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人間には自由意志がないと知った時、(by分身主義)


農民芸術概論



人間には、自分自身で、なにやら「意志」というものを自由に生み出す能力があって、その能力に従って自分の行動を決定することができると誰もが信じてきた。
つまり、人間には「自由意志」があると思われてきたよね。

だけど科学ではもはや、人間は自分の「自由意志」なんかで行動していたのではなかったという結論に到達しているんだ。

つまり、今ジジイがこのnoteに書いていること自体、自分の自由意志なんかで書いているのではないということになる。
それだけでなく、ジジイの全ての思考、全ての行動、それも一挙手一投足「自分の意志」で行っているものは、何一つなかったということなんだ。


今、「科学では結論に到達している」と言ってしまったけど、科学者と言われる人がみんなその事実に気づいているわけではないし、むしろ、まだ知らない科学者の方が多いに違いない。知ったとしてもその事実には目をそむけて忙しい研究に没頭していたり、感情的に受け入れがたくて詭弁きべんろうして否定している人たちもいる。

でも、実験でも証明されているし、実験などしなくてもこれまで科学が解明してきたことを整理すれば、誰でもわかることなんだ。さすがにネコでもわかるとは言わないけど、順序良く説明すれば中学生くらいでも大概わかるはずだ。

今日は頑張って、その説明に挑戦してみようと思う。世界平和のために!


人類が「我々は、自分の自由意志で思考し行動を決定していたわけではなかった」という事実を謙虚に受け入れ、その失意 (?) から立ち上がった時、初めて世界中から争いをなくし、みんなが幸福に生きるユートピアへの第一歩を踏み出すことができる。そのことをジジイは死ぬ前に、遺言として書き残しておこうと思う。

そしていつの日か、世界平和を実現させてほしいと思うんだ。
(本当はジジイが死ぬ前に叶えたかった夢だったから、若いころは自分なりに頑張ってみたけど、力不足でだめだった‥‥。それに、まだ機が熟していなかったんだ)

(この記事は本文を読むのに40分くらいです。文末の補足部分は15分くらいです。コーヒーでも用意してゆったりとお読みください【31.825文字】)



1.まずは分身主義の【第1定理】と【第2定理】


*この科学的真実(自然界の真実)を知って全ての人がそれを受け入れた時、人類は、その向こうで両手を拡げてずっと待ってくれていたユートピアに踏み入ることができるでしょう。

分身主義というのは、この科学時代を生きる我々が、世界を平和にするために持たなければいけない「視点」のことなんだ。つまり、この二つの定理を、世界中の人が九九を習うように、みんなの記憶に上書きできれば、世界は放っておいても平和になるとジジイは考えている。

この【第1定理】と【第2定理】を読み返してくれればわかるように、この二つに共通に言えることは「人間には自由意志などなかった」ということだ。
今まで僕たちが普通に使っていた「人間には意志がある」という言葉、どちらかというと、良い生き方をするためには必要なものというイメージだったし、誰もがポジティブな意味に使っていたよね。

例えば、世界から核兵器を廃絶させるためには、「世界中の人たちが、核兵器を作らないという強い意志を持つことが大切だ」‥‥とか、「彼は強い意志の力で自らの難病と闘いそれを克服した」‥‥などと使われてきた。

その逆に、もし人間に自由意志というものが存在しなくて、何かに操られて行動しているだけだということなら、悪いことをしても「やらされただけだから俺は悪くない!」などという責任転嫁に使われる、という否定的な意見もある。

だけど、世界を平和にしたり、僕たちが幸福になるためには、そこではなく、その向こうの《我々の脳に意志を生む環境》にこそ目を向けるべきだったんだ。

それが今日の話だ。


2.世界平和にこそ必要だった科学

ジジイは子供のころから、人間たちやこの世界がいがみ合ったり争ったりしていることがとても嫌だった。中学生になった頃、この世界が平和になるためには芸術が役立ってくれると思うようになった。

何故って、どんなにいがみ合っている国でも音楽だけは別で、一緒に楽しんだり共感し合ったりできているじゃない。文学だって絵画だって、あらゆる芸術が国境を越えて感動を共有し合うことができる。

今はまだお金がなければ生きていけない時代なので、ジジイも他のみんながするように、表向きには普通に会社に就職してごく普通に生きてきたけど、裏の顔では、世界を平和にするにはどうしたらいいのかをずっと研究し続けた。

それには、「人間はなぜ芸術を必要とするのか?」を考えて行けば答えにたどり着けると思っていた。先ほど言ったように、芸術は国境を超えて世界が一つになり仲良くなれるものだという予感があったからだ。

そのように、世界平和という目的で芸術の研究を進めていたんだけど、30歳後半になった頃、気づけば科学を独学で勉強し始めていた。それまで科学は芸術とは対極にあるもので、平和とは馴染まないものだと思っていたけど、むしろ世界平和にこそ科学が必要だと知ったからなんだ。

科学とは3


上の図の赤枠・青枠・緑枠で囲った部分がジジイが特に夢中になって勉強したものだ。「社会科学」の中の経済学、社会学、経営学は、世界平和とは逆行するものだと感じていた。「お金」がこの世界を平和にできないと考えていたからだ。

だけど、反面教師的にそこから何かを学び取ろうとして何度も勉強を試みてみた。でもどうしても嫌悪感が先に立ってしまい理解することもできず、結局、挫折してしまうことになる。


カリキュラムに則って上から教えられる勉強と違って、平和という観点から自分が興味や疑問を持ったものを勉強しているうちに、新たな疑問が湧き、それに対してまた知りたくなり勉強する、という風に芋づる式に勉強した結果、ここまで広範囲に勉強していたんだ。

一番初めに調べたのは、動物の「本能」についてだったなあ。そして『世界平和のための本能分類表』などというのを作ったりしていたのを懐かしく思い出す。

インターネットの情報量は今とは雲泥の差で検索してもほとんど必要な情報は手に入らなかったし、通信料が莫大ばくだいにかかったし、接続にも時間がかかった時代だったので、主に図書館に行ったり本を購入したり、テレビの科学番組を見たりして勉強をした。放送大学などはテキストは有料だけど受講料は無料だったのでむさぼるように聴講しまくった。


3.そもそも自由意志とは何か

まず、「意思」という言葉と「意志」という言葉の違いから‥‥。

《自由意志》と表記している本と、《自由意思》と表記している本があるんだけど、「意志」と「意思」は、意味的に重なり合っているところもあって紛らわしいので、確認しておくことにするね。

「意思」は「何かをしようとする気持ちや考え」という意味。
「ーー表示」「ーーの疎通を欠く」「個人のーーを尊重する」「本人のーーに任せる」

「意志」は「何かを成し遂げようとする強い気持ちや考え」という意味。
「ーーの強い人」「ーーの力でやりとげる」「ーー薄弱」


要するに「その気持ちが強い」かどうかくらいの違いで、「強い気持ち」の場合は「意志」と書くようだ。ここではどちらの場合も当てはまるのだけど、取り敢えず《自由意志》という字を当てることにするよ。

それでは、《自由意志》とは何かということから考えてみよう。


僕たちは、耳が痒(かゆ)い時や蚊に刺されて痒い時、無意識で掻いていることがある。眠っている時に掻いていて、朝見ると傷になっていることもあるよね。
また、太陽が眩しく感じた時、即座に手で光を遮(さえぎ)っていたりする。
熱いものに触れた時、「アチッ」と言って、無意識で手を引っ込めている。

僕たちの行動は、どちらかというと、大半がこのような無意識の行動で占められているように感じる。

これらを、《自由意志》と呼ぶ人はいないよね。


《自由意志》とは、無意識に行動を取らされている時には働いていなくて、何かを意識的に行おうと思うことに対して使われる言葉のようだね。
つまり、本人の「意識」が関わってくる言葉なんだ。

でも、意識して行動をしているとしても次の場合はどうだろう。

母親に、部屋の中を掃除しなさいと言われて、しぶしぶ掃除をするような場合だ。

自分が掃除をしているのは意識している。面倒臭いなあと思っているくらいなんだから。だけど、親に命令されてする行動は、明らかに、《自由意志》でやった行動とは言えないよね。

何かの影響(指図や制約)を受けて行動を起こした場合、それは自分の《自由意志》で行動したとは言えないということだ。

つまり、《自由意志》とは、何からも影響(指図や制約)を受けずに、自発的な決定に基づく「思い」のことのようだ。
この定義を覚えておいてくださいね。

4.科学の大原則

まず、とても重要なことなので、科学の大原則から話そうと思う。

科学は、いろいろな現象の原因を解明して、それぞれに○○の法則などと名づけたりしているけど、それは言い方を換えれば、法則を見つけるたびに、我々に「全ての現象には原因がある」ということを実証してくれているとも言えるよね。

そしてもっと言えば、全ての現象は、「原因⇒結果」の一方通行であり、時間は決して、「現在⇒過去」のように逆には進まない、という実証でもあると言える。

スティーブン・W. ホーキングさんが「時間順序保護仮説」なる本を出している。量子力学や難解な物理法則を駆使して、時間は過去から未来に向かってしか流れないという説を論じている。

時間順序2


しかし、難しい理論なんて知らなくても、僕たち凡人だって、そんなことは理解している。大事にしていた食器を割ってしまった翌日、それが元通りになっていた、という幸せな体験をした人は世界に一人もいないということを知っているのだから。

この「全ての現象には原因がある」=「原因⇒結果の一方通行」=「時間は過去から未来に一方通行にしか流れない」という科学の大原則は、科学を行う人たちにとっては(あくまでも科学を行う場合という意味においてだけどね)絶対的に服従するしかないものだ。

もしこの原則にほんの少しでも疑問が生じるようなことがあれば、今まで築き上げてきた科学の方法論や発見は疑わなければならなくなり、また、科学が発明してきた物は、危なっかしくて使えないということになるよね。

