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譲られたものをこえて

「ゆづり葉」 河井醉茗

子供たちよ。
これは譲り葉の木です。
この譲り葉は
新しい葉が出来ると
入れ代つてふるい葉が落ちてしまふのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちを譲つて――。

子供たちよ。
お前たちは何を欲しがらないでも
凡てのものがお前たちに譲られるのです。
太陽の廻るかぎり
譲られるものは絶えません。

輝ける大都会も
そつくりお前たちが譲り受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど――。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持つてゆかない。
みんなお前たちに譲つてゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを
一生懸命に造つてゐます。

今、お前たちは気が附かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のやうにうたひ、花のやうに笑つてゐる間に気が附いてきます。

そしたら子供たちよ
もう一度譲り葉の木の下に立つて
譲り葉を見る時が来るでせう。

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 冒頭に掲げたのは、かつて国語の教科書に採用されたこともある河井醉茗の作品で、子供たちに世界を受け継いでいく大人の心情が温かく描かれているとして高く評価される。しかし他方でこの詩が発表されたのが日米開戦の9年前であることに意識を向けるとき、ここに詠まれた子供たちが譲り受けたものが三八式歩兵銃や九九式小銃であり、輝ける大都会に爆弾と焼夷弾が降り注いだことを思わずにいられない。

 親が譲り、子が譲られる世界は、今もなお人の存在の根底を揺るがすほどの深い矛盾にあふれている。子供の時分、小学校の図書室で原水爆の写真集に出会い、このようなものがある時代に生まれた自分たちとは一体何なのだろうかということに衝撃を受けた。自分の命も、家族も、街も、根こそぎにしてしまう存在に見下ろされながら健全に育つことを求められる子供とは何なのか? 多かれ少なかれ誰もが感じたであろうこのような矛盾を受け入れるのが大人になることであるならば、そこにはやはり大きな間違いがあるように思えてならないのだ。

 大人たちの作ってきたこの国の姿を改めて眺めてみればどうだろうか。公文書が改竄され、国会では日本語を愚弄するような答弁が繰り返され、新型コロナウイルスの感染拡大を前に愕然とするほどの問題解決能力のなさを露呈するこの国の姿は――。一体どうしたらこんなことがまかり通るのかと頭を抱えたくなるような状況を目前にしながら、それに対する理性の抵抗はかつてないほど弱いように思える。

 私たちは心のどこかで社会を変えてゆくことを半ば諦めてしまっているのではないだろうか。もちろん発言する者はその時々の不正義に対してそれなりのことを言ってきたかもしれない。けれどその傍らで不正義を自らの発言の材料として消費し、形式的に抗っただけで現状を追認している面はなかったか? それにはやむを得ない面もあるのかもしれないが、ここまでは追認してもよいけれどもここから先は許してはならないという線引きは、もう少し真っ当な位置にあるべきではないだろうか。

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 複雑に絡み合う矛盾、停滞した時代、失望された政治を前にして、それらを変えていくのに満足な力を私たちは持っていない。現代では誰もが世界全体を俯瞰するような視野を働かせられず、自分たちがどういう局面にいて何をなすのか、どうしたら希望が見えるのかということがわからない状態におかれてしまっている。

 それは高度な分業がもたらした結果であるのかもしれない。分業が現代人の生活を支えていることはいうまでもなく、たとえば一万円で買えるプリンターを一人で一から作ることを考えてみれば、そこで必要となる労力は単に一万円を稼ぐ大変さとは比べ物にならないだろう。それにもかかわらずプリンターが一万円で買えるのは社会の中で役割分担がされるからだ。けれどその分担によって個々人のできることは限られていってしまい、一人一人は全体を知らない歯車になるしかない。仕事でも、学問でもまたそうしたことが行なわれていけば、人が持つ世界像は散り散りになってしまう。

 かつてレオナルド・ダ・ヴィンチは、天文学から数学、地質、解剖学を研究するかたわらで土木建築に取り組み、他方で音楽や絵画もやる芸術家でもあった。当時、彼のようなことができたのが限られた階層の人々だったことは事実だとしても、少なくとも当時はそういった人間像が目指された。

 しかし現代の高度な資本主義の下では誰もそういったあり方ができず、大人になるにつれて特定の職業や分野に囲い込まれていき、個々人にできることが絞られていってしまう。だから子供は大人になるにつれて行動範囲もできることも増えていくはずなのに、振り返ってみればどこか子供時代に見ていた世界の方が広かったように思えるのだ。人類全体としてもまた、当時より多くのものを発見し、様々なことができるようになっているのにもかかわらず、それは個々人の視野の広さには一向につながらない。個々人に知ることができのは高度に分科されたものの一角でしかなく、逆に昨今の社会が複雑化した分だけ、自分の目の届かないよくわからないものに翻弄されることになってしまう。

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 現代人は決まり切った持ち場で狭い世界を経験するしかない上に、一人一人がばらばらにされていて、職業や分野を越えて広く協力することも困難になってしまっている。

