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note放浪記。その2『小路を歩く』

noteとは、いったいなんだろうか。
文章に込められた想いをめぐるうち、私も書き手としてすっかりこの世界に馴染んだ気がする。
だけれども、目まぐるしく量産されていく文章たちにただただ翻弄されいるだけ、のような気もする。

ある人は生活の一部に。
ある人は書くトレーニングに。
ある人は日々の生きる糧に。

あらためてnoteを知るため、流浪の旅に出かけることにした。

その二日目。
街の中心にそびえ立つ大聖堂。
そこから抜け出して、小路こみちをひたすら歩く。


商店のドデカミン

何気なく入った商店でみつけた格安のドデカミン。

1本50円。
懐かしい名前につられてまんまと買ってしまう。
店を出てからnoteの街をぶらつく。

ちょうどいい木陰を見つける。
そばに寄って、ひと休み。
かたく閉まったペットボトルのフタに手を書ける。
開けようとする。

しかし、握力はたいそう貧弱な私。
両掌を直系5cmくらいのフタになるべく覆わせて、ペットボトルを内側にぎゅっと抱え込んで、全身全霊を込めて、やっと勝機が見えてくる。
「ぐぎぎ…」と情けない声をあげながら、なんとかひねり回す。

渾身の力でフタをぎゅるんと回した時、口の中から、ギリッ、と嫌な音がする。
歯ぎしりの音。
めいっぱい力をこめるものだから、全力で食いしばっている。

歯が欠けそうなくらい力をこめないと、私はこのフタに太刀打ちできない。
ディオ様から貧弱貧弱WRYYYYYってあおられてもグーの根もでない。

そうしてなんとか天岩戸のようなフタを退かすと、昔懐かしのドデカミンを流し込む。
だけれど、いつか母親が語った「カゼの時に飲む薬みたいな味」って表現が頭をちらついて、やっぱり口の中にはお薬の風味が広がっていく。

おいしいんだけどね。
今回ばかりは値段につられただけ。
好きでお薬を飲みたいわけじゃない。

そんなオレンジ色のお薬談義より、noteの街をさまようことに集中したい。

華やかな大通り

街並みをあらためて眺める。
いろんな記事、もとい文章たちが街並みを形成する。
建物ごとにショーケースがあって、その中にタイトルがデンッと飾られている。
こじんまりとした商店もあるけれど、大きな看板を掲げている店がよく目に入る。

そういえば、雑誌コーナーで見かけた「名前」があった。
商店に並べられていた「マガジン」を思い浮かべる。

発行元の名称と、先ほどの大きな看板に載せられていた名前が一致していた。
いくつか見知った名前がある。
よくよく目をこらせば、マガジンの中身で紹介されていたのと同じ名前がある。

宣伝や広告、プロモーションに力を入れれば入れるほど、noteの世界での認知度は急激にあがっていく。
街を歩くだけで自然と目に映る。
彼ら彼女たちの記事も名前も、いつのまにか脳内にインプットされていて、すぐにでも想起させられる。
印象がたつ。

街の中央たる大通りは、そんな著名な商店たちで華やか街並みが作られている。
いつも変わらずそこにある。
安心感で塗り固められた道が、街の中央に堂々とそびえる大聖堂まで、隙間なくまっすぐと続いている。

私は、街の外壁にむかって逆走するように大通りを進む。
左右には、いつもの顔ぶれが胸を張ってギッチリしている。

入り込んだ小路

ほんの気まぐれに小路にそれてみる。
すると、街は想像もしなかったような意外な表情を覗かせる。

複雑に入り組んだ路地裏には、ギンギラチカチカと輝く高層ビルも、街の端から端まで届きそうな広告塔の明かりも、どれも届かないまま頭上を素通りしていく。

まるで忘れ去られてしまったかのような空間。

路地裏に入り込めば込むほど、自分がいかにこの街の一部だけを見つめてモノを言っていたのかを思い知らされる。

空いているのか閉まっているかも判断がつかないうらぶれた古書店。
そこで心ゆくまで書物をあさる。
埃がかぶっていそうな文章を読み更ける。
日が落ちていく。
夜が更ける。

