこのアカウントで使いはじめて8年が経つ。「公開中」の記事は文章/音声含めて957本となっていた(まぁまぁ記録できてた)。 あくまで、まずは「自分の記録」として。そうでも考えないと、誰に向けて書いてるのかわからなくなって、手が動かせない。ただ、少し慣れてくるとこの内容を「知り合い話すとしたら?」という意識を持てるようになった。 そう、毎記事ではないんだけど、顔を浮かべながら書いたり喋ったりすることはちょくちょくある。過去そういう仕事に関わっていたくせに、マス・コミ

自分が読者/リスナーとしての記録を続ける

自分のために記録する。それを続ける。 ってのを、ここ数年ずっと実験している。「実験」としてるのは、結局のところ、自分の記録が何のための役立つのか、をまだまだ試してみたいから。 自分が考えたこともすぐド忘れしてしまう人間としては、記録にすることで後から思い出せるのでいい。記録に残る過去の言葉が、今の自分の行動をふり返ったり、考えを深めたり(すぐまた忘れるのだけど)、新たな言葉を手繰り寄せるための”装置”になることがあるのでいい。 ……みたいな、良さは挙げようと思えば、もっ

情報感度をもっと低くする。

ここから5年が過ぎていた。が、何が変わったのか。 再インストールしたFacebookアプリを、4月1日にまた消去した。「同じことの繰り返しじゃねーか」とツッコみたくなるけど、さすがに今回は意味合いが違う。Facebook自体を止めたのだ。 過去にずっと「vs Facebook」の葛藤は記録してきたわけだけど、ついに、ついに!である。 正直、自分の仕事においては、イベント告知など活用するほうが利がある(友達や地域との親和性から)。けど、もう一からまた積み上げていけばいいじ

ラブホテルあそび

「ラブホテル」という言葉には、どこか潤とした響きがある。 これを「ラブホタル」とすると、少し土臭くなり蛍の求愛行動の何かかと思えてくる。 「ラブホタテ」とするとどうだろう? ラブホテルと同じような瑞々しさを感じる。どちらも(塩)水際を彷彿とさせるからか。 ちなみに、数字を加えて「ラブホタル21」「ラブホタテ21」としても、語呂が合わず、超超超いい感じにはならない。「ラブレクリエーション21」ならギリ合う。やや潤度もある。 さて視点をズラし、ラブホテルを「バブホテル」と

わかりづらさの中でただよいたい

「あれかこれか」ではない、「間(あいだ)」のこと。 もっといえば、あれとこれの間に何かがあるはずなのに、その観察がされてないなぁと感じることがよくある。 人間は、文字のごとく、つねに「間」でゆらぎながら生きてるのに、近頃は、わかりやすく「あれとこれのどっちなの?」とどちらかを選ぶことを強いられがちなんじゃないかって。 「丁寧か雑か」もそうだし、「地方か都市か」「仕事か趣味か」「右か左か」など、「どっちもある」とか「どっちつかずなんだけど」という間の選択肢が間引かれちゃっ

丁寧か雑かじゃなくて、ただの気分

スーパーで買ってきたペットボトルのペプシを、冷蔵庫でちょい冷やす。 で、うすはりのロックグラスを出し、大粒のブロック氷をカランと入れ、氷に当てないようにコーラを流し込んでいく。最後に、スライスしたドライレモンを乗せたら完成。 お待たせしました、ただのペプシです。 こういうことを手間をかけてやるのって、超単純な分類で「丁寧な暮らし」とかに括られがちだ。たしかに、ドライレモンなんては乾かす時間があるし、なんならコーラに加えなくてもいい蛇足ともいえる。 ただね、言っちゃうと

本との距離⑨(400字)

文字ばかりの本に慣れつつも、漫画から興味を広げることも覚えた頃、転校することになった。ちょうど3年になる手前だったような。 ついに親が別居することになり、4人姉弟みなで母に付いていく(そのだいぶ前から籍は外していたようで、子どものために一緒に住んでいたとか)。 学校が変わること、仲良い友達と会えなくなることに、いうほど不満があったわけではない。けど、環境の変化にうまく対応できなくて、転校後の学校の記憶はほとんどない。そう、登校拒否をしていた時期があった。 なので、ほとん