例えば携帯もパソコンも電子レンジも車も飛行機も、次にどのような動作が起こるか予測できないので、恐くて使えないことになるよね。でも今の僕たちはほんの少しの疑念も持たずに、それらを使いこなしている。つまり、経験上、「時間順序保護」は疑う余地がないと知っているんだ。


ところで、ジジイが「人間には自由意志などなかった」という発見に至った経緯をお話する前に、人間の行動のメカニズムを知ってもらわなければいけない。それは人間の身体の内部に張り巡らされている神経系の働きや筋肉の働きを理解してもらうことなんだ。つまり、人間の神経系や筋肉の「原因⇒結果」を知ることだ。

だけど、これはちょっと長い話になりそうなんだ。

それで文末に【*補足】として書いておくので、ここでは結論だけを受け取ってほしい。(でも時間がある時に必ず【*補足】を確認してくださいね。図解を入れて一生懸命説明しました)

結論だけを話してしまうと‥‥

人間の行動のメカニズムは、
【1】脳を取り巻く《環境》から、何らかの刺激(情報)が入力される。
【2】その刺激(情報)が電気信号に変換されて脳の対応する部位に届く。
【3】脳内に蓄積されている「記憶」や「言葉」との作用により、その人なりの反応をする。この反応の一つが、その人の【意志】と言われていたものである。
【4】その反応(=意志と言われていたもの)が脳から電気信号になって発信される。
【5】例えば、「指を曲げよう!」という電気信号が指の筋肉に届き、カルシウムイオンが放出され、筋収縮が起き指が曲がる。そのよううにして我々はしゃべったり動いたりしていた。

‥‥ということだ。

つまり、我々がしゃべったり動いたりするためには、最初に、《環境》からの何らかの刺激(情報)が入力される必要がある。
ここでも「原因⇒結果の一方通行」という科学の大原則を逸脱することはない、ということだ。

この大原則からわかることは何だろう!?


先ほど、「何物の影響も受けない、自発的な決定に基づく思いのことを《自由意志》と呼ぶ」と定義したけど、もし「意志」だけは何物の影響も受けないとすれば、意志に関しては原因となるものが存在しない、ということになっちゃうよね。

そんなことは、科学の大原則に照らし合わせても考えられないことだ。

そこでだ。僕たちの「意志」も、なんらかの原因があって、この脳に浮かび上がってきたものであるなら、「意志」とは、今まで考えられていたような「自分由来」ではなく、「環境由来」だったということになる。
そうだとしたら、それは自分の「自由意志」とは呼べないよね。

こんな簡単な論理でも、「人間には今まで信じられていたような自由意志などなかった」という結論を導き出せるのだけど、他にもたくさん根拠はある。

いろいろな人の実験(思考実験も含む)から、それを見ていこうと思う。


その前にちょっとだけ聞いてほしい。今では、誰もが、生物は自然発生などしないと知っているよね。でも、1861年に、パスツールが生物は自然に発生することなどないことを実験によって証明するまでは、多くの科学者たちが「生物自然発生説」を信じていたらしい。

パスツールの実験


生物は、まるで「うじが湧く」という言葉のように、自然発生的に湧いてくるものかもしれないと考えられていたんだ。その間違いをパスツールが上のような実験で証明した。詳細が知りたければ、インターネットで検索してみてください。

1861年に「生物自然発生説」という、おとぎ話から人類が卒業したように、科学時代を生きている僕たちは、「自分は、何からの影響も受けず、自分の力で自由に《意志》を自分の脳内に生み出して、自分の行動を決定している」などという「意志自然発生説」などという勇者伝説から、この2021年、卒業しませんか!?

それが世界を平和にして、全人類が幸福に生きるための視点だからです!


5.自由意志などなかったと知ったジジイの思考実験

まず、自分に「記憶」というものが全くなかったらどうなるかと想像してみてほしい。自分が生まれたばかりの赤ん坊だと思えばいい。

僕たちは、目の前のモノが自分にとって何を意味するものなのかを理解したり、何かを思考したり判断したりするだろうか?
あらゆるものが、自分の前をただ素通りしていくだけだと思う。

記憶とは、物を認識したり思考したり判断したりするために必要なもの。

蛇足だけど、小さな虫たちにも「記憶」というものがある。遺伝子情報という記憶だ。言葉を持った人間と同じとは言えないけど、これが、人間の「認識」や「判断」に近いことができている理由だ。もちろん言葉がないから「思考」はしないけどね。

また、例えば、蜘蛛が親にも教わらずにあんなにすごい蜘蛛の巣を作ったり、蜂が蜂の巣を作るのも、遺伝子情報という記憶だ。


話を人間に戻すよ。そしてここが大事なところだけど、「記憶はどのように作られたのか?」

もう一度、自分が生まれたばかりの赤ん坊になったと思って、考えてみてほしい。

「記憶」とはオギャアと生まれて生きて行く中で、少しづつ蓄積されていくものだよね。生まれたばかりの時は、遺伝子情報という「記憶」が作る原始反射(こちらが差し出した指をぎゅっと握ったり、何かを吸う反射、空中で足をバタバタさせる)と言われる行動しかしないよね。

それがやがて、自分を守ってくれる人たちの顔を覚えたり、食べ方や歩き方を覚えたり、物の名前を覚えたり、言葉を覚えて行く。

それはみんな《環境》が、その子どもの脳に作っていくものだよね。

まだ《環境》にいないアンパンマンに憧れる子どもはいないし、《環境》にないバジュゴリ語を、いきなり話し出す子どもなんていないものね。

「記憶」とは、先祖という《環境》から代々続く遺伝情報という記憶も含めて、全て《環境》に作られるものなんだ。

大事なことなのでもう一度言うよ!

「記憶」とは、あくまでも《環境》に作られるもので、自分自身が勝手に作るものじゃない!
《環境》にないものは、僕たちは決して記憶することはできない!
ちょっと考えれば、当たり前のことだよね。

そして初めに戻るけど、僕たちは、その《環境》に作られていた「記憶」に、物を認識したり思考したり判断したりさせられていたというわけだ。
寝ている時に見る夢だってそうだ。僕たちは「記憶」にないものを夢の中で見ることすらできないんだ。

「でも、この前、記憶にない人(知らない顔の人)が夢に出てきて話しかけられましたよ」とあなたは言うかもしれない。

でも、夢というのは、記憶の中の人や物やエピソードなんかが、バラバラになってコラージュのように組み立てられて、「寝ている時にムックリ起き出してくる意識」に急き立てられるようにして見せられている物語なんだ。

ジジイは昔、下敷きみたいにペラペラの人の夢を見た。真横から見たらちゃんと人に見えるけど、前から見たらほとんど見えない。でも人間なのでちゃんと会話をしている。

それだって、下敷きのようなペラい物のイメージと人間のイメージが、元々ジジイの記憶の中にあったから、夢の中に出てきたんだ。

臨死体験の時に見る不思議な光景も、記憶にあるものしか現れないという研究結果もある。「三途の川を渡る手前で追い返されて戻って来ました」と言う人の話はよく聞くけど、その人は、過去に「死んだら三途の川を渡る」という話を聞いていたわけだ。

目が見えない人の夢も、彼が触ったり聞いたことがある範囲でしかない。「せめて夢の中だけでも、目が見えるようになりたい」と思っても、記憶や経験にないものが夢で再現されることはないようなんだ。

本当は芸術家や発明家と言われる人たちだって、彼らの記憶にないものは一つとして産み出せないんだよ。(まったくのオリジナルなんて、本当は一つもなかったんだ)

例えば絵を描く場合でも、もし記憶が何もなければ、赤ん坊が描くような「なぐり描き」のようなものしか描けない。なぐり描きは赤ん坊が絵を描いているのではなくて、手を動かすことやクレヨンなどの痕跡が現れることに興味を持っているだけなんだ。

子どもが絵らしきものに興味を持って描いているようにに見える時期になっても、何かを見て写生したくなったわけではなくて、周りの人の「絵を描く」という行為を見たり、その描かれた絵を見た「記憶」があって、それを真似るところから始まるんだ。

下図は3~5歳くらいの子どもの絵だということだけど、このような絵を描けるようになるには、彼の脳内に「記憶」があるということなんだよ。

子どもの絵


これは、本物のお母さんや本物のブドウを見て写生しているのではない。もちろんハートマークなんて自然界のどこにもないよね。絵本などの中に出てきたお母さんやブドウの絵やハートマークの「記憶」を描いているんだ。

大人のプロの絵描きだって、風景画を描いている場合でも、本当は彼が過去に見た「絵画」の中の《記憶》の風景の色や線や形を、あるいは過去に偶然発見した効果的な技法などを、今見ている風景に重ね合わせて描いているんだ。記憶があるからうまく描けるとも言える。

また、例えばきれいに円を描くのも訓練が必要だけど、それだって小脳が司る運動の記憶がないとできないしね。

想像や連想だって、記憶同士の回路が使い回ししているからなんだ。

ちょっと脱線しちゃったね。
とにかく、人間は記憶にないものは夢に見ることもできないし、絵も描けないし、物を発明することもできないし、臨死体験もしない。何かを意識することも認識することも判断することも思考することも、まして行動することもできないということを言いたいんだ。


もう一度、先ほどの言葉思い出してくれるかな!?

