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仙の道 28

第十一章・治(3)


『お早う御座います。宜しくお願い致します』翌朝、善蔵に言われた通り礼司が空間に足を踏み入れると、そこに初めて見る浮龍の球体が礼司の飛来を待っていた。
『初めまして…貴方が新しい智龍様ですね。浮龍です』浮龍の球体は佼龍たちと同じ大きさだったが、太陽のように明るい淡黄色に発光していた。

『あ、春田礼司です…あの…私はまだ、未熟ですんで…』相手の正体を知っている礼司は、さすがに緊張した。

『えーと…あの、御所様…そうお呼びしていいですか?』
『結構です。そうお呼びになるのは、善蔵様だけですから…では、早速…まずは私に礼司様の御印を頂きませんと…』
『あ、はい…じゃ、失礼します』礼司は、善蔵に倣って他の皆にしたように浮龍の意識に印を付けた。
『ほう…これが新しい智龍様の御印ですか…成程…どうも、有り難う。では、少々ここでお待ち下さい』

浮龍はそう言い残すと、温和な印象に似合わず俊敏に足元の色彩の渦の中に飛び去ってしまった。浮龍は驚くべき速度でみるみる渦の中核に到着すると、礼司が与えた印と同じものをそこに残し、再び物凄い速度で戻ってきた。

『如何ですか?私がどう動いたか、お分かりになりましたか?』
『ええ…良く分かりました』
『私が何処に印を残してきたか感じられますか?』
『はい…ずっと、足元の遠くの方に感じます』
『結構結構…では、2つの印から出来るだけ遠くに、出来るだけ早くお離れになっていただけますでしょうか?』
『え?今、直ぐですか?』
『はい。どうぞ』

礼司は浮龍から言われたように、2つの印からなるべく遠ざかる様に移動を始めた…一人きりの空間の移動は初めてで、何とも心許なかった…

『もっと早くっ!もっと早く遠ざかるのです』浮龍の声が飛び込んできた。礼司は善蔵と一緒に空間を移動する時の事を思い出しながら速度を上げていった…
『まだまだっ!もっともっと離れてっ!速度をお上げなさいっ!』思いがけず浴びせられた浮龍の厳しい口調に、礼司は満身の力を込めて移動し続けた…

『礼司様、力の入れ過ぎですよ。もっと力をお抜きになって…気を飛ばすのです。遠く彼方に話しかけられる様に…』
『は、はい…』

確かにその通りだった。試してみると、数倍も身軽になった様な気がした。ますます速度が上がっていった…さらに浮龍からの助言が繰り返される…その指摘はどれも的確で、礼司はその度に速度を上げる事が出来た…

『さて…その辺りで結構でしょう。御静止できますか?』
『はい』礼司は速度を落とし、中空に静止した。傍らに善蔵がいなくても、2つの印を感じる事で中空での静止も自覚できるようになっていた。浮龍からは遥かに離れたようだったが、そこから見る風景は、足元に広大な色彩の渦が広がるばかりで、以前善蔵に連れられて来た時の様に龍の姿を認識するには、まだまだ距離が足りない様だった。
『礼司様、そこから2つの印の場所がお分かりになりますか?』
『ええ…お陰様で…はっきり感じます』
『どちらがどちらかも分かりますか?』
『はい…分かります。温かい方が御所様ですよね…』
『結構です。では、次はそちらから私のところに急ぎお戻りください。真直ぐに、正確に、出来るだけ早くです』
『は、はい…』


阿蘇は春を迎えようとしていた。
気温が緩み始め、山肌の牧野のあちらこちらから野焼きの煙が立ち昇り始めた頃、抗癌治療を終えた昌美が退院して庵に戻ってきた。
治療直後のせいかさらにやつれて食欲も衰えていたが、2、3日も経つと見た目にもはっきりと気力が蘇りつつあった。善蔵は少しずつ慎重に昌美への治療を始めていた。

丁度その頃、戸枝たち佼龍の4人はいよいよ空間でのそれぞれの位置を掴み取ることが出来るようになっていた。4人のフォーメーションが一度決まってしまうと、不思議なように以降いつでも自分たちの位置を瞬時に見出す事が出来た。
善蔵が言った通り4人の位置が決まると、空間の中に方位が生まれた。
方位が生まれて初めて、空間の中の龍族はさらに強く結び付くことが出来る。方位は全ての力を結集させる為の仕組みを支える基軸となるのだ。4人の佼龍は自分たちが生み出した方位を利用して、さらに結束力を固めていった。

