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深読み 米津玄師の『さよーならまたいつか!(『虎に翼』主題歌)』第6話


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2024年2月某日
(主題歌の依頼から三日目)
新宿 スナックふかよみ



なるほど…

花札の「牡丹に蝶」って、そういう背景があったんですか…

猪鹿獅子じゃイノシシとシシが被って紛らわしいもんな…

でもなぜ「牡丹に唐獅子」なのですか?

なぜそれが「再び楽園に帰る」を意味するのですか?


実は「牡丹と唐獅子と蝶」の舞踊『春興鏡獅子』には「元ネタ」があるんです。


元ネタ?


石橋です。


とんねるずの?


ご冗談を。トンネルではなく「橋」の話ですよ。


橋の話?

なぜ唐獅子牡丹に橋が?


昔々、平安時代中期の貴族に大江定基(おおえのさだもと)というお方がおりました…

公卿の父をもつ大江定基は着々と出世コースを歩んでいたのですが、若くして最愛の女性を病で失ってしまったことに強いショックを受け、世の無常を儚んで出家して、寂照(じゃくしょう)法師という僧になりました…

そして悟りへの道、究極真理を求めて大陸へ渡り、聖地巡礼の旅をしていたのです…


元平安貴族の寂照…

その聖地巡礼の旅の途中で「石橋」を渡ったという話?


イエス…

と言いたいところですが、答えはノーです。


は?


その橋は「渡れない」のですよ。

寂照はその橋を渡れなかったのです。


橋は渡れない?

ああ、なるほど。そういうことか。

「端」は渡れないから「真ん中」を渡るっていうジョークですね。


そうじゃありません。

その橋は本当に「渡れない橋」なんですよ。

目には見えても、決して渡ることのできない橋なんです。

物質としての実体がない「光の橋」なので。


ひ、光の橋?


いったいどういうことなの?

教えて頂戴な、秀次郎さん。


ようござんしょう。

この世の真理を探す旅に出た寂照は、現在の中国山西省にある五台山(清涼山)へやって来ました…

五台山は文殊菩薩の聖地、その聖域の最深部には文殊菩薩が住む楽園があるとされ、そこに入れば究極の智慧(知恵)が得られると考えられていたんです…



文殊菩薩の楽園… 究極の智慧…


聖地五台山の奥深くへと進んでいった寂照の目の前に、文殊菩薩の楽園が見えてきました…

しかし、寂照のいる場所と楽園との間には深い深い谷が広がっていて、そこから向うへは渡ることができません…

俗にいう「千尋の谷」というやつです…


ちひろの谷?

「千と千尋」と「風の谷」を足して2で割ったみたいなところね。


「ちひろ」の谷ではなく「せんじん」の谷です。

「千尋」とは深さ1500~1800メートルという意味。

ちなみにタイタニック号が沈んだ水深は「二千尋」です。


深さ1500~1800メートルの谷?

そんなおっかないところ、どうやって渡るの?

空でも飛べないと無理じゃん!


寂照も途方に暮れました…

智慧が授けられる楽園が目の前に見えるのに、そこへは行けないのですから…

断崖絶壁を前にして寂照は、ここまでの道のり、これまでの人生はすべて無駄だったのかと嘆きました…

すると世にも不思議なことが起きたのです…


世にも不思議なこと? 何?


千尋の谷に「橋」が現れたのです…

寂照のいる場所から、文殊菩薩の楽園まで、まっすぐ…

光り輝く橋が…


そんな馬鹿な…


寂照は「光の橋」に近づいて、よく見てみました…

確かに不思議なことではありますが、寂照はこう考えました…

もしかするとヒカリゴケで覆われた石橋なのかもしれない、と…



なるほど、確かにそうとも考えられる…


石橋ならば頑丈ですし、苔で滑らないように慎重に歩けば渡れるかもしれないと寂照は考えました…

そして勇気をふりしぼり、自分自身に「これは石橋だ、これは石橋だ」と言い聞かせながら、橋へ歩き出そうとしました…

するとその瞬間、背後で大きな声がしたのです…


「ちょっと待ったァ!」


ねるとん?


だからトンネルじゃなくて石橋だと言ってるじゃありませんか。


いや秀次郎さん、そういう意味じゃなくて…

なんか『ねるとん紅鯨団』の話に聴こえるのよね…



べにくじら?

