【パラリンピック開会式を舞台芸術として評論してみる】


●はじめに

 オリンピック開閉会式をブロの舞台芸術の評論家として評論する、という記事を書いたところ、両方合わせて1000を超えるスキをいただいた。

 
 【東京オリンピック開会式について】
 
 【オリンピック閉会式を舞台芸術として評論してみる】

 

 ただ大切な連載の最終回を含め仕事が詰まっていて、パラの式典は書かないと宣言していたが、熱心なリクエストをいただいたので、パラリンピック開会式を舞台芸術としてプロの評論家としてガチに評論したいと思う。

(プロの評論家として依頼原稿を遅らせて、なんで一銭にもならないものを書いているんだと言われれば一言もない。すみません)
 (追記 いや、noteの投げ銭機能(サポート機能)で心付けを下さった方々もいらしたのだった。ありがとうございました! 金額の多寡ではなく、その気持ちがうれしい)


 これは以前に書いたオリンピック開閉会式のトピックを踏まえて書いている。とくに「予算165億円のうち155億円を電通が中抜きして、オリパラ4式典で10億円の予算しかないことが、全体がショボくなった要因である検証」は、ぜひとも踏まえて読んでいただきたい。

 まあ電通をはじめ広告代理店とはなんの利権も癒着もない、しがないヤサぐれ者の舞踊評論家ゆえに、忖度ゼロの検証をしてあるのでな。


 
●良かった点を比較してみる

 結論から言えば、パラリンピック 開会式はオリンピック開閉会式に比べて、圧倒的に良かった。
 
 オリンピックの式典がショボかった要因として以下の3つを指摘した。

〈オリンピックの式典がショボかった要因〉
 「高さの演出がない」
 「演出の考える空間サイズが、スタジアムに合っていない」
 「全体を貫く流れやテーマが感じられない」
 
 しかしパラリンピック開会式は、限られた予算の中でという限定付きだが、超えるべき課題をアイデアと演出で乗り越えていたと思う。
 順次見ていこう。
 
「高さへの意識」は、ポールを立ててのパフォーマンスや、パラのシンボルマークの大きなバルーンの入場など、空間に立ち上がっていた。オリンピックのときにオレは「ねぷたとか」があれば、、、と書いたが、より洗練された形で出てきていた。
 
「空間のサイズ(横の使い方)」に関しては、やはりアクティングエリアを小さくとって間延びしないようにしていた。
 それがショボくないのは、プロジェクション・マッピングの効果的な使い方だ。
 広大なスタジアム全面に展開して、風を吹かせ、空港や滑走路を作り、そして音楽と一体化して迫力満点の映像が空間を満たした。
 特に歯車に乗って移動するように見えるトリックアート的な使い方があの広さで展開するのはグッときた。
 
 もちろんプロジェクション・マッピングはオリンピックでも使ってはいたが、全面展開は数えるほどしかせず、それもほとんどフリー素材のような、特に内容との関連が薄い抽象的な模様ばかり。
 トリックアート的な使い方自体は、プロジェクション・マッピングの初期から使われており特に目新しいものではないが、オリンピックではそれすらなかった(土壇場で続いたトラブルのせいで使えなくなったのか。MIKIKO氏案ならライゾマティクスがすごい物を見せてくれたろう。だがいずれにしろ相応の予算が必要なので「電通の中抜き後の4式典10億円」ではどのみち無理な話だったのかもしれない)。

「テーマと全体の流れ」もしっかりあった。
 初めに「風」がテーマであると示され、やがて世界中から人が訪れる「空港」になる。そこからの選手入場はスムーズで、国名のプラカードは空港の電光掲示板のイメージ、スタッフの衣裳もデザインが一新されてる。
 スタッフの頭にはタケコプターがあり、さりげなく「風」を感じさせる演出が効いていた。繊細さとユーモアがにくい。

〈パラリンピック開会式スタッフ〉 
 演出:ウォーリー木下
 演出・チーフ振付 森山開次
 ステージアドバイザー:栗栖良依
 アートディレクター:浜辺明弘
 舞台美術デザイナー:種田陽平
 衣装ディレクター:伊藤佐智子
 振付: 梨本威温、金井ケイスケ
 音楽:松本淳一他 