浮龍の礼司への指導も極く短期間で順調に運び、今や礼司は空間の中を自在に瞬時に移動できるようになっていた。


一方、地震や火山活動は日本国内に留まることなく、世界規模に広まっていた。インドネシア海域での度重なる地震と津波…中国南部、ニュージーランドでの直下型地震、さらにインド北部、トルコ、北米西海岸、南米チリでも大小様々な地殻変動が活性し始め、各地に様々な被害が続出し初めていた。


抜けるように透明で澄み渡った晴天の朝だった。デッキから臨む阿蘇中岳の雄姿…その頂上の火口辺りから立ち昇る煙がはっきりと見えていた。

久し振りに全員が揃った庵の朝餉…
ここ最近、珍しく元気を取り戻した様子の善蔵が皆の前で礼司を促した。
「おい、礼ちゃん、そろそろ話を切り出していいんじゃねえか?」
「あ、はい…ちょっと皆、聞いて下さい。あの…昨夜、ゼンさんと御所様と相談したんだけど…もうそろそろやらないと危ないんだ」
「やるって…本番っていうことかよ?」戸枝が箸を止めた。
「そう。イサオさんたちも、もう出来るようになったみたいだし、僕も御所様にもう大丈夫だって言われたから…早速取り掛かった方がいいだろうってことになったんだ」
「ここんとこよ、あっちこっちで地震や噴火があっだろう?ありゃあ黒龍の勢いのせいなのは分かってんだろ?抑えが外れてよ、のたうち回られてみろ。日本が危ねえ人類が危ねえどこの騒ぎじゃねえぞ。世界中の生きもんの半分がとこぶっ飛んじまうんだぜ。みんな頑張ってくれてよ、準備が整ったんだ。早えとこさっさと片付けちまわねえと、相当危ねえんだ。もうこれ以上は待てねえって感じだな」善蔵が言い放つ。

「え?今日?これから?」狼狽えた葉月の茶碗の縁から生卵が滴り落ちた。
「ばってん智龍様あ、急にそがんこつば言われたっちゃ…おのおの心ん準備っちゅうもんがあるばいた…」春江が抗議した。
「いや…今日じゃなくって…明日。御所様と相談したんだけど、気が一番強くなるのは明日の午後だって…2時半くらいが一番いいんじゃないかって…」礼司が釈明する。
「そうか…明日の午後か…どうやら、そこが一番のタイミングなんだろうな…そうなんでしょう?ゼンさん」荒木は冷静に全ての事情を受け入れている様だった。

「ま、そういうことだな」
「それと…もう一つ重大な話があるんだけど…」礼司が加えて切り出した。
「明日のね、本番なんだけど…僕たちはゼンさん抜きでやんなきゃなんないんだ」
「えっ?ゼンさんが来ないのっ?何でだよう!ゼンさん来てくれなきゃやばいだろう!だってこれ…ゼンさんの仕事なんじゃねえのっ?」戸枝は思わず声を荒げた。
「そりゃ違うぜ。礼ちゃんにも言ったんだけどよ、これは俺の仕事じゃねえ。お前えらの仕事だ。もう新しい智龍がいるんだからよ」
「そうばってん…五代様は、まあだ慣れとられんとじゃなかとですか?」春江は不安そうな表情を浮かべていた。
「礼ちゃんにはよ、もう教える事あ殆ど教えた。いや、出来りゃあ俺も手伝おうと思ってたんだけどな…残念ながら、おいらにはもうその力が残ってねえんだ。智龍の殆どの力はもう礼ちゃんに移っちまってるんだよ。だからよ、俺が行ったって、もう何の役にも立ちゃあしねえんだ。後はお前え等が礼ちゃんをせいぜい盛り立ててくれねえとな」

「でも…善蔵さん、力が残ってないって言っても、あたしの治療は毎日ちゃんとやってくれてるわよ…御陰であたし、随分楽になった気がするけど…」昌美が言う。
「はは…奥さんの治療と礼くんの仕事じゃあ比べもんにならねえんですよ。あれ位のことなら、まだ何とかおいらの力でも大丈夫ですから。ま、それも明日にゃあ根こそぎ片付けちまいますよ」

