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神のイタズラ

 液晶画面の文章を何度も読み返した。地下鉄の入り口に向かって歩きながら、そのどこにでも強調点や太字を入れられそうな文章を読み、動揺のあまり何度も足を止めて食い入るように液晶画面を見た。いくら若い子からのメールだからってこんなにも胸を高まらせるなんてバカげている。さっきオフィスでまた来週と挨拶して別れた部下からのメール。彼女らしいくだけた中にも丁寧なそのメールにはこう書かれていた。

『いきなりメールすみません。あの主任、ちょっとお話したい事があるんですが、お時間大丈夫ですか?会社でお伝えしようとしたんですけど、迷っているうちに言いそびれてしまって・・・

こんなこと他の人にはとても話せません。やっぱり話せるのは主任だけなんです。でも主任には奥様がいるし・・・

ああ、ごめんなさい。決してお金がらみとかそういう話じゃないんです。だけど誰にも相談できなくて。やっぱり主任じゃないと・・・』

 私はメールを読み終えるとすぐに液晶画面を消した。そして地下鉄の入り口のそばで考えた。

 もしかしたらこれはなどとは思ってはいけない。今自分がこのメールに対して思った事は多分、いや間違いなく誤解なのだ。きっと彼女は自分のプライベートな事について相談したがっているだけなのだ。うちのオフィスには詮索付きのババアだけで彼女と同世代の女性はいない。男連中は唯一の若い彼女を舐めずりするように見る連中ばかりだ。そんな連中の中で唯一心を許せるのはそれなりにイケメンで理想の上司とあだ名で呼ばれている私しかいない。きっとプライベートな相談なのだ。友達にも打ち明けられない悩みを他人の私に打ち明けて解決の糸口を掴みたいのだ。と、自分を納得させようとした時もしかしたらという不安が頭をよぎった。でも彼女が私に好意以上のものを抱いているとしたら……

 私は再びスマホを開いた。そして彼女に向かって相談に乗ると返信を送った。

 彼女から早速メールが来た。そこには私への感謝と今自分が隣駅のファミレス前にいる事が書かれていた。


 ファミレスの前で彼女に声をかけた。彼女は私を認めていきなり頬を緩ませて笑った。私はその笑顔を見て歓喜と恐れの入り混じった妙な気分になった。だが心配は不要だ。彼女はきっと身の上話をするだけ。私に恋愛感情など抱いているはずがない。私は湧き上がる喜びをどうにか抑えていかにも取り繕った笑顔を浮かべて彼女と店に入った。

 やはりというか、残念というか私の懸念は杞憂に終わった。彼女はしばし躊躇った後に話をしたが、それは付き合っているという彼氏と結婚するかの悩みだった。彼女の話によると彼とは合コンで知り合ったらしく、趣味も一致していたのですぐに付き合うようになったが、長く付き合っているうちにいろんな問題が出てきたという。彼女は彼氏の嫉妬深さが特に我慢できないらしく、時折別れようと考える事があるという。

「そんな人と結婚して長くやっていけるのかって思うんです。やっぱり結婚というのはずっと二人で生きていくものだし、そんないつもジェラシーばかりしている人と暮らしていけるのかって思うんです」

 彼女の悩みを聞いて、私は安心感と悔しさを交互に味わった。自分のいやらしい体液ぐごっそり体から放出されていく。その後に残るのは清浄な心だけだ。私は上司というより人生の先輩として彼女に向かってこう言った。

「彼は恐らく安定を求めているんだよ。彼の嫉妬はその不安感の表れなんだ。彼は君がどこか行ってしまうんじゃないかって思っているんだ。ならば解決方法は簡単さ。君は彼に安心できる方法を教えればいい。君は彼を裏切らない。法律的にも絶対と。もうここまで言えば僕が何を言いたいかわかるよね?」

 彼女は僕の言葉を真摯に聞き、僕が話終わると目を閉じ、しばらくして目を開けて言った。

「ああ!ありがとうございます!やっぱり主任に相談してよかった!やっぱりこういうことって主任のような大人の男性じゃないと話せないかなって思ってたから」

「な〜に、部下の相談に乗るのは上司として当たり前のことだよ」

「私、彼と幸せになります!」

 私は決然とした顔でこう語る彼女を祝福と諦めの入り混じった切ない思いで見た。ああ!なんと滑稽でありがちな誤解だったろう。だがこれで良かったのだ。さぁ、もう夢は終わりだ、彼女を見送って早く自分の家に帰ろう。アイツも俺の帰りを待っているはずさ。


 彼女とは地下鉄の入り口で別れた。彼女はちかへの階段を降りる私に向かって何度もお辞儀をした。私はそんな彼女に向かってまた来週と手を振りながら声をかけた。電車の中で彼女のことを思い返し自分の滑稽な勘違いが彼女に気取られなかったかと少し心配になった。だが勘違いしていたとしてもすでに誤解は晴れたこと。彼女も自分に対してへんな気持ちは持っていないだろう。私はなんだか嬉しくなり、自宅のある駅に降りると妻の好きなスィーツを買いまくった。家に帰ったら妻にさっき彼女と話した事を話してやろうか。きっとアイツは馬鹿だと私の滑稽な勘違いを笑うだろう。


