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ぼくは簡単に世界を割り切りたくないんだ

 中学時代のあるクラスメイトのアイコンがドナルド・トランプになっているのを見た。たいして遊んだわけでもない、喧嘩をしたわけでもない、少し勉強を教えたり教えられたりしたような友達がトランプ支持になった。全く分からないわけではないように感じられた。あの映画的な迫力を持つ政治家に惹かれていく同世代の気持ちは。太平洋の対岸にいる政治家を応援する人があれだけ現れたこと自体、現代の日本の停滞や鬱屈とした雰囲気を象徴する出来事なのではないだろうか。

 日本に現れたトランプ支持者たちは、トランプが自分の生活のために何かをしてくれたという実感を持っていない。だから支持といっても中身がないまま一方的に幻想をつくりあげているわけで、そうした心理には危うさがついてまわる。

 けれど、そうしたことは決してトランプ支持者に限られたことではなく、多かれ少なかれ政治に関わるときに誰もが陥りがちな罠なのではないだろうか。

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「政治は生活だ」と言われることがある。この言葉がしばしば「政治は生活のためにあるべきだ」という積極的な意味で用いられているのは了解するとして、ぼくはこの言葉を耳にするたびに、政治がたやすく生活から乖離してしまうことを思わずにはいられない。

 日ごろから政治に関心を向けている人たちでも、政治のことを毎日どれだけ考えているのかと改めて問われたら、一時間や二時間くらいとこたえる人がきっと多いだろう。それとは別の圧倒的に多くの生活の時間がある。仕事をしたり勉強をしたり、ご飯を作ったり食べたり、将来について考えたり、友達や家族や猫と関わったり――生活の重心はそういうところにあり、実感をおびた悩みだってほとんどはそういうところから生まれてくる。

 それなのにひとたび政治の話を始めるとどういうことだろうか。ぼくたちは生活の重心からたやすく離陸して「トランプが」「バイデンが」「日本が」「アメリカが」「中国が」「安倍が」「菅が」「与党が」「野党が」といった力関係が最大の関心ごとであるかのごとく語りだしてしまう。

「彼は味方だ」「こいつは敵だ」と簡単に割り切って、どこかで聞いたような勇ましい言葉で深刻そうに「敵」とした者の糾弾を始める。時には「味方」の不正に目をつぶり、「敵」にありもしないような不正を見る。それが隠蔽と捏造にまで発展すれば政治は幻想の応酬となり、ただ抗争を有利にするために思考し行動するようになってしまう。そうして理想もなくした後は行きつく果てまで疾走するしかない。

 事実、これまでの歴史で、政治は少なからずそのようにして疾走を続けてきた。「敵」を排除し、自らが権力の地位に就き、利権を握ることが至上の命題として掲げられた。けれどそうした権力の抗争が生活者の実感から乖離しているのならば、安易に権力の闘いに加担することによってでは、個々の生活者にとって願うようなものは得ることができない。そうして政治に幻想を見ていた市民たちも、やがては政治に失望するのではないだろうか。

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 今の社会の様々な歪みは、人と人のつながりがバラバラにされてきた結果のあらわれにほかならない。そしてまた、社会の歪みが人と人のつながりを切り刻み続けている。

 働かなければ生活できないのに、働くことで自分の人間性が損なわれ、自分がいびつな、不気味なものに変わって朽ちていくように感じることを経験しない人はおそらくいないだろう。子供の頃の友達を失って、長く生きるほどに本心を語れる相手が減っていってしまうということはどうだろうか。誰もが居場所を持つことができず、周りの人をうかがいながら出し抜いたり阿ったり威嚇したりして、ようやく半端な居場所を占めていることは。その居場所もやがては失われるという悲しさについては一体どうだろうか。

 こうしたことは人と人の間に競争が強いられ、人間関係と持てる時間が切り刻まれたことの様々な結果にほかならない。本来、競争は一概に悪いことではないけれども、この社会で行われるお金や地位をめぐる競争はいがみ合いや蹴落としあいになってしまう。人間が自分の意志で走りながら社会を回しているのではなく、人間ではない何かを中心にして社会が回っていて、人間はむしろ息も絶え絶えになりながら脱落しないように走り続けている。

 そうした性質の競争の中で、社会の担い手である人間はむしろ翻弄される立場に置かれている。競争させられ、対立させられ、バラバラでまとまれない個人に権力が覆いかぶさり、そうやって社会はもっと強制力のある不自由な方向へ進んでいく。こうしたことがすでに現実にある敗北の結果だ。

 ぼくたちは分断され、協力して問題を解決することができない状態におかれている。ぼくたちはこのまま社会の中で鬱屈として生きていくしかないだろうか? 仕方ないんだと受け入れて次の世代にこれを引き継ぐのだろうか?

