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ケケケの日記

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日記(のようなもの)
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きょうのピーエス#5(世界の果てに...置いてきた、ミノタウロスの皿、わたしがオバさんになっても)

さてさて、安定のp.s.返しでございます。 『世界の果てに、東出・ひろゆき置いてきた』の追っかけ視聴していたのが、最新話までのキャッチアップが終わった。 その移動に合わせてのVR散歩も暇なときにやっているが、興味を掘り下げる「探求学習」とはこういうことなのかもな、と実感する。 活字だけで声を出して笑う、って意外とないもんだ『編めば編むほどわたしはわたしになっていった』、うぐぐ、5篇ほど読んでからだいぶ長らく積読になっている。こうやって、人の本の知らせを聞いて、また手を出

きょうのピーエス#4(からかい上手の高木さん、だいじなケモノ道、ビジュアル・シンカーの脳)

くらえ、p.s.返し!  ってことで、映像、音声、文章の順番で、最近の見聞きしたコンテンツを振り返ってみます。 小豆島の記憶のゆさぶられ毎週の見逃し配信系はとりわけ触れず、新たな作品でいえば『からかい上手の高木さん(2024)』をNetflixで数日に分けて視聴した。原作漫画、そしてアニメの存在はなんとなく知ってたはけど踏み込まなかったやつ。 ただ、『愛がなんだ(2019)』『あの頃(2021)』『ちひろさん(2023)』といくつかの作品を観て、「なんだ、このうまく言語

「犬」以外の「狛○」は合成獣?

「狛犬」を知らない日本人はあまりいない。神社に行くと、右と左とで対をなし、それぞれ阿吽の口の形をとり、神を守らんとする、あの銅像だ。 いろいろ調べてみると、派生というのか、「犬」以外にも猫や鼠、猿、兎、のような動物の「狛〇」がある。特殊なものでいえば、河童や柏餅なんていうものもある。 それぞれ、どういった経緯で建った像かはまだ不勉強なんだけど、「狛犬あるんなら、うちは猫でもいんじゃね?」くらいのノリで建ってしまった像の一つや二つあってもおかしくはない……。 そもそも「狛

声と英語の一石二鳥

「腹から声を出す、ってどうやってたんだろ」 ふと、そんなことを思う。運動部に入ってて、叫ぶくらい声を出していた時期はあった。おそらく、あの頃のそこそこお腹の使い方を知っていたんだろう。だけど、今思い出そうとしても、身体が忘れている。一度できるようになったことでも使い続けなければ、身から抜けていく。おぉ、こわ。 春から通う学校で、ボイスレッスンなるものがある。そりゃあもう口すっぱく「腹式呼吸で」と言われる。鼻から息を吸って、お腹に溜めた空気を、口から吐き出す。この練習(宿題

Wander(VR)で、世界の果てに置かれてみた

試験前なのに勉強に手がつかず、なんとなく整理してたら、部屋の片付けを本格的にしはじめちゃった。そういうことが死ぬほどある。死ぬまでずっとゾンビのように繰り返す愚行だとあきらめつつ、逃げ場があるだけマシだと思うようにしている。 今日は試験ではないけど、やらないといけない作業が控えてるにもかぎらず、ふと視界に入り込んできたメタクエスト2が気になり、吸い込まれるようにVRゴーグルに頭を持っていかれた。 メタになる前の「オキュラス」のときに購入してからもう2年以上が経つがいまだに

妖怪「ジブンニシカ」:自分じゃなくてもいいことから、自分にしかできないところまでの道のりは

「自分にしかできないことをやりたいんですけど……」 自分よりもずっと若い人と話をしていると、そういった言葉をときどき耳にする。「〜ですけど」と言うだけあって、現状は「自分にしかできないことをやれてない」という不満不服が込められているわけだけど、むしろ「自分にしかできないこと」を20代前後ですでにできていたらすごい!あっぱれ!じゃないか。 その不満不服は、99%の人が経験する通過儀礼なんじゃないかなぁと思う。学生(アルバイト)〜新社会人の頃、ぼくも多分に漏れず「自分にしか」

無駄印のきびだんご

「桃太郎印のきびだんご」。おとぎ話の桃太郎のようにその団子を食べると、どんな動物でも瞬く間に人に懐いてしまう。ドラえもんのひみつ道具である。 作品中あまりにも動物たちの食いつきが異常だったり、人間にも有効な場合があるというのは、少しダークな設定に加えると急におそろしいブツだと気づく。 それに道具というよりは”食品(薬品?)”だし、未来の(ロボットテクノロジー)科学というよりは"化学”の進歩の賜物だろう。こいつを使うための法律は未来ではどうなってるんだろうか。 さて、そん

