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【時事考察】若者に増えている「静かな退職」とは? 突き詰めるとセネカの『人生の短さについて』に至り、むしろ、そうあるべきと思われてくるよ

 最近、若者に「静かな退職」と呼ばれる働き方が増えているらしい。具体的には、出世を目指さず、給料をもらえる最低限度の仕事だけをこなすというワークスタイルのことらしい。

 字面だけ見ると、「静かな退職」ってこっそり会社を辞めることみたいだけど、そういうわけではないみたい。なんでも、アメリカでquiet quittingと名付けられ、それを直訳したから違和感のあるフレーズになっているんだとか。意訳すれば、「物言わぬ諦め」みたいな感じだろうか?

 先日、この「静かな退職」について、テレ東BIZで特集されていた。

 動画の雰囲気としては「静かなる退職」を問題視しているようだった。若者が会社のために働く意志を失くし、与えられた仕事しかせず、プライベートの時間を楽しむことしか考えていないので、企業は困っているといった感じで。

 ただ、これって、問題があるのかな。

 ぶっちゃけ、わたしには「静かなる退職」こそ、人間として正しい生き方のように思われた。

 そもそも、規定以上の労働をする必要はないはずだ。成長のため、たくさん働いた方がいいなんて、詭弁もいいところ。要するに、給料を払わず、成果を不当に搾取したいだけではないか。 

 仮に、仕事をサボっているのであればダメだけど、給料に見合った分だけ働いているのであれば、目くじらを立てる理由はどこにもない。結局、企業は従業員が多めに働いてくれることを期待し、人件費を抑えに抑えまくっていたから、見積もりが合わず、横柄にも焦っているだけなのだ。

 たしかに、これまでは仕事があるだけありがたかったのかもしれない。人生の大半を職場で過ごし、人間関係も職場に依存することになるから、自然、そこで良き人を演じる必要があった。その一番簡単な方法が、求められるよりも多く働くことだった。

 しかし、いまや人手不足が加速している。ネットの普及でSNSなど、人間関係は多岐に渡るようにもなった。学生時代の友人たちとLINEグループでつながって、Xで趣味の仲間とたのしいおしゃべり。たまに配信をすれば、スパチャが飛んでくるかもしれない。仕事だけが人生じゃなくなってしまった。

 そこにテレワークの定着が追い討ちをかける。心理的にも、物理的にも、職場はどうでもいい場所となりつつある。ただ、生活するに足る給料さえもらえれば、どこで働こうと関係ないのだ。

 収入にしたって、ひとつの会社に頼ることはないのかも。副業が当たり前になれば、ダブルワーク、トリプルワークで、居心地の悪いところは切ればいい。

 加えて、雇われなくても稼ぐことはできるかも。投資で利益をあげたり、noteでコンテンツを売ったり、個人で出入を得る方法はいくらでもある。倫理観を捨てることができれば、転売ヤーという道もなくはない。

 そりゃ、成功するのは大変だろう。でも、最低限度の生活を目標にしたとき、ハードルはグッと低くなる。

 戦後、日本人は一般的に車を持ち、結婚し、家を建て、子どもを育てることを目指し、あくせくと働いてきた。それが幸せだと思っていたから。

 でも、冷静に考えると、自動車ローンを組み、数百万の披露宴をあげ、定年まで勤め上げても返しきれない住宅ローンを背負わされるのって、お金を払うために仕事をしているだけの人生みたい。

 月曜から金曜までの時間を他人のために使って、他人が儲けるための商品を購入し、その循環をぐるぐる回しているうちに、気づけば、歳をとっている。時間がない……。時間がない……。そんなことをつぶやきながら。

 二千年前にこのことを指摘した人がいる。ルキウス・アンナエウス・セネカである。ネロ帝の家庭教師として知られる彼は義理の父親(一説)・パウリヌスに宛てて、『人生の短さについて』という痛烈な内容の手紙を書いている。