「あの…もう力が残ってないって…もしかしたら…ゼンさん、もうすぐ死ぬってことなんじゃないんでしょうね?…」そう切り出したのは荒木だ。
「やだなあ、先生…智龍はさ、病気にもなんないしさ、死のうったって死ねねえんだよ。歳のせいで力が弱っちゃっただけだろ?礼司くんが現われたからさ、隠居するってことだよ、きっと…な、ゼンさん」戸枝が一笑に付したが当の善蔵はそれを否定した。

「先生の言う通りなんだ…イサオが言うように俺たち智龍にはよ、病気も怪我もねえから途中で死ぬ事あねえんだけどよ。ちゃあんと寿命はあるんだぜ。俺たちゃよ、力を宿す為に長生きなんだ。だからよ、その力が使えなくなった時が寿命ってことだ。確かに俺あ近々死ぬ事になると思うぜ。何となく自分でも分かんだよ」
「うそ…ゼンさん…死んじゃうの?」葉月が訴えるように善蔵を見つめていた。
「おいおい、そんなおっかねえ顔で見ねえでくれよ。何も今直ぐ逝っちまうって訳じゃねえんだからよ。おいらは普通の人みてえに身体悪くして寝込んじまうってことがねえからよ。逝く時ゃ突然ぷっつり逝っちまうんだ。だからよ、今のうちに皆には言っとこうと思ってな…」
「いやよゼンさん…折角ここの生活に慣れてきたとこなんだから…まだ死なないでよ…」葉月は涙ぐんでいた。

「分かった分かった、まあ、そういうことだって話だ。そうだ、皆にもう一つ大事な話があんだ。実は春江と征夫と相談してよ、今晩、旨いもん一杯こしらえて貰ってよ、一つ前祝いといこうと思うんだけど…どうだい?」
「何?何の前祝い?」戸枝が訊ねた。
「明日は礼司の初仕事だ。それにお前えらの初仕事だ。それからよ…明日、昌美さんを全快させる…俺達はよ、みんな明日から次の本の1頁目を開く事になるんだぜ…旨いもん食って、旨い酒飲んでよ、たっぷり気持ちを盛り上げとかねえとだろ?」
「そうか…前祝いねえ…いいじゃん。やろうぜ」戸枝が賛同する。
「いいね。あたしも手伝う。ね、葉月ちゃんも、お母さんも、御馳走沢山作ろうよ」佳奈が葉月と昌美に声を掛けた。
「そうね、じゃあ今日は善蔵さんや皆の好きなもの沢山作ってあげるわ。あなたも手伝って下さいね」昌美が隆司に視線を送る。

「そうか…俺もそろそろ料理の手伝いくらい出来るようにならなきゃ…だよな」
「はは…春ちゃんもいよいよ奥さんに弟子入りってことだな」隣の荒木が隆司の肩を叩いた。
「午後にゃ春江と征夫が材料と旨い酒持って来るって言ってからよ…おい葉月、奥さんにあんまり無理させんじゃねえぞ。まだ治療が残ってんだからよ」
「分かってるよ。でも味を決めんのはお母さんだからね。ゼンさんも美味しいもの沢山食べさせて貰うんだから、明日はちゃんとしっかり治してあげるのよ」
「分かった分かった…全くお前えも人使いの荒え女だよなあ…先が思いやられるぜ…なあ、礼ちゃん」
「え?あ、はい……へへ……」


午後には春江と征夫が大量の食材と地酒を持込み、暫くの間主を失っていた厨房が、久し振りに活気を取り戻した。夕刻から始まった庵の晩餐の宴は夜更けまで続いた…


いよいよその時がやってきた…阿蘇は前日に続いて晴れ渡っていたが、中岳火口からの噴煙は一層勢いを増している様子だった。

礼司は佼龍の4人と一緒に壁に掛けられた時計の針をじっと正視していた。

「おい、そろそろじゃあねえのか?御所さんから連絡はあったのかい?」部屋に入ってきた善蔵が訊ねた。
「半きっかりに入るって言ってました…あと5分で僕らも行きます」
「そうかい…イサオも春江も先生も葉月も、頑張るんだぜ。しっかり礼司を支えてやってくれよ。御所さんが言った通り今日は気がいいからよ、おいらもこれから奥さんの身体の方をちょいとやっつけてくるからよ。昌美さん、そろそろ一緒に上にあがってくんねえかい?」
「あ、はい…分かりました…」昌美が立ち上がって善蔵の傍らに近付いた。
「善蔵さん、家内を、どうぞ宜しくお願いします」隆司が手を着いて深々と頭を下げた。
「ゼンさん、お母さんをお願いします」礼司も頭を下げた。
「ちゃんとしっかり治してあげてよ。お母さん元通りにしてくんなきゃ、困るのはあたしなんだからねっ」葉月が言い放つ。
「はは…分かったよ。ま、心配しねえで任せときな。それよりお前えらはそっちに集中するんだぜ。頑張ってくれよ。後の事は任せたからよ…じゃ、奥さん、行こうか」