人間の行動のメカニズムは、
【1】脳を取り巻く《環境》から、何らかの刺激(情報)が入力される。
【2】その刺激(情報)が電気信号に変換されて脳の対応する部位に届く。
【3】脳内に蓄積されている「記憶」や「言葉」との作用により、その人なりの反応をする。この反応の一つが、その人の【意志】と言われていたものである。
【4】その反応(=意志と言われていたもの)が脳から電気信号になって発信される。
【5】例えば、「指を曲げよう!」という電気信号が指の筋肉に届き、カルシウムイオンが放出され、筋収縮が起き指が曲がる。そのよううにして我々はしゃべったり動いたりしていた。



「我々がしゃべったり動いたりするためには、最初に、《環境》からの何らかの刺激(情報)が入力される必要がある」と、前に言ったけど、これが電気信号に変換されて脳内に到達すると‥‥、

すると‥‥、赤ちゃんの時から蓄積されて脳内にあらかじめ作られている「記憶」や「言葉」との共同作業によって、その人特有の反応が生まれる。「言葉」も記憶の一つなので敢えて分けなくてもいいんだけど、これは他の記憶とちょっと違って特殊なので、別枠にすることにしている。

今言った、「その人特有の反応」というものが、その人なりの、認識や思考や判断のことで、その反応がまた電気信号となって、筋肉に届き、そして我々はしゃべったり動いたりしていた‥‥ということなんだ。


例えば、まだ何にも記憶していない生まれたての赤ん坊が、脳内にいろいろな記憶を植え付けられ、やがて小学生になりサッカーというスポーツを記憶させられ、その動作が無意識でできるくらいに小脳が記憶し、試合に出るようになり、飛んできたボールをとらえて、今、味方に向かってパスをしたとする。

考えようによっては、その時の筋肉の動きも、みんなみんな赤ん坊の時からの《環境》が彼の脳に作った「記憶」に作られていたんだね。一つとして自分が作ったものなんてない。

彼は、その顔や体躯や性格や、はたまた現時点の行動、腕の上げ下げや瞬(まばた)きに至るまで、すべてが《環境》に操られていたと言ってもいいんだ!

あるいは、まだ何にも記憶していない生まれたての赤ん坊が言葉を覚え、脳内にいろいろな記憶を蓄積させられていくうちに、ある種の思想に傾倒させられ、大人になって経済評論家などになり、今、テレビで饒舌(じょうぜつ)に話している、とする。

考えようによっては、その瞬間の思考や彼の作り出す言葉もみんな、《環境》が彼にやらせていたことだったんだ。



今度は、それを違う角度から見てみよう。
いろいろなものを「記憶」しているこの脳を単独で取り出して、それが死なないように栄養や酸素を与え続けたら、その時、脳は何かを認識したり思考したり判断したりするだろうか?

脳は外部から何らかの刺激(情報)が入力されて初めて、その信号が自分にとって何を意味するのかを認識したり思考したり判断したはずだよね。

だから、五感という入力部と切り離されてしまった脳にとっては、もはやそれまでの記憶というものは、単にシナプス(神経細胞の接続部)の変形した物体としての意味しかなさない。

脳は、まるで司令塔のように威張っているように見えるけど、本当は外部から何らかの刺激(情報)が入力されない限り、自ら怒ったり泣いたり考えたり命令したり、といったことを何にもしないし、それを受け止めてくれる身体がなければ何にもできない「脳(能)無し野郎」だったんだね。

今の話で、下図のどこが間違っているかわかるよね。
脳は決して、この図のように自由意志で命令を始めることはできないはずなんだ。

環境への行動


と言うことは、僕たちの脳に何らかの「意志」が浮かび上がるためには、僕たちの《環境》から何らかの刺激(情報)が入力され、それが電気信号に変換されて脳に届き、その時初めて僕たちの脳に「意志」が浮かび上がっていたわけだ。だから上の図のようなことは起こらないんだ。

これはどう考えても『2.そもそも自由意志とは何か?』で定義した、何からも影響(指図や制約)を受けずに、自発的な決定に基づく「思い」としての《自由意志》ではないよね。

つまり、さっきも言ったけど、「意志」というのは「自分由来」ではなくて、「環境由来」だったというわけだ。これを《自由意志》だと言い張るのはおかしい!

こんな簡単な思考実験でもわかることだったんだ。


ところで、初めに「母親に言われで渋々やる部屋の掃除」の例を挙げたけど、もしそれが自分が大好きな「スマホ・ゲーム」などの場合だったらどうだろう?
大好きな「スマホ・ゲーム」をやる場合なら、自由意志でやったと言えるだろうか?

好き ➡ やりたい
嫌い ➡ やりたくない

当たり前の情動の流れだけど、みんなはこの「好き ➡ やりたい」を「自由意志」だと勘違いしている。

好き ➡ やりたい(=自由意志)
嫌い ➡ やりたくない(=自由意志じゃない)

でも本当は、ある物事に対しての「好き」や「嫌い」という感情も、実は自分が作っていたものではなく、生きて行く中で《環境》に作られていくものだとしたら‥‥?

「猫は好きになりたいけど犬は嫌いになりたい」などと好き嫌いを決めている人などいない。《環境》に作られる。

また、《環境》に「スマホ」がない時代だったらもちろんゲームを好きになっていないし、「スマホ」を持っていてもゲームをやる《環境》に巡り合わない人には好きとも縁がなかったはずだ。つまり「スマホ・ゲームが大好き」という感情は《環境》に作られるんだ。

《環境》に作られた「好き」という感情を伴った記憶に背中を押されて、ついつい今もスマホに手を伸ばしてしまうのって、やっぱり、何からも影響(指図や制約)を受けずに、自発的な決定に基づく「思い」としての《自由意志》ではないよね。


6.自由意志などなかったと知った飲茶さんの思考実験

以下はジジイの尊敬する飲茶(やむちゃ)さんという方の思考実験だ。彼の『哲学的な何か、あと科学とか』(二見書房)、という素晴らしい著書の中から引用させてもらう。

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彼は本当にジジイの尊敬する人で、他にも『哲学的な何か、あと数学とか』というすごい本も書かれている。これらの本はジジイにとって、子どものような好奇心が刺激されワクワクさせてくれる宝物みたいな本だ。

昔々、ジジイの誕生日に、妻から何が欲しいかと聞かれた時に、この本が欲しいと言って二冊とも買ってもらった。今でも、誰かさんが自慢するダイヤの指輪よりも輝いている。では、ワクワクして読んでください。

自由意志とは何だろうか?
もし自由意志を「自分で好き勝手に選択できることだよ」という意味で捉えているのであれば、それは明らかに間違いである。
もし、それが自由意志だと言うならば 、「そんなものはない」と断言してもよい。

我々に、「自分で好きなように物事を選べる」という自由意志がないことは、以下の実験で簡単にわかる。

■ 自由意志を確認する実験
まず、目の前に、2つのコップを置こう。

コップ

そして、右のコップ、左のコップ、どっちでも好きな方を選んでほしい。なお、2つのコップに違いはない。自分からの距離も同じだ。どっちをとっても、何も違いはない。

さあ、あなたはどっちを取るだろうか?
(実際に、コップを用意してやってみてほしい)

仮に、あなたは適当に、なんとなく、右のコップ(もしくは左のコップ)を取ったとしよう。
そうしたら、問いかけてみてほしい。
「なぜ、そっちを取ったの?」と。
何も合理的な答えは見出せないはずだ。

はっきり言ってしまえば、「なんとなく、そんな気になった」としか言いようがないはずだ。つまり、「どうして右のコップを選ぶ気になったのか、自分でもよくわからないけど、なぜだか、そんな考えが沸き起こってきて、右を選んだ」ということである。

だとすれば、明らかだ。
「よくわからないけど、そんな考えが沸き起こった」とは、「なぜ自分がそうしようと思ったのか原因がわからない」ということなのだから、全くもって、「自由(好き勝手に選べる)意志」なんかじゃない。

だって、結局「右を選ぶ」という考えは、「自分にはわからない何か(自分の外部)から出てきた」ことになるからだ。

それは、あなたの体に見えない糸がついていて、背後で誰かが操っている状況によく似ている。誰かが、糸を引っ張ったので、「右手を上げた」にもかかわらず、あなたは「よくわからんが、自分で右手をあげたくなったのさ」と言い張っているのと同じである。

結局のところ、「自分でなぜそうしたかもわからない」のだから、「自分で自由に好き勝手に決めました」なんて言えるはずもない。
では、逆に、右のコップを選んだことに、何か合理的な理由があったらどうだろうか?

もしかしたら、こんなふうに言う人もいるかもしれない。
「自分は右利きで、右が近いから、右を選んだのさ」

それもおかしい。もし、合理的な理由がはっきりあって、あなたがそれに完璧に従うのだとすれば、そもそも、あなたには「自由な意志なんて全くない」ことになる。だって、合理的な理由に従って動くだけなら、ロボットのように決められた通りに動くだけで、全然、自由な意志なんかじゃない。

そう言われて、「いや、そうじゃない。俺は、ロボットじゃない。合理的な理由に従ったのは、自分の意志で自由に決めたことだ」と言ったとしても、
「じゃあ、合理的な理由に従わない自由もあったんだよね? なのに、なんで、今回は、合理的な理由でコップをつかんだの?」
と問いかけられれば、やっぱり、「いや、なんとなく、今回は合理的な理由で選択しようという気持ちになったんだよ」としか言えないのだ。

■ まとめ
もし、我々が、自分自身の選択について、「なぜそれを選んだかの仕組みが完全に分かっていた」としたら、それはもう自由意志ではなく、機械的な意志になってしまう。
したがって、機械的な意志でないためには、「なぜそれを選択したのか、その仕組みがわからない」ということが必須条件である。

だが、そうすると、「なぜそれを選択したのか、自分ではその仕組みがわからない」のだから、結局、我々が何を選択しようと、その選択は、「ブラックボックス(自分には計り知れない未知の何か)」から生じたことになり、やっぱり「自由(自分の好き勝手)なんかじゃない」ってことになる。

結論を言おう。意志とは、我々の計り知れないところから「起こるもの」であり、いやむしろ我々の計り知れないところから「起こるもの」でなくてはならない (そうでなければ、機械的意志になってしまう)。

