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私がわたしである理由21

[ 前回の話… ]


第十二章 大森中将の憂い(1)


翌日曜日、東京の空は晴れ渡っていた。

「誠司さん?一寸お話出来る?」
下町方面から誠司の家に避難して来たのは知り合いと親戚の学生2人。その2人と一緒に朝食を終えた誠司に声を掛けたのは、母親の綾子だ。
「ああ、いいですよ」
「じゃ、応接に来て頂戴」
「ああ…じゃあ、まあ、お2人とも暫くはここに居て下さい。うちは祖父が軍部ですんで、食料の心配は要りませんので」
「いやあ、どうも…助かるよ」
「お言葉に甘えて、暫く厄介になります…」
「このご時世ですからね。学生さんの男手が2人も増えたんですから、こちらも心強いってもんですよ。ふふ…奥様は書生さん代わりに家事でも力仕事で何でも手伝って貰えって仰ってますけど、本当にいいんですかねえ?」
台所から住み込み女中のしずが笑顔で2人に語りかける。
「無論ですよ。学校のない時は何でも手伝わせて下さい」
「寝床があって、ただ飯食わして貰うんですから、何でもやりますよ。しずさん、俺たちは助手だと思って下さい」
「まあ…うふふ…じゃあ、手が空いたら早速お風呂のお掃除と薪割りをお願いしようかしらね」
しずも思いがけない2人の助手の出現に殊の外嬉しそうだ。


「何だか久し振りに賑やかになるねえ…米子が嫁いで、康三を疎開させてから、この家も寂しくなったからねえ…」
綾子も突然賑やかになった我が家の活気に嬉しさを隠し切れない。
女学校を卒業した長女の米子が嫁いだのは開戦直前のこと。誠司の弟である次男の康三は祖父の助言もあって私立学校を1年間休学させ、米子と同じ郊外の疎開先に預かって貰っている。
以来、広い平屋の住宅に、親子女中の3人だけで暮らすのは、やはり寂しかったのだろう。

「お母さん、以前みたいに大盤振る舞いしないでくださいよ。直ぐに若い人にいい格好するんだから…いくらうちは余裕があるって言ったって、流石にこのご時世なんだから、くれぐれもしずさんを困らせないでくださいね」
「分かったわよ。もう歌舞伎やお芝居もさっぱりだし、外でご馳走ったって、外食券じゃあねえ。ロクなもてなしも出来ゃしない…全く…味気ない世の中になったもんだわ」
「あはは…ま、お母さんの気前の良さも出る幕なしってとこだね。それより話って何ですか?」
綾子はそう訊かれると、それまでの穏やかな表情を引き締めた。

「あなた、今日はどこかに行く予定がおあり?」
「いや、今日は日曜だし…午後にはちょっと知り合いのとこの様子をみに行こうと思ってるけど、どうして?」
「じゃあ、午前中にでも恵比寿のお祖父様のとこに顔出していらっしゃいな」
「え?大森のお祖父様?何で?」
「いえ、今朝ね、ちょっとお電話で相談したのよ」
「何を?」
「何って、最近のあなたのことよ。学校の教練には参加していないみたいだし、軍の方針には不満がある様だし…あの、なんて仰ったか、海軍に勤め始めた川出家の遠縁の方と付き合い始めてからは、何か落ち着かない様子だし、私には詳しいことを話してくれないでしょう?そりゃあ、心配になりますよ。なんていったって、あなたはまだ中学生で、この川出家の当主で、神戸本家筋の直系なんですからね。もしもあなたが危ないことに巻き込まれでもしてごらんなさい。私ゃ、川出の嫁として神戸の本家に顔向けできないじゃありませんか、全く…」

母綾子の言い分は尤もだ。
誠司は潤治と出会って以来、自分の中の人生への価値観が急転し、未来へのイメージが大きく変わってしまった。本来なら、家族に対しても、もっと慎重に振舞うべきだっただのだろう。
しかし、それほど細やかに配慮出来る年頃でもない。誠司は、この際、母親を少しでも安心させることが、今後の進展を助けるのかもしれないと考えを改めた。