 そうしたことは子供が学び始める頃からすでに存在した。本来なら何かを学ぶことは一緒に協力し、工夫して教えあうものでもあるはずなのに、子供は次第にまわりを窺いながら出し抜いたり出し抜かれたりする環境に置かれていく。他人の挫折が自身の出世につながるように、この社会は本質的に人と人が協力して作られているのではなく、競い合い、奪い合うようにできている。仕事も学問も、そういった意味では個々人の私物であり、またそうである以上、社会の中で孤立させられた私たちは視野を共有して全体を俯瞰することができないのだ。

 囲い込まれてばらばらにされている私たちには、何に加担しているのかということもまた容易には見えてこない。工場で日々作っている部品は地雷の一部かもしれないし、受注したあるプログラムが軍事に転用されることがないとも言い切れない。私たちのために役立つはずの仕事や学問は、私たちの視野の届かないところに連れ去られていってしまい、もともとの意図に反した振る舞いをはじめる。

 今年は3・11の被災から十年を迎えるけれども、これまでを振り返ってみて、学問はきちんと私たちのために働いてきただろうか。原発事故に限ったことではない。公害や軍事などの国策に関わる場面において、危険なものを安全と言い、むしろ不合理を合理化し、市民の目を欺いてきた場面は枚挙にいとまがない。

 「人間の知性や労働が人間のために機能しない」という問題はこの社会の様々な場面で見ることができる。私たちのなしたことが、私たちの手を離れてなにかどす黒いもののために使役され、人類を俯瞰する不気味な視野となって私たちの上に覆いかぶさることから逃れられないのだ。稼いだお金が口座に貯まる。その銀行が核兵器を製造する企業へと資金を提供する――。私たち自身が私たちの作り出した脅威によって貫かれてしまう仕組みが、この世界には間違いなく存在する。

 その矛盾した仕組みに取り込まれている私たちには、世界が不可解に、不気味に見える。そしてまた、それを変えていく力が無いように感じられる。なぜなら私たちはばらばらに切り離されており、いつまでも世界の全体像を見ることができないまま、自らのなしたことが刃となって帰ってくる倒錯に加担させられて生きるからだ。

 人間の手によって生まれたものが人間を置き去りにしたままひとりでに動いている。そこには個々人の――政治家や、資本家や、軍産複合体の意図も働きはするだろう。けれどそうした意図をもって行動する人々すらもまた、結局は人と人のつながりを利害関係によって分断され、断片化した視野を持ち、悩み、苦しむ弱い個人でしかないのである。弱い個人が倒れたところで仕組みは倒れずに引き継がれる。

 私たちは今のところばらばらなままで、この問題を克服できていない。子供は与えられた環境の中で何者かになろうとして生きてゆくしかなく、時間を寸断され、人と人との信頼を寸断され、巨大な仕組みに加担させられることから逃げられない。「食べなければ人は生きていけない」「止まれば文明は崩れてしまう」――そうした脅迫を受けながら、私たちは巨大な仕組みと共に社会を担っていくしかないのかもしれない。

 しかし本当は「ないかもしれない方法」を見出すのが知性の力であるはずだった。

 歪んだ社会をただ解釈し、自らを歪みに釣り合わせて納得させるために人間の知性があるのでは決してない。だから人類はいま、ばらばらになった仕事、学問、切り離された一人一人の世界像をつなぎあわせ、この人類共通の根本的な問題に取り組む必要に迫られているのではないだろうか。

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 最後に、やや極端な言い方をするならば、人類の未来には二つの道が開けているといえる。一つは、その過程で紆余曲折があるにせよ、いま抱えている根本問題を解決しえず、対立や紛争を繰り返しながら限りある資源を使い尽くして舞台を後にする道である。あと一つは、現代を貫く失意を希望へと反転し、もてる知性の限りをもって、人と人の対立の構図が根底から異なる、全く別の時代を切り開く道である。

 表現をかえれば、これは社会の歪みにさらされて分断された私たちが、その分断を乗り越えていけるかという問題と言ってもいい。もっとも後者の未来は現時点では単に前者の否定として考えられるほどのものにすぎず、矛盾はきわめて鋭く深く、解決は困難なように思えてくる。「戦争はなくならない」「差別はなくならない」「飢餓はなくならない」――しかしそれと同じようにして、昔の人たちも天動説や水平線の果てに流れ落ちる海のさまを思い描いたのではなかったか。

 理不尽な抑圧のある現代に生きている以上、それを受けて私たちが抱く感情も、詩人の目に映る風景もまた歪んでいる。後者の未来でそうした抑圧が解決されるなら、その時代の人からすれば、現代人が抱く理不尽な恐怖やある種の怒り、妬み、恨みといったものは過去の原始的な感情として回想されることになるのかもしれない。戦争や飢餓や差別のある現代は、人類史における野蛮な一時期の姿に見えるだろう。あるいは私たちが何に悩んで生きたのかさえ理解されなくなっていくだろうか。だとしたらこの時代で芸術を生み、言葉を書き残す意味は何か。

 それでもなお未来を志向して、「野蛮な一時期」を変えていくことが人間の知性にかかっている。私たちは無力ではない。微力でもない。主権者だ。当事者であり、今を生きる全ての人が未来をひらくために生まれてきた世代だ。譲られた時代に迎合していくのか、それとも時代を越えようとしていくのかが問われ続けている。あきらめる局面ではない。

2021.1.1 三春充希

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