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岡崎乾二郎「感覚のエデン————蛇に学ぶ」「聴こえない旋律を聴く」

☆mediopos3472  2024.5.20

岡崎乾二郎『感覚のエデン』については
mediopos-2529(2021.10.19)と
mediopos2870(2022.9.26)で
少しばかりとりあげたことがあるが

今回はそのなかから
「感覚のエデン————蛇に学ぶ」と
「聴こえない旋律を聴く」について

「感覚のエデン————蛇に学ぶ」は
「蛇に学ぶ」という副題があるように
エデンの園の話からはじまっている

イブとアダムは蛇に勧められて
禁じられていた知恵の実を食べてしまい
エデン(楽園)から追放されてしまう

知恵の実を食べると
真理を直接認識できるようになってしまうがゆえに
エデンを追放されてしまうということは
エデンは真理から遠ざけられた場所だということになる

エデンには「さまざまな差異」を「肯定する喜び」があって
「無数のさまざまな感覚はそれぞれ、
みな一つの事実として、受け取られ」
「それらの無数の感覚の間に、真偽の違いも、
真実の度合い=ヒエラルキーもない」がゆえに
真理から遠ざけられているといえる

私たち人類は知恵の実を食べることで
エデンを追放されこの現世的な場所に辿り着く

現世は蛇に象徴される
「感覚による直接的な知に満たされた場所」であり
そこでは「感覚と存在、感覚と真理(イデア)」を
分けることができない

音楽も絵画も「隔たりと遅延」によって
「無数に分岐する運動そのもの」であり
「それらの無数の方向への運動が、
星座(私たちが捉えている星座は光の運動です)のような
客体的な事実としての編成を作り出している。」

「天上の音楽は楽器を必要とせず、
いかなる隔たりもなく聴かなければならない」
つまり「感覚という差異を破棄し、
隔たり」を無化してしまうため
「無数の差異、対立、葛藤」はあらかじめ
先取りされた調和によって無くされてしまい
「現在、いま働いている感覚に死」がもたらされてしまう

「いま働いている感覚」の「星座」にこそ「エデン」を求める
それが「芸術」だが
エデンにはその感覚の星座は形成されない
「林檎を食べることを勧めた蛇は、それを知っていた」のである

さて続いて「聴こえない旋律を聴く」についてだが
ここではジョン・キーツの詩『ギリシャの壺のオード』が引かれ

 耳に聴こえる旋律はうるわしい、
 けれど聴こえない旋律は
 もっとうるわしい。

とある

「音楽=旋律は、耳という感覚がとらえることのできる
現在という時間、場所に属す音ではなく、
その現在から離れた《たましい》の中に響いている。」という

そして「音楽=旋律はその意味で現世から疎外されている
(現在という時間からも場所からも)。
しかしこの疎外、つまり直接には聴こえない、
見ることができない、という不能性こそが
音楽ひいては芸術を理解する能力、
何かと共感する能力の源になっている」

それをキーツは
「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼んでいる

この言葉はケアなどのテーマでも
引き合いにだされることがあるが
こうした〈負にとどまる能力〉を意味している

ネガティブ・ケイパビリティとは
「《できない》という否定性を受け入れる能力」であり
「それを受け入れたとき《たましい》は
直接的な感覚(そして、それが位置する特定の場)から
離れた音楽=旋律を奏でることができ、
共振させることができる」

「現実において不在=ネガティブの場所、
その場所を経験させることこそが
芸術作品のもつ力であり可能性」だが

キーツは「こうした瞬間こそが、
わたしたちが現実と信じている世俗的な世界、
わたしたちの言動をしばる
政治的な力の葛藤する場所よりも
強いリアリティを感じさせる」のだという

わたしたちはそうした
「いかなる限定をも超えて広がりをもった響き」である
「聴こえない旋律=音楽」を
「不在の場所で」聴くことができる

その「不在の場所」もまた
「感覚のエデン」だといえるのだろう

■岡崎乾二郎「感覚のエデン————蛇に学ぶ」
 (岡崎乾二郎『感覚のエデン (岡崎乾二郎批評選集 vol.1) 』亜紀書房 2021/9)
■岡崎乾二郎「聴こえない旋律を聴く」
 (同上)

