もう立春らしい、焦る。

「空の明るさから春が感じられますね」

そう気象予報士が街の写るモニターの前で言った。いや、そんなわけないやろ。と思わず心の中で小さなつっこみを入れるが、いや、気象予報士が言うんだから間違いではないのか。ああ、よく観ると確かに春っぽいかもしれないな、と自分のつこっみに冷静に対処する。

調べてみると、立春とは「冬が極まり春の気配が立ち始める日」のことらしい。

誰かに言われなければ何もわからない僕と違って、誰にも言われずとも小さな声が聞こえる澄んだ感性は見習いたい。

春という言葉を目の当たりにすると焦ることが多い。確かに次は大学4年だというのにちゃんとした就職活動は出来ていないけれど、それは今年だけの話で毎年毎年この時期には焦りがやってきてしまうのはどうしてだろう。

そもそも春は進学や卒業、就活、引越と安定を脅かす事柄が多すぎるのだ。

中学生の頃、別に虐められている訳でも無いのに僕はずっと教室に馴染めなくて、週に3日ぐらいは学校を休んでいたことがある。勉強と運動どちらとも苦手な人間にとって中学校というのは残酷な空間だ。週に2日は学校に行ってはいたものの昼までは授業を受けてその後は保健室で過ごし、週に一度は早退をする。そうして親に叱られ、もうこのまま部屋から出られない人生が延々と続くのだろうかと不安になる。

だから春休みになると、来年度こそは学校に行かなければ上手く生きていけないと焦り出す。そして、上手く学校で過ごせるようにと頭の中で上手くやる練習をする。

それでも世は厳しいもので、昨日今日できないことがいきなり明日できるようになることはほとんどない。焦っても焦っても、焦りは何も生んではくれないのだ。

今思うと、学校に行かなかったことは別に間違いではないけれど、家で勉強ぐらいすれば良かったと思いつつ、それで勉強が出来てれば毎日通えてるよなと思う。

進学や卒業、就活、引越、それらは全て現状を変える出来事だ。何かを変えたい時に人はどうしようかと焦る。だから「焦り」は変えたいことがあることを心がただ証明している行為なのかもしれない。

「焦り」への対処法は「焦り」を原動力に何かを実行するのではなく、「ああ、焦ってるなー、なんか変えたいんだろうなー」と思うぐらいが良い塩梅なのかもしれない。

古性のちさんは「立春」は「春の誕生日」とツイートしていたけれど、そう捉えると焦りとかよりもただ綺麗だと思ってしまうことが不思議だ。

小さな事象を美しく捉えられるようになりたい。

──

よく考えてみるとこの頃、鼻はむずむずしてきたし、くしゃみだってでるから身体はしっかり春を聞き分けていた。目だって痒い。

(2分過ぎて立春には投稿できなかったけれど、焦らない)

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