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『胡蝶の夢』を自力で考えるお話。|『哲学閑話』。長ーッ

『胡蝶の夢』

以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。これが物化(区別すること)というものである。

訳文:胡蝶の夢

中国の古代思想家であるズァン・ジョウ(莊周、紀元前369年頃~286年頃)の「荘子」にて語られた、知名度の高い逸話が『胡蝶の夢』
誰もが聞いたことがある逸話として日常会話の一幕にすらポッと現れたりする。

この話を今日はどういうわけか徹底的に考えたくなった。

といっても、参考文献を細かく読み漁るほどのリソースはないから、自分の頭のなかでこねくりまわすことにする。おそらく浅学も浅慮もバレてしまうが、それでいい。「今の私の理解度」を記すことで、自分の恥や外面を表在化させることが目的だから、覚悟の上で執筆する。




※注意書き

※※非常に長いです※※
※今回は珍しく、あんまり読ませる気のない記事になっています!
※それでも良いよ!って方はこのままどうぞ。
※めくるめく猫暮の脳内リトル・ジャーニーへ、いってらっしゃいませ!



まず「胡蝶」といった単語は、理解しやすいように「蝶」と示す。
それから三人称と一人称、両方の視点から観察・観測をしたいので「私」は「猫暮」、「荘周」は「荘周」として個別に扱うものとする。

この話を3つのセクションに分断して、それぞれのポイントを抜き出していく。おそらく、私の思考パターンからすると「本質はどこにあるのか」といった形而上学的な観点から俯瞰することになりそう。

1つ目は、「荘周」が「蝶」になった瞬間からその後。
2つ目は、「蝶」から「荘周」に戻った瞬間。
3つ目は、「蝶」であったことを夢だと悟った瞬間からその後

それぞれ見ていこう。

1️⃣「荘周」から「蝶」なった瞬間。

夢の自覚とは、まずどこから発生するか。
眠らなければ夢は見られない。広義的には起きたまま見る白昼夢もありえるが、意識をシャットアウトしたその後の「転換点」を認識することなく、いつの間にか自分が「蝶」になってる事に気づいた、というのが物語の導入だろう。

この時点で「人間の荘周」としての記憶は保持もされていないし、記憶は機能もせず、同様に経験も来歴も全てリセットされた蝶として、同時に人間としての複雑性に富んだ感情も一極化する。その証拠に「蝶」は「自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っている」。
だが、この楽しいという感覚や、蝶にもかかわらず思考するという感覚が備わっているのは、果たして人間だったころに培った残滓が内包されているからなのだろうか。蝶にそんな不揮発性のメモリが内蔵されているとは想像し難いから、どこか「荘周」が残っているような「蝶」になりきれていないような不自然さを感じる。

「自然的な行いを自然的に振る舞う」というのは、人間としての残滓が「自然を演じようとしている」からそう見えるのか。それとも生物がはじめて地球に生誕した時以来の遺伝子的なインプットによって、与えられたプログラムに従ってきっちりと「蝶」の行動を機械的になぞっているからか。どちらかによってそのニュアンスが変わる。

そもそも「蝶」という生態をまずイメージできなければ、夢といえど「蝶」は再生されないのではないか、という疑問もある。

例えば、これが異形の怪物であったらどうだろう。それは特定の個体を持たないUMAのように泡沫な存在として、その自然的な振る舞いが如何なるものかは、想像が難しい。現代において、ゲームの世界やファンタジーなどでヒグマのように破壊と捕食を繰り返す異形の姿を想像しやすくなったが、それらの動機は人為的で機械的で、とても自然に則したものとは言い難い。

時に、異形の登場のそれ自体が呪いや天啓として受け取られることもある。
陰陽師にたびたび登場する『ぬえ』という妖怪を想像してほしい。それらは異形ではあるが、それぞれ何かしらの認識可能な動物のパーツを組み合わせた妖怪だ。
猿の顔、タヌキの胴体、トラの四肢、ヘビの尾。当時の時代背景ならば十分に想起可能な異形として成り立っている。同様に神や仏の姿は、どうしてか人の姿としてカタチどられているので、十分に想像可能な範疇に収まる。これは実世界での呪いや天啓(病気や祝福)の抽象度が高すぎる為に、具体性の高い異形を想起されやすい。そんな時代背景からくる共通認識だったからではないかと考えている。