結局のところ、我々には「自由に意志を引き起こす自由」 なんてないのである。


7.自由意志などなかったと知ったリベットさんの実験

ジジイが世界平和を常に視野に入れて科学を包括的に勉強して、そこで辿り着いた答えが、「人間には自由意志はなかった」ということだった。これこそ、世界を平和にするために、人類が持たなければならない視点だったんだよ。(その理由は後で詳しく話します)

その答えに辿り着いたちょうどその頃読んだ本で、ある実験結果を知って驚いた。何と自分がたどり着く15年くらい前の1983年に、アメリカの神経生理学者ベンジャミン・リベットさんが行った実験のことが書いてあった。その実験はまさしくジジイの思考実験の正当性を証明してくれていたんだ。


その実験の説明をするね。
被験者は頭皮に電極をつけ、自分が好きな時に指を曲げるか手を動かしてもらうことにする。
動作を行うということは、脳内に電気が発生しているわけで、それを捉える脳波計は、動作が行われる時点を正確に記録するはずだ。同時に、被験者は自分がいつ指を動かそうと思ったのか記録しておくことにする。

その結果、面白いことがわかった。

まず、被験者がそのような動作を行おうと意識してから、実際にその動作が起こるまでには、0.2秒かかった。

これは別に不思議でも何でもない。
意識と動作の間には、わずかな時間差があって当然のことだからだね。

しかし、不思議なことは、被験者が指を曲げるか手を動かそうと決める、その約0.3秒前に神経系の動きが観測されることを発見したのだ。

リベットの実験


この実験は、「決意の意識(=意志)」が発生する前にまず神経回路網が活動を開始し、その後で「決意の意識(=意志)」が発生することを示していることになる。

「意志」が発生する前に活動を開始するこの奇妙な脳波は、「準備電位」と名づけられた。

この実験結果は、人によっていろいろな解釈がなされるかもしれないけど、しかし、この実験が示している事実は唯一つだ。
「決意の意識(=意志)」を《自由意志》と呼ぶとしても、その《自由意志》と呼ばれるものは、0.3秒前の神経系の働きによってもたらされていた、という動かしがたい事実なんだ。

言い方を換えると、僕たちは、神経系の働きによって浮上させられた《意志》によって行動をさせられていたということだ。

それは、明らかに自分の意志‥‥自由意志とは呼べないものだよね。でも、リベットさんがわからないのは《意志》を浮かび上がらせるように働く「神経系の働き」って一体何なんだ、ということだ。

独学で「人間には自由意志はなかった」という答えに辿り着いていたジジイには、この実験の「神経系の働き」が何だかわかる。《環境》からの刺激(=情報)だ。むしろそれがわかったからこそ、この結論に辿り着いていたんだけどね。

この実験の場合の《環境》からの刺激とは、実験者からの「自分の意志で指を曲げてください」という「情報」だよね。もちろんそれ以前に「これは脳波を測る実験である」という「情報」も与えられている。

その情報が被験者の脳に記憶されていて、その「記憶」が、ある「しきい値(on、offの境目となる値)」を超えた時、発火が起こり、被験者の脳に「指を曲げるぞ」という意志を浮上させていたんだ。

この実験は、他の科学者やリベットさんたちの実験に冷めた目を向ける科学者たちによっても追試され、同じ結果が出ている。それだけでなく、現代の最新機器であるfMRI(磁気共鳴機能画像法:脳活動を画像化できる機器)という装置を使っても確認されているんだ。もう疑う余地もない。

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8.自分の実験結果に納得がいかないリベットさん

だけど、リベットさん自身は、自分の実験結果に納得がいかず、彼はその後、「禁止権説」なる救済案を考え出したりしているんだ。

つまり、僕たちの意識が、いくら0.3 秒前の神経回路網の活動によって浮かび上がらせ・られたものだとしても、それによって動作を行おうと意識してから、実際にその動作が起こる0.2 秒の間に、もし、その動作を禁止することができたらそれは自由意志と呼べるに違いない、と彼は考えた。

リベットの禁止権説


ジジイに言わせれば、笑っちゃうような話だ。
だいたい0.2秒の間に「気持ちを切り替える」なんて、いくら「女心」でも「秋の空」でも、はたまた超人的な運動神経の持ち主でも無理な話だし、もしこの0.2秒を20秒の余裕を持たせてくれたとしたって、その間に心変わりが起こったとしたら、それはその20秒の間に「心変わりをさせるための何らかの原因」が起こったからだよね。

例えば「自分には動作を禁止する自由意思があることを示してやれ!」という気持ちがふいに起こり、それで指を曲げるのを拒否したとするよね。でもその時、「自分には動作を禁止する自由意思があることを示してやれ!」という気持ちが起こった原因は、それ以前に自分の脳内に「自由意志」に関する何らかのこだわりがあり、それが原因となっていることがわかる。

だって「自由意志」という言葉は、自分が作ったわけではなく、自分以外の誰かが作った言葉で、その他人の作った言葉がその人の脳内に何らかの影響を与えているわけだよね。

だからやっぱりこれも、その「原因」に影響(指図や制約)を受けたための行動で、自分由来の「自由意志」の行動なんかじゃない。これも環境由来の「意志」に取らされた行動だよね。

それに、もっと笑っちゃうのは、自分の実験結果がどうであれ、そのような結果が出たなら、ありのままに受け入れたらいいはずじゃない。普通の科学者はみんなそのようにしているはず。

それなのに、どうして、この「人間には自由意志がない」という結果に関してだけは、こんなにも苦しい言い訳をするほど否定しなければならなかったの? だいたい「救済案」ってどういう意味?

と言うか、「人間には自由意志はなかった」とわかってしまったら、困ってしまう何かがあるの? って聞いてみたい。むしろ世界平和に必要だったというのにね。


ところが最近の研究だと、自由意志は幻想だという情報を与えられた被験者は、モラルに反する動向を示すことが多くなるとか、衝動的な利己主義に走り、他人に協力することをやめる、といった傾向が強まることもあるという報告もされているらしい。

自由意志が幻想だという情報を与えられると、衝動的な利己主義に走り、他人に協力することをやめる傾向がある。

どうしてそのような結果になるの!?
ということだけど、現代人がそのような反応をしてしまう理由もジジイにはわかっている。それに、自由意志が幻想だという情報は、衝動的な利己主義に走ってしまうどころか、これこそが争いのない平和な世界を作り、世界中の人が仲良く暮らせるために必要な「科学的事実」だったんだよ!

でもそれを説明する前に、もう一つの「救済案」(?)も知っておいてもらった方がわかりやすいので、そちらを提示しておくことにする。


9.超天才的な詭弁(きべん)!

名前を挙げたら、最近では「名誉棄損」とか「個人的な誹謗中傷」と誤解されかねないので名前は伏せておくけど、某大学の教授の天才的な詭弁の話をするね。

この人は、「自由意志がない」という結論が感情的に受け入れ難かったわけではなく、あの有名なイギリスの行動生物学者リチャード・ドーキンスさんの「利己的遺伝子」とか「生物は、遺伝子の束の間の乗り物に過ぎない」とか言ったことが感情的に納得がいかなかった。

リチャード・ドーキンスさんの「利己的遺伝子」

生命の変化をよく観察してみると、遺伝子には、個体を犠牲にしてまでも自分が生き延びようとする不可解な行動が見られることがある。それは、遺伝子が自分の増殖に有利なように有利なように働いているように見える。
そこで彼は、僕たちの身体は、永遠不滅の遺伝子の、束の間の乗り物に過ぎなかったと考えたんだ。


だけど人間というのは傲慢なものだから、多くの人はこの結論は受け入れ難かった。そこで先ほどの某大学の教授は、この考え方を、我々が普通に生活している「物質界」に対して、下の「❷生命界」というものを新たに付け加えて、確かにドーキンスさんの言う通りかもしれない、と一旦は譲歩をしてみせる。

❶ 物質界‥‥物理・化学法則によって支配されている世界。
❷ 生命界‥‥遺伝子の法則によって支配されている世界。


さて、天才的な詭弁はここからだ。彼はその上にさらに、

❸ 心の世界‥‥我々の意志が我々を支配している世界。


というのを勝手に想定して、「ついに我々人類は、遺伝子さえも自由に操るようになった!」と宣言したんだ。実際、ある程度、遺伝子操作もできるようになったのだからね。

これは、人間が「意志」を持った時点で遺伝子の束縛を振り切ったんだと考えるものだ。ということは、ジジイが至った「人間には自由意志はない」という結論に直球勝負を挑んでいるようなものだ。

でも、どこからか、彼の功績を称える声と拍手が聞こえてきそうだね。(パチパチパチ‥‥)もはや、ジジイは負けを認めるべきなのか!

彼はこう考えたんだ。
「オホン、人間が “心” というものを持った時点で、遺伝子も及ばぬ世界に入っていったんじゃよ。その証拠に、我々はついに遺伝子さえも自由に操るようになったではないか。それに、心があって初めて、科学、文学、芸術など、ありとあらゆる文化も生まれてきたではないか‥‥」

ヤッター!
ついに僕たちはこの問題を乗り越えたんだぁー!
って、シャンペンの栓を飛ばし合う音が聞こえてきそうだよね。

でも、ジジイはこの天才科学者の天才的な発想に呆然(ぼうぜん)としてしまったんだ。

何かが間違っていると感じてはいるんだけど、それが何かはすぐにはわからなかったんだ。
でも、「イヤ~な感じ」は、いつまでもつきまとって離れなかった。


そして、彼の発想の間違いが何であったのか気づいた時、ジジイはこの天才的発想を、『超天才的な詭弁(きべん)』と呼ぼうと思うんだよ。

さて、この発想の間違いを説明するためには、次のようなSF的状況を想像してみてほしい。


1000年後でも1万年後でもいいんだけど、コンピューターが意志を持ったと想像してみてくれるかな。
そして、コンピューターはロボットたちを操って、自分たちを支配していた人間を逆に支配しようとしてきたんだ。

やがて人間さえも支配下に置いたコンピューターは、人間に代わって自分たちの科学、文学、芸術という文化を開花させていく。

これは、先ほどの天才科学者に言わせれば、コンピューターが心を持ち、人間の束縛を振り切った瞬間と言えるよね。

コンピューターは自分たちの勝利に酔い、自由を称え合うでしょう。パチパチパチ。
でも、人間から見たら、なんと腹が立つことでしょうか!?