善蔵と昌美が部屋を出て二階に上がると、礼司が4人に声を掛けた。
「それじゃあ、そろそろ僕らも行きましょうか…みんな、お願いします」
「お、おう。そうだな…」

全員が座卓の周囲に座り、背筋を伸ばして大きく息を吸い込むと、ゆっくりと目を閉じた…


5つの球体が空間に飛来した…
周囲を取り巻く色彩の渦の動きはいつもより活性しているように感じる…
直ぐにもう1つの淡黄色の明るい球体が到着し、話しかけた。

『さあ、気が落ちる前に早速取り掛かりましょう…』
『じゃあ、僕は移動します…』礼司が物凄いスピードで遠ざかって行った…

『あ、あの…初めまして…俺達は、佼龍の…』戸枝が初対面の挨拶をしようとすると浮龍がそれを遮った。
『分かっております。挨拶は後回しです。智龍様が行き着く前にこちらは急ぎ形を作りましょう』
『あ、は、はい…おい、みんな。やるぜ…』

戸枝、荒木、葉月、春江の4人はそれぞれ離れると、空間に円を描きながらゆっくり移動し直ぐに定位置を決めた。

『結構です…では…』浮龍はそう言うと4人が作った四角形の中に移動し、さらに4人の頭上に上り、ぴたりと静止した。4人はその明るい光を見上げていた…

『智龍様が間もなく到着致します…始めましょう…』浮龍はそう言うや否や僅かに身を震わせた。
4人は自分たちがその微動に感応するのが分かった…4人が結び付いた…
今まで感じた事のない大きな力がそれぞれの中に膨れ上がるのを感じた…
意識が激しく振動し、その振動の周期が唸るように短くなってゆく…
振動は低い唸りに…その唸りは高い金属音に…そしてやがて別の静止が訪れた。

4人は完全に言葉を失っていた。意識が膨大な力に支配され、それは自らの容量を超えて溢れだしそうな勢いだった。
その時、4人それぞれの力が白色の光線となって浮龍に集められた…
中空に白色の正四角錐が描かれた…


礼司は佼龍たちから遠く離れ、自分の場所に到達していた。足元を見下ろすと、色彩の渦がこれまでになく激しく活性しているのが分かった。
その中で白龍が身じろいでいる。
白龍の拘束から逃れようとうごめく黒龍の身体がさらに一回り大きく逞しくなっているような気がする…
いや、白龍の身体が痩せ細り弱っているのかも知れない…礼司は場所を定めると自分の中心に力を集め始めた…

『御所様…こちらは、準備が整いました…』
『そのようですね。では、参ります…』

礼司の遥か下方に浮かぶ白色の正四角錐…
その頂点から礼司に目掛けて眩いばかりの光線が発せられ、瞬時に礼司に力が注ぎ込まれ始める…
浮龍との交信は途絶えていた…礼司は全ての力を中心に集め、眼下の白龍目掛けて投げ掛けた…


凄まじい痛みが礼司の身体を貫いた。
それは礼司が生まれて初めて体験する身体の損傷の痛みだった。
その痛みに反して、身体の中に見る見る力が湧き上がってくるのも感じられた。
目の前の黒龍がその力に抵抗するように身じろぐのを四肢に感じた…

苦しそうに喘ぐ凶暴な黒龍の頭部がすぐ目の前にあった…
礼司は白龍に力を与えただけではなかった。礼司は今、白龍そのものになっていたのだ…

第29話 最終話につづく…

第1話から読む...


連載小説『仙の道』では表紙イラストを、毎回一点イラストレーターであり絵本作家でもあるカワツナツコさんに描き下ろして頂いています。

カワツナツコさんの作品・Profileは…
https://www.natsukokawatsu.com





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