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児童理解という暴力、そして、理解を諦めない倫理

今回は「児童理解」という言葉について考えてみたいと思います。この言葉は学校現場では頻繁に使われる言葉です。しかし、「児童を理解する」ということは一体、どういうことなのでしょうか。何を持って「児童を理解した」と言えるのでしょうか。そんなことを考えてみたいと思います。

まずは理解についての興味深い見解から見ていきましょう。
「お前の言いたいことは、もうわかった」というのは「理解」の対極にあると思想家である内田樹は以下のように述べています。

「お前の言いたいことはわかった」というのは、日常生活で私たちが熟知している通り、コミュニケーションを打ち切る時の言葉です。「だから、黙れ」「だから、消えろ」というのが「よくわかった」という宣言の遂行的な意味です。

『街場の教育論』 内田樹著 ミシマ社 p267

ここからわかることは、「わかった」とか「理解した」というのは「始まり」ではなくて「終わり」ということです。つまり、それ以上の運動性が生まれない。それ以上「わかる」必要がない。

もちろん、相手のことを「完全に理解する」ということはあり得ませんね。そもそも自分のことさえ「完全に理解する」なんて不可能です。「わたし」という人間は、気分によって言うことも考えることも変わります。

これは学校の先生をしているとよく感じます。普段なら気にも留めないことなのに、イライラしていたりすると、子どもたちをつい咎めてしまったりする。「叱ることはいけないこと」という自分と、「それでも叱ってしまう」という自分が常にいる。「わたし」というのは、カチコチの固形物というよりも、ドロドロの形を保持できないスライムのようなイメージです。

だからこそ、相手のことなんてわかるわけがない。「わたし」のことさえわかっていない人間が、他者のことなんてわかるわけがないのです。

しかし、それでいいのでしょうか。
「わかる」ことを諦めてしまえば、それ以上、その人と関係を築くことはできません。なぜなら、関係性は固定的なものではなくて運動性を帯びているからです。常に更新することに開かれている。だから、関係を継続していく以上「わかり続ける」ということが求められる。
「わかった」も停止だし、「わからない」も停止なのです。どちらも「終わり」なのですが、必要なのは「はじまり」であり、「はじまり続ける」ことなのです。

「わかり続ける」について、さらに考えてみましょう。

本校では「児童理解研修」というものが開催されています。これは各学級の「気になる児童」を学級担任が紹介していき、共通理解を図る趣旨で行われています。基本的には学級担任が、事前にリストアップした「気になる児童リスト」に沿ってその実態を読み上げていくという内容です(先日の会では、50人の児童を2時間かけて理解していました)。

「気になる」というのは、言い換えれば「問題行動がある」ということです。つまり「教師の意に沿った行動ができない」ということです。
学校は学級という単位で行動をすることがほとんどです。そして、そこでは「秩序を乱さないこと」や「教師による指示で動く力」が児童には求められます。
「授業中に立ち歩く」、「相手を傷つける言動をする」というのは学級の秩序を乱しますし、「ノートを開きましょう」という指示に反応できない児童や、「感想を書きましょう」で自力で書けない児童は「指示で動けない」ので「気になる(問題行動)」ということになります。

だから、この「児童理解研修」の場では、そのような「問題行動」をしてしまう児童が列挙されるわけです。では、そういう行動のリストを伸ばせば伸ばすほど、その児童を理解することは促進されることになるのでしょうか。私は、なんだか違うような気がします。そこを掘り下げてみたいと思います。

それは、問題行動という事象に対してのアプローチに違和感を覚えるからです。上記の「児童理解研修」では、紹介される問題行動を「子どもの属性」として捉えています。しかし、事象というのは「個人の属性の発現である」という、教師にはお馴染みの感覚が、本質を見誤らせているのではないでしょうか。

「あの子は忘れ物が多い子だ」
「あの子はトラブルが多い子なんです」
「あの子は反抗的な態度を取ります」

この手の「児童理解」は現場ではお馴染みです。年度末の時期になると、このような理解に基づく「引き継ぎ」ということが各所で行われます。これが行われる理由は、当然「児童理解はすればするほど良い」ということです。つまり、「行動のリストを伸ばせば伸ばすほどいい」ということですね。確かに「児童理解リスト」は短いよりも長い方が「理解している」感じがしますし、そのリストが白紙だと真面目な先生方は「怠慢」だと感じてしまうかもしれません。

でも、問題行動は「個人の属性の発現」ではないのです。残念ながら。

近年、「教育の学習化」を批判する言説が教育哲学者のガート・ビースタから提出されています。「教育の学習化」の問題点はどこでしょうか。それは、「教育と学習の違い」を考えてみればわかります。