 演出のウォーリー木下はオリジナルテンポをはじめ、最近は2.5次元でヒットを飛ばしている。
 2.5次元は今の日本の舞台芸術として最も若者の心を掴んでいるものの一つだ。しかもひとくせある演劇の手練れの演出家がバンバン参入している。大人数を使い、大きな劇場空間を活かし、何よりプロジェクション・マッピングを効果的に使うことに慣れている。

 演出・チーフ振付の森山開次は自分で衣裳のデザインもするし、しかも布を染めるところからやるほど細部まで神経が行き届く。また『Live bone』など、バルーンを使う舞台衣裳のひびのこずえとの協働も多く、『Ninja』などプロジェクション・マッピングを使った作品にも馴染みがある。なによりオペラやバレエ等、大きな空間を構成してフルイブニングを見せ切る経験も積んできたことが、今回生きているだろう。


●「片翼の飛行機」の少女(和合由依)の物語

 全体テーマの「風」を受けて、飛ぶことを怖がっている「片翼の飛行機」の少女(和合由依)の物語が、胸を打った。
 
 なにより「最終的に飛ぶんだろうけど、どうやるんだ?」とストーリーに思わず引き込まれ、成り行きを見守ることになる。
 オリンピックのときは各シーンがバラバラで「売れ残りの福袋のような雑多感」だったが、こちらはひとつひとつのシーンが観客の中でつながっている。これが「演出の力」だろう。

 このとき少女の横で、実にいい仕事をしていたのが、いいむろなおきだ。
 少女の車椅子を押すなど、常に横についていて、少女の内面を、さりげなくみずからの表情で代弁し、増幅していたのだ。
 
 こういう「主人公の意思の拡張としての群舞」はシディ・ラルビ・シェルカウイなど、近年よく見られる手法である。
 
 (参考)バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座
 〈第5回〉群舞とユニゾン〜強すぎて危険な魅力、その光と影〜

 
 いいむろはフランスのマイム学校を首席で卒業した人。日本にゴロゴロいる「壁やロープをやって顔芸するだけの連中」とは、精密さと的確さの次元が違う。がっちり理論化された技術体系を身につけた身体表現のプロであり、表情を作るのもまたプロである。少女にも色々アドバイスしたらしく、じつにいい表情をしていた。 
 
 ちなみに振付の金井ケイスケも、日本人で初めてフランスの国立サーカス学校を卒業した人。現代(コンテンポラリー)サーカスは、芸術性と身体性の融合した、いま世界で最も注目されている舞台芸術のひとつである。マイムもジャグリングもダンスも、「身体表現(パフォーミング・アーツ)」として、互いに溶け合っている。
 ちなみにオレが取材したフランスの現代サーカスのフェスでは、金井がゲストで出てきただけで、フランスの観客は拍手喝采だった。
 
 片翼飛行機の少女を元気づけるためにデコトラがバンドを積んでやってきたときも盛り上がった。
 ビカビカに光る大きな物体を、皆で押してくる……これはもう「ねぷた」じゃん!w 大きさこそかなわないが、「縦の高さと横のスペース」を活かした効果的な舞台装置である。
 
 何より、意表を突いて、ワクワクさせたよね。
 これがなにより重要だ。
 デコトラが日本の文化だということを、日本人にも気づかせてくれたし。
 
 ちなみに車体に貼られていた伊藤若冲の「鳥獣花木図屏風」は、タイル画のような「枡目描き」で描かれている。今の若冲人気を作った、世界一の若冲コレクターであるアメリカのエツコ&ジョー・プライス夫妻のコレクションのひとつだった(2019年に出光美術館がコレクションをまとめて購入した)
 
 江戸時代の浮世絵は使い捨てのもので、陶器の包み紙として海外に流出して再評価されたのは有名な話だ。こじつけて言えば布袋寅泰もギタリストとしては海外で高く評価されている。
 環境が変わることで、評価軸も変わり、「ここ」では駄目だったことが、「あそこ」では素晴らしいことになる。
 パラリンピックのテーマにふさわしいセレクションである。


●「片翼の飛行機」は「不適切」なのか?