制服を脱いだら剥がされるもの

「卒業して、制服を脱いだら、主人公感がなくなって戸惑った」 とあるラジオでとあるゲストが話していたのを聴いて、なぜかビビッときた。そのあたりをフラーっと考えてみる。 高校に限らず、大学生くらいまでは「わたしが最強!」という匂いがぷんぷんすることのほうが多い気がする。自分がどうだったかといえば、大学1年くらいまでは沖縄から上京してへんに調子に乗ってた気がするから、その"主人公感"を持ててたんだろう。 だけど2年からは、まあ学費も含め自分で払うんだったな、という現実を突きつ

ハリボーと水木しげるは同級生

雑学というメガネをかけると、ものは同じなのに見え方が変わるものってある。ぼくにとっての最近のそれは、ハリボーだ。 言わずと知れた、グミ。商品名でもあるし、会社名でもある。ドイツ生まれで、世界初のグミこそハリボーが開発したものとされる。120カ国以上で取り扱われ、発売数世界一、売上世界一ってそんなにすごいのね、あなた。 そして、ハリボーで馴染み深い「ゴールドベア」の祖となるフルーツグミ「ダンシングベア」ができたのが、1922年ときた。小さな台所で、世界を巻き込むグミが生まれ

猫とくらせば / どうなるかわからないノイズだらけ

「ああすれば、こうなる」といった合理性だけで動く世界を前提とし、取捨選択をする。「どうなるかわからない」ものは手入れしない。それどころか「ないもの」として扱い、人間を同じ論理に当てはめながら考えていく現代。それが脳化社会だと、養老孟司『ものがわかるということ』では指摘する。 一方、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』では、新自由主義が浸透するなか、コントローラブル(制御可能)な自分の行動の変革が重視され、自分以外のアンコントローラブルな社会はノイズ(雑音)として

本との距離⑧(400字)

シリーズもの、推理もの、そして、文字中心の本に少しずつ慣れてきた小学低学年期。そういえば、転校する前の話として記録しておきたい本があった。 『学研まんが ひみつシリーズ』である。特に、トン子・チン平・カン太の3人組が登場する『トン・チン・カンの科学教室』はよく覚えている。「なぜお風呂だと歌が上手く聞こえるのか」などの日常の不思議に応えてくれる嬉しさがあったし、すぐに試してみたくなる実験の紹介も多かった。 恐竜に宇宙(UFO)と首ったけの頃、化学/科学としての「なぜ」を紐解

本との距離⑥(400字)

あの頃のぼくにとって、「図鑑」は、チョコボールの「おもちゃのカンヅメ」くらい期待に胸を膨らませてくれるものだった(しかし、金銀のエンゼルをすべて集め切ったことはない…...)。 時期は同じくして、小学低学年。ぼくは横浜は都筑区の小学校に通っていた。今と違って、まだまだこれから開発していくぞ、というエリア。母の意向か、家の近くに畑も借りていて、たまにその作業を手伝っていた記憶がある。 その頃は、まだまだ外で遊ぶのが楽しく、家に帰ったら、駄菓子屋に立ち寄り、公園に集まることの

本との距離⑤(400字)

小学生になる前、ビデオきっかけでゲゲゲに出くわし、妖怪を覚えた。その影響は、しばらく続く。 『妖怪大図鑑』にはじまり、地続きのページが展開していく『絵巻えほん 妖怪の森』にはどハマりし、暇さえあれば眺めていた。熱量と反復の掛け算とはすごいもので、知ってる妖怪の数がどんどん増えていった。 ここで書きながらの気づきがある。「図鑑」との出会いは、まさにここだったのだ。「いろんな種類のもの・ことを、分類しながら、まとめて確認できる本」ってお得だな、と幼いながらに感じていた。 ヒ

ああ、つまった

終わらせなくちゃいけないものがあるとき、とにかく手を動かそうと必死になる。ボーっと立ち止まってる暇はない。 時間があるから、ああでもないこうでもないと妙に頭で捏ねくり回しちゃって、初動が鈍り、事が運ばないねぇなってことも多い。 だから、「やべぇ、止まってると死ぬぞ…!」と後ろから転がってくる大岩から逃げるべく必死こいて走り抜けることは、現状を打開するためには大事なわけだ。ある意味、追い込まれ、詰まっているシチュエーションに助けられるといいますか。 もちろん、じっくり練っ