暗がりとは対照的に、街の広告塔たちはより一層輝きを放つ。
でも、すっかり路地裏の住人となった今の私にとっては、関係のない世界の出来事に思える。

だけどこのままでは、帰り道がわからなくなってしまう。
足元さえも闇に包まれて、どうにもおぼつかなくなる。

古書店から外に出る。
薄暗闇で収まる程度の暗がりに、だんだんと目が馴染んでいく。
足元もまだくっきりとしていて、入り込んだ路地裏を確かな足取りで抜けていく。

出るのは簡単。
街の明かりを目指してあるけば、そのうち大きな通路にでる。

方向感覚が失われても問題ない。
広告塔たちの明かりが中空で幾重にも交差している。
その内のどれでもいい。
光の筋を辿れば、何の苦労もなく元の通路に戻れだろうって確信がある。

大通りの馬車たち

思惑通り、見慣れた大通りに出る。
道端にある微妙なへこみに、馬車の車輪が取られて、ガタリと音が鳴る。
つんのめった馬車たちがガラガラと、ひっきりななしに大通りを駆け抜けていく。

note街では、この馬車のことを「コメント」と呼んでいる。
大半の馬車は、大通りを大聖堂側に向かって走っていく。
小路に入り込むことはほんのまれ

名のよく知れた商店群。
その店の前に馬車が停まると、御者が下りる。
荷台から便箋を取り出して、それを片手に店の中へ消えていく。

周囲を観察すれば、繁盛している店舗の前には何台もの馬車が停まっていて、たくさんの御者が出入りしている。

人気のうかがえる商店は、すっかり暗くなった夜の帳などまるっきり跳ね返すみたいに、にぎやかだった。

私は、せわしない馬車馬たちをしり目に、大通りとは逆に進む。
世間の流れに逆らうよう、街の外へと流れていく。

外はすっかり暗くはなる。
でもこの街は眠らない。

商店は24時間いつでも開いている。
その本棚に収められた文章も、平積みにされた乱雑な記事も、野菜の無人販売書みたいにずっと置かれている。

大通りであれば、街灯の明かりがたえることはない。

繁盛するしたお店たち

大通りに並ぶ人気の店。
街のどこにいても、そこに立ち寄るのは簡単。

道しるべがそこかしこに用意されているから。

看板か、あるいは広告塔を見つけて「こちらへどうぞ」と、☞こんな指指しマークの示す先に歩を進めれば、大抵の人気店にはたどり着ける。

しかし、先ほどの私が訪れていた小路奥の古書店となると、これがまた難しい。
もうすっかり暗闇の一部になっていて、行き方さえもハッキリしない。

当然「リンク」という名の道しるべなども残っていない。

どこともつながっていないから、足で歩いて探すほかない。
きっとたどり着けないだろうって感覚が心を支配する。

だけど、その二度と戻れない感覚が、どこか恋しくも感じる。
誰かと共有した秘密基地のような古書店に、想いを馳せる。

そんな秘密基地が、まだ見ぬ小路の果てにはたくさんと潜んでいて、とてもすべては回り切れないのだろう。

「ジャムの選択」が頭に浮かぶ。
人間はたくさんの選択肢を提示されると、結局同じものを選んでしまう決定回避の心理。

大通りの店は、間違いなく品質がよい。
お客さんもたくさん入るから、文章はどんどん進化するし、読み応えは増す一方。
それらの成長の歴史を見守ってもいいし、馬車を走らせ個別のメッセージを贈るのもよい。