 パウリヌスはローマ帝国の食糧管理官として働いていた。国家の食糧供給を司る重要な職であり、多忙を極めていたという。

 そんなパウリヌスに対して、セネカは手紙で、そんな仕事は辞めてしまえとアドバイスする。なぜなら、他人のために忙しくなるなんて、人生を無駄遣いしているだけだから。

 われわれが手にしている時間は、決して短くはない。むしろ、われわれが、たくさんの時間を浪費しているのだ。
 じっさい、ひとの生は十分に長い。そして、偉大な仕事をなしとげるに足る時間が、惜しみなく与えられているのである。ただし、それは、人生全体が有効に活用されるならの話だ。人生が贅沢三昧や怠惰な中に消え去り、どんな有効なことのためにも費やされなければどうなるか。ついに一生が終わり、死なねばならぬときになって、われわれは気づくことになるのだ - 人生は過ぎ去ってしまうものなのに、そんなのとも知らぬまに、人生が終わってしまったと。

セネカ『人生の短さについて』中澤務訳 16頁

 そして、たくさんの時間を浪費する例として、以下のようなもの例にあげている。

ある者は飽くことなき貪欲にとりつかれ、ある者は無益な仕事に懸命に汗を流す。ある者は酒びたりとなり、ある者は怠惰にふける。ある者は政治への野心を抱くが、他人の意見にふりまわされ続けて、疲れ果てる。ある者は、商売でもうけたい一心で、あらゆる土地とあらゆる海を、大もうけの夢を見ながら渡り歩く。ある者たちは、戦をしたくてうずうずしている。そして、四六時中、他人を危ない目にあわせようと画策したり、自分が危ない目にあうのではないかと心配したりしている。また、感謝もされないのに偉い人たちにおもねり、自分からすすんで奴隷のように奉仕して、身をすり減らす者たちもいる。

セネカ『人生の短さについて』中澤務訳 18頁

 じゃあ、どうすればいいのか。解釈はそれぞれだろうけれど、わたしが読む限り、他人の評価を気にすることなく、自分のやりたいことをやるのが一番とセネカは言っているような気がした。

 結局、すごいと思われたくて頑張ったとして、それは自分のための努力ではないのだ。惨めと蔑まれたくなくて、世間体を保とうとするのも、自分のためでは全然ないのだ。

 わたしたちが人生を浪費してしまうのは、他人のために必要以上の時間を使ってしまうから。でも、どうして、そんなことを? おそらく、期待してしまっているのだろう。それによって、感謝されたり、一目置かれたり、なにかしらのプラスがあるはずと。

 ところが、実際は、なんのプラスにもなっていなかった。コスパのいいスタッフとして、使い捨てられるだけだった。なにせ、給料以上の働きをしたとして、その分の給料を出してもらえるわけではないから。なんなら、「この人数でも回るじゃないか」と人員削減の根拠になってしまうことも。そんなのって、クソ過ぎる!

 だから、若者たちが「静かな退職」という働き方を選んでいるのも当然で、わたし自身、そういうライフスタイルを送るべく、日々、時間を無駄遣いしないように頑張っている。

 数年前、多忙を極めた時期がある。土日も関係なく働いて、一日に何件もアポイントメントを詰め込んで、毎晩、誰かと会食をしていた。結果、映画も見れないし、本も読めないし、こんな風に文章をしたためることもできなくなっていた。

 さて、あの多忙にどんな意味があったのだろうか?

 ほんのちょっとの貯金はできたが、浪費した時間の量を差し引けば、人生はかなり短くなってしまった。

 いま、そのマイナスを取り戻すべく、ろくに仕事もしないで映画を見て、本を読み、ひたすらnoteを書いている。車も買えないし、結婚もできないし、家も持てそうにないけれど、ようやく、自分の人生を手中に収めた感覚がある。

 人間は暇でなくてはいけない。暇でなければ、自分のことなんてできやしないから。そう考える人が増えてきているとするなれば、それはきっと希望の光になるはずだ。

 だいたい、暇じゃなければ、こんな記事だって書けないわけだし、読んでももらえやしないだろう。もし、3,000文字超の散文を読み通し、このフレーズをあなたが目にしているのなら、わたしは互いの暇を大いに讃え合いたい。

 ビバ、暇!

 生きるとは暇を謳歌することである。




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