現代においては、呪いや天啓の謎はすっかり解かれて、むしろ想像上の異形度は現代に近づくにつれて増していくことになる。過去の者より、今の私達ははるかに抽象度の高い異形を扱えるようになっているのだ。

このことから、人が夢想できるものは、真理や本質でもなんでもなく、記憶の中枢に眠るイメージの想起にすぎないのではないかと思う。つまり、自然的な振る舞いとは、真に自然的な事を意味するものではなく、自己都合に限りなく近い認識であり、既存のイメージの組み合わせから脱することのない仮想存在的な投影にすぎないのではないか、といった答えを一つ提示したい。

少し話を戻してみる。その仮想存在の投影は限りなく機械的にプログラムされた動作に近いだろう。果たして太古からの遺伝子によって脈々と受け継がれてきた、生命の神秘の忠実な再現が行われているかというと、恐らく個人の主観がだいぶ介入している。
つまりこの胡蝶の夢は、そういった神秘や本質性を「区別(物化)」ができていない。それどころか脳内のストレージに保管されている「自分の想像する蝶」と限りなく「同化」してしまい、自分の想定範囲内の動きを繰り返すのみとなっているのだ。

「心行くままにひらひらと飛ぶことが気持ち良い」のは、自然のあるべき姿に還ったから気持ちがよい、といった超自然的な感覚ではなく「元々自分のイメージ内に備わっていた、再現可能な気持ちよさを反芻しているだけにすぎない」といった解釈が正しく思える。

これらのことから、胡蝶の夢の話を、例えば人間が生物として矛盾した生き方をしていることの批判や、自然回帰主義的な説得の題材として持ち出すことは、不適当だと私は思う。

どちらかといえば、人類がデジタルネイチャーへ邂逅しつつある思想的変化、生体的変化に着目すべき話であって、近い未来、わたしたちが異形の完全再現すらも果たせるようなイマジネーションの圧倒的広がりに視野を向けるような話ではないだろうか。ちょっと落合さんにお話を伺いたいくらい。

2️⃣「蝶」から「荘周」なった瞬間。

目覚めた「荘周」は、一瞬自分の認識がどちらなのかわからなくなると述べる。「蝶」が夢を見て人間になったのか、「蝶」という個体を「荘周」が作り出したのか、そんなことを逡巡する。

蝶の意識の分断はまずどこで起こったか。蝶も人と同じように眠る生態があることから、きわめて同化した考えに従えば、同じように眠った瞬間が意識の分断なのだろう。
だが、蝶から「荘周」への切り替えは意識の間もないほどにシームレスに描写されていることから、夢の終わり=死といった可能性も捨てきれない。蜘蛛の巣にひっかかり見る間に捕食されたか、猛禽類にたまたまハンティングされたか、それか幼子の振り回した棒の運悪くあたってしまったのか。

ふいの終わりが、「荘周」を夢から引き戻した、あるいは既にこの世にない「蝶」の残留思念が死後の世界を見せているか。超自然的な考えに従えば、そういった詩的な表現に身を任せることもできるが、前項でも述べた通り、「荘周」は自身に「同化」させた蝶を振る舞っているだけの可能性が高い。よって単純に、レム睡眠の切れ目がそのまま場面転換につながっているのだろう。

ここまでは蝶に思考能力が存在しないという前提で話を進めている。「荘周」の認識からすれば「自分は蝶かもしれない」という悪魔の証明的思考に至る理由はよく分かる。しかし、思考している時点でどうしようもなく人間である「荘周」が主体となっていることは自明だ。
仮に、本当に「蝶」が「荘周」を認識できていたとするのであれば、それこそ超自然的なネットワーク(多数の虫や植物が人類に及ばない未知のコミュニケーション手段で、それぞれの認識を共有している)が存在し、それらの綿密な情報収集を通して「荘周」という個体を可能限り再現しつくす必要がある。
そもそも自分が「人間」である可能性を、「蝶」の「荘周」がなぜ思考できるのだろうか。