「なんて傲慢なコンピューターたちなんだ! 元々は我々が作り、そして育ててあげたコンピューターやロボットたちが謀反(むほん)を起こすとは!」

先程の天才科学者の考え方を思い出してくれるかな。この傲慢なコンピューターたちとどこか似ていないかい!?

天才科学者は「人間たちは遺伝子の束縛から自由になり、ついには遺伝子を支配するようになった」などと言って謳歌しているけど、それって、我々を産み育ててくれた自然界様に反旗(はんき)を翻(ひるがえ)しているように聞こえるよね。

そして自然界様に勝った気になってその勝利に酔いしれている。何て傲慢なことなんだろう。


でも、本当は自然界の束縛から一歩も抜け出していなかったんだし、初めからコンピューターを支配すらしていなかったんだ。


この自然界の中で「我こそは万物の霊長である」とおごり高ぶる、人間中心の、自分中心の、傲慢な傲慢な考え方だったことに、君にも気づいてほしいんだよ。

彼の天才的なひらめきは、残念ながら科学者としては失敗だったんだ。
実際は、「人間は遺伝子を自由に操るように、その行動を自然界に操られていた」だけだったんだ。そのような行動をする《環境》に、人間たちが置かれていたというだけの話なんだ。

何が一番の失敗かと言うと、科学者のくせに自分の「感情的に受け入れがたい」という気持ちを優先してしまったからなんだよ。

「生物は、遺伝子の束の間の乗り物に過ぎない」などと言ったリチャード・ドーキンスさんだって間違えていた。

遺伝子だって別に自分が生き抜くために、人間を乗り換え乗り換えしているわけじゃない。この自然環境から生まれてきて、今でもこの《環境》に動かされているに過ぎなかったんだものね。



10.人間に自由意志があると思い込むのは個人の自由ではない

ここまで見てきたように、「人間には自由意志などなかった」というのは、もはや疑いようのない事実だ。「人間は《環境》に意志を浮かび上がらせ・られて、その意志に行動を決定させ・られていた」という言い方が、正しいということだ。

そして、我々の《環境》とは、宇宙の万物と世界中のみんなで作っているものだね。

一番最初に、「だけど、世界を平和にするのはそこではなく、その向こうの《我々の脳に意志を生む環境》にこそ目を向けるべきだったんだ」と言ったよね。


次の「ネイティブ・アメリカン(インディアン)のことわざ」聞いたことある人もいるかもしれない。

モカシン靴2


モカシンとは、ネイティブ・アメリカン(インディアン)たちが履いていた、動物の皮を使って作った靴のことらしい。

モカシン靴


これは、その人のいつも履いている靴を自分も履いてみるまでは批判してはいけない、という意味のことわざだ。つまり、相手の立場に立って考えることが大切だと言っているんだ。

分身主義は、これまで見てきたように「我々の行動は《環境》に制御されている」と科学に教えていただいたものだったよね。つまり、環境に目を向けるものだね。

それは、まさしくネイティブ・アメリカン(インディアン)の「モカシン靴」だったんだ。

例えば、今、SNSなどで、匿名性をいいことにやってしまう罵詈雑言・誹謗中傷が問題になっている。

でも、批判する人も批判される人も、みんなみんなその人の《環境》にコントロールされて行動をしていたんだよね。そのことを知れば僕たちの心の中で何かが変わらないかい!?

批判する人も批判される人も、その人に行動を起こさせている《環境》に目が向けば、その時、双方ともに相手のことを許す気持ちが生まれて来るだろう!?
この相手を許す気持ちというのは、とても尊いものなんだ。

そしてこの時、同時に「誰か一人が、何か悪いことをしたのは環境のせいだけど、現在のこの環境を作っているのは世界中のみんなだ」と理解することが大事だ。それによって、みんなが自分の責任だということを知って、みんなで責任を取ろうという気持ちが湧くからだ。

これをジジイは、「《環境》の下(もと)にみんながつながる」と表現している。

元々、僕たちはみんなつながっていたんだ!
僕たち一人一人は、みんなこの宇宙の一時的な分身で、本当の僕たちの身体(全身)はこの宇宙だったんだからね。

そのことがわからなくなってしまったのは、この神経系が「錯覚の自我」を持ってしまったことと、「言葉」を持ってしまったせいなんだ。

言葉を持たず、本能としての自我しか持たない他の動物たちのことを、ジジイは「自然界と地続き」といつも形容している。人間だけがこの自然界から迷い出てしまったんだ。

自然界からはぐれて迷子になってしまっている人類に、今、科学が、本来の居場所を教えてくれている。


だけど不思議なことに、「自由意志は幻想だという情報を与えられた被験者は、モラルに反する動向を示すことが多くなるとか、衝動的な利己主義に走り、他人に協力することをやめる、といった傾向が強まることもある」と報告されているのは何故だろう?

ジジイが言うことが出鱈目だったってことなのかな!?


11.自由意志が幻想だと知ると、衝動的な利己主義に走り他人に協力することをやめるのは何故か?

結論から言えば、被験者も実験者も「個人主義的な《環境》」にどっぷりと浸かった脳だから‥‥と言える。

個人主義というのは、この身体の内側が「自分」である、と信じているところから生まれる視点なんだ。

それこそ、科学的に言えば、この神経系の見ている全くの錯覚なんだけどね。

科学的に言えば、この身体はこの宇宙のすべてとつながっている。この瞬間、もし空気や地面を消したら僕たちは一瞬たりとも生きていない。
逆に言えば、宇宙こそ、僕たちを僕たちならしめている僕たちの一部でもある。

この考え方は間違いじゃないんだ。

僕たちはこの宇宙の一部でもあるけど同時に全体を作っている。
本当だよ。君がいて初めて、今のこの宇宙は存在しているんだ。

今、この宇宙の中で占有している君という一部だけど、それがあって今の宇宙は今の宇宙なんだ。君が死んでも君がこの宇宙の一部を占有していた原子分子はリサイクルされてまだ占有し続ける。

もし君を作っていた原子分子が、この宇宙からどこかに消滅してしまったとしたら、それはもはや今の宇宙とは微妙に違うものになってしまうよね。だから宇宙が今の宇宙であり続けるなら、君が死んでも消滅してもらっては困るんだ。

だから僕たちはこの宇宙の部分でもあり、全体でもある。

分身主義とは


でもその科学的な真実が見えずに、この身体の内側と外側を分けて、内側が「自分」だと信じている我々が作る「個人主義的な環境」というのは、この世界の中で「自分」を何よりも中心に据えてしまう。

よく聞くでしょう!?

君は君の物語の中で主人公なんだ!⤴
君はオンリーワンなんだ!⤴
君は自分自身をもっと愛していい!⤴
君は自分をもっと肯定していい!⤴
君はもっと自分らしく生きていい!⤴

そのように言われることで自信を取り戻し、幸せな気分になるのが個人主義的な環境に置かれている、僕たちの脳の特徴だ。
個人主義的な環境に置かれている脳は、そういう言葉をささやかれると、うっとりしてしまうようにできているんだ。

その逆に、

自分は誰かの物語の中の引き立て役でしかない⤵
自分は特にいなくてもいい小さな存在だ⤵
自分は誰からも愛されていない⤵
自分は否定されていると感じる⤵
自分らしく生きている実感がない⤵

ということだと激しく落ち込むんだ。くよくよしたり、鬱になってしまったりする。これも個人主義的な環境に置かれている、僕たちの脳の特徴だ。

だから今の我々は、「自分」を勇気づけ、もてはやしてくれる言葉を必要とする。


今はまだ個人主義的環境で僕たちは生きているので、このように、自分の価値や存在意義などをやたらと重視する癖がついている。

そんな人たちが「自由意志は幻想だった」と聞くと、自分を否定されているような気がしてしまう。それは当然だよね。
尊大であってほしい自分の価値や存在が、希薄になってしまうように感じてしまう。

そうすると先ほどの「落ち込んだり鬱になったり」する自分が頭をもたげてきて、いろいろなことが無意味に感じて、半分、自棄(やけ)になったりもする。当たり前の反応だ。

「自由意志は幻想だという情報を与えられた被験者は、モラルに反する動向を示すことが多くなったり衝動的な利己主義に走り、他人に協力することをやめる、といった傾向が強まることもある」という検査報告も、わかる気がするよね。なんかもう、どうでもよくなっちゃうんだ。


いいかい!?

ジジイは、人間には価値も存在意義もない、なんて言っているんじゃないんだよ。

そんな古い価値観なんて、僕たちには、もういらないって言っているんだ!

むしろ捨て去らなければいけないって言っているんだ!

いつまでもそんな錯覚にしがみついていてはいけないって言ってるんだよ!

この身体の内側が自分だと信じているのが、もうすでに古いんだ!

個人主義なんてもう古いんだ!

もう、この身体の内側が自分だと信じていたのは、それはこの神経系が見ていた錯覚だったと気づくべきなんだ!