教育という言葉の定義は様々な人がしていますが、ここでは教育社会学者である広田照幸の定義を用います。それは、教育とは「誰かが意図的に、他者の学習を組織化しようとすること」である、というものです。
広田は、定義に価値を含めてはその本質が歪められてしまうことを警告しています。そう考えると上記の定義には価値判断が含まれていませんね。
これが、たとえば「教育とは個人の発達を望ましい方向へ導く営みである」とした場合、「望ましい」という部分に「個人の価値判断」が入り込んでしまいますね。

さて、上記の定義からわかることは、「教育には学習が含まれる」が「学習には必ずしも教育が含まれない」ということです。我々は「夕焼け」を感じながら「夕方は影が長い」という学習をすることができます。でも、当然ながら「夕焼け」が我々を教育しているわけではありません。学習は、一人でも成立します。我々は日常、様々なことから学習をしています。

一方、教育は一人では成立しません。それは上記の定義からもわかりますね。それは、教育が必ず「関係性」の中で生起する事象ということを表しています。

これが「教育と学習の違い」であり、ビースタが「教育の学習化」として憂いている点なのです。「個別最適な学び」という言葉は必ず「協働的な学び」とセットで語られるのは、個人を強調し過ぎることへの警戒なのでは無いでしょうか。

つまり、先述の「問題行動は個人の属性の発現ではない」という命題も、以下のように書き換えることができるのではないでしょうか。

「児童の問題行動は関係性の中で発現している」

ここで「児童理解」における「理解」という言葉のフェーズが一つ上がりました。それは「児童だけを理解していてはいけない」ということです。言い換えれば、それは「関係性を理解する」ということです。つまり、「理解する」の矛先が教師自身にも向くわけです。

これについて、教育哲学者である高橋舞はその論考の中で「他者と出会う作法」という事象を以下のように記述しています。

なぜなら、本稿において検討した作法は、他者を見出すだけでなく、「他者現成」を受け、それに対し自己も変容、生成し、他者と向き合う作法であるからだ。他者と同時に「自己現成」、自己変容する事象とはやはり、他者と「出会う」ことであると確信する。もしも、自己の生成・変容をすることなしに他者を「見いだす」ことのみを思考すれば、その作法は再び他者にレッテルを貼り、他者を、自己をアイデンティファイするための道具、「他者としての鏡」にしてしまう危険に曝すことになる。真の他者性・「他者現成」はその証として必ず自己変容を伴う。

「他者と「出会う」地平 ー理解の超越と理解の暴力性に関しての一考察ー」 高橋舞著 p61

「他者」というのは哲学の世界では「よくわからない者」という意味で用いられます。そこから、教師は子どもたちを「わかり続けなくてはいけない」という倫理的規範を遂行的に導くこともできるでしょう。

そして、これまでの議論から、「理解する」を教師自身にも向けないといけないことがわかります。
「理解する」というのは暴力性を伴います。例えば、先ほどの「忘れ物が多い」や「反抗的な態度をとる」という児童理解は、「理解する」と同時に「レッテルを貼る」とも言い換えられます。その子の属性を「わかりやすい問題行動」のみに焦点化している点で、これはかなりの暴力性を帯びています。だから、先ほど、理解するの「矛先」という言葉を使ったのです。理解は暴力である、と。
それは哲学者エマニュエル・レヴィナスの主著である『全体性と無限』の言葉をそのまま借りれば、自己という「全体性」に、他者という「無限」を取り込むということでもあります。
これは、児童理解を自分の経験を豊かにするための「道具」として用いてはならないという警句です。

高みから「児童とは〇〇である」と考えるのではなく、その高みから自ら降りていき生身の人間として子どもと向き合う。そして、そこでは、教師自身の変容さえも迫られるわけです。

教育とは「再帰的な営み」であるとよく言われます。これは、ブーメランみたいなものですね。子どもに働きかけ、その反応を見て、教師も変容する。教師の変容から事象は変化し、子どもも変容する。理解が行ったり来たりする。シーソーのようでもある。

もちろん、学級の児童全員を理解するなんてできませんし、それは例え一人の児童を理解するであっても不可能でしょう。でも、子どもたち一人ずつと「シーソーに乗ることは」できる。そうやって「関係性の中」から、教師として自分には何ができるのかを考えながら、「教育的関係」を築いていくという地道な作業の中でしか、児童理解はできないのでは無いでしょうか。