**(「感覚のエデン 1」より)

*「エデンの園には「知恵の樹」と「生命の樹」があって、イブとアダムは、食べてはいけないと言われた知恵の実を食べてしまう。ゆえに二人はエデンから追放される。旧約聖書の「楽園追放」のエピソードです。知恵の実を食べると直接、真理を認識できるようになる。知恵の実に、もしそんな働きがあり、ゆえにエデンで、それを食べることは禁じられていたのであれば、エデンつまり楽園の条件とはむしろ真理から遠ざけられている場所ということになります。
 
 〈楽園に至ることこそ人びとの最高の望み〉————こんなイメージからすると、この楽園そのものは、そもそも最終的な知から遠ざけられている場所であるのは、逆説的です。なぜなのか。その簡単な答えは、楽園の性格に関わります。もし楽園が感覚の喜び、快楽を与える場所であれば、直接、対象の存在そのもの、真理そのものを知ることが可能になることは、確かに感覚を不必要なものにしてしまう。つまり感覚の楽園としてのエデンは崩壊してしまいます。感覚をいちいち媒介せずに人は直接、対象の真実を知ることができるのですから。

 ではエデンとは諸感覚を解放させる、文字通りユートピア、非在郷だったのでしょうか。どうもこの考えは了解しにくい。というのも、私たちが住む現世こそ、感覚による直接的な知————それゆえに勘違いや誤解も無数に生じる————に満たされた場所であったからです。そして思い起こすべきは、この現世的な場所とは、知恵の実を食べた後に、楽園追放され辿り着いた世界だということです。すなわち真理を知り楽園追放の後であるがゆえに、ここに生じるさまざまな感覚はすべて(真理から距たった)勘違い、誤解、誤り、そして諍いの原因と、私たちは捉えるほかなくなってしまっている。

 一方で、もし知恵の実を食べていなかったとすればどうでしょう。人(あるいは動物たち)がそのつど感覚する、さまざまな無数の感覚の差異は、同じ一つの真実、存在に収斂されると考えたりはしないはずです。同一の真理に対する。それぞれに偏った感覚(つまり主観的な)印象にすぎないなどと見なされたりはしない。

 無数のさまざまな感覚はそれぞれ、みな一つの事実として、受け取られるはずです。林檎という存在に対して、たくさんの異なる印象、さまざまな感覚があるのではない(一つの物質暦客体に対して、無数の主観的印象があるのではない)。林檎それ自体があるのと同様に、それぞれの感覚はそれぞれが客観的事実としての権利を持って、そこにあるということです。」

**(「感覚のエデン 2」より)

*「そのつど無数に感受されている感覚情報に、それぞれ同等の権利を認めるならば、それらは当然、一つの対象に収束されることもなく、同時に一つの空間や時間に、一緒にあるということもできなくなります。いわば、それらの無数の感覚の間に、真偽の違いも、真実の度合い=ヒエラルキーもない。」