ここで一つの矛盾。
「蝶」は心ゆくままにひらひらと飛んでいる。つまり外界の他に存在するよしなし事に、圧倒的なまでに無関心だ。もちろん「荘周」が「蝶」のなったときの描写をサボっている可能性も否定できないが、「蝶」はひらひらと飛ぶこと一点に没頭しており、明確に「その他の認識」は乖離しているのだ。つまり、「蝶」の「荘周」には、「人間」の「荘周」が眼中に入っていないのだ。というより、蝶の世界に「荘周」は居ない。分断された世界線での出来事だ。

蝶の存在理由は圧倒的な自己実現だ。受粉し、蛹になり、生まれ、飛び、花々を巡る。そこに思考はなく、遺伝子と多様的進化の一つの枝として試験的なプログラムによって動かされている生物の一つだ。そのプログラムをなぞり「蝶」が己が内の絶対的な欲求を満たしている間は、「荘周」という他者は一切存在しないことになっている。認識のしようがない。
運命論者ではないが、この場合は使命といってもよいかもしれない。「蝶」は使命を全うしているだけなのだ。

そういった観点からすると、「荘周」が認識している「蝶」は極めてデジタル的で同一化している存在でもあって、まるでモニターの中の存在だ。だが「自然な蝶」自体もデジタルに落とし込める一面を持ち合わせているように見える。つまり、蝶の生態は遺伝子的プログラムで説明をつけることができるから、自然的な蝶の振る舞いもまた、デジタルによる予測計算が可能である。すなわち、「自然の蝶」はデジタルであって、「デジタルな蝶」は「荘周」である。そう考えられるのではないか。

胡蝶の夢の核心でもある、万物斉同(ばんぶつせいどう)の考えが、この問いかけをうまく紐解いてくれる。
良しと悪し/生と死/貴と賤。そういった対立し反発する概念は、そもそも人間が作り出した考えであり、真理世界において全ての道は一つの絶対的な道へと続いている事、を示した言葉だ。
これにハッとした。そういえば、「自然は尊いもので、人如きに推し量れるものではない」という絶対的な信頼が私の頭の片隅にベッタリとこびり付いている事に気づくが、自然もデジタルも、結局のところ同じ道に通づる一つの概念とまとめると得心がいく。それこそ「デジタルネイチャー」的な思想に落ち着くのかもしれない。

だが同時に、絶対的な道、というものは思考の帰結をすべてそこに集約してしまう危うさを持った思想とも言える。恐れず言ってしまえば、それこそファシズム的存在論になってしまう。(ファシズム=結束主義、ナチスやソ連の独裁政治にて用いられる用語)
この問題をこのまま放置するのはいささか気持ちが落ち着かないが、次のセクションにて大きく取り扱われる「物化」で言及していくことにする。

3️⃣「蝶」であったことを夢だと悟った瞬間

人間としての自覚を持ち始めた様子だが、この状態は非常に不可思議な状態に映る。
「荘周」、そして「荘周が同化した蝶」、そして「荘周と荘周が同化した蝶」の三者が同じ時間軸に統合されることになる。「荘周」は睡眠という不可避な人間のプログラムに従って実行を起こし、そして目覚めただけで形而上学的な学びを得てしまったのだ。突如として「外的」な要因が発生し、またたくまに「同化」したのだから、これには驚く。

「荘周」の類まれなる観察力や発想の豊かさを褒め称えるべきなのだろうか、それとも「同化」につぐ「同化」を果たしたことで生まれた第三の発想そのものの神秘性を称えるべきか。しかし、この第三の発想、これ自体は明確に「物化(区別)」された知恵であるように私は思える。

「荘周」はこの出来事を通して「考えたところで仕方がない」といった結論に達している。蝶であった己も、「荘周」である己も、カタチは違えど己という認識の中に同化できるものであって、物化(区別)はさして意味のないものだと、どこか遠い目で語っている(ように私は見える)