なによりも常に光が当たっているから、「あの店はどこにあったっけな」と見失うこともない。
人々の頭の中にしっかりと刻み込まれている。

仮にだけど、店の店主が急にいなくなったとしても、心配されるだろうなって。

走らなくなった馬車
入荷しない新商品
増えていく〇日前のカウント

どんなに些細な変化であっても、周りは目ざとく気付く。

「これは異変だ!」
「何かあったに違いない!」
「ダイジョブかな?」

店の前は、慌てふためいた人でごった返す。
大通りは目立つ。
何かが起これば人が人を呼び、群衆になり、無関係の人間でさえ「どうしたことか?」と疑問に首を突っ込んでいく。

「やあやあどうしたことか?…ああ、実は旅行に出かけていてね」

なんて店主が顔を出したらば、また一層の賑わいを見せる結果につながるかもしれない。
きっとその商店は、もっと大きな看板を新調する。

静謐な古書店

私が先ほど訪れた古書店の店主なら、どうだろうか。

もはや行き方すらわからない。
日の光も当たらず、馬車が走るスペースもないほどの小路の奥でひっそりと営む商店。

それでも毎日しっかりと新商品を入荷しては、本棚に並べている。
よくよく読みふけってしまった自分なら気づく。
どれも抜群に面白い。
下手をしたら、大通りに並ぶ記事よりも深く深く内情に切り込む。

可能なら「こんな素晴らしい古書店があったんだよ!」と大通りを走りながら叫んで回りたい。
だけど、その古書店への行き方すらもあやふやになっている。

思い出しながら、案内板を立てる他ない。
でも、大通りの立地がいい場所にはすでに栄えた商店が連なっていて、案内板をたてる隙間はない。

商店雑誌コーナーに置かれたマガジンに投稿しようにも、すでにお馴染みの顔ぶれがそろっていて、ねじ込む隙間もない。

よって自分の経営する商店で紹介するしかない。

しかし、それはそれで、自分にとっての秘密基地を暴露するような気分になってしまい、どうにも本懐とは違う気がしてしまう。

さびて、うらぶれているから、良い。
良いままに伸ばしてほしい。
別物に変わらせてはならない。
私は『成熟』してほしいのだと願う。


目立つことはよいことかもしれない。

記事内にリンクをはって、引用をして、紹介をして。
人の絆のカタチはスキとフォローとコメントになって、確かに店主の心に降り積もっていく。
馬車を走らせ、がらんどうだった街並みが忙しさと騒がしさで満たされていく。
人々の生活が、息づく。

だけど、それで満たされるのは、実は虚栄心ではないかという不安もある。
その生活に自分が馴染むのかどうか。

「大通りの一員になること」を本当に望んでいるだろうか?

そう自分の心に問いただし、時間をかけて考える必要があるのではないかと考える。

古書店をめぐるたびに思う。
私は、こんな古書店に憧れているのではないかと、ひそかに思う。

まだみぬ外の世界


結局は、うらぶれた古書店も街の中の一角になっている。
さて、では街の外壁を出ていった先には、どんな世界が広がっているのだろう。
どんな商店が開かれているのだろう。
どんな文章が秘匿されているのだろう。

「マガジン」や「リンク」という繋がりがすっかりなくなった世界の果てに、私の知らない文章が眠っている。

それはインディ・ジョーンズもびっくりな秘宝かもしれない。
あるいは失われたアークがnoteの海や山の中、ひっそりうずもれているかもしれない。

それを知らないままに生きることは、難しい。
「それがあるかもしれない」と思った時点で、体は旅にでかけたくなってしまう。

街の光を振り払って、外壁へと進んでいく。

次にこの夜が明けたとき、私はこの街から外にいる。
街で感じるものとは別物な「夜」を予感して、身を震わせる。

それでも「好奇心」はおさまらない。
歩き続ける。
夜通し歩く。

夜が朝に向けて、だんだんと白み始める。
薄明りの下、外壁にぽっかりと空いた門が眼前に現れる。

振り返ってみる。

あれだけ輝いていた街の中央の光。
はるか遠くに、小さくまとまっている。
まるでホタルの密会みたい。


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