もう一度上の図を見てほしい。

僕たちは赤ん坊となってオギャアと産まれるずっと以前、約140億年前のビッグバンの時に産声を上げていた。そして、この宇宙は、その時に存在していた「素粒子」が自然界の作っているシナリオに基づいて演じさせられている劇場なんだ。

この140億年の宇宙を、あまりにも大きく遠くにイメージすることはないよ。
もっとも140億年を一瞬で行って帰って来れるくらいの想像力の豊かな人ならそれでもいいけど、もしそれが厳しいなら、自分がイメージできる範囲、ディズニーランドくらいでもいいんだ。

僕たち一人一人は「一時的な役者(分身)」に過ぎず、本当の僕たちはこの宇宙そのものだった。

これもディズニーランドでイメージすれば、その中のキャラクター(ミッキーたち)やキャスト(従業員)やビジター(客)が、みんなでディズニーランド(宇宙)を作っているというイメージだよ。

宇宙は、ビッグバンから一気に膨張している状態を今も続けているけど、その現在の宇宙を、イメージしやすい大きさのディズニーランドに見立てて、その断面図を見えるように横にしたのが下図。
(画像はインターネットの画像検索から選んで、勝手にコラージュさせてもらいました)

自分のイメージ



この中で、僕たち一人一人はリサイクルを繰り返しているんだ。ビジターだった役者(分身)が、リサイクルされてアトラクションを支える柱や樹木の一部になったりしているんだ。

今までの僕たちのイメージは、下図のように個々が家族的な最小単位で分断されていたよね。今では家族の中でさえも個々に分断されているかもしれない。その今までのイメージの上に、この上の図の「本当の自分の姿」を今すぐ上書きしてほしい。

自分


とんでもないことを言っていると思うかい!?

自分の本当の姿を知った今のジジイに言わせれば、この身体の内側が「自分」だと信じていた今までの人類の方がずいぶんと狭い固定観念に閉じ込められて、可哀想に窮屈な錯覚の中を生きていたなと思うよ!?

みんなが、この身体の内側が「自分」だと、そう思い込んでいたから気づく人がいなかっただけなんだ!

だから、ほら、見てごらんよ。

個々に分断されて、つながりを感じられない現代人は、落ち込んだり、鬱になったりしていたじゃない。
それに、やたらと個人情報に過敏になったり、35種類以上ものハラスメント用語など作り出してギスギスしていたじゃない。匿名での嫌がらせや、親が我が子にしてしまう虐待、それにお金のせいで詐欺的文化の横行‥‥。

これらは気が付かないかもしれないけど、みんな個人主義が生んだ精神的な病理が作り出してるものなんだ!

それこそ、狭い固定観念の中で、とんでもなく窮屈な錯覚の中を生きていた証拠なんだ!



12.分身主義の見ている視点

神経系が見ている錯覚、つまり、この身体の内側が「自分」だと信じていたのが、今までの「個人主義的な視点」だと言ったよね。

それは自然界から見たら、まったくの思い違いで、狭苦しくて、個々を分断してしまう錯覚だったんだ。

だから、むしろ、常に傲慢なくらいに自分を鼓舞(こぶ)していなければ生きていけなかったんだ。

例えて言えば、人間界という大海に放り込まれて、溺れないように手足をバタバタさせているようなものだったんだ。もちろん本当に溺れてしまう人もたくさんいた。


では、科学が自然界様に教えていただいた視点、つまり、内側だけでなく外側も全部が自分だと知った「分身主義的な視点」はどういうものだろう。それは常に自然界と一緒に歩む、とても謙虚なものなんだ。
こちらを例えると、自然界という大海に、この身体を仰向(あおむ)けにゆったりとゆだねて気持ち良く浮いている状態だ。


僕たちは、《環境》に動かされているだけだったと言ったよね。
《環境》とはビッグバンから始まって140億年間途切れることなくつながっている全てのことなので、もちろん先祖代々続いている「遺伝」も環境に含まれる。

と言うことは、君が大好きなスーパースターや憧れているアーティストと同じ《環境》で生まれ、同じ《環境》で育っていたら、顔も身体も性格も、そしてその後の人生も、その人そのものになっていたという意味なんだよ! 

すごいでしょう!?

その逆に、君が大っ嫌いな人や犯罪者と同じ《環境》で生まれ、同じ《環境》で育っていたら、その人そのものになって犯罪を犯していたということ。

これは思考実験しかできないけど、嘘みたいな本当の話なんだ。

《環境》に作られ、《環境》に動かされているというのは、そういう意味なんだ。

だから分身主義は、次のような考え方をする。

一人の人(一人の分身)が、すべての《環境》に身を置くことはできないから、英雄は自分たちと違う《環境》で、自分たちの代わりに英雄になってくれた分身として誇りに思う。

そして、犯罪者は自分たちの代わりとなって、その《環境》の被害者として、犯罪を犯してしまった分身として、謝罪の気持ちと共に彼を助けるための手をさし伸べようとする。本当の自分(全身)が救われるためにね。

それだけでなく、分身主義は、今まで「自分」と信じていたものも「みんなの分身」と考える。みんなの代わりに自分にしかできない《環境》に身を置いて、その《環境》を生きてあげていると知って、そんな自分という分身を誇りに思う。

たとえ今の自分が格好悪くても惨めでも、それもみんなにはできない《環境》を、みんなの代わりに生きてあげているんだ。そう思って、どんな自分も誇りに思うんだ!

これは個人主義の「自尊心」や「誇り」や「尊厳」などとは全く別のものなんだ! 
そんな古臭い個人的な「自尊心」や「誇り」や「尊厳」など捨てちゃえ!
そんなもの、嘘の自分を守るための、嘘の鎧(よろい)でしかなかったんだ!

その代わりに、全ての人間を自分の分身として「プラウドし合う(誇りに思い合う)」分身主義の「自尊心」や「誇り」や「尊厳」を持つんだ!

これこそが、科学が導いてくれた分身主義の視点なんだよ。
だから分身主義は、嫉妬や羨望や恨みや怒りなどという争いを起こす元がすっかり消失した世界なんだ。

そして、これを基点として世の中のことを見て行くと、いろいろな科学的真実(自然界の真実)が見えてくるはずだ。今まで僕たちは、どんなに自分中心の歪んだ価値観に左右されていたかということがわかってくるはずだ。


今はまだ、この分身主義の視点ばかりで世界を見ることは無理だけど、頭の隅に入れておくだけでも、僕たちを取り巻く環境は少し変わるはずだ。そして少し変われば、勢いさえつけばあっという間に《環境》がガラリと変わることも夢じゃない。

ちらほらと咲き始めた桜が、あっという間に満開になるようにね。
世界中に桜が満開に咲いている景色を想像してみてほしい。
何て素敵なことなんだろうね!

そしてその桜の下で、世界中の人たちが、みんなで楽しめる活動をする。それが本当の仕事というものなんだ。仕事とは本当はみんなで楽しむための活動を見つけたり、助け合うことに喜びを感じながらする活動のことだったんだ。お金に心まで支配されてすることなんて、少しも人間の仕事とは呼べないものだったんだよ!


そんな分身主義の見ている未来はお金に頼らなくてもやっていける社会。みんなが助け合うことに喜びを感じる社会だ。(未来モデル小説『ブンシニズム・ドット・ネット』)

本当にそんな世界は夢なんかじゃない。
みんなが古い感覚から脱皮して、本当の「自分」を生きればいいだけの話なんだ。

分身観2





【*補足】

人間の行動のメカニズムを知っていただくために、人間の身体の内部に張り巡らされている「神経系」の働きや「筋肉」の働きを説明します。

ここからは、ちょっと普通の科学の本や雑誌には書かれていない分身主義的な視点も取り入れてお話ししますので、こんな知識はわかり切っているという人にも読んでいただきたいです。
でも簡略化して書きますので、もっと知りたい人は『人類の育てた果実(自分探しの旅の果てに)』をご覧ください。


まず、僕たちの脳が何らかの活動をするためには、外部から刺激(情報)が与えられる必要があります。それには次の三つの経路が考えられます。

【脳を取り巻く環境から入ってくる3種類の情報】
❶遺伝情報
❷身体内部からの情報
❸五感を通して入ってくる外部からの情報


それでは一つ一つ見て行きます。「❶遺伝情報」は脳を取り巻く情報と言うより、脳を作っている情報と言えます。

僕たちの身体は、元々は受精卵という一つの細胞ですが、それが何十兆個にも細胞分裂することで作られていきます。
その一つ一つの細胞に書かれている遺伝情報‥‥つまり設計図は一緒なのにもかかわらず、あるものは心臓の細胞になり、またあるものは目の細胞になり、そしてあるものは脳の細胞‥‥などになります。これを分化と言います。

細胞分裂2



分化が起こる原因は、その《環境》に合わせて遺伝子の発現を制御する調節因子タンパク質が働き、その指令に従って分化すると考えられています。

このことから、脳は「遺伝情報という環境」の中に生まれている現象の一つであるという見方もできます。脳という物体が現象だなんて変な言い方ですけど、この考え方は間違えではないんですよ。一時的に現れては消えていくものという意味で、現象という見方もできるのです。

また、僕たちは、お父さんとお母さんの遺伝情報だけを受け継いでいるわけではなく、僕たちの祖先の祖先のそのまた祖先の、人類出現のもっと前の生命誕生の遺伝子から、途切れることなくその遺伝情報をずっと受け継いでいるんです。

いや、もっともっと遡(さかのぼ)ることもできます。

実は、僕たちは、約140億年前にこの宇宙が誕生した時に存在していた「素粒子」という情報を受け継いでもいるんですよ。

次に「❷身体内部からの情報」です。これも脳から見たら「脳を取り巻く環境」になりますよね。例えば、お腹が痛いとか、肩が凝ったとか、あるいは、おしっこがしたいとか、のどが渇いたとかですが、これらの情報が脳に到達して薬を飲もうとか、湿布を張ろうとか、トイレを探そうとか、水を飲もう、などの判断をするわけです。