確かに万物斉同における絶体的な道という発想においては、蝶の違いと「荘周」の違いを論じることに意味はない。しかし、「何のために論じるか」といった点に、この話は一切フォーカスが向いていない気がする。

おそらく、「荘周」がこの胡蝶の夢に無意味性を見出しているのは、「知」に対してあまりのめり込むなよ、という探究心への警鐘なのだろう。
「荘周」のいう「知」とは、文脈から察するに「ひらひらと楽しげに舞う様子」が一つの情緒を伴った「知」として浮かび上がる。「荘周であった蝶」は思考を捨てて心ゆくままに遺伝子学的プログラムに付き従ったが、これを彼が「知」と総称しているのであれば、違和感を覚える。

穿ったモノの見方をしてしまえば、それでは「知」が、偶発的、または自然的な「快楽」に到底及ばない、と結論づけるような雑な帰結を辿ってはしまわないだろうか。

それまでの「知」が学術的な権威を象徴するための「知」であるならば理解がしやすい。細やかな部門の専門性で給与がかわり、都、宮廷をコントロールする力を得られる極めて社会的な欲求という意味であるなら、貴賤も生も死も一緒くたな万物斉同においては、邪道にも程がある「知」なのだろう。

そこから脱する、脱組織化、ある意味で「荘周」がポスト・モダン主義になった瞬間を象徴するエピソードにも思えた。
「荘周」は「知」について、大知は閑閑たり、といった説話を残している。つまり万物斉同的な「知」はむしろ悠々と佇むものであり、知ったからには慌てることも焦ることもない、絶対的な後ろ盾として自分自身のあり方を支えてくれるものだと説いている。

知ったからには、もう論じる必要もない。それこそが物化することを否定する(というより気にしなくなった?)最も中核たる思考なのかもしれない。
胡蝶の夢は「区別することの無意味さを説いた」話だ。「知」を持ったそれぞれが思い思いに幹や枝を伸ばし、それぞれの人生を追究し、何よりも楽しむべき、といった思想が奥底に秘められていることを感じる。

だが最も危険な思想は、この話を一つの帰結に落ち着けてしまい、物語を伝え聞いた誰もが「同化」してしまうファシズム的発想に陥ることだ。
私がなぜ、突然「胡蝶の夢」についてこれほどまでに語り始めたかの理由は、まさしくここにある。

つまりこの物語は、誰かの出した答えにすがるのでなく、自分だけのポスト・モダンを見つけるためにすすんで分解し、構造を理解し、解釈し、同時にそれらをこなした「自分」と「同化」するために必要なのだと私は感じた。

4️⃣幻の4セクション目、「蝶」になった私

ここまで「荘周」にとっての「知」がどんなものか輪郭がつかめてきた。そうして理解した上でこれから述べることは、胡蝶の夢に対する批判でも「荘周」に対する批評でもなく、自分自身が物語をどう解釈したか告げる一つのテストケースであることに留意してほしい。

まず「知」について「荘周」と「私」とでは大きく認識が違う。
「心行くままにひらひらと舞うこと」を遊びであり、それこそが雄大な知に後ろ盾された誇るべき行いである、といった「荘周」に対し、私は「知」について、構造社会への貢献などまったく度外視し、頭の中で秘密を紐解き探求していくうちに巡り合う自己理解を、半径10m程度の小さな世界での旅(リトル・ジャーニー)のように思っているのだ。

「知」を人の営みの中で活用してきた「荘周」は、おそらく卑しい「知」を数多く見てきたのだと思う。いつしか自分の「知」もそういった愚者のために磨かれてきたからこそ、その「知」をいかに手放すかを苦心していたところ、天啓のように「胡蝶の夢」がふってきたことが起源なのではないかと、愚考した。

反対に、私は構造社会からまるっきり切り離された時間で、自分に充てる時間を「知」の探求に使うことに、途方もない喜びを感じる。しかも、これは何も見返りのない、それこそ「蝶を見つめる自分」からすれば、ひらひらと飛ぶだけの時間の浪費にも映る愚行だ。いや、どちらかといえば「人間のまま蝶のふりをする」ほうがしっくりくるくらい無駄な行いだし、蝶の振る舞いをしたからといって金銭の取引も発生しない。