「で…お祖父様は?」
「そりゃあ、あなたのことは常々気に掛けていらっしゃいますよ。神戸の御先代にも大変お世話になっていらっしゃるんですからね。それに、お祖父様の方からも少しお話したいことがあるそうですよ。今日は昼間はご自宅の方にいらっしゃるから、寄越しなさいと仰ってましたよ」
「そうか…分かりました。ま、川出潤治さんのことは、そんなに心配しないでよ。東京に不慣れなんで、僕が少しお手伝いしているだけなんですから。お祖父様のところには、これから早速顔を出してきます。そう言えばすっかりご無沙汰してしまっているし…」
「そう、是非そうしてくださいな。それと、来る時はリュックを持ってくるようにって。ほら、うちは人数が増えたから、事情をお話したらお米や食料、少し用立ててくださるって」
「それは助かりますね。じゃあ、支度をして行ってきます」


誠司の祖父、大森中将の官舎は、恵比寿の高台に建つ大きな門構えと広い庭を持つ屋敷だった。
門脇には2人の警備兵が警護に立ち、訪問者を検閲している。

「ご苦労様です。孫の川出誠司です」誠司は警備兵に学生証を示す。
「はっ、伺っております。どうぞ」

「御免くださ~い、誠司です~」
玄関を開けると、以前からいる顔馴染みの中年の女中りくが小走りに奥から現れ満面の笑顔を浮かべた。
「まあ、誠司坊っちゃま、お久しぶりですねえ。お元気そうで。旦那様、首を長くしてお待ちですよ。今、縁側のところでタロのお世話をしてます。あ、そうそう。リュックをお預かりします。お宅に避難されたお客様用の食料を用意するように仰せ付かっていますから」
「ああ、じゃ、お願いします。助かります」

誠司の祖父大森義太郎よしたろうは和装に下駄履きで縁側に腰掛け、足元の大きな踏石ふみいしに大人しく佇む白い雑種犬タロに丁寧にブラシをあてていた。
タロは誠司がまだ幼い頃、この大森家に住み着いた迷い犬で、そのまま義太郎のお気に入りとなった愛犬だ。
気持ち良さそうに義太郎の毛づくろいに身を委ねていたが、誠司が近づいてくると、顔を上げて座り直し、嬉しそうに尻尾を振る。
誠司は廊下に正座し、両手をついて頭を下げた。

「お祖父様、大変ご無沙汰しております。色々とご心配お掛けして申し訳ありません」
「おう、誠司くん、来たな、問題児、はは…」義太郎も嬉しそうに目を細める。
「タロも久しぶりだねえ。元気そうだね、タロ」誠司がそばに寄って手を差し出すと、タロは嬉しそうにその手を舐める。
「いやあ、タロも儂と同じで歳とった。あれほど好きだった散歩も億劫がるし、最近は陽だまりで寝てばかりいる。そろそろお別れも近いのかも知れんな…さて、あちらで少し話しでもしよう。綾子が気を揉んでおったぞ、はは…」


客間にお茶と羊羹を準備していたのは、祖母の大森夫人だ。小柄で細身だが、きりっとした顔立ちには流石に将官の妻としての揺るぎない品格を漂わせている。

「まあまあ、誠ちゃん、よく来たわねえ。少しはゆっくりしていけるんでしょう?お昼は美味しいものを用意するわよ。ね、召し上がって行きなさいね」
「あ、はい…お祖母様。有難うございます。じゃあ、お言葉に甘えさせて頂きます」
「あらあ、誠ちゃんは、もうすっかり大人なのねえ」夫人は表情をほころばせる。

「はは…当たり前だ。もう元服の歳なんだからな。それより、誠司くんとは少し大事な話をしなきゃならんのだ。暫く、2人だけにしてもらえるかな?」
「はいはい、畏まりました。じゃあ、誠ちゃん、あとでゆっくりお話しましょうね。あなた、誠ちゃんにあまり厳しくなさっちゃ嫌ですよ」
「分かった分かった、そんなつもりはないから、心配するんじゃない」

2人きりになると、少し間をおいて、祖父の義太郎はおもむろに口を開いた。
「ところで、その後、どうなんだ誠司くん。相変わらず軍事教練は嫌なのか?」
「え…あ、はい…すいません…」
「見た所君は体力もありそうだし、確か器械体操もやっておったろう?学校の教練なんてそれほどきついこともあるまい。何か思うところがあるんじゃないのか?綾子は以前から随分心配しているぞ」
「あの…正直な心情を、お話してもいいんでしょうか?…」
「ああ、構わんとも。ここだけの話に留めておくから、なんでも遠慮しないで話してみなさい」