紅は鯨じゃなくて鮭でしょう?


いいの。気にしないで。あたしの考え過ぎみたい。

話を進めて。


へい…

「ちょっと待った」という声を聞いた寂照は、橋へ踏み出そうとした足を止めました…

そして後ろを振り向くと、そこには小さな童が立っておりました…

童は寂照にこう言いました…

「その橋、渡るべからず」

寂照が理由を尋ねると、童はこう答えました…

「その橋が光り輝いているのは本当に光の橋だからです。どんなに修行をしても人間には渡ることは出来ません。もし一歩でも踏み出したら、深い深い谷底へ落ちてしまうでしょう」


本当に「光の橋」だったの?

人間には渡れないとしたら、何のために現れたのよ?


もしかして…

渡れるのは、神の領域のものだけ…


さすが米津さん、その通りでござんす…

寂照が深代ママさんと同じ質問をすると、童はこう言い残してどこかへ消えてしまいました…

「ここでしばらく待っていなさい。素晴らしい慶事、奇跡が見れますよ」


慶事? 奇跡?


童の言う通りに寂照が楽園の見える断崖絶壁で待っていると、どこからともなく良い香りが漂ってきました…

寂照が周囲を見回すと、色鮮やかな牡丹の花が咲き乱れていました…

「さっきまでは牡丹など咲いていなかったのに奇妙だな」と寂照が奇妙に思っていると、光の橋を何かが渡って来るのが見えました…

光の橋を渡って来たのは獅子…

文殊菩薩の御使いである獅子だったのです…


獅子って天使だったの?


左様です。古代インドや中国で獅子は神の御使いと考えられていました。

神社に狛犬がいたり、沖縄の家々にシーサーがいるのも、獅子が神の御使いと考えられていたからです。

特に文殊菩薩と獅子の関係は深く、文殊菩薩の絵や像の多くは獅子に乗った姿で描かれています。


『文殊渡海図』


そうなんだ…

で、牡丹の花は何だったの?

なぜ寂照の周りに牡丹の花が咲き乱れていたの?


牡丹の花が咲くところは、獅子にとって極楽…

猫がマタタビに我を忘れるように、恐ろしい猛獣ライオンも牡丹の花には我を忘れると考えられていました…

寂照の見ている前で光の橋を渡って来た獅子も、牡丹の花に誘われてやって来たのです…


だから「唐獅子牡丹」なんですね…


この故事を謡曲にしたのが、能の『石橋』です。

歌舞伎『春興鏡獅子』の元ネタは、この『石橋』なんですよ。



なるほど、そういうことだったんですか…

解説ありがとうございます、秀次郎さん。


いえいえ、礼には及びません。

酒の席で坊主の話なんて、まったくもって線香臭い、つまらねえ話をしてしまいました。


ところで、なぜ獅子が光の橋を渡って牡丹のところへ来ることが「慶事」なの?


さあ… そこまでは、あっしにもわかりません…

ただ昔の人は、この奇跡のような出来事を「春の訪れ」と同一視し、新しい春の始まりの日に獅子の舞いを踊り「おめでとうございます」と挨拶したといいます…

その名残が日本の正月の風物詩「獅子舞」…

もっとも、今じゃ暦が季節と大きくズレて、真冬の行事になってしまってますが…


なるほど…

元々「獅子舞」と挨拶「おめでとうございます」は、春の訪れを祝うものだったのね。

なんで真冬なのに「新春」とか「迎春」って言うのか不思議だったけど、そういうことだったんだ。


慶事… 春の訪れ…

「おめでとうございます」という挨拶…

智慧が授かる楽園… 光の橋…

ブツブツ… ブツブツ… ブツブツ…


米津さん、何をブツブツ言ってるの?


あっ、いえ… なんでもありません…

ホッピーおかわりください。


はい、どうぞ。秀次郎さんは?


じゃあ、あっしも。


男は黙ってサッポロビールね。はい、どうぞ。


すいません。深代ママさんも一杯どうぞ…


♬カランカラン…♬
(玄関ドアの開く音)


あら、さくらさん。いらっしゃいませ。

今ちょうど秀次郎さんも…


やっぱり、ここにいたんだ…


え?


・・・・・



つづく




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