**(「感覚のエデン 3」より)

*「蛇に象徴されるのは隔たりなく、直接それを知る、感覚の超出、直接的認識です。いわば蛇とは黄泉そのもの。感覚に死を与える存在のようにみなされてきた。

 たとえばラファエロが描く、楽器を破壊する音楽の守護聖人セシリアの絵があります。セシリアが託縁を破壊するのは、楽器というものが所詮、現世という限られた時間、空間の中で、隔たり、遅延を宿命づけられた感覚、聴覚を手なずける道具にすぎないからです。天上の音楽は楽器を必要とせず、いかなる隔たりもなく聴かなければならない。けれど、だとすれば天上の世界は黄泉とあまりに似ています。さらに言えば、知恵の実を食べたがゆえに人が抱いてしまう、顚倒した憧憬(かつて私は真理=イデアを味わった、それを再び、味わいたい、つまり天国へ戻りたい)と変わりなくも思えます。つまり感覚という差異を破棄し、隔たりを無化する、という願望。芸術と呼ばれるものはしばしば、こうした顚倒した快楽を与えるものです。そこで示された無数の差異、対立、葛藤はいずれ解消、昇華され、一つに統合さて、調和が獲得されるだろう。けれど、この先取りされた調和は音楽の本質でしょうか? 芸術の本質と言えるでしょうか? むしろ(いずれ訪れるという)調和(を現在に先取りし、あらかじめ認知してしまうこと)は、蛇が与えたという(しかし本当に蛇がそれを与えたのでしょうか? 蛇はその林檎を食べるよう勧めただけなのですが)認識と同じように、現在、いま働いている感覚に死をもたらすだけではないでしょうか?」

**(「感覚のエデン 4」より)

*「再び振り返れば、聖セシリアの憧憬する天国と、楽園エデンにあった世界はまったく反対の性格を持っていました。エデンにあったのは、さまざまな差異だけであり、その差異を肯定する喜びです。それらの無数の感覚それぞれは(それらの上に立つ超越的な真理に統べられることなく)、すべてが事実としてそこにあり、そう受け入れられていた。そこで、たとえば遠きの山が小さく見えることは錯覚ではなく事実です。高さ三三三三メートルの測定値を持つ山がたとえ三センチに見えようと、三三三三メートルに見える山と三センチに見えた山は感覚的事実として同等です。そしてそれらの感覚を除いて、真実の山があるわけではない。音が聴こえることも同じです。音は時間を使ってこちらにやってくるのであり、その運動以外に音楽があるわけではない。その隔たりと遅延こそが感覚の本質であり、音の事実です。それは偏向ではない。(・・・)猫が聴く音楽と犬が聴く音楽は、たとえ同じ演奏者による演奏だとしても、同じではない。けれど、どちらも音楽としては同じである。音楽はこうやって無数に分岐する運動そのものです(絵画も同様)。それぞれは客観的な事実である。それらの無数の方向への運動が、星座(私たちが捉えている星座は光の運動です)のような客体的な事実としての編成を作り出している。

 感覚と存在、感覚と真理(イデア)を分けるという誤った図式があります。存在や真理はむしろ認識であり物質ではない。感覚は(物質によって起こされる事実であり、つまり)物質です。存在や真理を食べることはできません(食べたと思うことこそ錯覚であり、顚倒です)。食べることができるのはむしろ感覚です。林檎を食べているのではない。セザンヌがそう考えたように、赤という感覚こそを私たちは食べているのです(私たちは光を、まさに栄養の摂取と同様に、目で摂取を、物質として消化している)。だから決して林檎は知恵の実ではない。林檎とは無数の感覚が造り出す、いわば星座なのです(念のため、ここで言う星座は、それを外から観測する視点が持てない、たとえば、私たち自身が含まれる太陽系のようなものを思い浮かべてください)。音楽は星座です。絵画とは星座です。それは無数の感覚のさまざまな方向へと運動、(すり傷や、切り傷、熱まで発する、摩擦をともなった)物質的な運動の交錯が造り出す編成体です。

 林檎を食べることを勧めた蛇は、それを知っていたはずです。なぜなら、ときに自らを飲み込むこともある蛇の身体こそ、星座のように編成されていたのだから。」

**(「聴こえない旋律を聴く 1」より)

*「芸術作品が普遍性を持つかどうか、という問いがある。それは不可能な願望にちがいないが、ひとつ言えることはある。

 ある作品が制作され、その時代のなか、人々のなかで一定の意味を与えられ理解されている。が、この時代が去っても、つまり別の時代、別の場所に置き換えられても、必ずしもその作品は意味を完全には失わない、理解できないものとはならない。この別の時代、場所においても理解されうるもの、受け取られうるものに、普遍性と呼ばれてきたものは近いだろうということである。」