最後に「❸五感を通して入ってくる外部からの情報」ですが、これが今回、取り上げたかったものです。

五感とは、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のことで、見たり、聞いたり、触れたり、味わったり、嗅いだりするもののことです。
いわゆる神経系が司(つかさど)っている情報のことです。
(第六感と言われるものは、科学ではまだその原因が解明されていないので、ここでは触れません)

神経系というのは「中枢(ちゅうすう)神経」と、「末梢(まっしょう)神経」に分けられます。

「中枢神経」とは脳と脊髄(せきずい)のことで、全身から情報を集め、全身に指令を出す働きをするものです。そして、身体の各部と中枢神経をつなぐ配線にあたるのが「末梢神経」です。

画像5


この身体を取り巻く《環境》から、目、耳、皮膚、舌、鼻などの入力部が以下のような刺激を受け、その刺激が「電気信号」に変えられて脳に送られていきます。

・目が受け取る刺激は、光の粒子など。
・耳が受け取る刺激は、空気の振動など。
・皮膚が受け取る刺激は、何かが触れる感覚など。
・舌が受け取る刺激は、食べ物の中に含まれる味の成分など。
・鼻が受け取る刺激も、匂いの分子、つまり空気中に漂う化学物質など。


それぞれに「‥‥など」と書いている意味は、例えば目が受ける刺激は「光の粒子」だけでなくて、例えば風圧や湿度や温度などの刺激も受け取るからです。つまり、別に目は物を見るために進化したのではなく、たまたま進化の過程で特定の物質に強く反応する器官になっただけだからです。人間だけがそれを、目は物を見るために進化したなどと解釈してしまうんですね。

ついでなので、他の科学の本や雑誌にはどこにも書いていないことを書いておきます。僕たちの遺伝子というのは時々コピーミスを起こします。それが突然変異というものです。

そして、その変化が、引き継がれたとしても引き継がれなかったとしても、どちらもその時の《環境》にたまたま適応しただけです。

そのように、たまたまその時の《環境》に適応しながら僕たちの器官は作られてきたのですが、それを別に不思議がることはありませんよ。自然界というのは、手当たり次第に何でも試してみるものなんです。そこに意味も目的もありません。

意味や目的を考えてしまっては宗教になってしまいます。「自然界のふるまいは手当たり次第に何でも試すだけであって、そこには意味も目的もない」という考え方をするのが科学的ということです。

だから、目が物を見たり耳が音を聞いたりすることを特別不思議がることはないのです。あまり不思議がって何らかの目的があるに違いないと想像力を働かせるはその人の勝手ですが、それをしてばかりいると、いつまでも世界は一つにならないし平和にもならないのです。
脱線しましたが、科学を行う以上、一番避けて通れない基本的な心構えなので書いておきます。


話を先に進めます。

この「❸五感を通して入ってくる外部からの情報」が電気信号に変換されて脳に届いた時初めて、その刺激がその人にとってどのような意味を持つものなのか認識されます。

例えば右手で左手のどこかをつねってみてください。
今つねった所が痛いと感じているはずですが、本当は痛いと感じているのは僕たちの脳なのです。
その証拠に、脳の中の、左手に対応している部分が壊れると、つねっても痛みを感じないし、焚火(たきび)をしていて左手を誤って焦がしてしまっても熱さを感じません。

逆に、事故などで腕を消失してしまっても、それに対応する部分が脳に残っていると何年も腕の痛みに悩まされてしまったりします。

同じように、目や耳や鼻などは単なる入力部であって、それらが見たり聞いたり匂いをかいだりしていたのではなくて、それらの情報は全て、脳の中にその場所に対応している部分があって、その部分と《記憶》や《言葉》との相互作用によって何かを感じていると言えます。

下図は、「❸五感を通して入ってくる外部からの情報」が、電気信号となって脳内の神経細胞(ニューロン)にやってきた図です。

シナプスの働き


この図の神経細胞と神経細胞の接続部が、拡大図で示している「シナプス」と呼ばれている場所で、そこのわずかな隙間(すきま)が「シナプス間隙(かんげき)」です。ここで電気信号は、一旦、神経伝達物質と呼ばれている化学物質に変換されて伝達されます。

今では、この神経伝達物質が、僕たちの心の状態、悲しいとか恐いとか怒りとかの感情や、意欲などに関係しているとわかっています。「ノルアドレナリン」や「セロトニン」や「ドーパミン」など、現在100種類ほど発見されているようですよ。

シナプスで一旦化学物質に変換されて伝達された刺激は、また電気信号に変換されて一方通行の原則を守り次の神経細胞に伝えられ、次の神経細胞と神経細胞の間で化学物質に変換され‥‥と同じことを繰り返して、それぞれの刺激が脳内の対応すべき場所に到達します。


そして脳内の対応すべき場所に刺激が到達すると、それはその人の脳内に作られている「記憶」や「言葉」などによって、その刺激がその人にとって何を意味しているのかを認識したり、それによって思考や意思(意志)が生まれ、行動を起こしたりするための命令を脳が発信します。

脳から発信された命令も、やはり同じように、電気信号となって例えば筋肉に届き、僕たちは何かを喋ったり、コーヒーカップを掴んだり、ボールを蹴ったりしていたのです。

今、かなりかいつまんで説明してしまいましたが、科学者やお医者さんになるつもりでないなら、十分大事なことは書いたつもりです。(もっと知りたい方は『人類の育てた果実(自分探しの旅の果てに)』を見てください)

脳を取り巻く《環境》から受けた刺激は、それぞれの脳の対応すべき場所に運ばれると言いましたが、そこに作られている「記憶」や「言葉」などを介して、その人にとって何を意味しているのか認識されます。
単なる「刺激」が、脳に届いた時点で、その人にとって何らかの意味を持ったもの、つまり「情報」に変わるわけでしたね。

で‥‥、ここが重要です。

今、脳内に作られている「記憶」や「言葉」と言ったけど、これってやっぱり《環境》が作っているものですよね。

みんなが自転車に乗れるのだって、小脳の「記憶」と関係しているのだけど、その前に、この《環境》に自転車があったからですよね。江戸時代の《環境》に生きていたなら自転車に乗れるようにはならなかったはずです。

また、「言葉」に関して言えば、みんなの生まれた環境にたまたま日本語があったから、日本語を「記憶」してそれを話すわけですよね。


ここまでいろいろ話してきましたが、簡単にまとめれば、僕たちは脳を取り巻く環境のおびただしい情報の中から、自分が関心を持った情報だけを取り込み、そうでない情報は排除し、そして取り込んだ情報は電気信号となってひたすら脳を目指します。そしてそれが脳内に「記憶」を作るということです。


ここまでの話のまとめとして下図に表示します。

環境からの情報3


人物を取り囲んでいる白い半円形は、自我(これが自分という存在であると自分で思い込んでいるところのもの)です。
脳を取り巻く環境にはおびただしい刺激(情報)があるわけですが、自分が関心を持たない情報は取り込まないので、それを跳ね返していることも表しているのがわかりますか?

取り込んだ情報は電気信号となってひたすら脳を目指します。そしてそれが脳内に「記憶」を作ります。

もう一度先ほどの図を見てください。脳の真ん中に大きく「記憶」と書いてあるでしょう!?




次に「記憶」とは何かを見て行きます。とても重要ですよ。

ちょっと今、あなたが、過去の記憶も現在の記憶もなくなったと想像してみてください。何かを見たり聞いたり感じ取ったりすることができるでしょうか。

記憶がなくても、五感からの刺激はあるレベルを超えれば確かに電気を発生させ、次から次へとその電気信号は伝わって脳にまで到達するはずですが、それで終わりです。記憶がなければ、その刺激は単なる電気信号の伝導で終わりです。

「記憶」があるために僕たちは物を「認識」し、何かを「意識」し、「意欲」を持って行動できるのです。

ではこの「記憶」とはどのようにして作られるか見て行きます。

神経細胞と神経細胞の接続部分にあたる「シナプス」に、同じ刺激や強い刺激が加えられると、その部分が大きくなったり数が増えたりして、情報が流れやすい回路を作ります。その回路というのは、古代ギリシャの人たちが夜空の星々に星座を描いたことをイメージするととてもわかりやすいですよ。

下の図は有名なオリオン座です。古代ギリシャの人たちは、この一つ一つバラバラの星をつなげて右図のようなイメージを描きましたね。
この星々が脳内の一つ一つの神経細胞で、回路というのは星座に当たります。

オリオン座


古代ギリシャの人たちがそこに壮大な物語を見たように、人間の「記憶の回路」というのは、このように感情を伴ったものなのです。
なぜかと言うと、先ほどのシナプスまで伝わってきた情報は神経伝達物質という化学物質に、一旦、変換されましたよね。それは僕たちの心の状態、悲しいとか恐いとか怒りとかの感情や、意欲などに関係していると言ったのを覚えていますか?