 パラリンピック開会式は概ね好評だったが、こんなニュースが流れてきて驚いた。

江川紹子氏、パラ開会式での片翼飛行機表現「まったく不適切だと思います」

 元のツイートも見たが、五月雨式に書かれており、大体記事のとおりのことをいっている。いわく、


「飛行機は安全が第一。たとえがよくありません」
「障害がある人の無限の可能性を表すのに、片翼の飛行機で喩える、という表現がまったく不適切だと思います」

と書かれている。
 飛行機を擬人化した演出のパフォーマンスを見た感想が「飛行機は安全が第一」とは、ちょっと虚を突かれたね。
 航空技術協会のイベントじゃないし、これによって現実世界の航空業界の安全性が脅かされるようなことはないと思うんだが。。。

 もちろん人の感じ方はそれぞれなので「私は現実世界とフィクション世界の安全基準が一緒でないと楽しめないのだ」という人がいても否定する気はない。ただ「不適切」とか「よくありません」とか上から目線で言わなければいいのにね。
 世の中には制服を着た少女が戦車になったり馬になったりしているアニメがあるが、ぜひ学業第一で頑張っていただきたいものだ。

 ただオレは、江川氏の発言から、別のことを考えていた。
 障がい者を取り巻く差別の根源についてである。


●「無意識の差別」を生む視線

 
 考えて欲しい。
 あの場には片翼の飛行機を励まそうと、何機もの「障がいのある飛行機」が登場していた。
 それは、翼が小さすぎる飛行機、目が見えない飛行機などなどである(アップにされると実に細かく作り込まれており、デザインのセンスも良く、衣装ディレクターの伊藤佐智子はとても良い仕事だ)。
 
 つまり片翼に限らず、あの場に「航空技術的に安全な飛行機」など、ひとつもなかったのだ。
 
 にも関わらず江川氏は片翼の飛行機だけを「安全ではない」「適切ではない」と断じているのである。
 
 なぜか。
 
 片翼の飛行機にだけ、それとわかる「欠損」があったからに他ならない。
 
 「目が見えない飛行機」だって、安全なわけがない。そして目が見えないことは二度にわたって説明されていた。しかし江川氏は欠損のある片翼飛行機にだけ「安全ではない」「不適切だ」と言い放ったのである。

 これは端的に「身体の欠損がある人に対して、社会がいかに偏見を持ってしまうか」を表している。
 欠損があるというだけで「君には無理だ、安全にできるわけがない」と烙印を押し、可能性を奪ってしまうのだ。

 以前、テレビで、先天的に片腕が萎縮している女子高生を取材していた。彼女は優れた水泳の選手で、健常者の選手よりもいいタイムを出していた。
 しかし彼女は腕のせいで、障がい者の大会に振り分けられてしまう。
 「私の方が早く泳げるのに」と唇をかみしめていたのを忘れることができない。

 パラリンピックとは、そういう偏見、つまり「障がい者は、世話をしてもらわないと何もできない存在だ。社会で役に立たない、お荷物だから、家で静かにしていろ」という長年の呪縛から、障がい者と、社会の人々を解き放つための祭典であるはずだ。
 
 江川氏が差別的な人間だと言っているのではない。むしろ昔から人一倍、人権に配慮してきた江川氏ですら、無意識にそうした発言をしてしまう。
 
 自戒を込めていうが、差別とは悪意によるものだけではなく、無意識、時に善意のなかにも紛れ込むがゆえに、根の深い問題なのである。

 だからオレはあそこで描かれていたのは「障害がある人の無限の可能性を表す」などというボンヤリしたことではなく、
 
「物理的な欠損は、決して可能性の欠損ではないのだ」

という強いメッセージだと思う。

なぜなら「片翼の飛行機」が勇気を受け取って飛び立ち、片翼のままで空を舞う、そのすぐ後に大きく投影されるのが、
「WE HAVE WINGS」
と複数形(WINGS)の文字だったからだ。
それは物理的な羽根ではなく、決して奪われることのない「未来への意思」ともいうべきものだと、オレは思う。

もちろんそれは感覚器や知能など「外見からわかりにくいために気づいてもらえない障がい者」のことも考えていく必要があるのだが。


●コンテンポラリー・ダンスは「全ての身体をユニーク」とする

オレはコンテンポラリー・ダンスの最も素晴らしい点は、「全ての身体をユニークな存在としてとらえる」点だと思っている。

たとえば足がなかったら、手がなかったら、バレエなど「型」が重視されるダンスは踊れない、と言われるかもしれない。
しかしコンテンポラリー・ダンスは逆に「一人一人の身体は全部違っているからこそ面白い。『その身体でしか生まれない動きの発見』が重要なので、手がなくても足がなくても、それは個性」なのである。