**(「聴こえない旋律を聴く 2」より)

*「知られているように《死者と生者の対話》は、ギリシャの壷絵の主要な主題だった。そこで示される視線のすれちがいはそのまま二つの別の世界の交差と乖離に対応されている。ここに描かれている人々は、互いの存在を意識しつつも触れ合うことができない別の世界にいる。二人の存在が現実的には乖離しつつも、《たましい》においてかろうじて交流している様子は、この壷の絵を注意深く見ているだけで感じられる。そのことは2500年近くも時を隔てた、また場所も文化もまったく違う、2019 年の日本で見ても感じられるということである。

「耳に聴こえる旋律はうるわしい、けれど聴こえない旋律はもっとうるわしい」という一節で名高い、ジョン・キーツ(1795-1821) の『ギリシャの壺のオード』は、こうした主題を共有するギリシャの壺の一つを題材にして書かれている。

  耳に聴こえる旋律はうるわしい、けれど聴こえない旋律は
  もっとうるわしい。だから、やさしい笛よ 奏でつづけなさい
  耳で感じられるものではないけれど、はるかに慕わしい、
  音をもたない小曲を、響かせてほしい、たましいに。
  木陰に いる青年よ きみは その歌を忘れることは
  できない。木々の すべての葉が散るわけではないように
  おそれなく恋する青年よ きみは決してキスにいたることはない
  勝利のゴールまぢかまで近づいても。でも悲しむことはない
  乙女のすがたは消えることなく、いつまでも若く
  いつまでもきみは愛しつづけ、乙女も永遠に美しい
  (ジョン・キーツ『ギリシャの壺へのオード』、拙訳 )

「聞こえない旋律」とキーツがこの詩を通して語っているのは──わたしたちがもつ「現在という時」の意識は、わたしたちの感覚すなわち視覚や聴覚によって裏づけられているけれど、感覚から導かれる旋律=音楽は、結局はその時間や空間に位置づけられないものだということである。だからそれは消えることはない。もともと日常的な時間に属していないのだから。

 感覚器官として耳は、いま、ここという現在の時と空間の一点で捉えた音だけを知覚することができる。が、それが音楽=旋律として自覚されたとき、その音楽=旋律は現在という瞬間を超えた(最低でも前後の時間の)広がりをもち、空間としても一点の位置を超えた広がりをもって把握される。つまり音楽=旋律は特定の時間や場所を超えており、だから感覚器官としての耳で直接、聴くことはできない。その、耳では直接聴くことのできない旋律の響きも、それを捉える=聴くことのできる《たましい》も、日常の時間や空間を離れた外にある。いいかえれば音楽=旋律は日常の時間や空間に位置づけられない、それ自身の固有の場を備え、そこにあると認識される。「音をもたない小曲を響かせてほしい、たましいに」とキーツがこの詩のなかで語るのはそういう意味だろう。音楽=旋律は《たましい》とともに、いつまでも時間の外に留まる。」

**(「聴こえない旋律を聴く 3」より)

*「音楽=旋律は、耳という感覚がとらえることのできる現在という時間、場所に属す音ではなく、その現在から離れた《たましい》の中に響いている。音楽=旋律はその意味で現世から疎外されている(現在という時間からも場所からも)。しかしこの疎外、つまり直接には聴こえない、見ることができない、という不能性こそが音楽ひいては芸術を理解する能力、何かと共感する能力の源になっている──キーツはそれを、ネガティブ・ケイパビリティと呼ぶ(ネガティブ・ケイパビリティnegative capabilityは〈消極能力〉と訳されているが、意味としてはむしろ〈負にとどまる能力〉だろう)。

  えらい仕事を仕遂げた人を構成する性質、シェイクスピアが多量にもっていた性質──私が消極能力という性質のことです。この消極能力というのは、人が、事實や理性などをいらだたしく追求しないで、不確定、神秘、疑惑の状態にとどまっていられるときを言うのです。
 (『キーツ書簡集』、佐藤清訳)