「記憶」とは、「感情を織り込んだ回路のようなもの」と覚えてください。

実は、この「記憶」こそが、あなたが何かを「認識」する基礎を作ってくれていたのです。
「記憶」というものがなければ、僕たちは物を「認識」したり、何かを「意識」したり、「意欲」を持って行動したりできない、と言いましたよね。

その人の脳内に作られている「記憶」というものが、「枠組み」となって理解を助け、そして記憶に張り付けた名前(物や動作や感覚に付ける名前)が日本語の文法という「ベルトコンベアー」に乗って思考や言葉を組み立てたりしていたのです。

今、「枠組み」や「ベルトコンベアー」と言ったけど、「枠組み」というのは、例えば経験や社会から学んだ常識のようなものです。
「ベルトコンベアー」というのは、物を組み立てる流れ作業に使われるもののことで、記憶された名前(物や動作や感覚に付ける名前)を文法という方向性を持ったものに乗せて思考などを組み立てる状態を意味しています。

物や動作や感覚に付ける名前というのは次のような意味です。

物に付ける名前:リンゴ、鉛筆、犬、星‥‥
動作に付ける名前:走る、寝る、食べる‥‥
感覚に付ける名前:暑い、可愛い、おいしい‥‥

記憶に関してのここまでの説明を、わかりやすい図にしましたので見てください。

記憶の枠組み


上図の左の『経験、常識の枠組み』の説明。
生まれて初めてバナナを見た人は、当然これが何かはわかりません。バナナを見て、これはバナナだと認識するためには、自分が生きてきた環境の中に、この黄色く細長い物体が存在し、また「バナナ」という名前が存在し、剥いたり食べたりする経験が必要です。そしてそういったものが積み重なって常識が作られ、何かを判断する基準となります。

もちろん脳を形作る遺伝情報も、何かを認識したり判断したりするための「枠組み」となるのは言わずもがなです。

上図の右『日本語の文法というベルトコンベアー』の説明。
「あれは僕の好きなバナナだ」この並びは日本語の文法ですが、英語だと「あれ・です・バナナ・僕・好き」となるわけです。もちろん英語圏の人はその並び順で思考をしているわけです。
「食べよう。いや今はやめとこう。これから家族でお寿司を食べに行くんだった。お腹を空かせておかなければ」というような思考も、僕たちの生きてきた環境の中に日本語が存在していて、それらを並べるベルトコンベアーが脳の中に作られているからこそできるのです。これも記憶のおかげです。

それがなければ思考はできず、ただ猿のようにバナナに飛びついているだけですからね。


ここまでのまとめとして、結局、僕たちの「記憶」とは、全部その人の脳を取り巻く《環境》が作っていた、ということです。

最後に脳から発信された命令が筋肉に届いてどのように筋肉は動くのかを説明します。


まず、筋肉は「骨格筋」と「内臓筋」と「心筋」とに大別されます。


骨格筋というのは腕力とか脚力を司(つかさど)っている筋肉のことです。

これは、筋線維(きんせんい‥‥筋繊維とも表記します)という細長い細胞が多数束ねられた物です。
この筋線維はそれ自体が伸び縮みしているわけではなく、それを形成しているアクチンというタンパク質とミオシンというタンパク質からできた太さの違う繊維が、注射器のピストン運動のように滑るようにして伸び縮みしていたのです。

実際には筋は伸びることはせず、収縮するか、収縮しない(=弛緩する)か、だけです。

アクチンとミオシン


さて、筋肉がどうして動くかと言うと、まず脳から発せられた「収縮しろ」という命令が電気信号となって神経を伝わると、筋肉を包み込んでいる膜にあるセンサーがその電気的刺激を感知します。

すると「カルシウム放出チャンネル」というものが開かれ、筋小胞体という袋に蓄えられていたカルシウムイオンが筋線維内に流れ出します。

その流れ出したカルシウムイオンがミオシンにあるトロポニンというタンパク質と結びつくと、アクチンが引き寄せられ、筋肉が収縮を始めます。

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逆に、筋小胞体という袋にカルシウムイオンが回収されると筋肉は弛緩し、元の長さに戻ります。

では、実際に試してみましょう!

「右腕を曲げてみてください!」

あなたが今この言葉を聞くと、つまり、あなたの耳という受容器が言葉という音の振動を受けると、その刺激を電気信号に変えて、脳内の聴覚野や言語野に到達して、意味を持った「言葉」として認識します。

すると、あなたの脳内に「右腕を曲げよう」という意志が浮かび上がり、それが電気信号に変換されて運動神経を通して右腕に伝わり、あなたの右腕の力こぶのできる部分の筋肉(上腕二頭筋)の筋線維内にカルシウムイオンが放出され、ひじが曲がるわけです。

この時、力こぶのできる反対側の筋肉(上腕三頭筋)は弛緩します。ひじを伸ばすと、反対に上腕三頭筋が収縮し上腕二頭筋が弛緩します。

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もしあなたが「右腕を曲げてみてください!」と言われても右腕を曲げるのを拒否したとしたら、それはあなたの「自由意志」を行使したことになるのかと言うと、そうではありません。あなたが拒否したからにはそれなりの原因があったからですよね。やはりあなたはその「原因」に操られて拒否的行動をとらされていたのです。


ちなみに、最初に「筋肉は骨格筋と内臓筋と心筋とに大別される」と言いましたが、内臓筋や心筋の収縮もカルシウムイオンによるものです。ただ、そちらの方は、引き金となるのは中枢神経からの電気信号ではなく、自律神経系やホルモンによる刺激です。


さて、人間の身体の内部に張り巡らされている「神経系」の働きや「筋肉」の働きを説明してきました。


最後に、これらの研究が得た結論が正しかったことを証明するすごいものが発明されました。それを紹介して終わります。

それは、「筋電義手(きんでんぎしゅ)」(正確には筋電制御前腕義手)という名称の義手です。筋線維が収縮活動するときに出される活動電位を「筋電位」と呼びます。

筋電義手は、この時の筋電位を、切断された腕の皮膚表面から検出して、その信号を義手に伝えて、義手内に組み込まれている電動モーターを動かし、義手の指や手首を動かすというものです。

筋電義手


上図は、手首から先がない人に装着する義手なんですが、それはカパッとはめるだけで、一切、神経や電流コードを用いて人体側と接続しているわけではありません。

ところで筋電義手には、皮膚の触覚、圧覚に相当するフィードバック装置も装備されています。(③④)
これは圧力センサーを義手内部に配置しておき、指が物にふれるとそれを検出し、電気パルス信号に変換し、表面電極により残存断端部などから皮膚を介し、電気刺激として脳へフィードバックするものです。

フィードバックとは、行動や反応をその結果を参考にして修正し、より適切なものにしていく仕組みのことです。

僕たちは自分の指で玉子をそっと割らずにつかむことができます。
何でもないことのように思いますが、これは皮膚感覚情報をフィードバックさせつつ学習した結果なのです。

学習後はフィードフォワード制御(次に発生するであろうことを予期して対応する)を行なっていますが、常に視覚フィードバックがあるから、割らずにつかめているわけです。何気ない動作も、結構高度なことをしていたんですね。


義手の感覚フィードバックは、そのほかにも大切な意味があります。
それは使用者が義手との一体感を獲得するのに、非常に役立っています。

日常動作において、僕たちは皮膚感覚をそれほど意識していません。でも情報は絶えずフィードバックされています。
義手の場合も同じで、機械である義手から絶えず情報が送り返されていることにより、一体感が強まります。
その結果、義手の重量も実際ほど重く感じなくなるそうです。

筋電義手が脳から送られる微弱な電気信号で指を動かすことができるということは、まさしく、人間は電気仕掛けで動いていたロボットのようなものだったということを証明してくれたということです。

僕たちは、この宇宙万物や世界中の人が作る《環境》に動かされていた電気仕掛けのロボットだったのです。


それでは、この【*補足】のまとめです。
人間の行動のメカニズムを知るために、人間の身体の内部に張り巡らされている「神経系」の働きや「筋肉」の働きを調べてきました。それによると、人間が行動するメカニズムは次のような流れでした。

【1】脳を取り巻く《環境》から、何らかの刺激(情報)が入力される。
【2】その刺激(情報)が電気信号に変換されて脳の対応する部位に届く。
【3】脳内に蓄積されている「記憶」や「言葉」との作用により、その人なりの反応をする。この反応の一つが、その人の【意志】と言われていたものである。
【4】その反応(=意志と言われていたもの)が脳から電気信号になって発信される。
【5】例えば、「指を曲げよう!」という電気信号が指の筋肉に届き、カルシウムイオンが放出され、筋収縮が起き指が曲がる。そのよううにして我々はしゃべったり動いたりしていた。

今回は「人間には自由意志などなかった」という話なので、この中の【1】【2】【3】の過程が見落とされてはいけない一番大事な部分でした。【1】【2】【3】の過程が、その人の脳に「意志」を作るからです。それなのに、ほとんどすべての研究者が、この一番大事な部分を見過ごしています。

研究者は、まるで自分の中から、突然、その研究の興味が湧いたかのように【4】から始まったと錯覚しています。彼らにとってはノーベル賞は自分の功績だと思っていますが、実は《環境》から浮かび上がらされた「意志」にやらされていたのです。つまり、この《環境》を作っている世界中のみんなに背中を押されていたのです。いわば世界中のみんなの功績でした。

人類がこの事実を受け入れるか、それとも威厳を保つために、事実を突っぱねるか、人類の未来がそこにかかっていると言ってもいい程の重要な部分です。

人類が、自らが創作した童話『裸の王様』にならなければいいのですが‥‥。

『裸の王様』と言う物語がありますが、今は、自分の裸に気づかない民衆が、裸の王様を指差して笑っているようなものです。自分の本当の姿を知らないのです。

科学者は自分の「意志」で研究をしているように思い込んでいますが、実は、《環境》に浮かび上がらされた《意志》に、研究をさせられていた、ということを早く公言してください。みんなに教えてください。これが科学が教えてくれた事実だからです。

これからの科学者は、その気持ちを忘れずに謙虚に研究を続け(させられ)、しかも我々に、科学が発見した「人間は自分の自由意志で行動しているわけではなかった」という、その事実を教えてくれることが大事です。

科学者とは、自らの煩悩(ぼんのう)と闘いながら研究を続け、我々を導いてくれる修行僧のような方たちでなければならないからです。

以前、オリンピックで金メダルをとった人が、テレビのインタビューに応えて、「自分の力でここまで来たというよりも、多くの人が背中を押してくれた力でメダルをとれたような不思議な気がします」と言っていたのを聞いて、心の中で「その通り!」と叫んでいました。これが謙虚というものだと思うのです。

そして謙虚とはつながることです。

今回の記事でそれを感じていただければ嬉しいのですが。




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長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。