 こうしたことは、果たして何かの「敵」を倒すことで解決するだろうか。

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 どのように線引きをしたとしても、向こうとこちらはともに多くの問題を抱える不自由な社会だ。

 富を得て富に束縛される、地位を得て地位に束縛される、兵器を蓄えて兵器に束縛される、そういう人は自由じゃない。親に束縛される、子供に束縛される、過去や未来に束縛される、そういう人も自由じゃない。本当はこの社会に自由な人なんて誰もいない。

 それでも自分を束縛してくるものに向かって発する表現によって、ぼくたちは少なくとも自由であろうとする自分を持つことができるはずだ。

 けれど他方で、その自由を切り開く力が色あせているようにも感じられる。社会のおかしさを敏感に感じ取る優しい人たちが追いつめられている。本当はそういう人たちの言葉こそ耳を傾けられる必要があるのに。この前、『譲られたものをこえて 』という記事のなかに「ぼくたちは無力じゃない、微力でもない、主権者だ」と書いたけれど、あれには「それなのに……」という否定の気持ちが重なって浮かんでくる。そして、だからこそあの一言が書きたかった。

「無力じゃない、微力でもない――」

 子供は、大人になる時にかけがえのない子供の世界とそれにまつわる膨大な記憶をなくしてしまうけれど、それと引き換えに社会を変えるための力を得る。本来はそうあるはずなのに、大人になって見渡してみると社会はびくともしないように思えてくる。得られたはずの力が失われているとしたら、その力を正当に取り返す必要がある。子供時代をなくしたのなら、それをやるのに十分な資格がある。

 愚劣なことほど大きな声で語られるこの社会の中で、その声にかき消されないだけの意味ある表現を探してみる。見たら目がつぶれてしまうほどの輝きを求めていく。芸術はそういうものであることができるはずだし、誰もが放つ表現はまた芸術でありうる。

 いろいろな表現が生まれてくればいい。自分の実感するものや心の底から湧き上がってくる想いを大切にしてほしい。必ずしも希望を語らなくてもいいと思う。誰もが希望を語れるわけではないし、むしろ絶望を語ることが希望の道を示すことだってありうるということは過去の文学が示すことでもある。

 それぞれが抱えている違和感、閉塞感、焦燥感。今の政治を見ていて何をおかしいと思うのか、どうあればよいと思うのか――。誰かが言ったこととは違う、自分しか言えないことがあるのなら、そうしたものを語ることは、人の心を揺さぶることができるはずだ。

 世界を決めつけない、まだ割り切らない、それは辛抱強く可能性を拾いに行くということでもあると思う。自分の言葉を権力に還元しないのなら、「敵」を「味方」にしてしまうような可能性がどこかにある。

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 最後に、誤解を恐れないで曖昧なことに踏み込んで言うのなら、今はもう、心の底ではほとんど誰も政治に対して真っ向からの期待なんて持っていないのかもしれないと感じられる。社会も、学問も、えてしてそうなのではないだろうか。そうしたことの根底には、ぼくたち一人一人が生活する中で、どこか社会から大事にされていないことを感じ取ってしまうことがあるように思う。そういう、どこか否定的に感じられる現実を政治は解決していないし、学問もまた、何かぼくたちの悩みとは違うことに熱心になっている面がおそらくある。

 昨今の正しさに対する懐疑や知性への敵視の根源には、こうした否定感や違和感がひそんでいるのに違いないように思う。そしてそれは確かに、この社会の深刻な問題を前にして、さまざまな試みがくじけているという一面を表してはいるのだろう。

 けれどあきらめない。ぼくも含めて、みんなが何かを見落としたまま失望したり極端なことに走っているように感じられる。誰もが見落としている何かがある。見落とされたまま社会が動いている。あきらめずにその見落とした何かを探しに行く人が一人でも増えてほしい。未来は決めつけられるのではなく、もっと模索されていいと思う。

 世界を簡単に割り切ることなんてしないで、自分を何かにゆだねたりしないで、自分の言葉で政治を語っていい。実感のない、うわべの嘘っぽい言葉ではなく、もっと正面から。

 政治はたぶん、そこから変わりはじめる。

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