 レキュトスの壷絵に戻せば、その絵の中で死者と生者を隔てていたものは、それぞれの時間に縛りつけられた感覚だった。少女は聴くことができても見ることはできない、青年は見ることができても聴くことができない。それが少女と青年が此岸、彼岸という二つの場所に隔てられていることを示す。同じ時間と空間にあるものしか人は見ることができないし聴くことができない。だから二人は別の世界に隔てられている。

 ネガティブ・ケイパビリティとはこの《できない》という否定性を受け入れる能力である。それを受け入れたとき《たましい》は直接的な感覚(そして、それが位置する特定の場)から離れた音楽=旋律を奏でることができ、共振させることができる。

 キーツの論を敷衍させれば、それぞれが、あらかじめ共有されていると信じられた場から疎外されていること、つまりそれぞれ固有の《できない》という否定的条件、お互いの不可能性を認めたとき、その否定性から、はじめて共感能力は作動し共感が可能になる、ということもできる。そしてその共感はもはや、どこの場にも属さない。

 相容れない隔たった場所とは生者と死者、彼岸と此岸に限らない。敵と味方、白か黒か、正しいか誤りか、相対するだけで決して解決できない論争、紛争、対立のすべて、これら私たちの生に膠着する煩わしいだけの問題を乗り超える可能性を、キーツはネガティブ・ケイパビリティに見出そうとしていたのだ。」

**(「聴こえない旋律を聴く 5」より)

*「現実において不在=ネガティブの場所、その場所を経験させることこそが芸術作品のもつ力であり可能性である。しかしこの不在の場をただ想像的な場所だということはできない。キーツは前出の書簡のなかで、さまざまな政治的な力学、論争に翻弄されたとき、そこから抜け出す力を与えてくれる特殊な感覚について述べている。

  私はどんな幸福もあてにした覚えはありません。私は幸福というものを現在に求めるのでなければ求めたことはありません。──私をびっくりさせるものは瞬間だけです。落日はいつも私の調子を整えてくれるし、雀が窓の前に来たりすると、その雀の生命にとけこんでしまって、砂利などをついばむのです。
 (『キーツ書簡集』、同前)

 キーツは逆にこうした瞬間こそが、わたしたちが現実と信じている世俗的な世界、わたしたちの言動をしばる政治的な力の葛藤する場所よりも強いリアリティを感じさせるという。この瞬間は人間社会の秩序からすれば些細な事象だけれども、それは決して、単なる瞬間ではなく、むしろ日常社会から周縁にあることで時間を超えたものである=だからそれは何度反復してもつねに新しいという感覚を与える。その経験は自分が人間社会その時間と空間に属しているという自覚を放棄させる。それを可能にするのがネガティブ・ケイパビリティである。そこでわたしはもはや誰でもなく、小鳥たち、雀たちと《たましい》において溶け込み、気づくと一緒に砂をついばんだりしている自分を発見したりもする。

  これら犠牲として連れて来られるのは誰だろう
  緑なす祭壇に。ああ神秘的な神官よ
  連れられていくのは 空にむかって声をあげる雌羊たち
  花飾りの胴巻きをかけられ
  川沿い、海辺の小さな町
  しずかな砦とともにそびえる山
  この慎みぶかい朝に、誰もいない空っぽの
  小さな町、永遠に、人々みんなのための道
  静まりかえった、この寂寞のわけ
  それを告げる人は誰一人、もどってこない
  (ジョン・キーツ『ギリシャの壺へのオード』拙訳)

 もし芸術作品が既存の政治に縛られない、開かれた公共性を可能にするものだとすれば、その公共性は現実のどこにも属さない場所を確保することによってしか可能ではないだろう。そこでだけ、いかなる現実的な属性からも離れた音楽=旋律は奏でられる。その場所でだけ現実のいかなる場所でも出会うことのない《たましい》たちは共振する。いま引用した『ギリシャの壺へのオード』の別の一節は不気味だが、この「犠牲」とは固有の誰かであってはならない。