私にとっては「知」は悠々としたものではない。たえず頭の中に巡る濁流から宝物を拾い上げようと必死になるような作業なのだが、これが愛おしいほどに楽しいのだ。


だが、ここまで書いていて、不思議と万物斉同してしまった側面も見当たった。「荘周」にも私にも、楽しむという点において一つ共通している事がある。
それは生き急いでも、死に急いでもいない事だ。自己満足に時間を丹念にかけることにおいては、余念がない。それに「荘周」は晩年においても「胡蝶の夢」を伝聞するために書き残していることが、彼の「知」への執念を如実に表している。なんでもないようなフリをしているが、彼が書にしたためるくらいにはこの物語を伝聞したかったのだ。むしろ、発信力があった彼だからこそ、この「知」の希少性については誰よりも理解していたはず。

そうして現代で「知」のメッセージを受け取った私が、二千年の時を超えて物語を再解釈している。こんな奇跡はなかなかない。過去も未来も、すべては一つの道に通じている。「知」も行き着く先は一つの道なのかもしれないと、思わず納得してしまいそうになる俯瞰性を持っている。

さらに、これは退廃的な主観になってしまうが、現代の「私」は旅をする必要がない。つまり半径10m以内の空間でなんでもできてしまう、「荘周」からすれば全能的な神にも等しくなってしまっている。
パソコン一つで、2000年の時を遡り、地球の反対の風景をいつでも覗け、誰とでもこの瞬間に電話を、コールをかけることができる。

この状態で、動く意味となんだろうか。リトル・ジャーニーをこよなく愛する私はいつもそんなことを考える。
しかし、実際に同じ空間に閉じこもっていると生命の陰りを感じる。人工的な光が一晩中照りつけて、朝も夜もない空間にボーッとおかれると、いよいよ様子がおかしくなる。
だから適度に散歩に出かけたり、土を踏んで、木を見て、夜明けを待ったり。神秘性を求めて神社やお寺、共同墓地の横なんか通ると、何かが体にみなぎる。

そんな時にふと思う。
わたしも「蝶」と何もかわらないんだな。

ただただ心の充足が広がるのを実感し、両足を踏み出すたびことは、翅をひらひらと舞わすことと何一つ違わない。いつしか「知」がどこかへ放られてしまうし、そういった「知」の積極的な手放しも確かに必要なのだと、悔しい思いをさせられることも多い。

だが、同時にこの文章を遺せたことが、はたして無為自然に反することだとは微塵も思わない。それこそ、脳内で発生した疑問や命題に向き合うことは、「荘周」が何よりも嫌う極めて人為的な行いだが、一方で遺伝子プログラムに従った自然的でシステマチックな行為でもある。つまるところ、私にとって「書くこと」とはとても自然な行いなのだ。


ここまで書いていくと、「荘周」と「同化」している自分に気づく。それもそのはず、猫暮は非常に影響を受けやすい。ある意味で思想哲学的キメラなのだ。そう考えると、胡蝶の夢は「who am I?」を問うのにぴったりな題材だったのかもしれない。

じゃあ、今の私が「物化(区別)」していることはなんだろう?と逆の問いも産まれる。変な話だが、哲学を、それも形而上学的に探求していくと、わたし自身の存在は「より高密度に内化」していくのだが、「外化」となるとさっぱりなのだ。つまるところ、どんどんと疎外されていく。人間社会に向いてないとほとほと思う。だからこそ、見えてくる視点も新鮮なものになる。

この視点を持てたことは、喜びでもあり、哀しみでもある。普遍的な幸せは遠のき、景色は目まぐるしく変わっていく。ただ身を委ねるだけであれば、どんなに楽だったか、と逡巡している隙に、次の景色へと向かってひらひらと翅を羽ばたかせる。

私は、そうしなければ墜落してしまう蝶なのだと、つくづく思う。




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