その意味で、コンテンポラリー・ダンスこそパラリンピックとの相性はいいといえる。

「コンテンポラリー・ダンスにおける障がい者のパフォーマンス」についてはこちらに「ダンスにおけるルッキズム問題」とからめて書いている。
 
(参考)バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座
〈第13回〉ダンスにおける「美しさ」問題〜それは疑いつつ信じ抜くもの〜

今回も、横倒しにした車椅子の車輪の上で踊るかんばらけんたや、長さの違う足を光らせながら踊る大前光市が活躍した。
彼らについてはここでも書いているが、

(参考資料)
バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座
〈第10回〉ダンスで扱う「物」たち〜 舞台の上に無駄なものは何ひとつない〜

 身体のラインがわかるようにダンサーの身体のライトが美しく、その光が少女に受け取られるのも良い演出だった。

 そして堂々とソロを踊ったのが森田かずよも胸を打った。
 バレエやヒップホップのように飛んだり跳ねたりできるわけではない。
 しかしオリンピック閉会式評で書いたように、コンテンポラリー・ダンスで重要なのは、「うまく動くこと」以上に、「その空間における身体のありようを示すこと」なのである。

 三人とも、決して「健常者のように」踊ろうとしているのではない。
「彼らの身体でしかできない動き」を生み出していたのだ。

 ただパラリンピックという場だけに、誤解して欲しくないのは、上記の〈第13回〉にも書いたが、


 
とかく障害者というと「障害に負けないで頑張っている強さ」をアピールしがちである。
しかし「ユニークであること」と「強いこと」は違う。
障害者が、いつも強くある必要はない。健常者だってそうだろう。
弱さもまた、人間の魅力のひとつである。
弱くていいのだ。
人はただ存在しているだけで、みな等しく価値があるのだから。
 

 という点は繰り返し訴えておきたい。


●LGBTQ+の描き方は疑問

だが今回の開会式で、ひとつだけ気になったことがある。
オープニングの、はるな愛のダンスだ。

LGBTQ+と障がい者を一緒に描くことには疑問を感じた。

無論、多様性という意味はわかる。
しかし同性愛は、その差別の歴史の中で、

「同性愛は病気だ。必要なのは保護ではなく、治療だ」

という言説が、無理解と差別を助長させてきたし、今でも根強く残っているからである。

彼女の登場は、その偏見を、さらに補強することにはならないだろうか(もちろん「障がい者のLGBTQ+と」という深い問題にまで踏み込むのなら別だが、短い時間では無理だろう)。

ちょうど現在書いている(〆切を過ぎている)バレエチャンネル連載の最終回(第17回)のテーマが「ダンスにおけるLGBTQ+」なので、そちらもよろしく(9/10配信予定)お願いしたいし、編集部の皆さんもこうして宣伝しているので、ちょっと大目に見て欲しい。

(連載)バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座

(後記:「はるな愛はLGBTQ+の代表としてではなく、公募を勝ち抜いて一ダンサーとして選ばれて出場していた」という指摘があった。たしかに経緯はそうだったようで、ご指摘感謝。お詫びしたい。

はるな愛、自らネット応募 数度の選考を突破しパラ開会式出演

だとすれば「ダンサーとして優れていたが、LGBTQ+だから外される」ようなことは、もちろんあってはならないことだ。

ただやはり大会全体を象徴するオープニングアクトであること、他の多くの記事がはるな愛の登場と自身のジェンダーについてセットで報じられていることなど、オレが書いた点はやはり一考すべき点として残しておきたい。

どうするのがベストなのか、簡単にはいかない問題ではあるが、考え続けて行きたいと思う)

●最後に

 
 しつこいようだが、「予算165億円のうち155億円を電通が中抜き」がなければ、パラリンピックの式典ももっと大きなスケールで迫力があるものができただろう。
 
 アーティスト達の努力は素直に称賛するが、巨額の税金の行方は、しっかり追跡してほしい。

 
 【東京オリンピック開会式について】
 【オリンピック閉会式を舞台芸術として評論してみる】
 

そしてコンテンポラリー・ダンスや、その歴史(思考と身体のスリリングなせめぎ合い)に興味を持った方は、ぜひこちらも読んでいただきたい。

『ダンス・バイブル〈増補新版〉』(河出書房新社)

 そして素晴らしい閉会式で、幕を閉じてくれることを信じている。


 
 
 

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