誠司は暫く考えを巡らせたが、やがて意を決して言葉を選びながら話し始めた。

「正直なところ僕は…今の日本の体制に納得していません。勿論、日本が戦争に踏み切った経緯は理解出来ています。ですが…今のこの現状が日本国民の未来に繋がるとはどうしても思えないんです。軍事力一辺倒ではなく、経済的にも文化的にも技術力も日本人は欧米列強に対抗出来る力を持っている筈だと信じています。つまり…僕たち学生にはちゃんと自分で考える力があると思うし、学校でもその様に教育されてきました。それを、頭ごなしに教練だ徴兵だと軍国思考で押さえ付けられることに我慢がならないんです。勿論、母や神戸や、お祖父様にご迷惑は決して掛けられないと、声を上げて逆らうことは控えてきましたが、どうしても納得できない気持ちが強く、色々理由をこじつけて教練や教官から逃げてしまっています。母やお祖父様には、ご心配をお掛けして申し訳ないとは思うのですが、これが偽りのない僕の心情です。お祖父様からお叱りを受けるのであれば、今後はなるべく教練には参加する様にしますが、どうか心情だけは分かってください…」

義太郎は黙って誠司の言葉を聞いていたが、決して激することなく、愛孫を見る柔和な表情のまま口を開いた。

「なるほど…あいつの言う通り、誠司くんはいつまでも子供ではないということだな。以前綾子から君の教練嫌いの相談を受けた時に、実は儂の方から君の学校の教官の方に、目溢めこぼしをする様こっそり頼んでおいたのだ。孫には儂の手伝いをさせる機会が多いので、教練は休みがちになると...まあ、軍事教練は楽しいものじゃないからな。実は若い頃は儂も教練は大嫌いだったんだ…はは…」
「え?そ、そうだったんですか?…ああ、それで、あまり問題にならなかったのか…でも、お祖父様は海軍兵学校出身の職業軍人で、日露戦争の御功績でご出世されたんですよね?」

「ああ、ただ、元々儂は文官志望でな、身体も強くなかったし、行軍も射撃も乗馬もからきしだった。だから教練も大嫌いだったのだ。ただ、軍略だけは誰にも負けない自信があった。それを幸運にも乃木将軍にお認めいただいて、ま、今の儂がある。確かに今の軍部が推し進める様に、この近代戦争は精神論で勝てるものではないと儂も思っている」
「では、何故日本はもっと早い時期に、こんな状況になる前に、講和の道筋を探らなかったんでしょうか?」
「ふむ…いいか、ここからはより大人の話だ。人間というものはな、悲しいかな欲に溺れてしまうのだ。欧米列強の侵略や搾取からアジアの人民を守る為の大東亜共栄圏構想も、ことが上手く運ぶにつれ、軍部や軍属の大きな利権を生み出すこととなる。アジア圏の人々を解放する筈の信念が、いつの間にか欧米と同じ侵略と搾取と支配に変わっていってしまった。そうなると、一度手に入れたものを手放せなくなるのが人間の本性なのだ。軍は自らの利権を守るために主導権を握ろうとする…要するに『欲』の悪循環が起きたということだ」

「では…これから日本はどうしたらいいんですか?お祖父様は日本にはまだ僅かでも勝算があるとお思いなのですか?」
「いいか?綾子にも誰にも決して口にするんじゃないぞ。日本は負ける。間違いなく負ける。ただ…いつ、どう負けるかが問題なんだ」
「やっぱり…そうなんですね…」

義太郎は、誠司の反応を鋭い眼差しで見つめていた。
「誠司くん、君はどうやら日本が負けると聞いても全く動揺していない様だな…」「え…ええ、まあ、それは色々と現状を客観的に見ても…」
「まあ、いい。さてさて、ここから先は儂が是非君に聞いておきたいことが一つあるんだ」
「はい、何でしょうか?」
「儂も省内で一度会ったことがあるが、君の遠縁に当たる翻訳官の川出潤治という人物のことだ。君とは付き合いがあるらしいな。で…ずばり尋ねるが、あれは一体何者なのだ?君の知るところを全て正直に話してくれんかね?何か不都合なことがあるとしても、省内にも決して他言はしないと約束する。ここだけの話に留めておく腹積もりだ。どうだ?…儂だけに話してくれんか?」
義太郎はさらに真剣な眼差しを誠治に送った。

思いも寄らない義太郎の質問に、誠司の表情が固まった…


つづく…



この小説では、さる7月7日に急逝されたイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂いております。
本編掲載中は氏のイラストを使わせて頂くことと致します。
故TAIZO氏のProfile 作品紹介は…






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