 犠牲となるべきなのは、現世の世界に所属した、わたしたち、みなの存在なのだ。この道は永遠に人々みんなのために開かれている。この一節の光景を読んでいる者、眺めている者は、この光景の中にはいない。確かにこの光景には誰もいない(つまり、だれにも占拠されていない)。が、キーツはゆえにこの不在の場所ですべての《たましい》が出会うことができる、和解することもできるだろうと示唆する。もしわたしたちが自分たちの現実を否定的なもの、不在のものとして受け入れる力(つまり、みずからの存在を贖罪することのできる)ネガティブ・ケイパビリティを持っていさえすれば。」

**(「聴こえない旋律を聴く 6」より)

*「芸術作品が開く可能性は、いま、この場所、この現在に属する鑑賞者たちからのみ同意を受け取ることにあるわけではない。現在という限定された時と場所(それは政治によって分割され統治された場所である)に属す人間からは排除されたすべての存在(それは死者たちを含むあらゆる人間、のみならず、動物たち、鳥たち、魚たち、地上に存在するすべて)に開かれた場所、いいかえればこの世には位置づけられない、不在の場所を開示する力によってである。

 しかし考えてみれば、これはMedium(この場には不在のものと交流する)という語源に遡って、メディアとよばれるものすべてに期待される力である(マーシャル・マクルーハンは、メディアは、不在のものに開かれたクールなものであるとき、はじめてその力を発揮すると指摘していた)。」

「聴こえない旋律=音楽、そのいかなる限定をも超えて広がりをもった響きは、もはや決して消すことはできないだろう。わたしたちはそれを聴くことができる、わたしたちはもはや(ずっと)不在であったがゆえに、永遠に強固な場所にいるのだ。小鳥の鳴き声、蝉の鳴き声が止むことはないだろう。それは何千年も前から(さまざまな政治的な対立をものりこえて)、ずっと(いまも)聴こえている、聴くことができる。この不在の場所で。」

**ジョン・キーツ (1795-1821)
  「ギリシャの壺についてのオード」

John Keats
"Ode on a Grecian Urn"

Thou still unravish'd bride of quietness,
Thou foster-child of silence and slow time,
Sylvan historian, who canst thus express
A flowery tale more sweetly than our rhyme:
What leaf-fring'd legend haunts about thy shape
Of deities or mortals, or of both,
In Tempe or the dales of Arcady?
What men or gods are these? What maidens loth?
What mad pursuit? What struggle to escape?
What pipes and timbrels? What wild ecstasy?10

Heard melodies are sweet, but those unheard
Are sweeter; therefore, ye soft pipes, play on;
Not to the sensual ear, but, more endear'd,
Pipe to the spirit ditties of no tone:
Fair youth, beneath the trees, thou canst not leave
Thy song, nor ever can those trees be bare;
Bold Lover, never, never canst thou kiss,
Though winning near the goal―yet, do not grieve;
She cannot fade, though thou hast not thy bliss,
For ever wilt thou love, and she be fair!20

Ah, happy, happy boughs! that cannot shed
Your leaves, nor ever bid the Spring adieu;
And, happy melodist, unwearied,
For ever piping songs for ever new;
More happy love! more happy, happy love!
For ever warm and still to be enjoy'd,
For ever panting, and for ever young;
All breathing human passion far above,
That leaves a heart high-sorrowful and cloy'd,
A burning forehead, and a parching tongue.30

Who are these coming to the sacrifice?
To what green altar, O mysterious priest,
Lead'st thou that heifer lowing at the skies,
And all her silken flanks with garlands drest?
What little town by river or sea shore,
Or mountain-built with peaceful citadel,
Is emptied of this folk, this pious morn?
And, little town, thy streets for evermore
Will silent be; and not a soul to tell
Why thou art desolate, can e'er return.40

O Attic shape! Fair attitude! with brede
Of marble men and maidens overwrought,
With forest branches and the trodden weed;
Thou, silent form, dost tease us out of thought
As doth eternity: Cold Pastoral!
When old age shall this generation waste,
Thou shalt remain, in midst of other woe
Than ours, a friend to man, to whom thou say'st,
Beauty is truth, truth beauty,―that is all
Ye know on earth, and all ye need to know.50

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