 家の玄関は真っ暗だった。ピンポンを鳴らしても誰も出なかった。私は妻が外に出かけているのかと思い家に入ろうとドアに鍵を差し込んだが、ドアが開いていたのでポケットに鍵をしまってドアノブを回して玄関に入った。それから靴を脱ぎ明かりをつけてうちに入ろうとしたのだが、なんとそこに妻が座っているではないか。妻は暗い目で私をキッと睨みつけ随分遅かったのねと言った。私はちょっと遅くなっただけでこんなにもキレるなんてお前も部下の嫉妬深い彼氏かと鼻で笑いながら駅前の店で買ったスィーツが入った袋を妻に差し出した。

「おいおい何そんなに不貞腐れてんだよ。これでも食べて機嫌なおせよ」

 妻は私が差し出したスィーツの袋を見ていきなりけたたましく笑い出した。

「それで誤魔化したつもり?そんなんで私が騙されると思っているの?」

「おいおい、何言ってんだよ。俺が何したってんだよ」

「何をしていたんだよ?ハハハ!もうそんな嘘はやめてよ!あなたが若い部下の女と不倫していたって事はもう全部わかっているんですからね!あなたさっきまでどこにいたの?どこで何をしていたのよ!全部言いなさいよ!」

 妻の発言に私は混乱した。何故彼女が私と彼女が会っていたことを知っているのだ。何故、何故。まさか妻は私と彼女との関係を疑って?確かに何度か彼女について妻に話した事はある。だがそれは個人的な感情じゃなくてあくまでも彼女の優秀さについてだ。それに私は今日誤解してしまったとはいえ、彼女に対して浮気心など抱いた事はない。それなのに何故妻は彼女との関係を疑うのだ。

「ふん、どうしても言えないのね。あなたはバカよ。あんな女に騙されるなんて。さっき私のところにあの女の彼氏って男がこれを見せに来たのよ!」

 と言いながら妻は私に向かってスマホを突きつけた。彼女は目を血走らせながら指でスクロールしえ私と彼女を撮った写真を何枚も見せつけた。

「その彼氏って男が言うにはあなたと彼女は長い付き合いだって言うじゃない。ずっと私たちに隠れてよろしくやってたんでしょ?何が女だてらに頼もしい部下よ。確実に出世するよ。恥知らずにも自分の不倫相手の事をよくそんな自慢げにペラペラと喋れるわね!」

 私は彼女の彼氏が嫉妬深さがここまで酷かった事にぞっとした。きっと彼氏は今日彼女の行動を見張っていたのだ。私は妻に誤解だと否定しまくるしかなかった。だって彼女とは実際に何もないのだから。

「ああ!もう聞きたくない!そんなバレバレの言い訳なんて二度と聞きたくない!もう出て行ってよ!そして二度と私の元に現れないで!」


 あらゆる弁明は全て却下され、家財の全ての放棄の判決を下された私は呆然としてただ公園のブランコに座っていた。もう今日は家には帰れない。明日になれば妻も多少冷静になるだろう。最初から事情を話せば笑い話のうちに誤解も解けるだろう。と、ここで私は彼女の事を思い浮かべた。昨日私はとんでも無く無責任な事を言ったような気がする。私は彼氏の嫉妬深さを見誤っていたようだ。まさかこれほどのものとは。彼女は今どうしているのだろうか。あの彼氏と会っているのだろうかと考えてふと公園の入り口を見た瞬間、私の心臓は震えた、

 あの彼女がそこに立っていた。さっきとは打って変わって陰鬱な表情でそこに立っていた。彼女は私を見とめるとまっすぐ私の元に駆け寄ってきた。

「ああ!ごめんなさい!アイツから全部聞きました。アイツ主任の奥さんにみんなバラしてやったって言ったんです!私それ聞いてもうどうしようもなくて!主任まさか奥様とケンカしたんですか?ああ!やっぱり私のせいで!」

「いや、明日になれば丸く治るよ。君が心配することじゃない」

「でも」

 そう口にして彼女は泣き崩れた。

「もう何もかも終わりです!人の信頼関係がこんなにも脆いものだったなんて思いませんでした。私、ずっと信用さえされていなかったんですよ!せっかくこの人は愛せる。ずっと一緒に生きていけるなんて思っていたのに!私やっぱりずっとひとりぼっちなんだ。誰も私を愛さないし、信用だってしないんだ。わかりましたよ。私がこの世の中に不要だって事がもう身に染みてわかりましたよ!私は誰にも必要されていないんだ!さよなら主任。今までお世話になりました。私、今から自分を始末します」

「おい、一時期の感情で早まるな!」

「私を止めないで!どうせあなたも私なんか入らない子だって思っているんでしょ!」

「思うはずがないじゃないか!」

 私はそう叫ぶと背中を向けて去ろうとしていた彼女を後ろから激しく抱きしめた。二人の肉と肉が熱く重なり熱が一点に集中した。


 翌朝、起きると遠くで鶏が鳴いているのが聞こえた。私は久しぶりに入ったラブホテルのケバケバしい内装に目を瞬かせて昨夜の出来事を思い出して慌ててベッドを見た。ベッドには毛布から裸の肩を晒した彼女が寝ていた。私はそれを見て頭を抱えて声を上げた。その私の声で目覚めたのか彼女はこちらに顔を向けてゆっくりと目を開けた。

「おはようございます。なんだかこんな気持ちよく起きられたの久しぶりです」

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