本との距離⑦(1226字)

「給食早食いできるとすごい!」みたいな、低学年特有のなんでも競争としてはしゃいでしまう性質のせいで、小学校の図書室でちょっとしたバトルが勃発していた。 貸出カードをめぐる争いだ。 図書室の本の最後のページには、必ず小さな封筒が付いてて、カードが挟み込まれている。そこに過去に借りた人の名前がずらりと記されていた。知ってる名前もあれば、全く知らない名前もあったが、今思い出すと、facebookのように校内の人の情報をかじる媒体としてカードは存在していたんだなあ。 まずは、本

本との距離③(1191字)

大学生のとき図書館で雑誌ばかり貪っていた、という話から、さらに過去に遡ってみるとしよう。朧げにも記憶が残る4~5歳くらいから。 その頃は、横浜の鶴見に住んでいた。マンションだったかアパートだったか定かじゃないけど、父母姉兄ぼく弟の6人家族、2~3LDKくらいの広さでギュウっとして暮らしていたような気がする。その記憶の中にかすかに本棚があった。 そして、ぼくは絵本にそれなりに親しんでいたと思う。以前触れた『じごくのそうべえ』と出会ったのもこの頃だった。 父はさほど本を読む

本との距離(1097字)

「最近の人は本を読まない」 若者の読書離れを突かれるなか、あまり本を読まずにきた(30歳手前で少しずつ読むようになってきた)ぼくですら、「本を読んでる人のほうが珍しいんだなぁ(たしかにネットや動画で情報を拾えるけども…..)」と感じることが多くなった。 つまり、読書離れと指摘される中に自分も含まれるのだろうけど、その中でもさらに「ああ、全然読まないんだ」と下の世代に対して感じてしまうことがあるわけだ。 ちなみに、大学生の頃は、講義で使う以外の本に年間1万円も使わなかった

「ホームシック」の一言もあつかえなくて

9歳から15歳までは、母の出身である伊平屋島(いへやじま)という小さな島で暮らしていた。沖縄の最北端に位置し、人口は1200前後、5つの字(あざ)からなる離島だ。 沖縄の人でも「知らない」「読めない」という島であることも多く、幼いながらにも、観光客を観てよくこんな辺鄙なところまで来るなぁと思っていた。 中学生のとき、英語の授業をサポートするALT(外国語指導助手)として、アメリカから赴任してきた先生がいた。黒人の女性で、日本語もほとんどできないに等しかった。でも陽気で、ど

カンフー事変

ときどき、ほんと何がスイッチになったかもわからないのだけど、幼い頃の記憶がフラッシュバックすることがある。そして思い出すのは、たいていテレビの前にいる自分だ。 小学生に上がる前は、一人、もしくは弟と家で過ごすことが多かった。母もパートで働きに出ていたこともあり、留守番担当であった。そんなとき、テレビの前に身を置いて、毎週のように足を運び借りてきた作品をビデオデッキに押し込んでいた。 みつばちマーヤ、ムーミンのようなアニメはもちろん、ジューレンジャー、ウルトラマン、ゴジラの

ビジネスモデル崇拝で「仕事する」とか「お金を稼ぐ」とか

イヤイヤながらでも仕事をしていると「ビジネスモデル」という言葉に出くわす。 のことを指すらしいが、社会人になって15年が経った今でもあまりピンと来ない。そもそも「モデル」という言葉に重きを置ことする姿勢があまり好きになれない。 物事は、真似から入って、学びに変え、身につけ自分のものにしていく。そのためには手本・見本となる「モデル」は大事なのだろうけど、「そのモデルをなぞらってさえいれば、もうすべて大丈夫です」といった論調をこの頃は感じる。ネット広告で甘いささやきのように流

「わたし」を乗りこなすまでの道のりは。

ああ暇だよなーとなんとなしに本を読んだり、映画を観たりして、たまたま刺激を受け、それが企画になったり文章になったりする。 思い返してみると、それが自分が妙に力を発揮してきたの流れである。ボールを持たず、何一つ抱えていない身軽なときほど、脳みそに余白がありまくるせいか、パフォーマンスが上がる。遊具のある公園よりも、遊具が一つもない、だだっ広い公園のほうが遊びがいを感じてしまう。 逆に抱えてしまうと、一気に弱くなる。 たとえ1分足らずで終わることでも「やらなくちゃ」と認識し